4
***
高校2年になった春。4月下旬のこと。僕は屋上で空を見上げていた。曇天だった。屋上は昼休みの喧騒から隔離されていて、僕は心地よく眠りについてしまいそうだった。
彼女が、来るまでは。
ガチャリ、と音がして、僕は驚いた。最初は先生が来たのかとも思ったのだが、屋上のドアの影から覗く女子生徒のスカートを見て、それは違うと判断した。
「……あれ、藤崎くん」
でも、僕が驚いたのに変わりはなかった。少なくとも僕の認識内では、彼女は昼休みの屋上とは縁遠い人物だったからだ。
「いつも教室で見かけなかったけど……そっか、昼休みはここにいたんだね」
彼女は納得したような顔をするけれど、僕は何一つ状況を飲み込めていなかった。
クラスの人と積極的に関わったりはしない僕だが、それなりにクラスメイトの顔と名前は一致させるようにはしていた。が、たとえ僕のその努力がなくとも、彼女の名前はしっかりと記憶していただろう。
彼女のことを知らない人など、うちのクラスにはいない。
「どうしてここに?」
彼女が聞いてきた。答える義理もないけど、答えない理由も見つからなかったので、僕は答えた。
「……落ち着くんだ、静かで。昼休みに教室にいる必要性は無いしね」
「そっかぁ、うんうん、たしかに静かだね。……あっ、ごめんね!邪魔だったよね、私。やっぱり帰る……」
それは違うだろ。僕は思った。僕に屋上の占有権があるわけでもなく、また彼女が気を使う必要もない。
だから、声に出した。
「蒼城さんは、なんで屋上に来たの?」
屋上のドアノブに手をかけていた彼女は、こちらを見た。すると、何も言わずにまたこちらにやってきて、僕の隣、屋上の寂れたフェンスに手をのせてそっと下を見下ろした。この屋上は3階の上だから、かなり落差があるはずだ。
彼女は、迷っているようだった。いや、実際は分からないが、僕はそう感じた。僕は見逃さなかった。彼女の唇が、動くか動くまいかという感情に震えているのを。
やがてその唇が一瞬止まり、次いでそっと小さく開いた。
「……自殺にちょうどいい場所を、探してるの」
「…………は?」
彼女の口からするりと抜け出したとんでもない言葉に、僕の頭は真っ白になった。普通に生きていれば、絶対に意識しない言葉。自殺なんて言葉、どこで間違えれば口にするのか。
困惑する僕とは対照に、当の本人は口元に淡い微笑まで浮かべている。
「屋上から飛び降り自殺、よく聞くじゃない?だから、来てみたんだけど…………でも、やっぱりダメ。私、そういえば高いところ苦手だった。絶対飛び降りれないと思う。うーん……飛び降りが無理なら、何がいいかな。海に身投げもあんまり変わり映えしないしなあ。……ねえ藤崎くん。自殺するならどんな方法が無難だと思う?」
あろうことか、彼女はそう言って、口の中で飴玉を転がすようにコロコロ笑うのだ。
僕は、信じられなかった。明るくて、元気で、おまけに顔もいい。彼氏もきっといるだろうという彼女が、自殺願望を抱いているなんて。
というか、自殺の方法に無難も何もあるわけがないだろう。死ぬんだから。
「意外だった?そんな顔してるもん」
「えっと…………嘘、だよね?」
「ん、何が?」
何が、ってわざわざ聞くところが鼻につく。分かるだろ、この状況で何が嘘かなんて。
「自殺したいって。いやまさか、君が。……いや、嘘だよね。もし本当に自殺したいのなら、わざわざ僕には言わないはずだ」
赤の他人なんだから。とは、言わなかったけど。彼女は一瞬真剣な表情を見せたが、またすぐに表情を変えた。
彼女はおかしい。自殺したいって、笑いながらする話じゃない。せめて嘘をつくなら、もっと切羽つまったような顔をしてくれよ。
「あはは、たしかに!もうすぐ自殺する人間は、他の人に自殺する、なんて言わないか。それじゃあまるで、助けてほしいみたいだ」
僕はほっと一息ついた。その反面、自殺したいなんていうのは彼女の悪趣味なイタズラだったんだと、彼女にしてやられたという悔しさが体の中を対流し始める。
「藤崎くんだからつい、言っちゃったの。自殺したいなんて。ほら、私たち、ちゃんと話したの今日が初めてでしょ?だからつい。ごめんね?困らせちゃって」
この人は、ほぼ初対面の人に非人道的なイタズラを仕掛けるのが好きなんだろうか。だとしたら、相当迷惑だ。
「藤崎くんって……下の名前、何だっけ?」
急に聞かれたが、僕は何を思うこともなくさらりと答えた。
「……颯」
「へぇ、いいね。かっこいい名前」
彼女は、もう一度僕の名前を繰り返して微笑んだ。
「……“颯”。……あ、ねえねえ、私の下の名前知ってる?」
