§4

「……遅いね?」

「いつもなら、そろそろ帰ってくる頃なのに……」

 焼け跡のバラックで、双子はナディアの帰りを待っていた。だが、待てど暮らせど、彼女は帰宅してこなかった。

「食料の調達に、手間取っているのかな?」

「違うね……逃げたんだよ、私達の扱いに疲れ果てて」

「だとしたら、許せないね」

「ああ、許せない……あの女は、私たちに仕えて、貢献する義務があるんだ。このまま逃がしはしないよ」

 二人の目が妖しく光った。そして、その晩は蓄えてあったパンとハムの残りを分けて食べて凌ぎ、ナディアに対する仕置きをどうするか……それについて相談を始めていた。


********


 同じ頃、その日の売れ残りのパンをはじめ、丹念に煮込んだポテトスープを食卓に並べ、ローストビーフをメインディッシュとして、ささやかながらではあったが、チェスターがナディアをもてなしていた。その食卓には、豪勢にもワインクーラーまでもが並び、寒々としたバラックで一年以上もひっそりと暮らしていたナディアの心に、久々に暖かな気持ちを蘇らせていた。

「さあ、暖かいうちにどうぞ。遠慮は要らない、お腹いっぱいになるまで食べていいんだよ。お代わりは幾らでもある」

「マスター……ありがとうございます」

「……その、マスターっての……ここではやめてくれないかな? その……チェスターと名前で呼んでくれると嬉しいんだが」

「……!! チェ、チェスターさん……って、何だか恥ずかしいですね?」

「慣れの問題さ、じきに気にならなくなるよ……さあ、まずはポートワインで乾杯をしよう!」

 その厚意に、思わず笑みを浮かべるナディアを見て、チェスターの理性の壁には、徐々に亀裂が入りつつあった。そう、もはや解説は不要であろう……彼は密かに、ナディアを『女性』として見ていたのである。

 食事が終わり、夜も更けると……酒に慣れているチェスターはまだ正気を保っていたが、ナディアはアルコールの力で意識が散漫になり、次第に自我を失いつつあった。悪魔のような双子と、地獄のような日々に別れを告げ、再び自分の幸せを掴みたい……そう考え始めていた彼女がベッドに誘われ、それを拒めなかったとしても、責める事は誰にも出来ないだろう。彼女はその晩、チェスターの逞しい腕に抱かれ……濃密に愛されたのであった。


********


「そろそろ、仕込みを始めようか」

「そうですね、チェスターさん」

 その会話は、数日前までは店の中で行われていた。が、いま二人がいるのは、チェスターの家の中。

 あの夜から既に10日あまりが経過し、その間ナディアは一度もバラックへは帰っていない。そう、彼女は漸く、アルバートへの想いを断ち切る決心を固め、チェスターとの同棲生活を始めていたのであった。

 彼女の心変わりについて、チェスターが特にこれと言った進言をしたり、過剰な誘惑を繰り返したりした訳ではない。そしてナディアとしても、彼の厚意に甘え、楽な道を選んだ訳ではない。しかし、彼女は一年以上も亡き者の影を追いながら、独りで苦境に耐えてきたのである。そこへ悪魔のような双子との再会、更にチェスターからの暖かい厚意が重なったとあっては……この選択は至極当然と言えるであろう。

「……『さん』は、いつになったら取って貰えるのかな?」

「意地悪を言わないでください……そういう事を言っていると、また『マスター』に戻っちゃいますよ?」

「うっ……!」

「クスッ……冗談ですわ」

 そう言うと、彼女は彼の頬に軽くキスをして、サッと身を翻した。その頬は桜色に染まっていた。その会話と行動は、とてもではないがミドルエイジに達した男女のそれとは思えないほど甘酸っぱく、くすぐったい物であったが。この二人の経歴に……特に恋愛経験にスポットを当てて考慮すれば、無理からぬ事。恋に年齢は関係ないのである。

「戸締りは宜しいですか?」

「あぁ、大丈夫。さ、行こうか」

 仲良く肩を並べて、歩いて十数分の距離にある店舗までの道のりを、二人はウキウキとしながら歩いた。ナディアの顔色は、チェスターに事を打ち明ける前の、疲れ果てた土色のそれとは打って変わって、実にいきいきとしたピンク色に変わっていた。

 パン屋の朝は早い。粉の配合から焼成に至るまで、実に数時間という長い時間を必要とするため、まだ日も昇らないうちから働き始める。そうでなければ、店に商品を並べて客に供するのが、かなり遅れてしまうからだ。その日もまだ頭上には星が瞬き、東の空がようやく白んできたという頃合いであった。が、二人の表情は実に楽しそうであった。

(ほおぉ……あのご婦人、随分と変わったもんだねぇ。まるで別人のようじゃないか……横の旦那の方も、前に比べて気運そのものが上がって、実に絶好調……って感じだな。いや、恋の力ってのは偉大だねぇ、全く)

 そんな二人を、そっと見守る人影があった。が、幸せいっぱいの彼らがその視線に気付く訳もなく、何事もなしにその人影の前を通過していった。

(覗きとは感心できないねぇ、やらしいったらない)

(……お前にだけは言われたくないぞ)

 短く、それでいて鋭いやり取りを済ませると、その人影はサッと姿を消した。その姿を見たものは居らず、会話を聞き取ったものも居ない。しかし『彼ら』は、確かにそこで二人の姿を見ていたのだ。誰にも知られる事無く……

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