24

 「母さん、沖縄旅行の話、あれなくなったから」


 病院から帰ってきて、僕は台所で夕食の用意をしている母親の背中にその旨を伝えた。母親はこちらを振り返ると、残念そうな顔で言う。


 「あら、そうなの。あんたにサータアンダギーとちんすこう買ってきてもらおうと思ってたんだけど」


 「それは修学旅行の時に買ってくるよ」


 ため息交じりにつぶやくと、母親は手の動きを止めて僕の顔をじっと見つめた。


 「その、一緒に行くって言ってた友達、何かあったの?」


 こういうところだけいやに鋭いのが僕の母親だった。僕は驚くとともにうすら寒さすら覚える。


 「……ちょっと、入院することになっちゃったんだ」


 「そう、残念ね」


 母親はまた僕に背を向けて、せっせと手を動かし始めた。残念、で済んだなら、僕のこの気持ちはこんなにも渦巻くことはなかっただろう。


 「あ、そうそう。山形のおじいちゃんから桃届いたわよ。その友達と、あと一真君にも持ってってあげなさい」


 そういえば、一真と菜乃葉は偶然にも同じ病院に入院しているのだった。そういうことなら、と僕も了承する。


 「あぁ。どのくらい持ってけばいい?」


 「そんなのあんたが考えなさいよ。あんたの友達でしょう?」


 言われて、それもそうだな、と納得する。


 「3個ぐらい?」と僕は独り言ちた。母親は何も言わなかった。


 ***


 翌々日。一真の病室を訪ねるべく病院の廊下を歩いていると、ばったり証梨と出くわした。


 「あれ、証梨も面会?」


 「ん?あぁ、うん」


 「菜乃葉、どうだった?」


 僕が何気なく聞くと、彼女は笑って答える。


 「どうって、お前今からお見舞い行くんだろ?それくらいお前の目で確かめて来いよ」


 「ああ、それもそうか」


 「それじゃ、もう行くから」


 「あ、うん」


 やっぱり彼女はせっかちだ。いつも忙しない。もう慣れたけど。


 菜乃葉の病室は、今日も窓が開けられていて心地よい風が個室の殺伐とした雰囲気をわずかながらに和ませていた。


 「あ、颯くん。今日も来てくれたんだ」


 「うん。暇だったから」


 「素直に私に会いたかったって言えばいいのに」


 「うん、そうだね。君に会いたかった」


 告白した後だからか、こんな恥ずかしいセリフが口をついて出てくるようになっていた。柄にもない。彼女はそれに驚いたのか、不意を突かれて顔を赤くした。


 「べ、別に、わざわざ言わなくたっていいんだからね?」


 しどろもどろで早口の言葉を紡ぐ彼女に、僕はクスリと笑ってしまう。自分で言い出したくせに赤面するのだから、面白くて仕方がない。

 ここで僕は、そう言えば、と思い出して、彼女に見舞いの品を手渡した。


 「ん、これ何?」


 「お見舞い」


 「……わぁ、桃だ!」


 彼女は僕から受け取った紙袋の中身を見てそう言った。笑顔がパッと晴れる。


 「ありがとう、私、桃好きなんだぁ」


 “好き”っていう言葉に、僕はぴくりと肩を震わせた。言葉だけでこんななのに、それが僕自身に向けられた意思だったら僕は気でも失ってしまうんじゃないか。


 「ねえ、あれ、ホントなの?」


 すると彼女は少し瞳に真剣な色を宿し、声の調子を変えてそんなことを言った。


 「何が?」


 「……“好き”って」


 彼女は視線を落とした。僕は、言葉に詰まった。何と言おうか迷った。無神経に「好きだ」と再び伝えるか。或いは「冗談だよ」とはぐらかすのか。

 僕はしばらく黙ったままだった。あの日の彼女の涙が忘れられなかったからだ。そして、迷った挙句。


 「…………だよ」


 「え?」


 「“冗談”だよ」


 僕は、僕の心を砕くことを選んだ。


 「冗談、」


 彼女は馬鹿の一つ覚えみたいに同じセリフを繰り返した。


 「あぁ、冗談だ。僕が本気で君を好きになるとでも?いつもあんなに振り回されてるのに。迷惑だと思いこそすれ好きになるだなんて。そんなのはただの勘違いか、一時いっときの気の迷いか」


 これが僕に残された唯一の道だった。彼女がそれを望むなら、僕はそれでいい。隣にさえ、居られればそれでいい。これで彼女の笑顔とか、幸せが守られるなら、僕はそれで良かった。


 彼女は若年性アルツハイマーだ。彼女が僕の切実な思いに涙でしか答えることができなかったのは、そのせいだ。

 僕は彼女の泣いた顔ほど苦手なものはないから、彼女にずっと笑っていて欲しかったから、正しい道を選んだ。彼女が孤独を選ぶなら、僕はその意志に従うしかないのだ。彼女の迷いと決断に、僕の入り込む隙などない。


 「そっか、冗談か」


 彼女は無理やりに笑った。いつになく下手な笑い方だった。君は僕と、同じ気持ちなのか?そう聞きたいと思うほど、言葉は喉の奥につっかえて気管を閉塞する。結局僕はその問いを胸の奥深くにぎゅうっと押し込めて、鍵を掛けた。簡単には外れない。なんせその鍵を、彼女に預けるのだから。


 「僕たちって、“友達”だよな?」


 彼女は、はっと息を飲んでこちらを見た。その瞳に宿る切なさの理由を、僕は見て見ぬフリした。


 「……もちろん。ずーっと“友達”だよ?」


 彼女はにこりと笑った。

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