第68話 久闊を叙する

 趙盾ちょうとんが辞した年の秋、赤狄せきてきしんに攻め寄せてきた。赤狄は白狄はくてきと並ぶてきの大勢力であることは幾度か記した。この時期、赤狄の動きは活発となっており、せいも幾度か侵入を許している。しん、晋の北部で活動する白狄に比べ、赤狄の活動範囲は斉、えいしゅう、晋などに接しており、はっきり言えば太行山脈たいこうさんみゃくと重なっている。太行山脈は、山西省、河南省、河北省とまたがり、この山脈を基点として西を山西省、東を山東省と言うほどの、華北を代表する山岳地帯である。中原ちゅうげんの国家は山岳の戦争を得手としない。結果、狄が攻めてくるところを叩くという消極的な対処となっており、狄そのものに圧力をかけるような戦略は晋含めてどこも行っていない。

 この時の赤狄は、かい邢丘けいきゅうを囲んだ、と史書にある。ゆうや都市国家を囲むという戦争表現は極めて強い攻撃状況を表す。城壁を越え内部まで侵略しようとしている、ということであった。この懐も邢丘も、砦ではなく『倉』の役割を担っている。農耕民族国家にとって穀倉地は国の柱である。黒臀こくとんはこれを重視し、いち早く迎え討つよう命じた。郤缺げきけつとしても、追い払うしかない、と考えていた。狄に食われてしまえば豊かな邑でも立ち直るのに時間がかかる。

 しかし、そこに待ったをかける声があがった。荀林父じゅんりんぽであった。

君命くんめいがくだろうという時に声をかけ割り込むことお許し下さい。追い払わずそのまま放っておくべきとあえて申し上げます。狄は先を見越して考えず、太ろうと動けば動くほど疲れていくものです。赤狄をこのまま疲れさせ、悪手を打たせるが良いでしょう。疲れと悪手が満ちましたらいずれ自滅いたします。周書しゅうしょに『戎殷じゅういんたおす』とも申します。かの武王ぶおう周公旦しゅうこうたんと共に大きな殷を亡ぼしたのも、私のこの言葉も同じことでございます」

 荀林父の言葉は殷が己の驕慢さから自滅し周に伐たれたという故事にかけている。狄もいずれ自滅するため、今は力押しするな、ということであった。狄を注視し続けてきた男の発言である。郤缺は少々考え込んだ。

「狄は確かに持久力が無く策も深くは考えておらぬが……。荀伯じゅんはくのおっしゃるようにするとなれば、懐も邢丘も一旦見捨てることとなる。あのあたりは我が晋の倉ともいえる地。今年の収穫だけでなく備えとしていた財も食いつぶされよう。それをわかってのお言葉か?」

 もう少し旨味の無い場所を攻撃されていたのであれば、郤缺も二つ返事で頷いた。が、おんを中心とした、晋でも肥沃な地域である。そのような場所が荒れれば、税収への打撃も大きい。荀林父もそれがわかっている上で、退かずに口を開いた。

「狄は災害ではございません。あれも人の集団であり、彼らなりの考えで我らと敵対しております。私は今、場当たりに対処するより、遠くを見るべきと、進言いたします。中原東方西方を見ても、一度の行いで結果が出たことなどございません。同じように狄も一度二度追い返したからといって収まらないでしょう。このようなことはじっくりと取りかからねばならず、時間がかかるものです。こたびの被害は確かに大きいですが、それでもあえて申し上げます。ここから赤狄を自滅させるために我らは動くべきです。東国ではが動き、ちんを傘下におさめていに何度も圧をかけております。周王さまにさえ圧をかけ攻めようとする勢いです。また、は斉の傘下に入ったまま戻っておりません。確かに今、赤狄は強く脅威ですが、いちいちまともに応じていれば、東国や秦との問題に弊害が出ます。我が祖父は賄賂を送ることで敵国を弱らせ亡ぼし、晋の地としております。追い払うのではなく亡ぼすのであれば、おのずから弱らせることです」

