38
「そっ、か……」
不思議な色の空間が僕たちの間に流れた。やがて彼女は、僕の方を見て言った。
「ね、颯くん」
急に声色が変わって、僕は身構える。
「私、今日……」
彼女の瞳が、いくらか揺らいだ。唇が、微かに動いているかのように見えた。数瞬後、彼女がその口から何らかの音を発したとき、
「い、言わなくていい!」
咄嗟に放った僕の声が、彼女の口をつぐんだ。
「え……」
「無理して、言わなくていい」
彼女は呆けていた。僕も何を言っているんだか。
「言いづらいなら、無理して言わなくていい。それに、……言わなくても、なんとなく分かる気がする」
「分かる?ホント……?」
一口に言い切ってしまった後、そんなはずはないと慌てて被りを振る。もちろん見当くらいはつくけれど。
「いや、あんまり自信ないけど」
「はは、自信ないんじゃん」
ひとしきり彼女は笑った。そのあと、ゆっくり項垂れた。
「菜乃葉?どうした?」
心配になって、思わず名前を呼んだ。彼女は力なく顔を上げると僕の顔を見て、唇の端を少し上げた。
「ううん。なんか、久々に名前呼んでくれたね。颯くんいつも、“君”ばっかりだったから」
言い終えると、彼女はふい、と目を逸らした。
「ホントに、言わなくていいの?明日には忘れてるかもだよ」
何と答えればいいか、わからなかった。僕はそれきり黙ってしまった。
「もう、黙んないでよ。はい、もうこの話終わり!死ぬとか死なないとか、辛気臭くてやんなっちゃう」
「死ぬっていうのは君が言い出したことだろ」
「あはは、そうだったね」
それからしばらく、僕らは少しも言葉を交わさないまま、ベンチに座っていた。僕は途中で寝たのかもしれなかった。彼女は目を閉じていたから、おそらく寝ていたと思う。
「戻ろっか」
「あれ、起きてたんだ」
「ずっと起きてますー。颯くんこそうとうとしてたよ」
菜乃葉は唇を尖らせた。
***
病室に戻って、菜乃葉はひとりでにベッドに上がる。
「……いつまでいるの?」
僕が病室に居座っていると、彼女がそう聞いてきた。
「帰らなきゃダメ?」
「面会終了時間までいるつもりじゃないよね?」
「何ならここで夜を明かそうかと」
僕は胸を張って答える。本当は、今日彼女が何を企んでいるかなんて分かっているはずなんだ。それを確かめるのが怖くて、でも彼女を1人にしては置けなくてそばを離れられない。なんて、言えたもんじゃない。
「私が、君のいない間に何かしでかすんじゃないかって思ってる?」
僕が黙っていると、彼女はそう言った。
「まぁ、だいたい合ってるんだけどね」
さっきとは全く違う口調に、僕は背筋を伸ばした。
「私、今日……死のうと思う」
「…………」
その、直接的な言葉を聞いた僕は、卒倒するところをギリギリのところで耐えて目をきつく閉じた。
「作戦決行は夜。残念、面会終了時間をとっくに過ぎてるから、君に私の勇姿を見せつけることができないね」
彼女はあえてその時間を選んだのだと思う。
彼女はあくまで毅然とした態度を保っていたけど、ところどころ声が震えていた。そうだ。これから死のうと意気込んで、怖くないわけがない。けれど今の彼女の表情は、そういった恐怖や不安、悲痛なんかを全て脱ぎ去った、まるで純真無垢な少女のような顔つきで、妙にすっきりもしていた。
「怖くないのか?」
「すごく怖いよ。けど……私が私自身を忘れていくことの方が怖い」
それは、本心なんだと思う。自分が自分でいられなくなる。それはどんな気持ちだろう。僕は想像してみた。具体化されるはずがなかった。
「ねえ、聞いて」
一瞬、誰の声かわからなかった。それくらい、彼女の声は透明で澄み切っていて、僕はそこからも、彼女の存在が少しずつ揺らいで透けていく予兆を敏感に感じ取る。
