§3

「ナディアさん、どうしたの? 最近、顔色良くないね?」

「えっ? え、えぇ……ちょっと疲れ気味なのかしら」

「無理しちゃダメだよ? 今日はお客も少ないし、どうだい、早めに帰って休んだら?」

 双子がナディアの元に着いてから、一ヶ月あまりが経過していた。パン屋の店主であるチェスターは彼女の不調に気付いて、自宅で休息を摂る事を勧めた。しかし彼女は逆に顔を青くし、ぶんぶんと首を横に振って、その申し出を丁重に断っていた。

「……大丈夫、少しだけ休憩を頂けば、回復できますから」

「しかしねぇ……」

 首を傾げながら、頑として早退しようとしないナディアを眺め見るチェスターは『あんなに真面目に働いて……』と感心していたようだが、実は彼女が帰宅を拒むのには理由があった。そう、家に帰れば、あの悪魔のような双子が待っている……そう思うと、帰りたくない、少しでも長くお店に居たい……そう考えてしまうのだった。

 彼女が少しずつ蓄えていたお金は、双子に見付かって遣われてしまう事の無いよう、常に肌身離さず持ち歩いていた。財布を小屋の中の隠し場所から、双子に見付からずに持ち出せた……それだけが彼女にとっての救いであった。

(あの家には、アルバート様の魂が眠っている……しかし、あそこに戻れば、あの二人が……あぁ、どうしたら……)

 ナディアはあの双子と再会して以来、小屋を放棄して、蓄えたお金をはたいてアパートを借り、そこに移住しようかと何度も考えた。だが今まで、可能でありながらそうしなかった理由を振り返ると、なかなか実行に移せないでいたのだ。そして今日もまた、その自問自答を繰り返し、心の中で二人の自分が戦っているのを感じていた。

 帰らなければ後が怖い、しかし帰りたくは無い……だが、あの場所には、愛するアルバートが眠っている……その葛藤は、ただでさえ疲れ気味であった彼女を益々疲れさせ、誰が見ても『調子が良さそうだ』とは言えないであろう、そんな雰囲気を醸し出していた。

「……さん? ナディアさん!?」

「……!! はっ、はい!?」

「大丈夫かい、半分気絶してるような顔だったよ?」

「す、すみません……少し、考え事を……」

 ナディアが明らかに尋常ではない悩みを抱えている事を見破ったチェスターは、思い切って彼女に問い質した。

「ナディアさん、困った事があるのなら、話を聞くよ?」

「……!!」

 チェスターの申し出に、ナディアの心は思わずグラリと揺れた。そうだ、あの子達は屋敷に火を放ち、多くの命を奪った罪人……その気になれば、警察に突き出してしまう事も出来る。一人では勇気が出ないが、彼が居れば……そう考えたのだった。しかし彼女はアルバートに対する想いから、その選択をグッと堪えた。その代わり……

「……何でもないんです、何でも……ただ、一つだけ甘える事が出来るのなら……」

「お? 何だい、遠慮なく言ってごらん?」

「……お願いです、一晩……一晩だけでいいです。マスターのお家の玄関先で構いませんから……そこで寝かせてくださいませんか?」

「……!?」

 真剣な眼差しで訴えてくるナディアを、チェスターは目を白黒させながら何度も見詰め直した。

「ナディアさん、そうするのは一向に構わない。玄関だなんて言わず、なんならベッドに寝てくれても構わないんだよ? どうせ私は独り身。ベッドをナディアさんに譲って、自分はソファで寝ても構わないんだからね。しかし……」

 チェスターは40代になったばかりの、言うなればナイスミドルであった。容姿は決して悪くなく、むしろ美男子の部類に入る方だ。が、どういう訳か独身を貫いて……いや、本人の意思に反して、独身生活が続いてしまっていたのだ。そんな男の自宅に『泊めてくれ』と申し出る、これまた美人で、且つ独身のミドルエイジ。これは只事ではない。彼にとっては大事件である。彼は慌てた内心を必死に隠し、平静を装って言葉を続けた。

