シオン

52

 「颯くん」


 「颯くん、起きて」


 靄がかかったような寝ぼけた頭の中に、彼女の声が反芻する。


 「颯くん、もう朝だよ」


 僕はずっと、その声をおぼえている。今でもずっと、忘れられないまま。昨日のことのように、あの頃のかけがえのない日々は鮮明なまま。


 「ほら、起きて」


 「菜乃、葉……?」


 「もう、何寝ぼけてるの?朝ごはんできたよ。早く支度して下りてきて」


 自室のドアに、彼女の背中が見える。僕の、初恋の人の背中。


 「何で、生きてる……?」


 思わず、口からか細い声が漏れた。僕の知る限り、菜乃葉はもうこの世にはいないはずだ。彼女は死んだ。若年性アルツハイマーを患い、齢17にしてはかない命に幕を閉じた。その彼女が今、僕を、起こしたのか?


 ベッドから降り、寝ぼけ眼をこすって洗面台に向かう。鏡に映った自分の顔を見たとき、僕はすべてを悟った。


 「長い、夢だったな……」


 この僕の顔は、27歳、つまり、あれから10年たった僕の顔だ。10年用意された分の歳をきっちり取った僕は、今、彼女と同居している。まだ結婚はしてない。2人とも大学を卒業後、僕は一般企業に就職、そして彼女は作家としてデビューを果たしたばかり。彼女は、死んでなどいない。


 「コーヒー、ミルクと砂糖入れるー?」


 階下から彼女の高い声が響いて、僕はそれに


 「いや、ブラックでいいー」


 と声を張る。


 スーツを着て1階に下りると、台所からおいしそうな朝食の香りと彼女のへたくそな鼻歌が聞こえてくる。


 「相変わらず音外しまくるんだな」


 僕が笑いながら言うと、


 「颯くんほど音痴じゃないし!」


 と小学生みたいな彼女の声が返ってくる。


 2人で朝食の席に着き、僕はブラックのコーヒー、彼女はレモンティーをすする。


 「……苦っ、」


 ブラックコーヒーに僕は顔を歪めた。


 「あはっ、颯くん、見え張ってブラックなんか飲むからぁ」


 ……なんで、気づかなかったんだろう。そうだ、僕はブラックコーヒーが飲めない。大人になってもずっと、ミルクと砂糖をたっぷり入れたやつじゃないと飲めない。その時僕は気づいた。この世界は、嘘だ。


 「颯くん?」


 「……ごめん、菜乃葉。僕、もう目覚めなきゃ」


 これは夢だ。この光景こそ、夢だ。僕は、現実に帰らなければ。


 菜乃葉はハッとしたような顔の後すぐ、「……そっか」と嘆息を吐いた。僕は、本当の現実に戻らないといけない。早く、目覚めなきゃいけない。頭ではわかっているのに、心は裏腹で、目の前の彼女との時間がいとおしくてたまらない。離れがたかった。

 神様は、残酷だ。僕に時々こんな理想ゆめを見せては、目覚めたときに現実の波が押し寄せ、僕をさらって、気づけばそこにもう最愛の人の姿はない。わかったよ。この現世で、僕が彼女に会うすべは僕のこの悲しい妄想の中だけなんだ。すぐ目覚めるよ。もう、帰るさ。だけど神様、どうか不遇な僕たちに、慈悲を授けてほしい。僕たちが2人で同じ時間を共有することを、この幸せな時間に浸ることを、どうか許してほしい。あれだけの不幸に見舞われたんだ。これくらいの贅沢は、いいだろう?


 「朝食を食べ終わるまで、目覚めるのを待ってくれないかな」


 菜乃葉は悲しげな顔で言った。


 「……僕も、そう言おうと思ってた」


 「そっか、今日の朝食は、ずいぶん時間がかかりそうだね」


 菜乃葉が笑った。その笑顔を見ると、僕の胸には嵐が吹き荒れるように激情が渦巻く。僕は今でも、君の顔を忘れられない。君の声、しぐさ、匂い。君を構成するすべてを、僕は一度たりとも忘れられたことがない。僕は、人に執着を持たない人間のはずだった。それがいつしか、君に対してとんでもない量の愛情があふれだした。だれにも止められない。僕ですら歯止めが利かないくらい膨大なその感情を、僕はどうやって処理すればいいんだろう。


