エピローグ
はっと目を覚ますと、そこは僕の部屋だった。何か、夢を見ていた気がする。何の夢だったのかは、ぼんやりと靄がかかったように思い出せない。……いいや、本当は気づいている。僕はきっと、彼女の夢を見ていたのだと。
まだ寝ぼけたままの状態で、はっきりしていることがひとつだけ。僕が彼女に触れられるのは、夢の中だけということ。目を覚ましたら、もうそこに彼女はいないこと。僕の生きるこの世界に、もう彼女はいないこと。
けれど僕は、もう大丈夫。時折彼女を思い出して家族の目を盗んでこっそり泣くくらいだ。それくらいは大目に見てほしい。
「お父さん、抱っこして!」
「もう無理、お父さん腰痛い」
「お父さん、ちゃんと詩音の面倒見てあげてよ」
里香が苦笑いし、5歳になった娘の詩音は僕の周りをくるくると回ってはしゃぐ。
「お父さんもう老いたから。詩音抱っこするのマジで腰にくるから……!」
***
気が付いた時、目の前に立っているのは颯くんだった。私が死んでから10年経った、27歳の颯くんは、私が知る颯くんよりもずっと大人で、少しドキッとした。
私の知らない間に、みんなは10年分歳を取って、大人になった。私がここで眠っている間に。私が、まだ高校生のままでいる間に。
証梨も、里香も、一真くんも、みんな大人になっていった。みんなは私の知らない10年を過ごした。きっともう、埋めることのできない溝。
私の墓の前に立つ彼は、澄み切った表情で手には花を持っていた。
よかった。君はちゃんと、前に進めたんだね。私がここで眠っている間、君はちゃんと歩んでこれたんだね。それを知って、私は安心した。彼はもう、大丈夫だ。私がいなくても、周りの人に支えられて、温かい心に支えられて、しっかり進んでいくだろう。
……進めないのは、実は私のほうだ。彼のことが好きで、ずっと好きで、10年、忘れられないままだった。君は私のいる場所からどんどん遠ざかっていくのに、その背中を見つめたまま、私はここから一歩も動けない。
「君の声を聞かなくなって、もう10年だよ。夢では聞けるんだけど、夢で見た内容って目覚めたらもう忘れちゃうだろ?天国ってどんなとこなんだ?快適?案外そうでもないかもな」
天国になんて、実は怖くて行けてないんだよ。情けない話だけど、私は君から離れるのが怖くて、寂しくて、ずっとこのお墓に眠り続けてるの。ふざけた話でしょう?君に散々偉そうなこと言っておいて、結局君に依存してるのは私なんだから。
「来月末、女の子が生まれる予定なんだ。君の予想通りだから、賭けは僕の負け。でも、1億円は払えないな。名前、まだ迷ってるんだけど、この花を今日君にあげようと思って、そしたら思いついた気がするんだ。実を言うと、君の名前を借りてそのまま菜乃葉って名付けるのも視野にはいれてたんだけど……。やっぱり、君みたいに自由奔放で騒がしい女の子に育ってもらっても困るからさ。僕はおしとやかな娘が欲しいんだ。……”
……そっか。君は里香と結婚して、子供まで生まれるんだね。おめでたいなぁ。でも……。
私は、ときどき思ってしまう。里香と、その立ち位置を変われないかなって。正直、死ぬほどうらやましい。10年経っても変わらずずっと隣にいられるなんて、うらやましい。ホントはね、私だって、できることならずっと一緒にいたかった。ずっと君の隣で、一緒に笑っていたかった。死ぬまでずっと、そばにいたかった。
けれどそれは、もうかなわない。
彼は手に持っていたかわいらしい花を、どうやら挿し替えてくれているようだった。
「花言葉は、”君を忘れない”。君が見た勿忘草の、対になるようで、僕はずっとこの花が気になってた。いざ店を開いて色々調べたら、開花時期は君の命日に近かったよ。運命、みたいだと思ったんだ。君がいなくなってから咲いた花は、”君を忘れない”っていう花言葉を持っている。君に送るのに、ぴったりな花だと思った。だから今日は、この花を君にあげる」
”君を忘れない”か。
――なんて、素敵な花言葉なんだろう。
そっか。シオンの花言葉は、そんな素敵なものだったんだ。勿忘草の花言葉は、”私を忘れないで”。私が見た花に対して、君はこんな素敵な花をプレゼントしてくれた。それだけで、私は心が満たされた。私が死んでから咲く花。忘れないでと言い残してこの世を去った私に、まるで呼応するように咲く花。忘れないよ、忘れたことなんか、一度だってないよって言われているみたいで。こんなにも切なくて悲しい私たちの恋にも、素敵な色があふれ、花が咲いたんだと思うと、もう涙は流れなかった。
「ありがとう」
私は、彼に届くようにそう言った。大きな桜の木の下へ出て、彼の反応を窺った。彼は、はっと体を震わせて、辺りをキョロキョロ見回した。
――この声が、聞こえてるの……?
