44

 それから1ヶ月が経ち、僕は彼女のいない日々を淡々と過ごした。特筆すべきこともなく、嘘みたいに薄っぺらい日々が続いた。ある日、僕のもとに電話が来た。

 誰かと思えば、菜乃葉のお父さんからだった。


 ***


 「急に呼び出してすまない。元気だったかな」


 いつかと同じ病院のラウンジで、お父さんは変わらない優しい微笑みを顔に浮かべていた。


 「まぁ、それなりに」


 可もなく不可もなくです、と言うと、お父さんはわざとらしく笑った。


 「本当は、顔も見たくなかっただろう。電話番号は、……一真くんに聞いたんだ」


 一真。僕の連絡先を知っている”一真”なんて、1人しかいない。


 「え……一真?吉田一真のことですか?」


 僕は動揺しながら尋ねた。するとお父さんは、意外そうな顔をした。


 「あ、ああ。もしかして、菜乃葉と一真くんのことを知らないかな?」


 とっさに、思い出した。ずっと前、たしか彼は菜乃葉の名前を聞いたとき一瞬で表情を変えたのだ。僕はそれを不審に思ったけど、問い詰めるようなことでもなかったからその時は気にしていなかった。それがまさか、こんな形で知ることになるなんて。


 「えっと……2人の関係って……」


 「幼馴染なんだ。幼稚園から一緒でね。家が近所でよく一緒に遊んでいた。けれど、中学生になったあたりですぐ、お互いに病気を患い、入院することになったんだ。不遇な話だよ。1人はアルツハイマー、もう1人は白血病。まるで呪いか何かみたいに、2人はほぼ同時期に発症したんだ」


 「そう、だったんですね」


 知らなかった。一真も、菜乃葉だってそんなこと一言も言っていなかった。ああ、僕って本当に、今まで何も知らずに生きてきたんだな。そう思うと、僕が彼女たちと言葉を交わす権利なんてあるんだろうかと自己嫌悪に陥ってしまう。自分だけ蚊帳の外。それも当然なのかもしれない。菜乃葉も、一真も、証梨も、みんな病気を患って苦しんでいるのに、僕一人がのうのうと苦労を知らずに生きてきた。そのくせ1人でいることを好み、友達なんて全く作らずただ与えられる日々を浪費して過ごしていた。事情を抱えて友達と関係を持つのを躊躇った彼女たちからすれば、僕が憎く思えても仕方のないことだ。


 「そう、それで、話を戻すんだが、今日は会ってもらいたい人がいるんだ」


 「え……」


 1人悶々と思考を巡らせていると、やがてお父さんが先ほどとは少し違う調子で僕にそう言った。


 「誰、ですか?」


 「ちょっと、病室まで来てくれるかな」


 病室のネームプレートを凝視して、僕は目を疑った。脳には疑問しか浮かばなかった。


 「何で……」


 僕の心を支配する純粋な気持ちをただそのまま述べると、お父さんは顔を歪めて続く言葉を口にする。


 「うわごとで、何度も君の名前を呼ぶんだ。内在する意識が君を求めているんだろうと、先生も仰っていた。本当に、勝手ばかりで申し訳ない。間違っていたのは、私だった。娘から幸せを奪ったのは、私のほうだったんだ」


 「そ、そんな、滅相もないです。彼女に会わないって決めたのは僕ですし……」


 「私が促したのは事実だ」


 彼女の病室の前で、お父さんは真剣な顔つきで言った。僕は何も言い返せなかった。


 「2人で、話をするといい。これは私の、せめてもの贖罪だ。どうか謝らせてくれ。許せとは言わない。ただ、あの子に会ってやってくれるだけでいい」


 「……分かりました」


 個室のドアを思い切って開くと、そこには彼女がいた。僕の好きな人がいた。だけどその姿は、変わり果てていた。絶望的に痩せていた。皮膚の向こう側の骨がはっきりと視認できるくらい、彼女は痩せていた。肌の色素がなかった。彼女は透明だった。


 「菜、乃葉……?」


 なんで語尾に?マークがつくんだろう。目の前にいるのは間違いなく彼女だと分かっているのに、それを否定したい自分がどこかに存在している。


 彼女は僕の気配に気づいて、その顔をこちらに向けた。目の下にクマができていた。唇の色は、肌と同化していた。


 「あなたは……?いえ、やっぱり、いいです。多分、名前を聞いても、わからないと、思うから。知り合いなのだと、いうことは、分かります」


 あれ?菜乃葉って、こんなにも途切れ途切れに会話をするような人だったっけ?そう思った後すぐに、もう流暢に言葉を離すスキルは忘れてしまったんだと気づいた。


 「ひとつ……お願いを、聞いてくれませんか」


 「…………あぁ、僕にできることならなんでも」


 僕は気負った表情で言った。


 「一度、見てみたい花が、あるんです」


 「花……?」


 ***


 彼女に言われた花の名前をしきりに思いだしながら、いつか彼女と一緒に行った花屋を目指して歩く。店内に入り、その花の名前を店員さんに向かって口にしたとき、「忘れてほしくない相手がいるんですか?」と聞かれた。聞くと、どうやらその花にはそんな意味の花言葉があるらしかった。


