13

 このところ僕は、ずっと気持ち悪いと思っている。”何が”って、彼女が。


 「この英文の主語は三人称だから、haveはhasになる」


 「あ、そっか。なるほど」


 僕は今まで、見たことがなかった。こんなに素直に勉強に勤しむ彼女を見たことがなかった。だからなんだか、落ち着かないのだ。本来なら彼女が僕の話を素直に聞いて勉強するのはとてもいいことだし、それが理想だ。だけど、実際そんな非現実を目の当たりにしてしまうと、僕はどうしようもない違和感に襲われる。


 「じゃあ、こう?」


 「…………うん、そう」


 「颯くん、今ぼーっとしてたでしょ。ダメだよ、そんなんじゃ。もっと集中して!」


 こんな風に立場がいつもと逆転しているのも、なんだか調子を狂わされる。彼女が素直に机に向かい、英語の教科書と自身の解いた問題とを仔細に見比べているこの状況が、僕にはどうしても受け入れがたいものだった。


 「なんで急に勉強する気になったの?」


 我慢できずに僕がそう尋ねると、彼女は眉をひそめて首をかしげた。


 「ちょっと、私がやる気出してからそういうこと言うのやめてくれない?こっちのモチベーションってもんが下がるでしょうが」


 彼女がこんなことを言ってくるのは、なんとなく予想できていた。けど、


 「僕が君のその言動を予想できないとでも思ってたの?まさか。もちろん君の反応を鑑みた上での選択だ。君がそうやって僕に何かしらのいちゃもんをつけてくること、それを差し置いても僕は気になったんだ。なんで君が、急に机に向かうようになったのか」


 「なんか、言ってることが難しすぎて何言ってるかよくわかんないけど、要するになんで私が急にやる気出したのか、って?」


 彼女の言葉に、僕はぎこちなく頷く。


 「……もったいないと思ったから」


 「“もったいない”?」


 僕が繰り返し尋ねると、彼女は小さく「うん」と言って続ける。


 「時間がね、もったいないと思ったんだ。こうやって、何かから逃避行している時間が。だってさ、人生で勉強する時間って、結構限られてるじゃない?大人になれば時間も余裕もなくなるんだし。それにさ、後悔したくないの。あの時こうしていれば、って。人生の限られた時間を、後悔なんかに使いたくない。だから、今しかやれないことにしっかり向き合わなきゃ、って思った」


 その時だけ、僕は彼女を心の底から尊敬した。だって、その考えは僕でさえも持っていなかったものだから。僕なんて、勉強することは学生の本分でありまた義務だとも思っていた。彼女は、なぜそれが義務なのか、までしっかりと解っていたのだ。悔しいけど、彼女の方が僕より上手だった。


 「ところで颯くん、ここは何で現在形なの?普通、未来のことなんだから現在形じゃなくない?」


 ……やはり、“上手”とは言いすぎたかもしれない。


 「そこ、中学生の範囲だけど。君さ、中学の時勉強してた?」


 呆れながら言うと、彼女は舌をぺろっと出して、冗談めかして言った。


 「高校受験終わってから、全部頭から抜けちゃった!受験は前日一夜漬けだったしね」


 僕は、これみよがしなため息をついた。


 「中学の時どれだけ勉強してなかったんだよ……。部活か何かに熱中してたの?」


 「いや、部活は帰宅部だったよ」


 「……君、中学時代どこで油売ってたんだよ」


 彼女は、——一瞬、言葉につまった。蜘蛛の巣という罠にはまった、蝶々のような。そんな雰囲気。僕は、直感的に感じた。彼女は逃したんだ。僕の詮索から逃れるとっておきの策、「何でもない」と言うタイミングを、逃してしまったんだ、と思った。


 僕は、どれだけ意地悪なんだろう。そのまま捕まえた獲物に手をかけようだなんて思ってしまったのだ。


 「どうしたの、菜乃葉?」


 「……ううん、何でもな」


 「質問に答えてくれる?君は、中学時代、部活でも勉強でもなく何をしていたの?」


 彼女は焦り出した。顔が引き攣っていた。けど、彼女のそんな様子を見ても、僕は僕の嫌な色をした好奇心を抑えることができなかった。その時の僕は、彼女にとって自分を喰らおうとする天敵に変わりなかった。


 僕が正気に戻ったのは、そのわずか数秒後だった。今度は、僕が焦り出したのだ。


 「…………菜乃葉、何で……?」


 なぜか、解らなかった。どうしてか彼女は、その真っ黒な双眸から透き通るような雫を落としたのだ。


 「ご、ごめん。私……なんにも颯くんと向き合えてない」


 何を、言ってるんだ。僕が動揺するなか、彼女は涙を拭おうともせずに続ける。


 「情けなくて、消えちゃいたい。だって、颯くんは気づいてるんでしょう?私が何かを隠してる、って」


 僕は、息を呑んだ。静かな放課後の茜色の教室に、僕らの呼吸音だけが存在している。


 「ごめんね。颯くんはずっと、それが気がかりなんでしょ?でも、でも言えないんだよ。言ったら、私、この当たり前の日常を、日々を失ってしまう」


 「……それは、どういう……?」


 「お願い、聞かないでっ!」


 「…………」


 「ごめん、ごめんね。でもやっぱり言えない。これ以上、私の事情に踏み入ってほしくない。颯くんとは、今まで通り普通の友達として過ごしていたいから」


 ついに直接、言葉で「踏み入るな」と言われた僕は、本来なら、身を引くべきだっただろう。けど、僕の好奇心はそれなりにタチが悪く、簡単に引き下がれないものだった。


 「家族の人は、その秘密を知ってるの?」


 「え?……うん」


 彼女は首を傾げ、すぐ頷いた。そうか、それなら……。


 僕にもまだ、“チャンス”があるんじゃないか。


 「じゃあ、待ってるよ」


 「……なに、を?」


 「菜乃葉が自分から、僕に話すまで。それまで待ってる。家族の人が知ってるってことは、僕もそれくらい、と言ったらおこがましいけど、君にとって無視できない存在になればいい、っていうことだろ?だから、待ってる。君が僕に、打ち明けたいと思うまで。何だか、見ている限りその秘密は、君一人の小さな背中では背負えそうにないものだしね。僕は、君のその荷物を半分請け負うくらいには君にとってそういう存在になってみせるよ」


 ここでようやく、彼女は自分の頰のあたりを擦った。擦った箇所が、赤くなる。


 「……やっぱり、颯くんは頭がおかしいよ」


 今日だけは僕も、その言葉を褒め言葉として受け取ることにしよう。それにこれは、僕なりの贖罪でもあるんだ。彼女の首に手を掛けようとしてしまったこと、その贖罪。


 「ありがとう」


 彼女はそれだけ言って、でももう涙は流さなかった。ただ、その濡れた顔ににっこりと笑顔を浮かべてみせた。

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