第49話 河曲の戦い
話を出陣前に戻す。
むろん、晋としても、要地として睨んでいた場所である。取られてしまうのは想定のもと、問題は秦の侵攻を止め、追い返し取り返すことであった。
余談であるが、都市国家論などを参考するに、覊馬は馬の生産を兼ねた軍用地であったと考えられる。実際、
秦軍は覊馬を取った後むろん退かず、その地を基点として陣を敷くべく動いていた。晋も進軍が速く、互いに河曲の戦場で対峙したときには、陣をあるていど固めていたと思われる。晋は
「
ただ防衛陣を敷くのではなく、
武に疎いが無駄が嫌いな趙盾は、臾駢の言を良しとした。被害の少なさは役に立つものが減らぬということである。
軍事に関して全くわからぬ
「各軍、何かあれば
臾駢はぬかずき、かしこまりてございます、と返したが胸中いかばかりか。趙氏の精鋭は確かに強い。また、壮年のものどもは臾駢の立場をわかっており、差配に頷く。が、趙盾の
そのように防衛陣を敷く晋軍を見て、秦はもちろん逸った。勝ちに乗じているのである、一気に攻めとろうと浮き足だった。まず、秦公
「どんな戦法をとったら良いのだ?」
罃は傍らで、晋の陣地を眺めている
「趙盾が」
士会が
「趙盾がおのが傘下のものから新しい指揮官を任命しております。名を臾駢。戦において嗅覚するどい男で、晋が持久戦を狙うは彼のものの計略に相違ちがいません。我が軍の消耗させる魂胆です」
罃は素直に頷いた。そうなると、
「であれば、どうされる?」
傍らに言う
「上軍の中に趙盾の従甥、趙氏本家の主で名を穿と言うものがいる。趙盾の寵愛と晋公の婿という立場でわがまま身勝手に振る舞う若年。軍事に関しても素人でただ血気にはやって暴れまくるといった男です。臾駢が軽輩ながら上軍の佐であるのがおもしろくなく妬んでいる。臾駢の策に従うわけがない。食いやすそうな精兵一隊を出して挑発すれば、そこから持久の構えも崩れましょう」
そう言うと、士会がそのまま、作戦に合わせた秦の一隊を言上し、罃の許しを得る。繞朝は、それがあまりに的確な配置であり、息を飲んだ。繞朝の補佐がいらぬか、という落胆よりも、何故だ、という思いが強い。他、考えてみれば理解に苦しむ部分に気づいた。差配のために罃の前から辞したあと、繞朝は士会に疑問の全てをぶつけた。
「
驚きを込めて言うと、士会が少し考えるそぶりを見せる。
「みなの動きを見せて貰ったのだ、一年あれば十分であろう。勉強させていただいた」
にこりと笑むその顔は、男らしく頼もしい。どうも本当に一年で秦軍の掌握をしているらしい。覊馬攻めの配置も戦陣も理に適っていた。彼は独りで決めず押しつけがましくもなく、議として出し、しかも控えめな態度であった。皆その姿勢に好感を持ち、そして出された策は理を越えたものがあった。ゆえに、繞朝も舌を巻いた。が、秦からわざわざ士会に情報を与えたものは繞朝含めていない。警戒したわけでなく思い至らなかったのであり、繞朝も戦陣にておのが不明に気づいて士会の補佐をすべく共にいるのである。
が、士会にはいらぬ心配だったらしい。繞朝は頼もしいと思う前に何かぞっとした。士会を好ましいと強く思うが、どこか怖いのも事実である。
「と、ところで晋軍のことも詳しい。斥候か」
士会は、晋軍の構成員だけではなく、その関係まで深く知っている。元々の知り合いなのかと思えばそうでもないらしい。だいいち、上軍に中軍に配されるはずの趙氏がいる、などとよほどの斥候でもかぎ取れようか。
「秋から斥候は放っていたがゆえ、ある程度はわかる。また、
最後にこめかみの部分を指で軽く叩きながら士会がさらりと言った。晋の氏族がどれだけいると思っているのか、と繞朝はもはや指摘しなかった。
「趙盾は己の道具を大事にするが、己の愛玩物も無駄に大事にする。臾駢と趙穿が共にいるなどつついてくれと言わんばかりだ。やはり武に弱い。まあ、あの男が愛玩し道具にした
