23

 「来てくれないんじゃないかと思ってた」


 3日ぶりに聞いた彼女の声は、細々としていた。


 「ごめんね、旅行行けなくなっちゃって。私が誘ったのに」


 「旅行なんてどうでもいい。ただ、話してくれ。なんで君は突然倒れて、入院してるんだ?」


 真夏の昼下がりは蒸し暑くて、それがより僕を苛立たせたのかもしれなかった。だから、語尾が少し強気の口調になってしまい、彼女を責めるような言い方をしてしまったのであればそれは不本意だ。


 彼女は僕から目を逸らすと、個室の窓のほうへと目をやった。10センチほど開けられた窓から、ふわりと風が舞い込んでカーテンをあおる。


 「若年性アルツハイマー」


 「……え?」


 「それが、私の秘密。私は、アルツハイマーなの」


 僕は彼女の眼を見れなかった。彼女が窓側を向いているのもそうだし、また僕が正しく前を見れなかったというのもある。僕の目の前は真っ暗だった。深い闇のどん底に、底なしの闇に放り込まれたかのような感覚が僕の脳を埋め尽くした。


 「な、何、急に。どうしたんだよ、そんな――」


 「冗談じゃないよ。ホントに、私はアルツハイマーなの。いずれ、自分が誰かも分からなくなる。颯くんが誰かも、分からなくなる」


 「……噓、だよな?」


 「……4年前から決まってた。治らない。アルツハイマーは治らないの。最終的には自分の記憶をすべて手放して、……ただの抜け殻になる」


 その言葉を聞いた瞬間、その直接的な言葉が耳に入った瞬間、僕は急にうまく呼吸ができなくなった。


 「どういうことだよ、そんなの、」


 「アルツハイマーは、発症から5年たてば植物状態になるって言われてる。アルツハイマーだって宣告されてからもう4年。私は、あと1年で……ううん、もっと早いかもしれない」


 「よせよ、こんな悪ふざけ」


 「悪ふざけだったらどんなに良かったか!」


 あぁ、まただ。僕はこのごろ、彼女の泣き顔をよく見る。その顔をさせているのは、このアルツハイマーであり、また僕でもあった。


 「これが冗談だったら、どんなに良かったか…………」


 その綺麗で透明な涙の意味を知った時、僕は過去の彼女の言動にすべて説明がつくことに気が付いた。


 彼女が部活に入らない理由も、初めて言葉を交わした日に「自殺したい」と言った理由も。休日にあった日に僕より早く支度していたはずなのに到着が遅れた理由も、僕が菜乃葉に異性として興味を示さないことが良い理由も。まるでドラマやアニメや漫画のセリフみたいな、胡散臭い意味深なセリフを吐ける理由も、そして、中学時代何をしていたのかと聞かれて言葉に詰まった理由も。


 全部、何もかも説明がついた。そのことに気づいた僕は、たまらず泣き叫びたくなった。


 「何で、言ってくれなかったんだよ」


 「言えないよ。記憶をすぐになくしてしまうなんて。絶対に言えないよ。ホントは、何も言わずに勝手に目の前からいなくなるつもりだった。高校卒業して、君にも、証梨にも何も言わずに、お別れするはずだった。でも、まさかこんなに早く倒れるなんて、思わなくて。沖縄も、きっと修学旅行は行けないだろうなって思って、夏休みに行きたかったのに」


 そうだ。彼女はあの時、言ったんだ。「間に合わないかもしれないから」と。そんな意味だったなんて。電話越しのあの言葉が、ずっと引っかかっていた。それが、そんな悲しくて残酷な意味だったなんて。それを知らずに、僕は……。


 「ごめん。僕、何も知らないで勝手なことばかり言って。菜乃葉はそのたびに、傷ついただろ?ごめん、僕が、馬鹿だった」


 「ちがうよ、私、颯くんに謝ってほしくなんかない。言ったでしょ?”ずっと仲良く”って。約束、守ってくれるよね?」


 「菜乃葉……」


 僕はもう、言うべき言葉が見つからなかった。勉強だって、彼女にやれって言ったって、無理な話だった。彼女は忘れてしまうのだから。それを彼女は、努力して、そして数学で僕を超えるほどのあんな点数を取って見せたのだ。


 言ってくれよ……。言ってくれたら、僕だってあんなに手厳しく勉強を教えるつもりはなかった。


 「言ってくれたら、僕は、もっと……」


 「”病人”みたいに扱ってくれた、って?」


 「…………」


 「それだけは、どうしても嫌だった。だって今颯くんは、私がアルツハイマーだって聞いて、そして私を病人だって認識してるでしょ?」


 「っ……!」


 間違っていなかった。アルツハイマーという具体的な病名を聞いた瞬間、僕は目の前の彼女が、急に病人に見えたのだ。それまでどんなに元気に笑っている彼女を見てきたか分からない。それでも僕の目には、病人というフィルターにかけられた菜乃葉が写っていた。


 「謝るのは、私のほうだよ。言ってなくて、ごめんなさい。ただ、颯くんにだけは、知られたくなかったの」


 僕はもう何も言えなかった。僕はただひたすらに、間違えたのだ。彼女の言動のすべての理由に気が付いて、僕は情けなくてたまらなかった。僕が「好きだ」と伝えた時、彼女はどんな気持ちになったのだろう。彼女は、僕のその無神経な言葉にどれだけ傷ついたことだろう。それを考えるだけで、僕は胸がたまらなく痛くなった。


 「お見舞い、来てくれてありがとね。この前のことがあったから、来てくれないかもって、不安だったんだ」


 「……また、来てもいい?」


 僕に言えるのも、僕にできるのも、それだけだった。


 「……うん!いつでも」


 僕はその日、彼女の笑った顔を初めて見た。けれどやっぱりその顔は、病人の顔だった。

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