40
夜の病院を1人で歩くには、なかなかの耐性がないと厳しいと思う。どうしても、幽霊やら怨霊やらがいるんじゃないかと錯覚してしまいがちだ。けれど今の僕は、そんなことはどうでも良かった。ただ、彼女に会いたい、会って話がしたい、その願望だけが僕の中にあった。彼女の病室の前で、立ち止まる。今まで何度も通ったこの個室のドアが、普段とはまるで違うように思えた。そうだ。これから僕は、彼女を止めてみせるんだ。
意を決して、ゆっくりと右手でドアを引く。左手には荷物を携えて、病室の中に忍び込む。そっと覗き込むと、ベッドの上には彼女がいた。彼女はまだこちらに気づいていないみたいだ。背を向けて、何やら手を動かしている。自殺の準備でもしているのだろうか。いや、僕には関係ない。
背後からそっと近づく。彼女が気配を敏感に察知したらしく、ばっと振り返る。驚き目を見開く彼女の口に人差し指を当てて、声を出すなというテレパシーを全力で送る。彼女は一瞬大声を出そうと息を吸い込んだが、思いとどまったらしく僕の指を丁寧に退けてからそっと口を開いた。
「何でここにいるの?もう面会時間とっくに過ぎてるよ?」
最大限に抑えた彼女の声は、僕を少し嗜めているような調子だった。けれど、僕にだって事情がある。引き下がるわけにはいかなかった。
「そういえば、まだ食べてなかったなと思って」
僕は左手に持ったささやかな品をテーブルの上に置いた。彼女は目の前に置かれた謎の箱をまじまじと見つめて、次に僕の顔を見た。僕は箱を開けるよう、彼女に手で促す。彼女は怪訝な表情で怪しい箱を見つめるも、おそるおそる、といった様子でそっと開いた。そして、驚きに目も見開く。
「これ、幻の……」
「うん。菜乃葉が食べたがってたやつ」
ついさっき焼き上げたばかりの、幻のパンケーキ。カフェで主に調理を担当している椎名に作ってもらったのだ。本当は自分で作りたかったけど、僕にはまだその力がない。
「どうして……」
「これを食べずに死んじゃうなんてもったいないだろ」
僕は食べてみて、と彼女に言った。彼女は同封されたフォークをおずおずとパンケーキに入れ、それを口にそっと運んだ。
「……美味しい」
彼女の口元に笑みが溢れた。
「わざわざ、これを届けるためだけに?」
彼女はチラリと時計を見た。僕も彼女の視線を追いかけると、壁掛け時計は8時30分をさしていた。面会時間は8時までだから、彼女は「わざわざこれを届けるためだけに面会終了時間を過ぎてまで病院に忍び込んだのか?」ということが言いたいのだろう。
「いいや。言い忘れたことがあったんだ」
僕は深呼吸した。言うんだ。僕は、
「僕は、君が好きだ」
「……え?」
彼女は眉を顰めた。
「やっと、気づいたんだ。僕が本当は、何をしたかったのか。何を望んでいたのか。僕は、君と一緒にいたかったんだ。もっとずっと、一緒にいたかった。僕はまだ君のことを全然知らない。どんなふうに笑うのかとか、どんな時に怒るのかとか、全然知らない。僕はそれを知りたい。恋人とか、そんな関係じゃなくていい。独りよがりでいい。ただ、そばにいたい。言葉を交わして、笑顔を交わして、時間を共有したかった。これからもっと、そうしていたい。アルツハイマーだろうと関係ない。僕が好きなのは、アルツハイマーの君でも、クラスメイトの君でもない。たった1人の、蒼城菜乃葉だけだから」
蓋をして閉じ込めていた感情が、奥底で破れ、堤防の決壊した河川が氾濫するように溢れ出す。そこには僕の願望だけが在る。菜乃葉への配慮も、自殺という言葉への恐怖も一切削がれた、ありのままの願望だけが在る。
「何で……?」
菜乃葉は訳がわからない、というような顔をして細々と呟いた。