「今は耐え、大きな益をとるべき、ということか」

 黒臀が荀林父の言葉を全て聞いた後、少し息を吐いて言った。さようで、と郤缺が拝礼する。

「我が父文公ぶんこうも二十一年を耐え、晋公しんこうとして立たれた。何かを成し遂げるときは多く務めねばならず、時間はかかるものだ。けいらが吟味の上で林父りんぽの議が是であれば、私も君命をとりさげよう」

 事実上の命令撤回である。郤缺はもう一度拝礼すると、六卿りくけいに問うた。が、先縠せんこくは己には荷が重いとさっさと士会しかいに振った。この若者は戦術眼は悪くは無いが俯瞰の思考が弱い。数年先を見越すような戦略などわからぬと匙を投げたらしい。が、わからぬことをわかったようにして混ぜっ返すよりはるかに良い。

 さて、士会である。彼はまず端的である。

「是とすべき」

 と荀林父の議に一票を投じた。

「まず、荀伯の策に従えば、我が晋は他にいくつかの邑が襲われる覚悟が必要となる。赤狄が疲れ腐れるまで待つというのはそういうことだ。しかし、あのものどもは戦略があって攻めてくるわけではない、旨味のある場所に喰らいつくだけだ。で、あれば、そこだけを食わせてやれば満足して去っていく。我らは要地を失うわけではない。また、懐、邢丘といういわば穀倉を攻めて満ちたわけであるから、翌年以降もそのあたりを攻めて来るであろう。それとなく守りを固め、出血を増やすが良い。今回の懐、邢丘への復興も含め、温、向陰しょういんなどあの一帯を固め備える。ところで、この策はあくまで赤狄に対するものだ。白狄は如何」

 士会の言葉に荀林父が、赤狄に押され威勢が弱い、というむねを言った。結局、荀林父の策が通り、軍を出さずに赤狄の動向を見ることとなった。

 ――白狄が赤狄に押されている、か。

 郤缺は朝政ちょうせいのあと、考えながら目をつむる。思い浮かんだことは、過去の己であれば一笑に付したであろうことであった。己が変わったのか、状況が変わったのかわからぬ。年をとったからこそ出た考えかもしれぬ。

「いやまあ、父上も欒伯らんぱくもお好みではなかろうが。まあ良いではありませぬか、私が正卿せいけいですから」

 この壁打ちのような独り言はどうも治しようもない。それで考えがまとまるのであれば良いであろう、と郤缺も開き直っている。ただ年も年であり、独り言をあまり言い続けるのも見栄えが悪い。人の目だけは気をつけていた。

 郤缺は即断という人間ではない。ある程度の熟考が必要である。時には荀林父に問い、各国に連なっている情報網も駆使し、狄の動向を知っては考えた。そうして、議に出したのはもう冬であった。

「秋に赤狄が我が地を荒した件、荀伯の策にて腐らせ自滅を狙うことと決まっております。しかし、座して熟するを待つも少々もったいないと思い、議にあげる。白狄と和議を結び、赤狄に備えたい。あわよくば秦への牽制も願いたいところ。これに関して是非は問わぬ、どのように進めるか、を伺いたい」

 末席の胥克しょこく欒盾らんとんが唖然とした。特に欒盾は中原貴族の見本のような男である。狄と対話できるとも思っていないであろう。

 無邪気に楽しそうな顔をしたのが先縠である。彼は白狄と和議を結ぶことより、その先の大きな戦略に興奮した。これがきっかけかもしれぬが、彼はどうやら、狄に対して少しずつ深くなってゆき、赤狄に対しても繋がりを持つようになる。それは最終的にせん氏の滅亡に繋がってしまったが、はるか後年である、ここでは語らない。

 それはおもしろい、という顔をしたのはもちろん士会であり、すぐさま問いに返したのは荀林父である。

「使者を向かわせます。白狄も我らに近いもの遠いものがございます。近きものは襲わず商いにて邑とやりとりしている様子。そのあたりから、話を進めて参ります」

 文公に対狄軍を任されてからずっと、荀林父は本能的に狄を見るようになっていた。以前、狐射姑こやこが狄にいることの危険性を主張したように、また、今回の赤狄への戦略を進言したように、その嗅覚はするどいといえよう。

