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僕は12月の沖縄に、彼女と2人で来ていた。12月といえど気温は本土の春ぐらい温暖で、日中は半袖で十分だ。
「今日はね、バッチリ計画を練ったんだぁ」
意気揚々と、彼女は言った。
「どこに行くの?」
「まずはね、国際通りに行くの!おいしいアイスのお店とか、クレープとか、あるんだって。あとはやっぱり沖縄名物の……」
「え、待って。先に国際通りに行くの?それはないだろ。あそこはお土産買うところだから。まずはひめゆりの塔行って慰霊碑見てから、軍事基地を見て回るのが先でしょ」
「えええ?私、軍事基地なんて興味ないよお。それよりさ、おいしいものいっぱい食べたくない?」
「はあぁ、君はいつだって、僕とは真逆だ」
本当に、僕と彼女は必ずと言っていいほど方向性が合わない。なぜこうも、意見が食い違うのか……。それもまた、彼女と過ごしていて面白いことだ、とは、本人の前では言わない。
「でもさ、その真逆が面白いんじゃん?」
僕には言えないことを平気で言ってのけるところとか、まさしく逆だ。
「……そうかもね」
***
「――枕草子の成立は平安時代。では作者は誰だ?――藤崎」
「…………」
「……おい、藤崎」
はっと目が覚めたときには、古典の担当教師は僕の机を丸めた教科書でバシン!と叩くところだった。
「は、はい――っ!」
「枕草子の作者は誰だ」
「えっと……紫式部です」
「違う、清少納言だ。ったく、授業中に居眠りするな!」
「は、はい。すみません……」
ペコペコと謝りながらガタイのいい男性教師の後ろ姿をぼーっと見つめて椅子に座りなおす。周りを探しても、菜乃葉は見当たらなかった。それどころか僕の現在地は沖縄ですらなく、12月初旬のいつも通りの教室だった。キョロキョロ物色していたら、教室の真ん中あたりにいやなものを見つけてしまった。1つだけ、そこだけ時間が止まったみたいな、空席の机。その机の主がもういないことを、端的に、そして的確に表していた。
「元から席が用意されていないのは構わない。でも、用意されていた席が空席になるのは嫌なんだ」
僕はようやく、彼女のセリフの意味を理解した。
放課後になると、里香が声をかけてきた。
「颯くん。今日バイト」
「あ、そっか。ありがと」
僕はこのごろ、かなりだらしない生活を送っていた。バイトは当日に里香から言われるまで忘れていることが多く、バイト先のカフェの名前も忘れた。学校をよく遅刻するようになった。母親にいつも朝になったら起こしてくれと頼むけど、母親曰く何度大声で名前を呼んでも、体を強くゆすっても、僕は死んだように眠ったままなのだという。母親が医者に見せようかと本気で考えるぐらいには、僕は重症らしい。実際、今週の日曜に精神科に行く予定ができてしまった。
「大丈夫?お姉ちゃんに言って、シフト減らしてもらおうか?」
彼女の好意から出た言葉なのだろうことはよくわかる。けど、それに甘えることはできない。
「……いや、迷惑かけられないから。大丈夫だよ、僕は」
「あまり、無理しないでね」
里香はそう言ってから、思い出したように言った。
「あ、道分かる?」
僕は最近、学校からバイト先までの道のりを迷子になったことがあった。それ以来、彼女はこうして自分のシフトが入っていない日でも僕のことを気にかけ、道案内までしてくれるのだ。
「大丈夫だよって言いたいとこだけど……ごめん、お願いしていい?」
「全然、いいよ」
里香は力なく笑った。
前を歩く里香の背中をぼうっと見つめながら、金魚の糞みたいに彼女を追う。
「ねえ颯くん。バイト……やめてもいいんじゃない?」
「えっ……僕、また何かしでかした?」
「あっ、ううん、そうじゃないの。でも……なんていうか、今の颯くん、すっごく、危ないの」
”危ない”その言葉は、里香が僕をどれだけ心配しているかということを示唆していた。
「最近、眠れてる?ご飯とか、ちゃんと食べてる?」
「大丈夫だよ、僕は」
「大丈夫じゃない!」
里香は立ち止まって、勢いよく振り返った。その目が少し濡れているから、僕は戸惑った。
「全然、大丈夫なんかじゃないよ。お店の皿、何枚割ったと思ってるの?今日だってそう、枕草子の作者が紫式部だなんて、颯くんは絶対に間違えないはずだもん。あの日から……菜乃葉が、いなくなった日から、颯くんは明らかにおかしい。壊れちゃったんだよ!だから、大丈夫なんて言わないで。ちゃんと、休んでよ」
休んだって。……休んだって、彼女は生き返らないのに。
「今日は、私が代わりにバイト出るから。だから颯くん、もう家に帰って。これからのことは、ちゃんと考えて、お姉ちゃんと相談したほうがいい」
里香の言っていることが正しいと、理解できるのに、受け入れられない。理性が指し示す道を、感情は無視して、真逆の方向へ走って逃げようとする。僕がバイトを辞めて、しっかり休んで、元気になったところで、僕の精神は、とっくに崩壊している。僕がこの苦しみから立ち直ること。それは、菜乃葉の死を受け入れて、僕だけがその先に進むことのような気がしてならないのだ。彼女が生前に見たいといった花の意味を、僕は理解しなければいけない。
”私を忘れないで”
僕は彼女を忘れることなんかできない。この傷から立ち直ったら最後、僕が笑みをこぼしたら最後、悲しみが癒えたら最後、僕は彼女と過ごした鮮明な日々を忘れてしまいそうで怖かった。死ぬまで忘れたくない思い出を、新しい記憶が覆い隠してしまうようで怖かった。
だから僕は、停滞を選んだ。自分が進みさえしなければ、僕の中で菜乃葉は永遠の記憶になる。そう、思ったから、僕は進めないでいた。
「家まで送ろうか?」
里香に言われ、僕はふと我に返った。
「……いや、1人で帰れる」
里香に背を向けて、来た道を戻る。振り返る寸前で里香が口を開きかけたような気がしたけど、僕はそれを見ないフリした。
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