特に自慢でもなく、どちらかというとうんざりとした顔で士会が言った。この戦争や繞朝に対して倦んでいるのかと一瞬思ったが、どうも趙盾に対してうんざりしているようであった。士会はあまり負の感情を表に出さぬ男であり、珍しい。
「晋の正卿に何か思うことあるのであれば、その意趣返し力になろう」
繞朝は何やら愉快で、軽口を言った。士会が苦笑し、返す。
「晋に何か思うことなど、無い。未練無く怨み無く。いや、簡単に言えば極めてどうでもよい。わたしは君公に勝利を奉るのみ」
柔らかい口調で笑み、さ、差配に行こう、と歩いていく。繞朝は、狐につままれた気持ちで追いかけた。士会は深く、深すぎて、時々、意味が分からなかった。
秦公罃は士会の策の成功、そして秦軍の勝利を祈り、
十二月
「備えあり、この身を
趙穿は己の陣で怒鳴り散らした。本家の壮年たちは、声をかけるべきか悩んだ。一応、主である。趙盾も趙氏本家の主として武に強い男になってほしいと思っているのであろう。が、あまりにも浅い発言である。しかし、下手につつけば、趙氏内が割れかねない。先年の
「おそれいりますが、
声をかけられ目を向けると、臾駢が立っていた。彼は、勝手に飛び出た趙穿を諫めに来たのである。ここで諫め納得してもらえねば、軍律違反となりかねない。
「これは計略の構え。時機が熟するを待っておるのです。此度の件は見なかったことにしますゆえ、くれぐれも慎重に願います」
臾駢は、上軍の佐として強く出るべきであり、もっと言えば趙盾に報告するべきであった。が、作戦の責任者として己で処理しようと考え、また、趙穿には主の縁戚としてしたてに出た。趙穿は臾駢の心中わからず、小者が命じるなど傲慢甚だしい、と立腹した。
「計略なんぞ、俺の知ったことではないわ! 俺ひとりでも戦ってみせる!」
そういうと、臾駢に近づき、頬を叩いた。極めて非礼であり、侮辱である。すっきりしたのか、趙穿は少し笑うと、去っていった。臾駢は口惜しかったであろうし、はらわた煮えくりかえったであろう。が、かつて
臾駢が、趙穿は言うだけ言ってすっきりしたと思い込んだところに、滑稽な悲劇が起きた。
「趙主が、出られた?」
郤缺と新たな配置を打ち合わせている最中であった。趙穿が逸るのであれば、後方に置きたいという臾駢に、郤缺が相談に乗っていたのである。秦の不意討ちから数刻も経っていない。手勢のみをひきつれ、秦軍の真ん中へつっこんでいったらしい。
「物見は様子を見てこい、まだ間に合うならお止めしろ」
臾駢は口早に命じた。秦軍に囲まれていなければ、下がらせて終わる。問題は囲まれている時である。防衛戦略は一つが崩れればそこが穴となり亀裂が入り崩壊する。郤缺は中軍下軍に知らせ、卿らを呼ぶよう急がせた。狭い地域内の布陣であり、集まること自体は時間がかからぬ。
趙穿が突出。
その報に各々厳しい顔で、集まった。趙盾さえ重い表情であったが、共に参じた
「今、物見の大夫を追いかけさせ、まだ秦軍と構えてなければお戻しに、もし囲まれておればそのまま捨て置き、我が軍の守りを組み直し策を続ける所存です。いかがか」
臾駢が趙盾へ向かって進言した。釣り上げられた魚を捨て、趙穿の場所を他のもので補い秦の攻勢に再び備える、というものである。基本戦略を続けるには軍律違反をした趙穿を犠牲にするしかない。臾駢にとっては忸怩たる思いである。趙盾のかわいがっていた従甥を見殺しにする策は、疎まれるであろう。
事実、趙盾は首を振った。やはり、と臾駢がすがるように見やれば、趙盾は特に不快そうな顔はしていない。緊張はあったが薄い表情で、それはいかぬ、と口を開いた。
「駢の話、武に疎い私でも理はわかる。しかし、穿は趙氏本家の主であり、傍系の私などとは違う。討ち取られれば卿を一人失うようなもの、つまり秦は我が晋の要人を取ったと喧伝し凱旋されます。そうなれば、覊馬を取りにきたことも無駄になる。狄にも各国にも、秦は勝ちを伝えましょう、たとえ我らがここを守り抜いても、要人の首というものは大きい」