 「ずっと、好きだ。出会う前から。出会ってからはもっと。君が僕の目の前から消えてしまっても、ずっと」


 涙がこぼれた。美しい夢だ。この甘い蜜にずっと浸っていたい。幸福の蜜を吸い続け、溶けてしまいたいくらい。夢にのまれてもかまわない。僕は君のそばにいられるだけでいい。

 それができないのは、僕が現実世界で居場所を見つけてしまったからだ。朝が弱い僕を起こしてくれるのは、菜乃葉じゃない。もう、いるんだ。菜乃葉以外に、自分が守りたいと思う大切な人が。


 「僕はもう、ここにはいられないよ……っ」


 菜乃葉の顔が、涙でにじんだ。


 「もう、十分だよ。ありがとう、颯くん」


 彼女は椅子から立って僕のところへやってくると、両腕で僕の体を優しく包んだ。


 「私のこと、10年も、ずっと覚えててくれたんだね。十分すぎるよ」


 「忘れられない。君のことが、いつも脳裏に焼き付いている。ずっと、ずっと……」


 「嬉しい。死んだ私のこと、思い続けてくれてありがとう。私ならもう大丈夫だよ。もう颯くんには、居場所ができて、守りたいものができて。私はそれで満足だよ」


 「もう、これで最後なのか?」


 「そうだね、颯くんはもう、見つけたから。私も次の場所に、進まなきゃ」


 彼女は僕を離すと、頬に触れるだけのキスをした。


 「ずっと、不安だった。私が死んだら、颯くんはどんな道を歩んでいくんだろう。ちゃんと好きな人と出会って、結婚して、子供はできるのかなってずっと、心配だった。でも、安心した。あなたはもう、1人じゃない。人とのかかわりあいの必要性を知っている。大丈夫。私はいつでもあなたを見守ってるよ。颯くんが道に迷うことなく、ただまっすぐ前を向いて歩いていけるように」


 景色が、鮮烈な光に染め上げられてゆく。もう、目覚めのときだ。これで本当に、君とはお別れ。


 「愛してた」


 僕が涙声でつぶやくと、彼女は涙を一筋落とした。


 「私も、愛してたよ」


 ***


 気づいたときには、自室は明るい太陽に光に満たされていて、僕はあまりのまぶしさにしばらく目を開けられなかった。


 「起きて、颯」


 その声はもう、菜乃葉のものではなかった。


 「……おはよう、里香」


 「もう、いつまで寝ぼけてるの?早く起きて、ご飯できてるよ」


 春になると、彼女と初めて出会った日のことを思い出す。あの日からずっと、僕は彼女に振り回されて、振り回されて、振り回されて。彼女がいなければ、モノクロのままだった思い出も、今では満開の花畑のようにいろんな色が咲き乱れ、僕の記憶を彩っている。その中で、明るい菜の花のような黄色の花を咲かせる記憶は、一段と芳しく、美しい。


