31
「バイトすることになった」
「え!颯くんが⁉どこでどこで?」
面接の帰りに病院により彼女にその旨を伝えると、彼女は身を乗り出してその話を聞きたがった。
「君がバイトしたいって言ってたところ」
「え、それってもしかして……」
彼女はテーブルの上に置いていたスマホを手に取り、しばらく画面を操作してからふいに僕に見せた。
「このパンケーキのお店?」
見間違いもなく、その写真のパンケーキは僕が働くことになったカフェのものだ。
「そうだよ。君が言ってたのが気になって、たまたまバイト募集してたから、電話してみたら面接できることになって。今日行ってきた。採用だった」
一息に話し終えてから、僕は彼女の反応を伺った。ずるい!と拗ねるだろうか。はたまた、パンケーキ食べたいなぁ、と僕にねだるのか。それとも、君にバイトなんてできるのぉ?と小ばかにするのか。
僕の予想できる反応と言えばそれくらいのものだった。けれど。
「そっか、よかったじゃん。これで颯くんも大人に一歩近づいたって感じかな?」
彼女はそう言って、笑った。僕は、少し困惑した。この状況で彼女が笑うとは、思っていなかったから。彼女の表情は単なる祝福で、僕をなじるものでもなんでもなくて、それが僕には少し気味悪く思えた。
彼女に素直に「良かったじゃん」と言われることが嫌とかそういうわけではない。ただ、彼女の行動の意外性が、僕をほんの少し狂わせただけだ。そこ、笑うとこじゃないだろ。普段の君ならきっと、そうやって僕を素直に祝福したりはしないはずだ。こんなセリフは、口から一歩も出ることはなかったけれど。少なくともその時僕が対峙していた彼女は、菜乃葉であって菜乃葉ではないように思えた。遠く、かけ離れた存在に思えた。手を伸ばせば触れられる距離のはずなのに、その距離はすごく遠い。まるで初めて会った人間のように、知らない人間のように、遠かった。
「……って、颯くん聞いてる?」
「…………え?」
気が付けば、彼女は僕の顔を覗き込むようにして見ていた。僕が彼女と目線を交わすと、彼女は「バイト頑張ってねって話。君、接客とか向いてなさそうだしさ。私、心配だなぁ」と言って眉尻を下げる。
「……まぁ、努力はするよ」
僕はそれだけ言って、彼女から目を逸らした。なんとなく、目を合わせるのが気まずくなったのだ。
「なんか、今日の颯くん、ヘン」
菜乃葉に言われて、僕は危うく言い返してしまうところだった。それはこっちのセリフだと。君の方こそ様子がおかしいと。
それを彼女に言ったところで、僕らに何の利益があるだろう。そう考えてから、いいや違うだろ、と思う。僕らがこうして関わっているのは、互いの利害のためでも何でもないのに。
何を考えているんだ、僕は。一体何がしたいんだ。何を望んでいるんだ。どうなることを……。
「颯くん、おなか空いてるの?」
不意に彼女に言われて、僕は間抜けな声で「はっ?」と返す。
「おなか、なったよ?ぐうぅって」
……そういえば、今日は何も食べずに家を出てきた気がする。面接の時間を間違えて、朝から遅刻寸前で大騒ぎだったのだ。おなかが鳴るのも無理はない。
「おなか空いてるなら、ちゃんと食べなよ。空腹だから今日の颯くんヘンなんだよ、多分」
それはどういう理論なんだろう。聞こうかとも思ったけど、聞くほどのことでもないし、彼女のことだからどうせ大した意味もない発言だろうと、僕はそれについて言及することを放棄した。
「……今日はもう帰るよ。腹ペコで思考力が低下しているみたいだ」
「うん。帰ってご飯いっぱい食べなよ」
僕は席を立ちあがって、彼女に背を向ける。その声質も、今日はなぜだか落ち着かない。いつもの彼女のそれとは少し違っている。何が違う、とかいうのが全く説明できないのが歯がゆいけれど、あるいはそれもこれも全部僕の思い違いというだけかもしれないけれど、でも僕は、彼女の振る舞いに何かしらの含みがある気がしてならなかった。
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