趙盾は政治的な判断として、趙穿を助けるべきだと主張したのだ。彼にとって軍事は政治の延長線上である。その考えはおおむね間違っていない。そうなれば、この場で勝っても政治的に負ければ意味が無い。趙穿の身柄が拘束されたり、首を取られれば、それこそ秦の勝利となり、この防衛陣など放っておいて凱旋する。武に弱い趙盾はそこまでの戦略目的を考えたわけではないが、
この場で政治的に負ければ、晋は弱る
と、判断したのだ。その上で口を開いた。
「私はどうすれば穿を取り戻せるかわからぬ。郤主、お考えあるか」
武において、趙盾は郤缺を信用している。
「
郤缺は、持久戦で勝ちにいくことを諦め、消耗戦を行い負けぬことへ振り切るべきであると言い切った。戦略目的が趙穿の保護である以上、戦術目的は目の前の秦軍を延々叩き続ける、という出血の大きいものになる。しかし、おびき出され各個撃破の的になっている趙穿を救うには、面で立ち向かっていくしかない。
「……趙主をお救いするには、私もそれが最適かと」
臾駢が絞り出すような声で言う。己が積み上げた作戦が、子供の癇癪で潰えたのである。作戦家としても、指揮官としても無念であろう。
「では、もう一つ。穿が戻ったとして、どのようにすべきだ?
趙盾は
「斬ります。戦が終わった後でかまいません、軍律違反は処刑するが道理」
「そうか。では、穿が戻り、秦を追い返せば
こともなげに己の愛玩物を切り捨てる趙盾に、臾駢が大声で、お待ちを! と声をかけた。趙盾が少し不思議そうに臾駢を見てきた。韓厥の表情は薄く冷たく変わらない。荀林父が戸惑いを隠さず趙盾や臾駢を見ていた。荀林父は極めて常識人である。趙盾の発言に困惑しているのだ。臾駢が続けて言葉を発す。
「お、おそれいります。正卿は趙主が秦に首をとられるを負けと決め、全軍のご出陣決められました。しかし、これにて我が軍は勝利適わず、せいぜい痛み分けとなります。その責を趙主にかぶせ処刑すれば、我が軍が負けたと宣言するに等しい」
臾駢は趙穿を救いたいわけでもない。趙穿が処刑されることで臾駢が趙氏に睨まれかねないという恐怖にかられ、しかし理を説いた。郤缺が、失礼、と声をかける。
「正卿におかれましては、議を決めぬとすわりが悪いかと思われますが、今は戦場です。全軍あげて趙主を保護し、秦と戦う。この策が決まったのです。時は一刻を争う。運良く趙主が戻られましたら、それはその時でよろしい」
戦いにおいて、時間は何よりも貴重である。趙盾は気づいたようで頷き、全軍出撃を命じた。郤缺は、荀林父を引き留め、声をかけた。
「中軍を真ん中に、上軍が右翼、下軍が左翼の展開となるでしょう。が、下軍はどうも頼りなく、中軍の
荀林父は少し目を伏せた後、郤缺を見て、言葉を返す。
「右翼は、郤氏だけでされるということですか」
左翼の面倒を荀林父がするのであれば、中央の隙を臾駢が補う。自然、右翼は郤缺しかいない。ただの計算の話である。
「左様。我が軍でこと足りる、とまでは申しませぬが、郤氏を信用していただきたい」
「……郤主。信じます。我が晋と秦が隙間なく食い合う戦いです。どこか一つでも穴があけば、崩壊します。私は下軍を見ながら中央を守ります。……狄の備えでこういった戦いは多かったのです。互いに務めましょう」
最後に、へにゃっと笑うものだから、郤缺は荀林父がやはりリスであると思った。このリスも果敢に戦うのであるから、勝てないにしても負けるわけにはいかなかった。
さて、秦軍である。思ったとおり、趙穿が出てきたため、秦軍は袋だたきに入った。誘い袋だたきにするのは、士会の得意技のひとつである。これで終わりか、これが餌かが士会としては見極めどころであった。
「晋が全軍、進撃してきましたよし」
斥候、物見全てが報告に来た。それを聞いた罃が、
「全軍、出てきたというが、どうするのだ?