 「コーヒー、ミルクと砂糖入れる―?」


 階下から響く彼女の声に、


 「いつもより多めにして―」


 と声を張る。


 支度を終えて1階に下りると、台所からおいしそうな朝食の匂いと彼女の好きなロックバンドの音源が運ばれてきて、今日もにぎやかな朝だなと僕は苦笑する。


 「そのロックバンド、売れてるの?」


 僕が余計なことを聞くと、彼女は


 「ぽっと出のミュージシャンよりは売れてるわよ!」


 と返した。それは売れてるって言わないんじゃないか、とは怖くて言えなかった。


 「夢を見たんだ」


 彼女の入れてくれたコーヒーをすすりながら、僕は今朝見た夢の話を切り出した。


 「菜乃葉の?」


 彼女はブラックコーヒーをたしなみ、口元に淡い微笑をたたえて聞いてくる。


 「……ああ。多分、これで最後」


 「なんでわかるの?」


 彼女が不思議そうな顔をしたので、僕は夢で起きた出来事を大まかに説明した。


 「そうなんだ。菜乃葉が、もういいよって言ったんだ」


 「うん。僕らは夢の中で別れを告げた。だからきっと、菜乃葉はもう現れないよ」


 「この子に会いに来てくれたのかもね」


 里香は大きく突き出たお腹をそっとさすった。この春生まれる女の子。名前は、まだ決めかねている。


 「名前候補、決まった?」


 里香が首をかしげる。けれど僕は、まだその問いに対する答えを用意できていない、と首を横に振る。


 「なくはないんだけど、何か違う気がするんだよね」


 僕が口にした名前を聞いて、目の前に座る彼女もまた考えるそぶりを見せる。


 「確かに、悪くはないけど安直って言うか。もう少し、個性を持たせてあげたいよね……」


 「そうなんだよ。ただ拝借するのも、本人に許可取りたいじゃん?」


 「そこに難あり、だね」


 「まぁ、もう少し考えようか」


 その話はそこでおしまいになって、僕たちは朝食をきれいに食べ終えた。


 「午後はちょっと、出かけようかと思うんだよね」


 「もうすぐ月命日つきめいにちだね」


 やはり彼女は、僕のことをよく分かっている。


 「何かあったら電話して、すぐ駆けつけるから」


 「証梨と一真くん呼べば、すっ飛んでくるでしょ」


 僕たちに続いておととし結婚した2人も、住んでいる家は割と近くですぐに会いに行ける距離に住んでいる。夫婦仲は円満だろうか。一真が証梨にいじめられていないといいけど。


 ***


 車を走らせること5分。シャッターを開けたら、そこが僕の職場だ。店内が太陽の光に満たされ、色とりどりの色彩が僕を出迎える。芳しい香りが空間いっぱいに充満して、朝の訪れを身にしみて感じる。


 「今日はよく晴れてるなぁ」


 1人でいるのに、ついそんな独り言が漏れてしまう。複数人でいたって拾われなさそうなしょうもない独り言も、彼女は見逃さないかもしれない。


 4年前、念願かなってようやく持てた僕の店。店名は「colza」にした。黄色い菜の花を、僕は忘れられていなかったから。けれど、変えることもないと思う。なんとなく、僕が一番好きなフランス語の響きだ。


 一通り水をやって、ある花を数本ラッピングする。この花は、彼女に。店から出てシャッターを閉め、戸締りをしっかり確認し終えてから目的地へさらに車を走らせる。これからあの森へ行く。そこだけ時間が止まったみたいに、都市部の喧騒から切り離された静かな森。彼女の眠る森。


 ***


 「久しぶり、菜乃葉」


 雑巾で墓石を丁寧に拭きながら、僕は退屈してるであろう彼女に話しかけてあげる。


 「君の声を聞かなくなって、もう10年だよ。夢では聞けるんだけど、夢で見た内容って目覚めたらもう忘れちゃうだろ?天国ってどんなとこなんだ?快適?案外そうでもないかもな」


 10年もたつと、あの頃はまだ新品だった墓石もさすがにだいぶくすんできてしまう。だから時々、雨なんかで汚れた墓石を雑巾で拭いてあげたりするのだ。というのはただの口実で、実際は彼女に会いたいだけなんだけど。


 「来月末、女の子が生まれる予定なんだ。君の予想通りだから、賭けは僕の負け。でも、1億円は払えないな。名前、まだ迷ってるんだけど、この花を今日君にあげようと思って、そしたら思いついた気がするんだ。実を言うと、君の名前を借りてそのまま菜乃葉って名付けるのも視野にはいれてたんだけど……。やっぱり、君みたいに自由奔放で騒がしい女の子に育ってもらっても困るからさ。僕はおしとやかな娘が欲しいんだ。……”詩音しおん”なんて、どうかと思うんだ。やっぱり安直かな?でも、花の名前を付けてあげたい」


 墓石の両脇にある筒に、シオンをそれぞれ挿しかえる。もう触れられないほど遠くに行ってしまった君へ、思いを馳せる。


 「花言葉は、”君を忘れない”。君が見た勿忘草の、対になるようで、僕はずっとこの花が気になってた。いざ店を開いて色々調べたら、開花時期は君の命日に近かったよ。運命、みたいだと思ったんだ。君がいなくなってから咲いた花は、”君を忘れない”っていう花言葉を持っている。君に送るのに、ぴったりな花だと思った。だから今日は、この花を君にあげる」


 花に水をやると、シオンの放射状にのびた花びらから水滴がしたたり落ちる。太陽の光を反射して、きらきらと輝く。彼女の笑顔に、似ている。


 「ありがとう」


 彼女の声が聞こえた気がして、とっさに辺りを見回す。すると、僕は見つけた。僕の数歩先、満開の桜の木の下で朗らかに笑う彼女の姿を。


 「私のこと、覚えていてくれてありがとう」


 今朝見た夢の中で、彼女が発した言葉と同じはずなのに。それなのに、その言葉は、僕の胸に美しい菜の花を咲かせ、思わず涙がこぼれる。


 「いい名前だと思うよ、”シオン”」


 瞬きした瞬間、そこに彼女の姿はなかった。代わりに、風の中にあるような、太陽みたいに柔らかい匂いがした。

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