§6
『テルシェ、さっきは手荒な真似をして、ごめんなさい』
ラティーシャは、自らの血を、左手の傷口から抜き取った万年筆のペン先に付けて、メモ帳に字を書いていたのだ。
『私は、こうして紙か、相手の手に直接字を書かないと、意思を伝えられません』
『お願いです、私から意思伝達の手段を奪わないで』
『私はメイヤーに特別な感情は持っていません。掌に字を書いているだけです、あれは会話なのです』
『だから勘弁して』
相当痛いのだろう。ブルブルと震えながら、ラティーシャは必死に、且つ正直に自らの言い分を伝えた。テルシェたちは互いに顔を見合わせ、些か困惑したような表情を一瞬見せた後、再びラティーシャの方に向き直った。そして……
「ハァ……何だか毒気抜かれちゃったよ」
「……本当だろうね? この、メイヤーを何とも思ってないってトコ」
コクコクと、ラティーシャは首を縦に振って肯定の意思を見せた。
「ふん。ぼくに命令したり、転ばせたりしたのは気に入らないけど……貸しにしといてやる。そのかわり!」
キッと目線をきつくして、ギロリとラティーシャの目を睨んだまま、テルシェは彼女に『命令』していた。
「その頬と左手の傷、ぼく達の所為にするなよ!」
「今日のところは、その必死なアクションに免じて、引いてやる。次は容赦しないからね」
ほうっと、ラティーシャの顔に安堵の色が戻った。そして、テルシェ達が退出すると、気が抜けたのか……スウッと血の気が引き、ガクッと膝を折ってその場に倒れ、そのまま気を失った。彼女が通りすがったメイドに見つけられ、手当てを受け、意識を取り戻したのは、生まれて初めてのケンカを体験した瞬間から、数時間が経過した後の事だった。
なお、事件の真相を秘匿しろと命じたテルシェとリディアであったが、ラティーシャの手元に残った血染めの万年筆とメモ帳、そしてメモの内容からアッサリと全容を看破され、しかるべき処置を施されたという。が、それが彼女達にとって痛手となったかどうかを問えば、答えは『否』であった。
********
数日後の夕刻、ラティーシャの左手の傷痕を気遣ったメイヤーが、彼女の私室に見舞いに来た。
「ラティーシャ、具合はどうかな?」
「…………」
ラティーシャに声を掛けた後、メイヤーは彼女からの回答を貰うために手を差し出した。そして彼は、いつものように手に書かれる文字を一文字ずつ読み取っていたが、その時、ある事に気付いた。彼女が全ての文字を書き終わらぬうちに、何を言いたいのか全て理解してしまったのである。
「『痛みは和らいだが、今度は傷口の周りの痒みが気になるようになった』……かな?」
「……!?」
台詞を全て暗誦したメイヤーも驚いていたが、それよりも驚いていたのはラティーシャ自身だった。
「ラティーシャ。今度は指を使わず、手を添えるだけにして、何を言いたいか考えてごらん?」
「…………」
コクリと頷いたラティーシャは、メイヤーに言われた通り、手を添えるだけにして、万年筆で左手を貫いた経緯を念じてみた。
「……何、あの時頬に付いていた痣は、転んだ拍子に付いたものではなく、テルシェに踏みつけられたために出来た……だって?」
「……!」
ラティーシャは試しに、あの時起きた事の一部始終を思い起こして念じてみた。すると、それが見事に、全てメイヤーに伝わったのである。
(そういえばあの時、テルシェの足を掴みながら『足をどけて』と念じたら、それは彼女にだけ伝わって、リディアは聞こえなかったと否定した……そうか、そういう事だったんだ!)
ラティーシャはこの時点で漸く、自らにテレパシー能力が備わった事を自覚したのだった。手を握ったままの格好だったので、彼女は今気付いたその事実も、メイヤーに向けて強く念じた。
「……ふむ、なるほど。こうして身体の一部分に直に触れていないと、思考を伝えられない……と。そういう事だね?」
コクコクと頷いて、ラティーシャは笑顔を見せた。ここまでスムーズに意思疎通が出来たのは初めてなので、かなり嬉しかったのだろう。
「しかし驚いたな……何かの本で、超能力というものがあるという事は読んだ事があるのだが。まさか、それを実際に体験する事が出来るようになるとはね……間違いない、これは『テレパシー』という超能力だ」
メイヤーは複雑そうな顔をしていた。言葉が耳からではなく、直接頭脳に伝わってくるような、妙な感覚。こんな体験は初めてだったからである。
「じゃあ、僕が考えている事を、当てる事は出来るのかな?」
「…………」
「……そうか、分かった」
ラティーシャはそれを試してみたが、相手の思考を読み取る事は出来ないようだった。だが、むしろその方が都合は良かった。いちいち相手の思考まで読み取ってしまったのでは、知りたくない事まで知ってしまう恐れがあったからである。
「この力、僕以外にも有効なのかな?」
『テルシェに伝わったのは確かです。ただ、あの時はこんな能力の事なんて意識してなくて。足をどかして欲しくて、夢中で念じていただけなんですけど』
「テルシェのやった事に関しては別途考えるとして……ふむ。取り敢えず相手を選ばず、誰が相手でも使える可能性があることは分かった。これで少しは、やり取りが楽になるんじゃないかな?」
『だといいですけど……何せ、こうして手を繋がせて貰えないと、使えないみたいですから……』
苦笑いを浮かべつつも、ラティーシャは今までの意思疎通の範囲の狭さを考えれば、飛躍的な進歩だと喜んでいた。
「そうそう、君にいいものをあげよう。小型だが、とても大きな音の出る笛だ。今度から、何かあったらそれを吹いて、助けを呼ぶといい」
『嬉しい……ありがとうございます。これなら人気の無い所でも助けを呼べますね』
「そういう事だ。この間の件も、君が悲鳴を上げられれば防げた事。こうなる前に対策しなかった、僕のミスだ」
そう言ってメイヤーは、紐のついた小さな警笛を、ラティーシャの首に掛けてやった。
(そんな事ない、決してメイヤーの所為なんかではないのに……本当に優しい人)
と、そこまで考えたところで、ラティーシャはハッとして思考を止めた。理由は分からなかったが、今の思考をメイヤーに知られるのはまずい気がしたからだ。が、幸いにして、メイヤーの両手は警笛を提げるための動作を行うため、彼女の体には触れていなかったので、今の思考は『独り言』となった。その時ラティーシャの頬は、仄かな桜色に染まっていた。
「ただし、悪戯で吹いてはいけないよ?」
『そんな事、しません』
最後に冗談めかした会話を交わし、二人は楽しげに笑いあった。ラティーシャは、ああ、これが談笑というものかと、初めての体験に胸を躍らせていた。
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