§2

「あ、旦那様……」

「おお、ナディアか。ちょうど書斎に向かうところだったのだ、そのままそれを運んできてくれ」

 ドアを出たところで、アルバートは先程頼んだティーセットを持ったメイド――ナディアと鉢合わせをする形になった。一瞬、互いに驚いたような表情になったが、すぐに二人は平静を取り戻して書斎に向けて並んで歩を進めた。

「ナディア、お前はこの家に来て、何年になる?」

「旦那様がまだ大学に通っておられた頃からご奉公させて頂いておりますので……今年で10年になります」

「そうか……」

 このナディアというメイドは、いま屋敷に居る使用人の中でも古株の部類に入るベテランであったが、メイドとして仕え始めた時に15歳という若さだったため、長く勤めているという印象を殆ど感じさせない雰囲気を持っていた。

「もうそんなになるのか、月日の流れるのは早いものだな」

「しかし、旦那様は今でもお変わりなく……」

「成長していないという事か?」

「とんでもない、私はただ……」

 慌てて言い繕おうとするナディアに対し、アルバートはニッコリと優しい笑顔を見せて、冗談だと言って取り成した。そんな彼を見て、ナディアの方も思わず笑みをこぼし、和やかな雰囲気になった。

 やがて書斎に着き、気に入りの椅子に腰を落ち着けるアルバートの傍らに、ナディアがティーセットの支度を整えた。その手つきは慣れたもので、機敏なだけでなく、動き自体に気品が感じられた。

「では旦那様、また御用がありましたらお呼びください」

「あ……ま、待ちなさいナディア!」

「え……?」

 仕事を済ませ、立ち去ろうとしたナディアを、アルバートは思わず呼び止めていた。

「あー……コホン。いつも、愚痴を聞いてもらって、済まないと思っている」

「だ、旦那様! 何を仰いますか。私達使用人は、時には主の心のケアも行うものです」

「……そう考えているのは、お前ぐらいだぞナディア。言っておくが、私はお前以外の使用人に、このような私情を漏らした事は一度だって無い……いや、家族にすら愚痴など零した事はない。私が本音をぶつけられるのは、今も昔も、お前だけなのだ」

「えっ?」

「思い出してみろ、ナディア。初めて私に仕えた頃の事を」

「あ……」

 ナディアは元々コーヒー豆3袋で売られてきた農民の娘で、当然、最初は教養も足りず態度も悪かった。が、逆にその事が、厳格に育てられ、塞ぎこみがちになり、友人も無かったアルバートの好奇心を揺り動かし、彼の興味を惹いた。いつしか彼は、自分の身の回りの世話係として、積極的にナディアを指名するようになっていた。

 無論、最初のうちは些細な行き違いや、ナディア自身の育ちの悪さから、思うようにコミュニケーションが取れず、互いに苛立ち、ついには口論にまで発展する事すらあった。だが、そうやって本音をぶつけ合ううちに打ち解けるようになり、主従関係という繋がりよりも、情が優先するような間柄となっていった。

 しかし、彼らはあくまで雇い主と従者の関係。年齢を重ねるにつれて互いの立場を理解し、ナディア自身も教養と立ち居振る舞いを身に付けて、一人前のメイドとして成長して行ったのだった。

「そういえば、何故私だったのでしょうか? 他にも良い使用人は居たはずなのに」

「だから、私にも分からんのだ。ただ、お前は見習いの頃、歳の近い私に対して対等に近い態度で接し、使用人としてよりも、友人に近い印象を私に与えた……だから、親しみが持てたのかも知れん」

 そして一呼吸置くと、アルバートは改めてナディアの顔を見詰め、今度は真剣な表情で質問を始めた。

「ナディア……教えてくれ。私はシンシアよりも、お前と居る方が心が弾む。何故なのだ?」

「旦那様……なりません。それは……それだけは。シンシア様を……いや、クロムウェル家と、エインズワース家の名に傷を……」

「何故だ!? この疑問を解くことが、何故に両家の名に傷を付ける事になるのだ?」

「旦那様……恐れながら、これは恋心と言う物かと。しかし、いま旦那様が抱いている感情は、きっと一時的なものに過ぎません。私のような下々の者が、旦那様の……」

「そうか……シンシアには感じなかったこの高揚感を、お前には感じる。これが恋という物なのか」

「だっ、旦那様……いけませ……ッ!!」

 10年もの間、モヤモヤと心の奥底で燻っていた感情の正体が今になってやっと明確になり、解き放たれた欲望は彼を……アルバートを高貴な家の主としてではなく、一匹の『雄』として覚醒させていた。また、彼に仕えていた10年の間、密かに育んでいたナディアの恋心もこの時に歯止めを失い、二人は立場を忘れて互いの身体を求めあった。


********


「な……何だと!?」

「旦那様……申し訳ありません。しかし、間違いありません。このお腹には、旦那様の赤子が……」

 アルバートの乱心によって、使用人であるナディアと肉体関係を持ってしまったあの日から数ヶ月。彼女の胎内に、子が宿されている事が判明した。それがあの晩に出来た、アルバートとの子である事は明白であった。

「何という事だ……そ、そうだ、まだ間に合うだろう。胎内の子を切り離して、無かった事に……」

「そんな……産ませてくださいませ! 旦那様の子である事は、絶対に秘密に致しますから!」

「し、しかし……」

 アルバートは狼狽した。ナディアが出産する事自体には何の問題も無いのだが、それが自分との間に出来た子供であると明かされると、非常に拙い事になるからである。如何に彼がナディアを愛していようとも、シンシアという『妻』の存在がある以上、彼女と男女としての関係を持つことは許されない。増して、妊娠・出産など以ての外、という訳だ。

 それに彼自身、シンシアとの間にとりあえず出来ただけという感じのルーファスに対してより、真に愛するナディアの子の方に深い愛情を注いでしまうであろう事を、良く分かっていたのだ。そうなれば将来、お家騒動にもなりかねない。そして更に、先代当主のボールドウィン・クロムウェルが目を光らせている。アルバートは、幼少の頃から厳格な教育を施されて育った為、父親に対して異常なまでの畏怖の念を抱いていた。それ故に、此度の事が知れれば大変な事になる……そう確信していたのだ。

「お願い致します……後生です、貴方との結びつきの証を……私に与えてくださいませ」

「……分かった。しかしクロムウェルの姓を名乗らせることは出来ない、あくまでお前の私生児として扱う。これを約束してくれ」

「……ありがとうございます」

 この日からナディアは暫し職を外され離れに隔離、他の使用人に対しては強姦の被害に遭って妊娠させられたという虚偽の報告がなされた。これによって彼女の使用人の間での評価は一時的に下落したが、そんな彼女の扱いを見かねたと芝居を打ったアルバート専属の従者として仕える事で、ナディアの立場はむしろ、以前より高くなっていたのだった。

 が、逆に、産み落とされた赤子……双子の女児の立場は低く、単なる使用人の私生児として扱われた。名家・クロムウェルの血を受け継ぐ子であるにも拘らず、その素性は固く秘匿され、アルバートの非嫡出子である事すら決して公表しないという条件によって産み落とされた……ただそれだけの理由で、である。

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