と不安げに聞いた。趙穿を誘い出し叩き潰すまでは聞いていたが、その後を聞いていない。士会は思案顔さえしなかった。完璧な立礼でお声かけ頂きました、と挨拶を述べ、
「少々、秦軍の方々にはお手数をおかけしますが、晋と全力で戦っていただきます。すでにその差配も終えておりますゆえ、今、君公が号令するだけで策は動きます」
罃が、顔をゆがめる。
「この戦局がわかっておったなら、何故言わぬ」
士会の後ろに控えた繞朝も、さすがに思った。趙穿をおびき出し持久戦を崩す、ということまでしか誰も聞いていない。士会の布陣は趙穿を叩くためだけの指図なのだと、全員思っていたのだ。が、士会が、さらに罃に答える。
「これも、ありと思っていたまでなのです、
静かに、しかし深い声でなされる士会の言上は、聞く者全てを不思議と安心させる。罃は安堵の顔を見せると、戦場を見渡し、旗を振る用意をした。
士会は繞朝に向き直り、小声で話しかける。
「あなたには中軍を願いたい。あそこは一番柔らかいが手堅い保護者が多く、出血も多くなるやもしれん。下軍は現状のままいけばよい、あまり追いかけすぎぬことを改めて伝えてほしい」
客卿の士会には権限の限界がある。繞朝はそれを補い、他の大夫への橋渡しをしている。時折、小賢しい、と怒鳴られることもあるのだが、士会の策なのだと噛んで含めるように言えば、納得はされていた。――繞朝は実のところ言葉が少し強く、策が嫌なのではなく繞朝が鼻持ちならぬと思われていることに本人は気づいていない。
ともかく、繞朝は頷き、汝はどうするのか、と問うた。
「わたしは上軍にあたる。あそこは厄介な禽獣がいるので、下手につっつくと出血が大きく我が秦のほうが崩れかねぬ。ゆえ、わたしで押さえる」
繞朝は頷いた。士会が押さえると言えば、押さえるのであろう。
凍てついた空気の中、痛い風が肌を刺すことも厭わず、晋と秦は全軍で組み合った。まず、周囲をかこまれ袋だたきにあっていた趙穿を保護し、そのまま殴りあいとなる。互いに陣形を崩さぬようにしていたのは最初だけであり、まず下軍の陣形が崩れた。荀林父は横合いから秦軍を押し陣形を崩し、晋秦双方の陣形を崩した。もはや下軍が立て直すより双方崩れたほうが早いと思ったのだ。その崩れが中軍に来ぬよう、荀林父は混戦の中、差配する。彼の良さは幾度も言うが、目の良さである。それは時に過敏すぎて戦場で不利を招くこともあるが、今回は利を呼んだ。
郤缺の攻めは基本的に積極策であり、苛烈である。当初、目の前にいる秦軍を誘い込んでは袋だたきにし、押し進めることで、上軍と中軍の間を閉じ、秦軍の動きを阻害しようとした。つまり、右翼――秦から見れば左翼であるが――の敵を中軍の戦線区域に押し出し、その狭い範囲で立ち往生したところに、上軍と中軍で挟撃する策である。郤氏の苛烈で速い動きあってこその戦術であった。中軍の弱さを補う意味もある。
その郤氏軍に怖じたのか、秦軍が退いた。戦陣を組み直し再び攻勢に来ると察した郤缺は、
「立ち直るまえに潰せ」
と命じ、戦車による速攻を狙う。が、敵もさるもので思った以上に早く備え、押し出してくる。混戦になりかけ、郤缺は速やかに一時退却の旗を振った。速攻を狙いすぎたため、追撃の兵は多くなかったのである。が、退くところに噛みつかれ、郤缺は舌打ちした。これをちまちま助けにいけば、兵の小出しになる。しかたなく、郤氏全てを投入し、追い払う。そうなると、相手もさすがに逃げ、また組み直し向かってくる。今度は追撃兵ではなく、上軍の半分に対しているのに、なかなかに勇猛である。そのような秦軍が少しずつ頻発しはじめ、郤缺は当初想定していた戦術区域から己が外れかけていることに気づいた。慌てて退こうとしたが、すでに秦の兵が深く食らいついており、混戦になりかけている。ここでむりやり退却すれば、退却ではなく負け逃げになりかねない。その上、秦軍が逃げては食いついてくるため、無駄に追撃させられており、こちらの体力も兵力も削られている。