「言ったよね、私はアルツハイマーなんだよ⁉︎いずれ君のことも、私自身のことも忘れちゃう。そんな状態で生きたって、死んでるようなものじゃない‼︎」
彼女はもう、声量を抑えなかった。
「どうして、分かってくれないの?“好きだ”なんて言われたって、辛いよ。私には、どうすることもできない。頷くことも、首を横に振ることもできない。私だって、どうしたらいいか分かんないよ!けど、もう、死ぬしかないならいっそ、自分から死んでやるって思った、だけなの……」
言いながら、彼女はハッと息を呑んだ。それは、僕が驚きのあまり声も失って、彼女の顔を凝視していたせいかもしれない。
「死ぬしかない、って、何?」
それはまるで、彼女の意志による死ではないように聞こえた。
「どういうことだ?アルツハイマーは、記憶を失ってもなおずっと生きていられるんじゃないのか……?」
震える声で尋ねた。頭のどこか冷静な部分で、答えを知っているような気がしたけれど、それを認めたくなかった。それが間違っていることを確かめるように、菜乃葉の顔色を伺う。
「死ぬよ。アルツハイマーになったら、記憶を全部失くして、いずれ衰弱死に至る」
その瞬間、僕は呼吸を忘れた。嘘だ。そんなの、
「う、嘘、だよな?またいつもの冗談だろ?」
「嘘でも冗談でもないよ。私、結局死ぬの。自殺しなくたって、いずれは死ぬ」
目の前が真っ暗になった。底なしの闇に放り込まれたような、出口のない洞窟に閉じ込められたような、無限の閉塞感が僕を襲った。もう何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
「どうして…………っ、」
涙が溢れた。僕は床に膝をついて、ベッドの上に座る彼女の両手を強く握り、がくりと項垂れて嗚咽を漏らした。何で菜乃葉がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。彼女が一体何をしたというんだ?なぜ僕じゃなく、彼女にばかり矛先が向く?隣にいる僕には災難なんて何も降りかからないのに、なぜ彼女の身にばかり不幸が起こる?
耐えがたい痛みに咽び泣いていた僕の手に、一粒、涙がぽたりと落ちた。僕のものではなかった。
顔を上げると、彼女は涼しげな顔で泣いていた。僕はハッとした。
「泣かないでよ、何で君が泣くの?死ぬのは私なのに、何で君は私の不幸を嘆いて泣くの?」
哀しい声で、僕は我に帰った。僕はこんなことをするためにここに来たわけじゃない。
「生きていてほしい」
僕はどうにか、それだけ言った。
「無理だよ、私は」
「最期まで、諦めないでほしい。ずっと生きててほしい。ずっと笑っていてほしい。僕は君の、笑った顔が好きだから。君がいなければ、僕はこの世界で生きる意味を失ってしまう。必要性なんてものは、はなから存在していなかった。君が、僕の存在の必要性だった。君が現れて初めて、僕に必要性が生まれた。だから僕は、君がいなくちゃ生きていけない」
ダサいセリフだな、と思いながら一通り喋り倒すと、菜乃葉は困ったような顔で笑っていた。
「私はいつか必ず死んじゃうんだよ?ずっと一緒になんて、無理に決まってるじゃない。それにもう、疲れたよ。生きるのなんて、そんなに面白いものでもなかったよ」
あまりにも哀しすぎた。涙は乾かないうちにまた一筋僕の頬を流れていく。僕が今まで、どれだけ菜乃葉に依存していたかをよく思い知らされた。
「そんな……そんな哀しいこと、言うなよ。いっぱい笑ったじゃん。楽しいこといっぱいあったじゃん」
「そういうの全部、忘れてくのがアルツハイマーなの。そして、眠るように死んでいく。まるで、自分が今まで生きてきた証が少しずつ失われていくようでしょ?少しずつ、消えていって、最終的にはゼロになって、私が死んだら、それでおしまい」