「お願いします。荀伯は長く狄と対峙されていた方、頼りになります。しかし、次席でもあり私の支え、外向きのことなど務めねばならぬこと多い。他卿、そして公族大夫こうぞくたいふたちも支えとなり、私の議を進めてほしい」

 そこまでしたあと、郤缺は黒臀へと向き直った。

「我ら六卿、赤狄や秦に対するため白狄と和を結びたい議を謹んで君公に言上つかまつります。赤狄は我が国だけではなく、周、衛はもちろん、敵対する斉含め中原全体の深刻な問題です。覇者である我らといたしましては、これを最終的には平らげ威光を示したいところ。そのためにも赤狄に圧迫され時には使役される白狄を味方につけたい所存でございます。これにより白狄の与力はもちろん、赤狄の戦力も削ぐことができます。お考えの上、是非を願います」

 ほとんどおまえ達が決めてしまったではないか、と黒臀は言わなかった。郤缺の言葉は理屈として頷け、荀林父の策もわかりやすい。しかし、君主としての一線は引いた。

「正卿の言い分、林父の策は良し。他のものはまだ何も言わぬが、いかがか」

 まず彼は、黙っていた下席に問うた。先縠や士会は是、と返す。欒盾は否であった。

「我が晋は覇者です。狄を屈服させるならともかく、対等に和議をむすぶはいかがなものでしょう」

 胥克も同じ考えであり

「我が晋は周王の一族から出ております。それが狄と手を結ぶは軽重を問われませぬか」

 と困惑を隠さずに言った。

 二名の言葉は政治的ではないが、この時代を特徴づける選民的な儀と、晋の一般大夫たちの代弁である。さて、どうすべきか、と考える郤缺の前に、黒臀が口を開いた。

とんこくの言葉、私も最もだと思う。しかし、赤狄を潰すために白狄と和を結ぶというのも重要な議であろう。確かに我が晋に身を寄せ、よしみを結んだ狄もおる。しかし、屈服せねば味方にせぬというなら、それこそ覇者の軽重が問われよう。ただ、和議の場に私は出ぬ。白狄と共に兵を動かすときに晋公を出さぬ。晋が白狄と対等の和を結ぶは良し、しかし狄の長と晋公に格差あり。林父はそれを肝に銘じ、話を進めるよう」

 落としどころとしては悪くなく、少なくとも欒盾は納得して拝礼した。黒臀は純粋に白狄と対したくなかったのであろう。が、郤缺は上手いこと転がったと内心喜んだ。黒臀自身も言ったように、狄の長と晋公では格に差が大きすぎる。とてもではないが、周に侯爵をもって封ぜられている晋公黒臀を狄の長と同じに扱えぬ。晋国内だけでなく、対外的にも聞こえが悪い。ゆえに、戦略は是とし、あとは手を出さず、という君主の言葉は偶然とはいえありがたいとしか言いようがなかった。

 とりあえずは赤狄を無視し、白狄との和を模索する、となれば自然と東国へ本腰が入る。この翌年、黒臀を盟主として大がかりな会盟を行っている。場所は晋国内、沁水しんすい西北に位置する黒壌こくじょうであり、とうとう呼びつけるまでになった。傘下のそう、衛、鄭、そうはもちろんであるが、周から王族である王孫蘇おうそんそが出席しているとなれば、その威勢がわかりそうなものである。郤缺が黒臀を支え差配したのは言うまでもないであろう。晋に従わぬ国々をどうするか、が議題である。晋から離れた陳をどうすべきか、ということもあったであろうが、ふらつく鄭への牽制もあったであろう。ところで、魯も実ははせ参じていた。が、黒臀即位後、魯公どころか大夫ひとりも挨拶に来なかったことを、晋は許さなかった。

「魯公は監禁いたします。服従したものに恵みをかけ諸侯をなつけ安んずること、そして叛いた時に討つことは覇者の威光を示すに必要なことです。諸侯を統べるためにも魯をこのまま許すわけいきませぬ」