目が、あった。数歩先の彼と、まっすぐ目があった。やっと、会えた――。
「私のこと、覚えていてくれてありがとう」
彼の真っ黒な目から、そっと涙がこぼれた。あぁ、この声は君の耳にも届いているんだね。私の声はちゃんと、君の耳に届いてる。そう、なんだ。
「いい名前だと思うよ、”シオン”」
そして、咲き乱れる桜の花びらがそよ風に運ばれた時。
私の体は、一瞬にして透けていって、自分では視認できなくなった。
「菜乃葉?」
彼は不思議そうな顔をして、また辺りを見回し始めた。
そうか。多分もう、君には見えていない。私の姿は見えていない。声も、もう聞こえることはないだろう。
「菜乃葉?もう、そこにいないのか?」
いるよ。いるけど……。もう、あなたとはお喋りできない。10年前のように、気兼ねなく、他愛ないお喋りなんてできない。きっともう、神様がしびれを切らしてしまったから。私がいつまでも、この場所で停滞し続けているから、早く天国に行かないから、怒った神様が私と君とのつながりを永久に断ち切ってしまった。だから私も、いい加減覚悟を決めなきゃ。
「もしかして……君はずっと、ここにいたの?」
そうだよ。あなたのことが忘れられなくて、天国になんて行けなかった。ずっとここで、高校生のままで、10年もの間歳も取れずにいた。けれどもう、限界みたいだ。君のこともさっさと吹っ切って、お別れしなくちゃいけない時が来た。
「10年ずっと、好きだったよ」
……私も、君への執着が少しも薄れることなんてなかったよ。悲しいくらい、一度も忘れられなかったよ。
「けど……。それも今日で、終わろうと思うんだ」
え……。
「僕が君を吹っ切れずにいたら、君の輪廻転生を邪魔しちゃうだろ?だからもう、君への気持ちを、諦めることにするよ」
――そっか。君がその決断をしたのなら、私には止める権利なんてない。さみしくないといえばもちろん嘘になるけど、私に君を止める権利はないから。
「昔も今も、好きだ。多分、これからも。この気持ちは諦める。でも、勘違いしないでほしい。君を忘れるわけじゃ、ないこと。君との記憶は、いつまでも、ずっと、大切にしまってある。アルバムみたいに、ブリザーブドフラワーみたいに。だから、菜乃葉。――安心して、いいよ」
いけと、言われた気がした。逝けではなく、往けと、彼に言われた気がした。
――うん、わかったよ。君が前に進み、そしてもう振り返らないのなら。私も、去っていく小さな背中に背を向け、次の場所に行くことにするよ。私も、振り返らずに進もう。私も、君と過ごした日々の記憶はすべて、持っていくよ。次の朝、もうそこに君がいなくても。あるいは、私が私でなくなったとしても。この記憶だけは、永遠に、私とともにある。
さようなら、颯くん。君の幸せを、心から祈っているよ。
***
実は彼女の遺した日記には、続きがあった。これは、後日知ったことなんだけど。ノートの一番最後のページ、表題は、”死ぬまでにしたいこと”とあった。
その文面を見て、僕は「彼女らしいな」と思ってしまった。そして、やっと思い出せたんだとも思った。彼女はようやく、思い出せたんだ。彼女がずっと、思い出せないでいた記憶、感情。それがそこには切々と綴られていて、彼女の死をちょっとくらい明るくしたのかもしれない。
彼女のその願いは、まぁ、果たせたんだろうと思う。けれど、まだ終わってもいない。彼女が果たしきれなかったその願いは、僕が引き継ごうと思う。彼女の最後の言いつけくらい、守ってあげないと。アルツハイマーのために大人になれなかった不憫な少女に僕ができる、せめてものはなむけだ。どうか彼女には、安心してほしい。大丈夫、君の夢は、僕が責任をもって預かるから。
僕の物語には、いったんここでピリオドを打とう。ここには表しきれないほど、きっとこれからも、続いていくから。
「お父さん、遅いよ!証梨ちゃんと一真おじちゃんが待ってる!」
「なぁ、詩音、思うんだけど……。なんで証梨はちゃんづけで、一真はおじちゃんなんだ?」
「証梨ちゃんは証梨ちゃん、一真おじちゃんは一真おじちゃん!」
玄関でしびれを切らして待っていた娘はそう言うと、無邪気にケラケラ笑い出した。
「詩音がそう言うんだからそうなんでしょ。ねー、詩音」
里香と詩音は顔を見合わせて「ねー」と声をそろえる。
「ほらお父さん、早く車出して。証梨たち、多分もう着いてるよ?」
「分かったよ」
里香に促され僕たち家族は家をあとにし、車に乗り込む。目的地は、カーナビを使うのももどかしいくらい何度も行った場所。
「よし、じゃあ行こっか」
「うん、菜乃葉が待ってる」
***
”死ぬまでにしたいことリスト”
死期が近づくと、みんなこういうの書いたりするのかな。便乗して、私も書いてみることにした。
・生きたい
しばらくずっと考えてたんだけど、これしか思い浮かばなかった(笑)。
でも、これが今の私の、本当の気持ちなんだと思う。
ずっと、生きている意味が分からなかった。アルツハイマーだって宣告されるまでは、それでも平和に楽しく、自分で言うのもなんだけど充実した生活を送れてたと思う。けど、病気だって知って、数年で死ぬって知って、そしたら急に、「あれ、私って、なんで生きてるんだろう」って思い始めた。人はいつか死ぬ。死なない人間なんていない。そんなのがいたら、それはきっと妖怪か何かで。
結局、今こうして死ぬ間際になっても、理由なんてわからなかった。生きる意味は、なんだろう。私には、どうしてもわからない。神様だって、分からないかもしれない。
けど、最近思ったことがある。実は、意味なんかないんじゃないかって。本当はそんなの、どこにもないんじゃないかって。人間があると信じて、必死になって彷徨ってただけなのかもしれないって。
生と死は真逆に見えて、実は表裏一体で、背中合わせに手をつないでいるような状態なんだって、そんな考えを持っている人もいる。私がその一人でもある。最近気づいた。
ずっと死ぬのが怖かった。彼の前では言えなかった。けど、もう大丈夫。私の生きたいって言う最後のお願い、彼ならきっとかなえてくれるって、分かってるから。
だから私は、最期の瞬間まで、全力で生きたいって思える。
私が死んじゃったあとは、彼にでも任せるよ。
シオン 夜海ルネ @yoru_hoshizaki
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