菜乃葉もまた、ずっと涙をぽたりぽたりと流していた。その涙には彼女の体温が宿っていて、僕の手に落ちる粒は僕を鼓舞しているようだった。
「僕がずっと、覚えてるから。菜乃葉が忘れていく分まで、僕が」
「それじゃ意味ないんだって」
「意味なくたって、僕が君の記憶を全部、代わりに受け持つ」
言い合いながら、何意味の分からないこと言ってるんだろうな、と思う。
「菜乃葉がどんなに忘れても、僕が何度でも、伝える。君が僕を忘れたら、何回でも自己紹介する」
「それは何の解決にもならないよ。そんなの、ゲームみたいじゃん。ゲームオーバーから、何回でもやり直すみたい。そんなんじゃ、いつまでたっても前に進まないんだよ?」
「それでいい」
それでいい。僕はもう一度強く、彼女の手を握った。
「君のそばにいられるなら、それでいい。それでもそばにいてほしい」
「わがまま、言わないでよ……」
堰を切ったように、彼女は泣き出した。
「君が死ぬって言った時、僕は仕方ないと思った。君の苦しみは君にしか消化できないから。だから、自分の気持ちに噓をついた。『いいんじゃない』なんて、そんなこと思ってない。菜乃葉が死んでいいわけない。君に生きててほしい。これは、僕のエゴだ。君の気持ちなんて、君がこれを聞いてどう思うかなんてどうでもいい。ただ、生きていてほしい。これが、僕の本心なんだ。僕は」
僕の手から菜乃葉の手がするりと抜け出して、次の瞬間、僕は彼女の腕の中にあった。彼女の細い腕が、僕をぎゅうっと縛りつけて離さなかった。病室に、静寂が訪れた。窓の外で、月が煌煌と輝いている。その光と菜乃葉の体温以外、何も感じられるものはなかった。
「私だって、好きだもん……。好きすぎて、苦しいくらいだよ。私がアルツハイマーでさえなければって、いつも思ってた。でも、アルツハイマーなのに人を好きになるなんて、そんな資格ないじゃん。自分だけが好きな人のこと忘れてく。競走のスタート地点は同じはずなのに、私だけがだんだん減速して、やがてそこから一歩も動けなくなって、最後はコースアウトする。君がゴールして後ろを振り返った時には、私はもうそこにはいないの。だから私、生きることなんてできないよ。今ここで死ななきゃ私は周りの人を不幸にする。家族も友達も好きな人もみんな分からなくなって、その人たちを傷つけちゃうでしょ?そんなひどいこと、できないよ」
僕は彼女の瘦せた背中に手を回す。
「それでもいいよ。それ以上の幸せを、君は周りの人にもたらしてくれる。アルツハイマーなんてどうでもいい。僕はただ、君とずっと一緒にいたい」
「いいの……?私は君のことも忘れちゃうのに」
「いいよ。僕はそれでも君が好きだから」
彼女はゆっくり僕の体の拘束を解いた。もう、震えていなかった。そして彼女は、僕の目をまっすぐに見据えてから唇を奪った。
彼女の唇はすごく柔らかくて、僕は現実を見失いそうになった。やがて彼女のほうから唇を離し、僕たちはまた見つめ合った。互いの瞳に、互いの姿が映りこんでいた。僕はそれを、ロマンチックだと思った。すると彼女は突然、その目から涙をつーっと流した。
「ごめん。ごめんね」
「菜乃葉?どうした?」
彼女は僕から目をそらさず、こう言った。
――君の名前が、思い出せないの。
「僕の名前は、藤崎颯だよ」
”その時”は、着々と近づいて僕らを侵食しようとしている。僕らはその波に、飲まれるしかないのかもしれない。けれど僕は、絶対に彼女から離れたりしない。絶対に、彼女を離したりしない。
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