§7
一方、ヴァネッサと入れ替わったリネットも、常連客や家主夫婦の名前が分からず、少々の戸惑いを見せていた。
「やぁヴァネッサ、今日も寒いねぇ」
目の前の踏み台に靴を乗せ、気さくに話し掛けて来る男性。どうやら常連客のようだ。
「そうですね……」
短く答えると、リネットはスッと目線を客の足元に落とし、黙々と靴を磨き始めた。彼女も『少女館』以前の貧困生活の間に、様々な仕事を手伝いながら生きてきた経験があるので、靴磨き程度であれば手ほどき無しでもこなす事が出来るのである。が、職人の仕事というものには、各々に癖のようなものがある。その常連客は、いつもとは違う手順で靴を磨く彼女に違和感を覚え、思わず問い質していた。
「今日は、いつもと磨き方が違うね?」
「えっ……そ、そうですか?」
客としては何気なしに投げ掛けた問いであったが、神経質なリネットにとって、その一言はこの上なく苛立ちを覚えるものであった。
(煩いな、靴が綺麗になれば手順なんかどうだって良いでしょうに……)
「どうしちゃったんだい? さっきから黙ったままだけど……」
「……どうもしませんよ、私にだって色々あるんです……はい、終わり!」
客の方には目線を向けず、俯いたままで掌を差し出し、黙って代金を要求する。リネットの接客態度は、ヴァネッサのそれとは天と地ほどの開きがあり、客を唖然とさせた。
「やれやれ、今日はご機嫌斜めのようだね」
そう言うと客は、それ以上は語らずに代金を差し出された掌に乗せて、そそくさと立ち去ってしまった。
(ふん……ベテランだって試行錯誤するものなのよ。少々手順が変わったからって煩く言うような客、こっちからお断りだわ!)
まことに身勝手な言い分で今の接客態度を正当化したリネットは、不機嫌そうに通行人の行き交う様を眺めながら、次の客が来るのを待った。運良く、その後は通りすがりの一見客ばかりが続き、夕方まで無事に過ごす事が出来た。
店仕舞いし、道具類を片付けて一息つくと、リネットはヴァネッサが最後に言っていた事を思い出した。
(そうそう、部屋代を払わなきゃいけないんだった……確か20ペニーだったかな……)
簡素なベッドから身を起こすと、彼女は先程の商売で得た売り上げの袋を持って、ホテル入口のカウンターまで下りていった。そこには優しそうな顔立ちをした中年の女性が立っていた。その女性が、恐らくは家主婦人であろう。だが、リネットは先程、常連客を相手に失敗した事を思い出していた。
(……あのオバサン、何て名前なのよ……しまったな、もっと情報交換してからあの子を追い出すんだった……)
ヴァネッサが少女館で戸惑っているのと同様に、リネットも情報不足に悩んでいた。相手の名前が分からなければ、こちらから声を掛ける事は難しい。増して、相手は他人ではなく、知り合いという立場なのだ。それなのに、名前を呼ばないというのはあまりに不自然すぎる。さて、どうしたものか……と立ち尽くしていると、カウンターの奥から、その女性を呼ぶ声があった。
「おーい、アメリア! 胡椒の買い置きを何処に置いたか知らないか?」
「倉庫の入り口に置きっ放しにしてあったでしょう、後で片付けるからって自分で言ったのを忘れたの?」
「あ、そうだったかな……ゴメンゴメン」
非常に良いタイミングであった。偶然ではあるが、リネットは家主婦人の名を知る事が出来たのである。だが、冷静になって考えてみれば、そのシーンで無理に名を呼ぶ必要はなく、普通に『今日の分です』と言うだけで済んだのだ。
(……ま、知らないままよりは良いよね。サッサとお金払って、部屋に戻ろう)
そう考えたリネットがいざ婦人の前に顔を出すと、婦人は気さくにも、先に話し掛けて来た。
「ヴァネッサ、今日はもう上がりなの?」
「え? ええ……何だか疲れちゃって。はい、今日の分」
「あら、具合でも悪いの? 無理をしちゃダメよ、身体を壊したら大変だからね。夕食は栄養の付くもの、用意しておくよ」
「あ、ありがとう……」
普段、ヴァネッサがどのように周囲と接しているかが分からないため、リネットはその場を最低限の会話だけに留めて、そそくさと部屋に戻っていった。このときになって初めて、彼女は立場を入れ替える事の難しさを意識したのだった。
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