「……せめて、訳を聞かせてはくれないかな?」

「そ、それは……」

 全容を話せば、正義感の強いチェスターの事。即座に双子を警察に突き出し、ナディアに自由を取り戻してくれる事だろう。だが、あの双子は愛するアルバートとの間に出来た子供である事に違いは無い。それを考えると、つい、その結末が訪れる事を恐れてしまう。しかし、もはや黙っているわけにも行かず、ナディアは所々をぼかして彼に理由を打ち明け始めた。

「……昔、ある男性との間に子供が出来て……その頃私は、あるお屋敷のメイドとして、住み込みで働いていたんです。当時は、その子達とも仲良く暮らしていたんです。けれど、先の大火事で生き別れになって……」

「なっ……ナディアさん、子供が居たの!?」

 チェスターは、驚愕の色を隠せないまま呆然としていた。『屋敷』『火事』というキーワードは耳をスルーして、その言葉だけが頭に残ったようであった。だが、そんな彼の反応を無視して、ナディアは続けた。

「……その子達が……あ、子供は双子の女の子なんですが……最近になってふらりと、お屋敷の焼け跡に帰ってきて……そこで再会したんです。で、二人を養いながらの生活が始まったのですが、彼女たちはどこかで、贅沢を覚えてきたようで……」

「ははぁん。それで、我が儘を言ってナディアさんを困らせているんだね?」

「ええ……その我が儘ぶりに、私も少し……参ってしまって……ほんの一時でいいから、ゆっくりと眠りたくて、それで……」

 その返答を聞くや否や、パンと膝頭を叩き、チェスターは勢い良く立ち上がった。

「よぉし、そんな我が儘娘は、俺が性根を叩き直してやる!」

「ま、待って!! それが出来るなら、とっくに何とかしているんです……でも故あってそれが出来ないので、困っているのです……」

「だから、その『ワケ』ってのは、何なんだい?」

「…………」

 ここから先は、事の真相に触れてしまう可能性があったので、流石に言い淀んだナディアだったが……ここまで暴露したのだから、もはや全てを明かしても同じ事……と覚悟を決め、彼女達の出生の秘密をチェスターに話して聞かせる事にした。

「驚かずに……そして、他言無用でお願いします……私が嘗て愛した男性とは……彼女達の父親とは……」

「父親とは?」

「……アルバート・クロムウェル」

「……!? じゃあ、何かい!? ナディアさんは、あのお屋敷のご主人の愛人で、その……まだ、旦那さんの事を?」

 改めて驚愕に染まるチェスターの顔を見ながら、ナディアは小さく頷いた。そして、その意外な過去に驚きながらも、なるほど、道理で物乞いにしては品が良すぎると思った……と、チェスターは彼女と初めて会った日の事を回想していた。

「なぁるほど……隠し子とはいえ、旦那と血が繋がっている嬢ちゃん達の方が格上。だから、ナディアさんは言いなりに?」

「ええ……」

 この先を、根掘り葉掘り聞き出すのは野暮という物だろうと判断したチェスターは、既に亡きアルバートに未だに操を立てるナディアに対して諭したい気持ちを抑えつつ、暫し考え込んだ。が、その後、勢い良く立ち上がり、その懇願を快諾していた。

「分かった! もう、事情は詮索しない。俺の家でよかったら、幾らでも骨休めに使ってくれていいよ!」

「マスター……恩に着ます」

「気にしないで……も、もし良かったら、ずっと住み着いてくれたって、いいんだぜ?」

「そ、それは……流石に……」

 アルバートという内縁の夫に対し未だに操を立てる彼女も、やはりまだ『女性』としての本能は枯れてはいなかった。自らの相手としては適齢といえるチェスターを前にして、思わず頬を染めた。

「……今日はもう、客も来ないだろう……看板を下げて、店じまいにしようか?」

「そうですね……」

 僅かに売れ残ったパンをバスケットに収め、それを今夜の夕食にしようと話し合いながら、二人は店の戸締りをして、チェスターの自宅に向かった。ナディアとしては、アルバート以外の男性と夜を共にするのは初めてだったためか、些かの緊張を隠せなかった。尤も、それはチェスターとて同様だったのだが……

(アルバート様……ひと時の休息を、お許しください)

 彼女は、空の上のアルバートに向かって、密かに詫びの意味を込めて十字を切っていた。

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