§8

 その後のことは、彼女は良く覚えていなかった。気が付くと医務室のベッドに横になっており、隣ではアリスが血だらけになった脚を、医師に手当てしてもらっている最中だった。

「君の言った通り、テルシェとリディアだったよ。大きな鋏で、アリスの脚を刺していた。捕らえようとしたところで、窓から飛び降りて逃げてしまったが……しかし、あと一歩遅れていたら、彼女は危なかっただろう」

『私が見たのは、自分を弄んでニヤニヤしているテルシェたちと、そんな自分を庇おうと彼女達に立ち向かって行ったアリスの姿でした。掴み合いになった後、テルシェの手から逃れ、一目散に逃げ出し……そして私たちの姿を見つけて、そこに駆け寄っていく。そんな様子でした』

 何故か数秒の間、猫の目線になっていた自分の意識を不思議に思いながら、ラティーシャは回想した。意識を失った後の記憶がスッポリと抜けて、気が付いたら手当てを受けてここに寝かされていた、という事実を付け加えて。

「猫の見た映像を、そのまま見た……という事かな?」

『だと思います。そうでなければ、私が私自身の胸に飛び込んでいくビジョンなど、見ようがありませんし……』

 その回答を聞いて、メイヤーは暫く考え込んでいた。が、低く短い唸りのような声を上げた彼は、無言のまま医務室を退出していった。

「メイヤー……?」

 裁ち鋏を突き立てられた脚の傷を縫合してもらっている最中のアリスが、朦朧とした意識の中で彼の姿を追った。ラティーシャも同様に彼の姿を目で追っていたが、その時の彼女の思考を読み取った者は存在しなかった。その瞬間、彼女に触れていた人物が、一人も居なかったからである。


********


「メイス様。『少女館』の顧客は、代価を払える者であれば誰でも構わない……というのが大前提でしたね?」

「どうしたメイヤー、今更そんな事をおさらいしてどうする?」

 その回答を聞いて、メイヤーはニヤリと笑みを浮かべた。

「ラティーシャ・クリフォードなる少女を、このメイヤーが顧客として購入いたします」

 大きなざわめきが館内を覆いつくす。そして主であるメイスは、意外すぎる展開に思考が追随しきれず、一瞬ではあったが、その意思が肉体の制御を放棄したほどだ。しかし、流石は名門クリフォード家の主。程なくして彼は自我を取り戻し、メイヤーを正面に置き、会話を再開させた。

「……目的は?」

「助手として働いてもらう為です。そのためには、当館の商品という看板を背負ったままでは都合が悪いので」

「本気かね?」

「至って本気です、メイス様」

 その会話が為されている間、商談の対象となっていたラティーシャは、やはり事態を飲み込めず、呆然としていた。が、彼女はやがて、立場も、自分の今置かれている状況もすっかり忘れて、メイスの目前で会話を続けているメイヤーに駆け寄り、その手をギュッと握り締めて念じた。

『め、め、め、メイヤー! 聞いてませんよ、何なんですかこの展開は!?』

「おや、私の助手では不満かな? 給料は言い値で出すぞ」

『そういう事ではありません!』

「では、どういう事なのかな?」

 分かっていて言っているのか、それとも気付いていないのか……ここで貴方に買い取られるという事は……それはつまり……

『一生……貴方の傍にいるって事になるんですけど、分かってます?』

「……? 無論そのつもりだ、何か問題があるのかな?」

『でっ、ですから……』

 ここでメイヤーは、漸くラティーシャの頬に朱が差している様子に気付いた。しかし、その回答は彼女の質問に対する答えになってはいなかった。

「安心しなさい。君がお嫁さんに行きたくなったなら、それは邪魔しない。私の助手として、ずっと仕えてくれればいいんだ」

『ですからぁ~……』

「……分からないな、ちゃんと説明してみなさい」

『……もういいです』

 この先、第二のテルシェになりうる子が出現しなければいいけど……という不安に駆られながらも、ラティーシャはこの急展開を受け止める事にした。しかし、どうして急に? と考えているところで、同じ疑問をメイスが代弁してくれた。