突然の抜き打ちテストに、僕は意表をつかれる。この時、僕は僕の致命的な弱点に気づいたのだ。
クラスメイトの名前、苗字しか覚えてない。
でも、彼女の名前は、ぼんやりとした輪郭だけは頭の隅に埃をかぶって眠っていた。最初に聞いた時、たしか僕は、花みたいな名前だと思ったんだ。そして、彼女の雰囲気によく似合う、とも思ったんだ。清楚で可憐?まさか。明るくて、快活。
「えっと……蒼城、な…………」
「お?分かるの、分からないの?」
「な……んとかさん」
ダメだ。
「もう、やっぱり分からないんじゃん!いい?私の名前は蒼城菜乃葉。野菜の“菜”に、乃は……普通の“乃”で、葉は葉っぱの“葉”!覚えた?」
あぁ、そうだ。僕は最初にこの名前を聞いたとき、菜の花みたいだと思ったんだ。そしてそれは、明るい性格の彼女にぴったりな名前だと、思ったんだ。
「菜の花はね、明るいとか、快活とかいう花言葉なの。どう?私にぴったりだと思わない?」
僕は、特に何も言わなかった。
「もう、無視しないでよ。友達に嫌われるよ」
これに対しては、僕は彼女に言わなければいけないことがある。
「友達も何も、僕にはそう呼べる人はいないな」
「えっ、そんな、嘘だ!友達いなかったら生きていけないよ!」
「君がそう思い込んでいるだけじゃない?友達なんて案外いない方が楽だよ。友達を作ることに価値があるんだったらいくらでも作るけど、少なくとも僕は必要性を感じない。……まぁ、君には理解できない価値観だとは思うけど」
いつも明るく、人に囲まれる人間である彼女にとって、僕のその意見はどんなに衝撃的なものだっただろう。
「……それじゃあ、私が友達になる」
「……え?」
何て?
「私が、藤崎くんの初めての友達になる。てことで、いいよね?」
なぜそうなる。
「ちょっと待って、話についていけないんだけど。僕は今、友達はいらないって言ったんだよ?」
「もう決めたの。異論は認めません!」
何だよ、それ。
まるで、アイツみたいだ。
「あ、昼休み終わっちゃう。次の授業、確か数学だよね?行こう、“颯くん”」
僕は、思わず彼女の顔を見てしまった。彼女は、菜の花が咲くかに似た笑顔を見せた。そして、ふわふわと軽やかな足取りで屋上を後にしてしまう。
置いていかれた僕は、彼女の意見に反対する余地もなかった。
***
ともかく、僕と彼女の縁の始まりはそんなだった。どういうわけか、彼女は僕の「友達第一号(仮)」となっている。その日から、もう2ヶ月が経っていた。
彼女はというと、なぜか僕と同じ国語係になると言い出して、今は担当教師に一緒にノートを提出してきて、教室に帰ってきたところだ。彼女は先ほど放課後の寄り道を僕に断られてヘソを曲げているかと思いきや、何事もなかったかのように僕にあれこれ話しかけてくる。内容は、どれもくだらないものだった。その度に僕は、内心ではため息をつきながら、「へぇ」とか「そうなんだ」とか返してあげるのだ。……僕も相当な骨折りだ。
僕は、今のところ何も反論はしていない。いや、正確にはしているのだけど、全て彼女に蹴り倒されてあえなく撃沈するのだ。僕の抵抗など彼女にとっては虫の囁き程度で、全く通用しない。僕はこの2ヶ月で、身をもって学習した。彼女に何を言っても無駄。彼女は、やると決めたらやる人だ。虫は虫でも、僕はまぁ、それなりに学習できる虫である。
「もう7月だねー」
のんびりとした口調で彼女が言うのを聞いて、いつのまにか梅雨が明けていたことに気づく。蝉がやかましいのは、きっと僕を揶揄するためだけではないのだろう。
「だんだん暑くなるな」
僕が言うと、彼女はこちらを見て、
「や、もうすでに暑いよ。私、暑がりだからなぁ。でも、夏って好き。汗がキラキラ眩しく光る!夏はやっぱり青春、て感じだよね」
なんて、小学生みたいなことを言った。僕は半ば呆れつつ返す。
「暑がりなのに夏が好きなんだ」
「当たり前じゃない!夏は暑い〜って言いながら汗を流すのがいいんだよ」
結局どっちなんだ。と思ったけど言わなかった。
ちなみに僕は、冬の方が好きだ。夏は隣の彼女みたいに、血気盛んになる人が多くて嫌になる。暑苦しい、やかましい。やかましいのは、もちろん蝉も例外ではない。
僕はその日、授業が終わり次第すぐに学校を後にした。放課後まで彼女に捕まったら、僕の安息は失われてしまう。
だからその日、彼女が僕とどこへ行きたかったのかは分からなかった。
それも「その日」だけの話なんだけど。
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