39

 「はい、お水飲んで」


 「あ、ありがとう……」


 病院の外来受付前のベンチに、僕と椎名は並んで座った。彼女にもらったペットボトルのミネラルウォーターを強引に喉に流し込んで、ふぅ、と息をつく。


 「良かった、だいぶ落ち着いたみたいね」


 「助かった。ありがとう、椎名さん」


 「う、うん」


 会話が途切れ、僕は焦った。何この間。


 「ええと、椎名さんは何で病院に?」


 慌てて脳内から言葉を引っ張り出すと、彼女も慌てた様子で僕に向き直る。


 「っと、今日姉が健康診断なの。だから、その付き添いで。ここで待ってたんだけど、そしたら藤崎くんを見かけて、なんか……大変そう?だったから声かけちゃった。ごめんなさい、急に。驚いたよね」


 「い、いやいや、全然!むしろこっちはホント助かったっていうかなんていうか」


 椎名は「なら良かった」と微笑んだ。

 彼女も、目鼻立ちはかなり整っている。今日は普段見慣れない私服というのも相まって、かなり美化されて見える。

 不思議なことといえば、僕は今まで一度も学校で彼女と会話していないということだ。僕が彼女のことをクラスメイトとして記憶に留めているのも不可解だし、それに彼女が僕をクラスメイトと認識してこうして声をかけてきたのはかえって不可解だ。

 友達は要らないと思っていた僕は、当然クラスで誰かと言葉を交わすことなんて滅多になかったし、交わしたと言っても菜乃葉か証梨くらいで、それ以外の女子とは話した記憶なんて一切ない。そんな僕に、なぜ椎名は気づき、声をかけてくれたんだろう。


 「藤崎くんは?」


 「へ?」


 間抜けな声で返すと、彼女はクスリとしてから、こう言った。


 「どうして病院に?」


 「あ、えっと、な……」


 慌てて口をつぐんだ。菜乃葉は、アルツハイマーのことは僕と証梨以外知らないと言っていた。そしてこれからも、他の誰にも口外しないつもりだとも。クラスメイトであってもだ。僕がここで「菜乃葉のお見舞いで来たんだ」なんて言ったら、彼女がこの病院に入院しているとバレてしまう。


 「とっ、友達が入院してるんだ、ここに。そのお見舞いで」


 僕は脳内に旧友の顔を思い浮かべながら必死に言葉を紡いだ。


 「そうなんだ」


 危ない。勘繰られてはいないようだ。


 「あ、もうこんな時間。姉の健康診断が終わる頃だと思うんだけど……」


 「おーい、里香りか!」


 僕がほっと胸を撫で下ろしていたそのとき、どこかで聞いたような声音が響いて、僕ら2人はそろってその方向を向いた。そして僕は、おや?と思った。


 「あれ?君、新人の藤崎くんじゃない」


 「えっ…………」


 何でこの人が、ここに……⁉︎


 「言ってなかったね、藤崎くん。こちら、私の姉です」


 「え、お、オーナー⁉︎」


 僕の目の前には、バイト先であるカフェのオーナーが立っていた。


 「てか、え!姉?姉って言った?」


 「うん、お姉ちゃん」


 にこり、笑って椎名は言った。


 「そう、なんだ……。あ、僕はオーナーのカフェでバイトしてて、」


 「知ってるよ?」


 僕は硬直した。知ってる?何で?そんなはずない。だって彼女にバイトのことを話した覚えはない。それ以外の話すら全くしてないのに、何で彼女が僕のバイト先を知っている……?


 「私もそこでバイトしてるから」


 「っ⁉︎」


 同じ、バイト先…………。


 ***


 「まさか椎名さんと同じカフェで働いていたとは……」


 「知らなくても仕方ないよ。シフト重なった日なかったし」


 椎名里香は僕や菜乃葉、証梨と同じクラスの小柄な人だ。僕がつい最近働き始めたカフェのオーナーの妹で、彼女自身もそこで働いているらしい。


 「同じ高校だなとは、履歴書見て知ってたけど。まさかクラスメイトだったなんて」


 こんな偶然もあるのね、とオーナーも驚いている様子だった。


 「こうして話すのも初めてだよね?」


 探りを入れるように、椎名は僕に尋ねてきた。僕は逡巡してから「ああ」と短く答える。椎名の妙に疑り深い様子が気に掛かったが、今の僕はそれどころではなかった。菜乃葉が自殺を目論んでいる今、こうして誰かと談笑している暇なんてないのに。かと言って、僕が菜乃葉に何かできるわけでもない。僕じゃ、彼女は救えない。


