§5
「ねぇ、ラティーシャ。いちいちメイヤーの手を握るの、やめてよ」
「……!?」
唐突に言い渡されたその一言に、ラティーシャは狼狽した。問答の相手はテルシェ。どうやら彼女はラティーシャがメイヤーとのコミュニケーションの手段として用いている、指文字のサインを送る際の『手を握る』という行為が気に入らないらしい。
しかし、やめろと言われても困る。あれは自分にとって、皆が言葉を喋るのと同等の行為であり、コミュニケーション手段の一つ。単なるスキンシップだと思っているのなら、それは誤解だ――ラティーシャはテルシェにそれを伝えようとしたが、生憎その日に限って、携帯している万年筆のインクが切れていた。
「なんか答えなよ。無視されんの嫌いなんだよ、ぼくは!」
テルシェは一人で苛立ちを爆発させていた。その間にも、ラティーシャは万年筆を振ったり、先端に息を吹きかけたりして、何とかその機能の回復に努めようとしていた。が、どうにも事態は好転しなかった。
「ほんっと、イライラするよ……メイヤーもメイヤーだよ、こんな話もロクにできない奴、拾ってくるなんてさ!」
やがて苛立ちがピークに達したのか、テルシェは必死に万年筆と格闘するラティーシャを制止して、強引な二者択一を迫った。
「わかったよラティーシャ、じゃあこれにだけ応えて。もうメイヤーと手を繋がないって約束して。OK?」
それは、ラティーシャにとって無理な要求であった。重要なコミュニケーションの手段を、ヤキモチの為に封じられたのでは堪らない。流石にこれを了解する訳には行かないと、彼女は目を伏せて首を横に振った。が、それを不服と捉えたテルシェは、表情を強張らせた。
「もう一度言うよ? メイヤーと手を繋がないで。OK!?」
同じ質問を、テルシェはやや語気を荒げて繰り返した。しかし、ラティーシャの回答も変わらなかった。その反応を受けて、ついに怒りが頂点に達したテルシェは、ラティーシャの襟首を掴んで威嚇を開始した。
「手ぇ、繋ぐなって言ってんの……わかった?」
それでもなお、否定のジェスチャーを続けるラティーシャを、テルシェは今度は床に叩きつけるように横転させ、その横顔を靴で踏みつけながら、4度目の質問を……いや、極めて脅迫に近いニュアンスに変わった、一方的な要求を行っていた。
「……やめる?」
顔を踏みつけられ、目に涙を溜めながらも、ラティーシャはその意志を曲げなかった。そんな彼女を見て、テルシェは一層腹を立てていた。
「……くっ……コイツ!」
「いやぁ、思ったより強情なんだねぇ、アンタさぁ」
今までの経緯をやや後方から見ていたリディアが、ついにテルシェに加勢してきた。
「私達をここまで舐めてくれた根性は認めるよ。けど、根性が立派ってだけじゃ、私達へのスジは通らないんだなぁ」
「……!!」
筋違いな事を言っているのはそっちだ、と……滅多に怒りの感情を出さないラティーシャが、ついにその意思を爆発させた。彼女は、自分の顔を踏みつけているテルシェの足を掴み、強烈に念じた。
『いい加減にして!!』
「……!? リディア、何か言った?」
「え? なに言ってんの、テルシェ?」
テルシェは何者かに話し掛けられた気がして、思わずその場に居る中で、唯一言葉でコミュニケーションの取れる相手であるリディアに、おかしな質問をした。しかし、当のリディアはラティーシャに向かって啖呵を切っている真っ最中で、テルシェに話し掛けた覚えなど無かった。
『いい加減にしてって言ってるの! 早く足をどけてよ!』
「いっ!? ま、まさか……!?」
コイツが言ったのか!? と、テルシェはギョッとして足の下の顔を見た。と、そこには、今までに見たどんな相手のそれよりも、凄まじい怒りの感情をむき出しにした目線で自分を睨んでいる、ラティーシャの顔があった。
次の瞬間、ラティーシャは自分の顔の上に乗っている障害物をどかそうと、両手でテルシェの足首を掴み、あらん限りの力を込めて前方に押し返した。その行為により、軸足のバランスを失ったテルシェは、加重の殆どを強引に後方に移動させられ、ほぼそのままの格好で背中から床に叩きつけられていた。
「コイツ! 今しゃべった!!」
「は!? 何を言ってるのテルシェ?」
「ホントだって! 確かに『足をどけろ』って!!」
テルシェは驚きのあまり、ラティーシャを指差しながら、聞こえるはずの無い台詞を繰り返した。だが、リディアは訳が分からんといった風な感じで、尻餅をついたままの格好のテルシェを見下ろしていた。
やがて、頬に擦り傷と痣を付けられたラティーシャがゆっくりと立ち上がり、一連の有様に付いて来れないリディアを一瞥したあと、未だに倒れたままの格好のテルシェに手を差し伸べた。が、テルシェはその手を払いのけ、自力で立ち上がって、なおもラティーシャを睨み返していた。
また、ラティーシャも、いま自分が念じた事を、どうしてテルシェが口に出しているんだ? という事を不思議に思っていた。このとき彼女は、所謂『テレパシー』に覚醒していたのだが、本人もまだそれを自覚していなかったのである。
「そ、空耳だった……? いや、確かに聞こえた! しかも『足をどけろ』って、ぼくに……『命令』した!!」
「その空耳はともかく、これは……かなりのお仕置きが必要みたいだね!」
しまった、これでますます相手を怒らせた……と、更にまずい状況を自ら作り出してしまった事に気が付いて、ラティーシャは慌てた。しかも今度はリディアも戦闘体制を整え、状況は2対1。助けを呼ぼうにも、自分は悲鳴を上げられない。この状況を打破するには、とにかく相手を宥めるしかないだろう……それは分かっているが、急には良い手段が思い浮かばなかった。テレパシーは自覚していないし、それ以前に今、目の前の相手が手を繋いでくれるなんて、夢にも思えない。しかも、更に悪い事に、今や相手の怒りの論点はすっかり入れ替わって、二人とも自分を標的として狙っている……が、意外なところで隙が出来た。
「空耳じゃないよっ! 確かに聞こえたんだ! リディアのじゃない、聞き覚えの無い声が!」
「だから、私には何も聞こえなかったんだって!」
テルシェが『聞こえた』と言い張る声を、リディアは『聞こえなかった』と否定し、二人は言い争いを始めてしまったのだ。逃げるなら今だ……が、今ここで逃れても、一人きりになった所を狙われれば、きっとまた同じことの繰り返しが待っている。何とかして、この機会に手を打っておかなくては、状況はいつまで経っても好転しないだろう。そう思ったラティーシャは、咄嗟にインク切れで書けない状態の万年筆を取り出し、キャップを外して自分の目の前にそれを構えた。
「……!!」
キラリと光るその先端を武器にして立ち向かうつもりかと、テルシェとリディアは思わず身構えた。が、何とラティーシャはその先端を、自らの左手に付き立てたのだった。ペン先の突き刺さった手の甲からは、ジワジワと血が滴り落ちる。一体何を考えているんだ……? と見守る二人の目の前で、ラティーシャは更に意外な行動に出ていた。
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