48

 目が覚めると、一番最初に視界に入ったのは天国にありそうな青空でも、彼女の顔でもなかった。

 ピッ、ピッ、と僕の心臓の鼓動が音を変えて耳に飛び込んでくる。早く、途切れないかな。

 目を閉じれば、彼女に会える気がして、しばらくずっとそうしていた。会えないとわかっていても何かにすがっていたかった。でなければ僕は、両足で立っていられなかった。


 ”颯くん”


 僕は目を見開いて、がばっと起き上がった。呼吸が荒い。鼓動がうるさい。


 ――彼女の声が、聞こえた。


 「颯くん、よかった、気が付いたんだね」


 幻は夢のように溶けていって、現実という波を引き連れてくる。目の前にいたのは、僕が好きな人ではなくて、僕を好きな人。それも今ではわからない。ひどいことを、言ってしまったから。


 「……ごめん」


 僕は目を伏せた。まともに目も合わせられなかった。申し訳なさと後ろめたさでいっぱいだった。


 「いいよ、分かってるから」


 いつになく優しい声。なんでこの人の声って、こんなにも菜乃葉に似ているんだろう。


 「睡眠不足と栄養失調。よく食べてよく寝れば、元気になるって」


 「里香」


 僕は、カッコ悪い。


 「僕は、菜乃葉を忘れられないんだ」


 「――うん」


 「今でも、振り向いたらそこにいる気がして。君の声も時々、彼女の声に聞こえて。彼女が死んだなんて本当は嘘なんじゃないかって、ドッキリか何かじゃないかって、思うんだ」


 「うん」


 「この1週間、何度も死のうと思った。菜乃葉と同じ場所に行こうと思った。けど…………僕、できなかったんだ。怖くて、できなかった。そばにいるって言ったのに、僕は、自分の命を惜しんで、彼女に会いに行けないんだ。最低だよな。君や証梨にも八つ当たりしまくって、そのくせ倒れて病院に運ばれるなんて。周りに迷惑しかかけてない。何を与えることもできないくせに、周りの恩情にすがって、僕自身は少しも大人になれないまま。こんな僕が、人と関わりあいながら生きていくなんて、そんなの、いいのかなぁっ……」


 嗚咽が止まらなかった。僕はずっと、後ろめたかった。彼女のそばに行けないことが、情けなかった。


 「私が好きになった人だもん」


 里香が、僕の手をそっと包んだ。


 「菜乃葉が好きになった人だもん。”こんな”僕、なんて言わないでよ」


 「もう、幻滅しただろ?僕がこんな奴だってわかって、もう好意なんてないだろ。もうかまってくれなくていいよ。これ以上誰かの手を煩わせるわけには」


 「勝手に決めないで」


 里香の両手に、強い力が入る。


 「そんなの、勝手に決めないで。私が決める。迷惑とか、思わないよ。君のこと、まだ諦めきれてないし」


 「……物好きなんだな」


 「そうかもね」


 里香はいたずらっぽく笑って、僕の手を離す。


 「今日はもう、休んで」


 「……ありがとう」


 病室を出ようとする彼女の背中にそう言うと、彼女は可憐な花がそよ風に揺れるように笑った。




 休んで、とは言われたものの、先ほどまで眠っていたせいか瞼は重くなってくれなかった。入院するのは初めてで、少しソワソワしているというのもあった。なんとなく落ち着かなくて、あたりをキョロキョロ見回す。すると、白く光るリノリウムの床に、小さな茶色い物質が落ちているのが目に入った。座ったままできる限り顔を床に近づけて目を凝らすと、僕はハッと息をのんだ。


 「菜乃葉……?」


 これは、花びらだ。――勿忘草の、花びらだ。


 一部、枯れて茶色く変色している。けれどこの小さな花弁は、間違いない。僕が菜乃葉に買った、勿忘草の花びらに違いない。この花びらが床に落ちているということは、


 「ここ……菜乃葉の病室…………?」


 窓から見える景色が、驚くほど酷似している。個室の雰囲気、医療器具やベッド、棚にテーブルの配置。散々通い詰めたから分かる。ここは、生前の菜乃葉が入っていた部屋だ。彼女が入院していた個室こそ、この部屋だ。


 「なんて、偶然だ……」


 僕は何とも言えない不思議な感情を抱きながら、菜乃葉の遺品は残っていないのかなと思い、辺りの棚や引き出しを見てみた。菜乃葉が死んでしまってから、もちろん個室にあった彼女の私物は整理されただろうが、それでも僕は床で見つけた勿忘草の花びらに運命みたいなものを感じていた。花瓶はすでに片付けられてしまったけど、この花びらだけは、まるで世界の意思に反してひとりでに残ることを選んだような、菜乃葉の存在を示唆するような雰囲気があって、僕はそれに賭けたかった。一縷の望み。この病室に、本当に彼女がいたのなら。少しでも、彼女の痕跡を追いかけたい。


 「……っ!これ……」


 あった。引き出しの中に、淡いピンク色のB5のノート。これは、彼女の日記だ。


 ”運命”という言葉がもしあるなら。

 どうか、今僕がこのノートを開くことを、許してください。


 僕は、意を決してノートの表紙を開いた。

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