「私、颯くんと一緒にいられてすごく楽しかった。毎日、笑って過ごせた。時々、勘違いしちゃいそうなくらい。私は、病気でもなんでもない、普通の女の子なのかもって。夢みたいだった、本当に。
ずっと、私は自分のことを不幸だと思ってた。だって、そうでしょ?青春真っ只中にアルツハイマーを患って、友達の顔も名前も、忘れてくんだよ。大切なこと、大切にしたいもの、どんなに箱にしまっても、ふと気づいたらいなくなってる。……ずっと、不幸だと思ってた。可哀想だと思ってた。そうやって自分を慰めでもしないと、心が重くて重くて、折れちゃいそうだったから。
そんなとき、君に出会った。最初の頃なんてホント、君は全く人に執着なんかしなくて、そういう面では憧れてもいたの。君のそういうとこ、憎らしくても尊敬してた。気づいたら、……1番そばにいた。1人じゃできないこと、颯くんのおかげでたくさん味わったよ。颯くんがいなければ、今日死ぬっていう決断もできなかった。全部、君のおかげ。君がいてくれたおかげ。ありがとう。私がいなくなった後も、誰かを幸せにしてあげてね。そして颯くんも、これからもっと笑って、笑って、幸せになってね。颯くんはきっと、もう分かってるでしょ?誰かと一緒にいることの意味。ううん、必要性を」
僕はもう、何も言えなかった。その場にいることもできなかった。その場で、彼女と同じ空気を吸っていることが、僕はなぜだか悲しかった。いや、本当はもう気づいている。きっと、それを最後だと知っていたから。
「寂しくなるな」
「颯くんのことだから、耐えきれなくなって泣き出しちゃうんでしょうね」
おどけた調子で彼女は言うけど、案外本当かもしれない。彼女がいなくなったら、僕は……。僕は、その先を考えるのが怖かった。
「もうそろそろ、帰るよ」
「うん、元気でね」
できる限り、平静を保ってベッド脇の椅子から重い腰を上げる。ドアに向かって歩くのもしんどい。
「さよなら、菜乃葉」
さようなら。
初めて僕を見てくれた人。
僕のことを「友達」だと言ってくれた人。
よく笑うし、よく泣くし、よく怒る感情が忙しい人。
菜の花のように明るい人。
僕の、好きな人。
ドアの前に立って、もう一度彼女の方を見た。彼女はしんみりした顔で、でも笑いながら手を振った。僕も振り返した。いつもより少し大袈裟に。
生きていてほしい。生きていてほしい。頼むから、生きてくれ。君は生きてるだけで誰かの太陽だから。君が忘れても、僕は……。
何を言えばいいんだろう。言ったところで、何になるんだろう。
全身から力が抜けていく。病院の廊下を歩きながら、ぼんやりとした頭で同じ言葉を繰り返す。“生きていてほしい”。
靴底から伝わる感触がふわふわして、僕は硬い地面を歩いている気がしなかった。雲の上を歩いているようだった。
ガシャン!
廊下の隅に置いてある医療器具ののった棚に躓き、よろめきながらうわ言のように謝罪の言葉を口にする。
「すみません、すみません……」
「あの、大丈夫ですか……?」
通りかかった年配の看護師さんに聞かれて、僕は咄嗟に答える。
「大丈夫です。僕は大丈夫です。何の問題もありません、大丈夫です」
ふらふらと、彷徨する。エレベーターを使う気になれなくて、階段で病院の一階まで降りる。おかしいな。今まで散々見てきた景色のはずが、まるで見覚えがなかった。ここ、どこだ。僕は今まで何をしていたんだっけ。頭がクラクラする。
「藤崎くん?」
藤崎……僕の、名前?
「あ、あの、藤崎くんだよね?大丈夫?」
「えっ、と……
辛うじて僕が彼女の名前を知っていたのは、彼女がクラスメイトだからだ。クラスメイトの、椎名……名前は知らないけど。
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