 郤缺の指示であった。魯は霊公即位のときも同じことをくり返しており、郤缺としては、はいそうですかと笑顔で迎えるわけにはいかぬ。結局、魯は黒臀に泣きつき、進物を申し出ている。周育ちの黒臀にとって、進物、つまりは賄賂で話を進めることは珍しい話ではない。が、彼は即断せず郤缺に相談した。趙盾であればねのけたであろうが、郤缺は素直に受けることを進言しており、魯は賄賂によって許され、会盟の後に魯公は釈放された。趙盾は賄賂そのものが理解できずに疎んでおり、郤缺もそれに倣ってはいた。が、小国を締め上げるよりは差し出されたものを受け取り丸く収めたほうがよい、と今回は受け取ることにしたのである。こうして、しばらく関係が冷えていた魯も晋の傘下に戻ってきた。この時、公子すいがあわてふためいたかは史書には無い。翌年に死亡したこの大臣が、老体に鞭打ち、郤缺への縁を頼った可能性も考えられる。どちらにせよ郤缺は公子遂を特別には見なかったであろう。

 この間、荀林父は白狄への交渉を続けており、手応えを感じていた。白狄の一部と郤缺が和議を結んだのは、翌年の春である。

 黄砂が舞う強風の中、郤缺は中軍の将として白狄の活動地域と晋の境まで出た。黒臀が行かぬと言った以上、正卿の己が行くのが道理である。白狄は晋の地に入ることをさすがに拒否した。境というのはいわゆる異界でもある。晋でもない、白狄の地でもない場所で会うというのは、悪くはない。

 急ごしらえの幕屋にやってきた男は、郤缺とさほど年の変わらぬ老年であり、右手は無く足も悪いようで杖をついている。迎えた郤缺は深々と拝礼した。

「私どものお話をお聞き頂き、またご足労たまわりありがとうございます。私は郤文げきぶんを祖とするげき氏の長、正卿を任されているものです。……白狄子はくてきしにおかれましては、我が晋との和に応じていただき、感謝の意にたえませぬ。互いに屋根とするもの枕とするもの違いまするが、長く交友深め、互いの敵を打ち払いたい所存です」

「……長々とした挨拶はいい。もうわかっていることだ。それより顔をあげろ」

 柔らかい笑みを浮かべたまま顔を上げると、白狄の長が苦い顔をして舌打ちをした。

「覚えている。お前が吾の右手を奪い腿を斬り不具にしよったのだ。よくもまあ、あの小者が出世したものだな」

 郤缺はもちろん覚えていたので、言祝ことほぎありがとうございます、と感謝を述べた上で

「互いに生きてお会いできるとは思いませんでした。よくもまあ、あなたも生き延びたことで」

 のんびりとした口調で返した。白狄子は根に持っていたわけでもないようで、そうだな、とだけ返した。互いの邂逅から二十五年は経っている。とっくに過去としていた勝者であり、怨讐も薄くなった敗者というだけであった。それよりは、白狄のことである。

「あなたが束ねておられない白狄はいかがか」

 白狄全てと和を結ばねば、郤缺の戦略は成り立たない。白狄子がそれだ、と無事な左手で膝を打った。

「いくつかの白狄の衆は赤狄に屈服させられ苦役を背負わされておる。その姿、思うだけでもしのびない。赤狄を殺し尽くすためにも、白狄の衆に呼びかけてやってくれ。我らからも声をかけてやる。あれらの白狄は赤狄に苦しめられながらもお前らに怯えている。晋は昔から評判が悪い、虎と狼の巣にのこのこ入っていくものはおらん」

 最後、くつくつと笑いながら指摘する白狄子に、郤缺は笑みを向けた。それは久々に見せる獰猛な笑みであり、郤氏らしい顔でもあった。

「山犬をうち払うに羊の群を頼みにするもなどおるまい。虎や狼であればこそ、山犬を食い殺せるものです。我らは他者の羊に手を出すほど飢えた虎狼ではござらぬよ」

 郤缺の慇懃さには舌打ちした白狄子であったが、衰えぬ戦意は良しとし、和議はつつがなく結ばれた。

 この白狄との同盟を郤缺は完遂させるのであるが、それは後述としたい。

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