 「藤崎くん、大丈夫?」


 いつの間にか俯けていた顔を、椎名が控えめに覗き込んできた。


 「ん?ああ、大丈夫」


 なるべく「大丈夫」に聞こえるように言った。なぜ彼女はこんなにも勘繰ってくるのだろうか。


 「……お姉ちゃん、先帰ってて」


 「え?」


 オーナーの素っ頓狂な声が耳に入る。


 「私、藤崎くんと話がある」


 少し間をおいて、オーナーは頷いたらしかった。


 「あまり遅くならないでね」


 宥めるように言ってから、彼女はその場を去った。俯いたままの僕に目線を合わせるようにして、椎名はそっと口を開いた。


 「少し、歩かない?」


 夕暮れ時の道路は車の往来が激しく、走行音で耳が痛かった。少し先を歩く椎名の後ろ姿はなぜか彼女に似ているような気がした。


 「どこに行くの?」


 気になって、僕から口を開いた。彼女の背中に届くよう、声を張り上げる。


 「あてもなく。目的地なんてない」


 「え……?それって、かなり危険なんじゃ」


 このまま歩き続けたら、僕たちはこの疲れた日常を抜け出して、どこか遠くの見知らぬ土地へとたどり着くだろう。まだ学生の僕たちにとって、それはどれほど危険なことか。頭のいい彼女なら、容易に想像できるはずだ。


 「目的地を決めると、苦しくなることがあるから」


 彼女はそんな、意味深なことを言った。


 「目的地が決まっていれば自ずと進むべき道も決まってくるけど、それは逆に、縛られてるってことなのかもしれない。スマホの地図アプリみたいに、この道を進んでくださいって用意された道を歩く。それが目的地への近道になる。でも、私は時々、機械が示す道とは別の方向を選びたくなるの」


 僕の数歩先で、彼女は音も立てず立ち止まった。僕もそれに倣って、少し離れたところで足を止める。


 「迷ったら、違う道を選んでいいと思う。気ままに、行き先も決めず、自分が行きたいと思った道を進んでみてもいいと思う」


 椎名が振り返った。その顔は、夕陽の反射でよく見えなかった。けれどほのかに笑っているように見えた。


 「どうしようもなく行き詰まった時に、普段あまり親しくない人間に全部ぶちまけてみるとかね」


 僕には、その人間は僕にとっての椎名なのだと分かった。だから僕は、一歩歩み寄って、重い口を切ってぽつりぽつりと喋り出した。


 「友達が自殺するって知ったら、椎名はどうする?」


 この質問に、彼女は驚かなかった。慣れているようにすら見えた。よほど日頃から誰かの悩み相談に乗っているのか、あるいはセラピストでも目指しているのか。


 「話を聞いて、本当に辛そうだったら、肯定する」


 しばらくうーんと唸ったあと、静かに、あくまで抑えた声で彼女は言った。


 「肯定……それはつまり、自殺を黙認する、ってこと?」


 「言い方によったらそうなるかな。たとえ死んでほしくなくても、その人の生死は私が関与していいことじゃないし」


 やはり彼女も、僕と似たような考えらしい。けれど彼女は、急にイタズラっぽい顔をして、先ほどまでとは全く別のことを言った。


 「って言うのは理想論で、ホントはすっごい泣いて見せる。友達の前で、死んじゃいや!とかなんとか喚いて、何としても自殺を阻止する、と思う。だって、私にだって心はあるから」


 一息ついて、彼女はまた口を開く。


 「自殺する、しないがその人の自由であるように、それを止める、止めないも自分の自由じゃないかな。尊重ももちろん大切だけど、それと同じくらい、主張だって大切だと思う。藤崎くんだって、ちゃんと人間だよ?心がある。こうしてほしいとか、そんなことしてほしくないとか、こうなりたいとかこうでいたいとか、そういうの全部、ちゃんと持ってる。人のことを考えるのと同時に、自分の心にも耳を傾けてあげてよ。どうしたいか、多分、君は分かってるでしょ?」


 暗闇の中にいた。止むことのない雨が、ずっと降っていた。諦めていた。もう彼女を救うことはできないんだと、それだけが僕の頭を支配していた。けれど、椎名の言葉で、僕はその暗闇から抜け出したのだ。長雨がようやく止んで、僕は自分の本当の思いに気づいた。僕は……。


 「椎名さん!」


 僕は突然、大声で彼女の名前を呼んだ。


 「ど、どうしたの?」


 これにはさすがの彼女も驚いたようで、声が少し上ずっていた。


 「お願いがあるんだ」

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