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 「藤崎、本当にいいのか?」


 「はい。別に、行く必要ないかなと思って」


 担任の黒崎先生は、訝しげな眼で僕を見た。分からなくもない。今どき僕みたいな高校生もいないだろう。


 「けど、修学旅行だぞ?学生生活一番のイベントだろ。勉強よりも……いや、それは言いすぎだが。でもなぁ……修学旅行行かないなんて……経済事情とか、そんな感じなのか?」


 「いえ、そういうのではないんです、ほんとに。まぁでも、修学旅行にお金使うくらいだったら、ほかのことに使ったほうが有意義ではありますよね」


 先生はやっぱり僕を変人でも見るような目で見つめてきた。それでいい。世間一般で僕のこの考えは常軌を逸しているとか、頭がくるっているとか言われてもおかしくないくらいだ。先生がそう言わないだけ、優しいとでも思っておく。


 「それじゃ、先生、もう教室戻りますね」


 修学旅行なんて。沖縄なんて。


 彼女と一緒じゃなければ、話にならない。思い出にもならない。


 思い出なんか、増えなくていい。ずっと、最近のトピックスは菜乃葉でいい。それ以外には、何もいらない。僕でさえも。


 「あ、藤崎、どこ行ってたんだよ。次、授業変更が……っておい、聞けよ」


 気が付くと、目の前に証梨が立っていた。不思議なことにやけに嫌な目つきでこちらを睨んでいる。


 「証梨?どうかした?」


 「……おい、藤崎、どこ見てる?」


 「は?証梨だけど――…………」


 僕が首をかしげると、証梨は右腕を煙るような速度で動かしたかと思えば、いきなり僕の胸ぐらをぐいっと掴んで、廊下の壁に思い切り僕を押し付けた。


 「違う、あんたが見てるのは私じゃなくてもっと遠くの……!」


 「ねぇ、何あれ」「月島さんじゃない?」「え、急に?コワ…………」周りにいた生徒がざわざわと騒ぎ始めた。そんな中、証梨はただ僕を睨みつけている。


 「おい、”颯”。あんた、一生そこにいる気なの?」


 僕は戦慄した。証梨には、バレている。


 「一生そうやって、菜乃葉を追いかけるつもりなの?」


 「……うるさいよ」


 「菜乃葉はもういないんだよっ!いつまで寝ぼけてんだよ、颯‼」


 「うるさい……!黙れ――!」


 初めてだった。


 「僕は……もう、約束を破るわけにはいかないんだ」


 生まれて初めてだった。


 「菜乃葉を忘れられないんだ!もうほっといてくれ!」


 誰かに対して、本気で怒ったのは、初めてだった。


 僕は証梨の両肩を突いて、生まれた隙でその場から逃げた。

 あるいは、僕のこの怒りは、誰に対するものでもないかもしれない。誰も悪くないから、消化しきれないこの熱が、いつまでもしつこく僕の胸にまとわりついているんだと思った。

 胸が灼けるように痛い。腹の底から、ふつふつと何かが沸いてくる。喉元までせりあがって、僕の気管を閉塞し、息の根を止めようとしてくる。


 いっそこのまま、消えてしまえばいいのに。


 この瞬間の僕を切り取って、アルバムにしまうように。ブリザーブドフラワーみたいに、今ここにいる僕を永遠に閉じ込めてくれたらいいのに。そしたら僕は、その永遠の眠りの中で、彼女の夢を見続けられるだろうな。夢の中で僕は、彼女に会えるだろう。夢の中の彼女は、アルツハイマーから解放された普通の女の子で、僕らはまたどこへでも出かけられるだろう。焼肉だって、クレープだって、どこへだって。


 「颯くん?」


 僕が廊下を走って息を切らしていると、目の前に里香が現れた。僕はすごくイライラした。証梨も里香も、なんでみんな僕にかまうんだよ、と思った。僕はもう、停滞することを決めたんだ。僕はもう、君たちと一緒に進むことはない。僕は、ずっと、菜乃葉のそばから離れない。離れられない。こんな僕のこと、ほっといてくれればいいのに。何でいちいち、気にかけてくるんだよ。


 「……もう、その呼び方やめろよ」


 「え?」


 「思い出すんだ、彼女を!日常の些末なことから、彼女を思い出すんだ、僕は。僕のことを名前で呼ぶのは、彼女だけだ!だからもう、その呼び方はやめてくれよ……」


 滅茶苦茶だ。何もかもが、壊れていく。自分が今まで築いた人間関係。菜乃葉が教えてくれたこと。それが今、目の前で音を立てて崩れ去っていく。自分の手で、粉々に破壊している。何、やってるんだろうな、僕は。


 「”出会わなければよかった”」


 「…………」


 「証梨とも、里香とも、――菜乃葉とも、出会わなければよかったんだ!互いのことを知らずに生きていれば、そしたら、こんなに苦しまなくて済んだっ――!」


 僕の発した音の最後に、乾いた音が重なって響いた。


 「馬鹿なの?君は何もわかってない!」


 左頬が、しびれるように痛かった。おくれて、里香が僕の頬を思いきり張ったのだと分かった。


 「そんなの、……まるで、私や証梨、菜乃葉と過ごした時間が無駄だったって言ってるようなものじゃない!」


 「……証梨も里香も、2人ともおせっかいなんだよ!僕はもう、疲れたんだ。菜乃葉のいない世界に、僕がいる必要なんてないだろ!」


 「颯くんはいつまで菜乃葉に依存してるつもりなの?悲しいのは、みんな一緒だよ?颯くんだけじゃない。それでもみんな、前を向いて進んでるのに。いつまで過去を引き摺るつもり?」


 里香の目からこぼれた涙を見たとき、僕はただ情けなくてどうしようもなくなった。いい年した高校生が何をわめいているんだと、虚しくてたまらなかった。


 僕は黙って、里香から目を背け、その場を立ち去ろうと右足を一歩踏み出した。その時、世界が一瞬で暗転した。


 「颯くん……?」


 よろけて、足がもつれ、その場に倒れる。体に力が入らない。思考がうまく働かない。僕は――。


 「颯くん?颯くん――――!」


 このまま彼女に会えるかもしれない、と思った。

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