「私としたことが、何故気づかぬ」
当初、秦の動きに合わせたほうが郤缺の策に有利であったがため、追撃を幾度かくり返しているうちに、各隊が習い性のようになっていたのだ。そして、郤缺はこれが得意な男を一人知っている。
「
士会が戦場にいるなら、今回の策は全てあの天才の脳みそから出たものに違いない。秋からずっと、晋を探っていたのであろう。初めて会ったときに、郤缺の評判は風に乗ってきた、と言った男である。己の目による情報の精査を常に行っているあの天才は、晋の内部まで覗きこんでいる。
どちらにせよ、このままであれば、袋だたきになる。士会は相手がドツボにはまるまで引き回した後、死体蹴りのように叩き続けることを得意としている。
郤缺はこれ以上の進軍を止め、殴ってくる秦軍を殴り返すのみで留めた。元々、消耗戦であると割り切っている。ただ、もう少し有利な場所で食い合いをしたかったと、もう一度舌打ちをした。
さて、中軍の柔らかさは構成兵ではなく、趙盾の鈍さによる。この男は恐ろしいほど武がわからぬ。ゆえに、下手に任せると、ただ目の前の敵を見たままたたく、という幼児の遊びのようになってしまう。結局、旗下の各大夫たちが己の判断で動くしかない。それは軍の動きとは言えず、結果、弱兵となる。それを臾駢が必死に対処している。が、臾駢も中軍に命じるわけにはいかず、せめて動きを合わせてくれ、と言うしかなかった。中軍の大夫たちは悪い動きながらも、臾駢の軍に合わせて攻撃した。秦の中央はもちろん秦公罃を中心とした強兵であり、そこに繞朝が補佐をしている。最も早く互いに入り乱れた混戦となり、出血が早い。趙盾は後方で思わず爪を噛んだ。疎い己でも、中軍が厳しいのはわかる。同じ混戦でも秦は部隊が有機的に作用しているが、趙盾の手勢は個々で動き、潰されていた。
「退くわけにはいかぬ、ここが破られてはいかぬと、駢が言っていた」
何故破られてはいかぬのか、と趙盾は質問しなかった。聞いても分からぬと己でもわかっているからである。こればかりはどうしようもない。書をいくら読んでもわからず、人に聞いてもわからぬ。それを補うには他者を使うしかない。
「さて。郤主はどうもご多忙、ご報告が途切れた。荀伯は下軍のご面倒を見ておられるゆえお声かけ難しい。駢ひとりでは回らぬ、か」
あの男がおれば、便利だったのであるが。秦に亡命しためんどくさい男を思い出しながら、趙盾は使える道具を検索する。が、検索することもないと気づいた。きっとそれは声をかけなくとも飛んで来る。とても役に立つ良い子である。
果たして、中軍は司馬韓厥の軍の救援により息をつく。韓厥は臾駢に遊軍を頼まれた。消耗戦で痛み分けでは惜しい、つけそうなところを見極め攻撃してほしい、と。が、韓厥は冷静に、
隙は無し
と見て、中軍まで駆け戻ったのである。この若者の判断は重いながらも早い。
「……帰ったら
趙盾は、嬉しそうに呟いた。どうせ己は何もできぬ。であれば、口出しをしないのが最も無駄がない。
士会は、郤缺が諦めおとなしく混戦に落ち着くと、配下に任せて単身退いた。御者は混戦など意に帰さないように進め、
「郤氏の兵は怖いことだ」