「メイヤー。何故、彼女を助手として傍に置く気になった? 理由を述べよ」

「はい。彼女がテレパシー、それにサイコメトリーという、二つの特殊能力を同時に備える超能力者であると判明したからです。加えて、彼女は物事を簡潔に纏めて文章にする力に長けており、商談の際にも力を発揮すると思えるのです」

『サイコメトリー?』

「サイコメトリーとは?」

 二人から同時に同じ質問をされ、これは説明が必要だと判断したメイヤーは、まずメイスに対する質問に答える形で解説を開始した。

「サイコメトリーとは、無機物や、第三者の視界の投影半径の範囲で展開された事実を読み取って、再現できる能力の事です」

 そして次にメイヤーは、ラティーシャの方に視線を向け、今度は彼女に対して説明する形で補足を行った。

「君はあの日、猫の視界を見事に再現し、人命救助に貢献した。私はそこを評価したのだ」

『そんな力が、私に……?』

 ラティーシャは目を丸くして、自身の能力に疑問を抱いた。そしてメイスも、そんな能力があるのか……? と、これまた目を丸くしていた。

「ま、自覚するまでに時間が掛かっても良い。君の力量は、当の昔に認めている」

『私の、力量……!?』

「ハハハ……本当に君は奥ゆかしいな。ま、そこも長所の一つだが」

『……?』

 ラティーシャに手を触れていないため、メイスにはラティーシャの台詞は読み取れないので、彼女がどのような返答をしているのかまでは分からなかったが、どうやらメイヤーの要求を了承しているらしい事は見て取れたようだ。

「よろしい、この商談を正式に認めよう。ラティーシャ、君は只今を以って、メイヤーに買い取られた。以後は彼に従いなさい」

「ありがとうございます、メイス様。支払いは後ほど、お部屋に訪問させていただいた時に行います」

「うむ、それまでに書類も用意しておこう……最後に質問するが、メイヤー。君は何故、このような重大な話を、ここで始めたのかね?」

 尤もな疑問であった。本来であれば、このような商談は人払いをした上で行うのが定石だ。が、メイヤーは人目を気にせず、堂々とホールの中で口に出した。誰もが不思議に感じるであろう……しかし、彼は淡々とその理由について回答した。

「ラティーシャの働く場所には、この屋敷の中も含まれます。彼女が私の指示の元で働く事は、いずれ周知の事実となります。単に、人事報告の手間を省いただけの事です」

「なるほど、君らしい」

 短く返事をすると、メイスはスッと立ち上がり、数名の従者と共に自室へと去っていった。

「さあラティーシャ、今日から早速働いてもらうよ。仕事の説明をするから、付いて来なさい」

『はい……』

 急な展開にやっと思考が追いつき、漸く状況を飲み込んだラティーシャは、それでも未だに信じられない……といった表情で、どよめきのおさまらない少女たちの合間を縫うようにして、メイヤーを追った。突き刺さる視線が痛い。テルシェではないが、メイヤーに対して彼女同様の感情を抱いている者は、一人や二人ではないようだ。それに対する防衛策も、考えなくてはならないな……と、彼女の心中は複雑だった。だが不思議とそれは、嫌な気分ではなかった。

(優越感……? 何で私が、そんな物を感じているの? 私は別に……)

 彼女は、自分の中に芽生えつつある感情を、自分で否定していた。確かに彼は恩人には違いないが、特別な感情を抱くような対象ではない……そうであってはいけない、そう自分に言い聞かせて。なにしろ、自分は今、彼の助手として、所有物として買い取られたのだ。対等な立場ですらない、主君と従者の関係なのだ……これはビジネスなのだ、と。

(しかし、一生ついていくという事は……つまり……あぁもうっ! 一生我慢していろとでも、言うつもりなんですか!?)

 少女はその頬を桜色に染めながら、やや前方を颯爽と歩く彼の横顔を、そっと盗み見ていた。いつまでも、いつまでも……

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