 「買ってきたよ。これであってる?」


 病室に戻り、もうすっかり元気のない彼女に花瓶に挿し替えたその花を見せると、彼女はそっと涙を流し、言った。


 「はい、たしかに、その花であってます。ありがとう、ございます。迷惑、でしたよね、突然。こんなお願い、してしまって」


 「そんなことない」


 僕は彼女に歩み寄って素直な気持ちをそのまま言葉に乗せた。


 「そんなことないよ、全然」


 「なら、よかった」


 彼女は穏やかな表情でそっと目を閉じた。僕は一瞬、最後が訪れてしまったのかと思ってかなりびっくりしてしまったけど、僕が「菜乃葉?」と声をかける前に彼女はゆっくり目を開けた。それで僕は、だいぶほっとして、その場にへなへなとしゃがみこんでしまった。


 「”forget me not”英語では、そう言うんだそうです」


 「え?」


 「この花。直訳すると、”私を忘れないで”」


 それは、花屋の店員さんが口にしたものと同じだった。


 「花言葉……」


 ベッド脇の椅子に座りなおしてから言うと、彼女はほんの少し唇の両端を上げてつぶやく。


 「そう、なんです。とっても、すてき、でしょう?」


 僕はちょっとの間をおいて、言った。


 「そうだね、いい花言葉だ」


 「あなたなら、そう言ってくれると思っていました」


 彼女は静かにほほ笑んだ。


 「最後にもう一つ、お願いをしていいですか?」


 「何だ?」


 彼女はサイドテーブルの引き出しから一枚の封筒を取り出した。


 「この手紙を、ある人に渡してほしくて」


 「ある人?」


 証梨とか?あるいは一真?里香?もしかしたら、お父さんとか、お母さんかもしれない。そう考えながら。僕はその手紙を受け取った。


 「誰に渡せばいいんだ?」


 「――――藤崎颯くんに」


 「え――」


 「私と仲のいいあなたなら、知ってるかも、と思ったんですが。もしかして、知り合いでは、ありませんか?」


 幻聴、なのか?間違っても僕の名前が聞こえるはずがない。だって彼女は、すでに僕のことを忘れているはずだ。1カ月前なら、まだ納得できたかもしれない。彼女の記憶は曖昧で、僕のことを忘れている日もあれば覚えている日もあったからだ。けど、それから1カ月という月日を経て彼女がいまだ僕のことをおぼえているなんて。そんな――そんな奇跡は、起こらないんじゃないかと思った。


 「誰に、渡してほしいって?」


 「藤崎くん」


 僕は、確信した。僕が受け取らなければ。


 「…………分かった、必ず渡すよ」


 「ほんとう、ですか?ありがとうございます」


 彼女から受け取ったそれを、僕は丁寧にカバンにしまった。この場で開けて読むなんて、そんな無粋なまねはできない。


 「どうして、そこまで、してくれるんですか?」


 「…………それは」


 一瞬きちんと考えようと思ったけど、僕の中で答えは決まっている気がした。


 「多分、好きだから」


 僕は椅子から立ち上がって、彼女に背を向けた。


 「今日は、話せてよかった。ありがとう、菜乃葉」


 最後にそれだけ言って、僕は彼女の反応を窺うことなく逃げるように病室を去った。僕の涙なんて、好きな人に見せるもんじゃないから。


 ***


 菜乃葉のお父さんに挨拶をしてから家に帰り、急いで自室に飛び込む。


 カバンから例の封筒を取り出し、そっとその封を切る。


 ドキドキしながら、着替えもせず突っ立ったままで手紙を開く。




  藤崎颯くんへ


 手紙、読んでくれてありがとう。改まって手紙書くのって難しいね。それになんか、恥ずかしい(笑)。


 いざ書き始めると、書こうと思ってたことが一瞬で頭から消えていく。私だから?って思ったけど、もしかしたら皆そんなものなのかも。


 まずは、謝らなきゃいけないよね。ごめんなさい。君は、謝らなくていい、とか言ってくれるかもしれない。けど、私は謝らなきゃいけない。君が私を心配してくれたのも、ちゃんと、向き合うべきだったのに。


 それを無視して、ごまかして、嘘ついて、騙した。……最低だよね。颯くんがどう思うかとか、傷つくんじゃないかとか、そういうの、言われるまで全然気づいてなかったんだ。はは、書きながら最低だなって思うよ。


 私は、君を知るたび、君と話すたび、君と仲良くなるたび、君が大切になっていくたび、自分の中の醜い自分をどんどん知っていった。あぁ、君がこんなにもまっすぐぶつかってきてくれるのに、私は、って。それも当然なんだと思う。それはきっと、今まで颯くんを傷つけてきた報いなんだと思ってる。


 颯くんが私のことを心配したり怒ったりしてくれて。それが私は、泣いちゃうくらいうれしかったんだ。この人は私がこんな人間だって知っても、こうして一緒にいてくれるんだって思うと、嬉しいのに涙が止まらなかったんだ。


 だからこそ、気づいてあげられなくてごめん。颯くんだって辛いはずなのに、私は自分だけがつらくてかわいそうなんだって、勝手に決めつけてたの。


 あぁ、私ってホント、ダメだなぁ。いっつもいっつも、空回りばっかりで。颯くんにも、いっぱいひどいこと言ったね。……ごめんね。って、遅すぎるか。でも、もう私の声帯はそっちにはないから。こういうこと、面と向かって言えないのも、情けないんだ。ごめんなさい。


 本当のことを言うと、私はずっと思ってた。


 颯くんと出会わなければ良かったのにって、ずっと思ってた。





 そして、その夜を最後に。


 彼女は、たった17年の生涯を終えた。

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