苛烈極まりないとはこのことである。食いついてくると引きちぎり方がえぐい。士会は、策が力技で潰えそうだと思ったのは初めてであった。おびき寄せた獣が猛獣で、足を食われれば意味がない。が、なんとか士会の手の中に突っ込んだ。今頃、郤缺は腹を立てているに違いない、と士会はくつりと笑った。武で名高い郤氏と一戦かまえたのは、自慢になる。勝ちをとったなら、なおさらであった。
さて、と士会は戦場見渡せる秦の陣で、状況を確認する。上軍はもう動けまい。郤缺は頭が良く、消耗戦であるからこそ無駄な出血を嫌うであろう。下軍に対しては予定どおりである。
「野ウサギなだけに耳が良い」
下軍の面倒をちょこまかと見る荀林父を士会は褒めた。が、そのような動きをしているぶん、疲労も多いであろう。中軍は韓厥と臾駢の兵で持っている。臾駢はともかくあのガキは思ったよりやる、と士会は少々感心した。空を見上げれば日はだいぶ傾いてきた。全力の戦闘である。人間の体力というものは、限界があり、それは個々差があれど大きく見れば同じようなものである。
しばらく時を計った後、士会は罃のところへと向かった。混戦に巻き込まれかけていた罃を守るように動くと、晋軍に幾度か矢を放ち、牽制する。
「我が君。そろそろ退却です。我らはもう限界に近い、そして、あちらも同じ。我らが退けば晋も退きます」
士会の言葉を罃はもう疑わなかった。退却の合図をし、むりやり晋を引き離す。晋も追いかけなかった。戦線は完全に崩れており、消耗している。追撃するにせよ休むにせよ、一旦退いて立て直すしかない。が、一旦退くと兵は動けぬ。秦と晋は一時退却のあと、対峙し、そのまま日が暮れようとしていた。
「使者を立てます。そうですな。できるだけ、素直なかたがよい。わたしの言うことをそのままお伝えしてほしい」
みな、疲れで目が泳いでいたが、士会だけが疲れひとつない顔で進言した。繞朝は、ここまで頼もしい男が秦にいるのだと、しみいるように感動してきた。秦が中原の中心になる日も、近い、とも思った。
晋は秦が陣を敷いている以上、退くことはできない。また、守りを崩して出たのである。会戦の構えのまま、夜を過ごすしかない。そのようなおり、臾駢の元に秦の使者が来た。
「私にか」
臾駢は少し首をかしげた。臾駢が軽輩であるのは、少し調べればわかる。ということは秦に、策を立てた中心と見透かされているということである。戦場の動きだけでそれに気づくものがいたのかと、内心恐ろしいほどであった。実際は開戦以前からかぎつけられていたのだが、さすがにそこまで思い至らない。
使者は、疲労を隠さず口を開いた。
「本日の合戦では両軍ともにさしたる痛手は受けておりませぬ。明朝にまた、ひと合戦いたしましょうぞ」
確かに、晋の痛手はそこまでではない。元々持久戦を考えていたのである。既に兵力は息を吹き返しはじめており、日暮れ近い今からでも追撃できるほどである。が、秦はいかがか。痛手を受けておらぬというが、その言葉こそ罠ではないか。その証拠に、使者は目が泳ぎ、言葉も何度もつっかえ、怯えまで見えた。
「今こそ討つとき」
使者を見送った臾駢が言い切り、趙盾へ報告へ向かおうとしたとき、趙穿が止めた。臾駢にとっての不幸は、使者が来たときに趙穿と、そしてたまたま報告に来ていた胥甲がいたことである。一人で使者と対峙するわけにいかず、趙穿と胥甲が立ち合ったのである。
「何が討つときだ」
趙穿がつっかかるように言う。臾駢は仕方無く、噛んで含めるように説明を始めた。
「あの使いのものは目が落ち着かず、言葉も
あまりにも明確な戦術に、趙穿は吼えた。
「我が軍の死傷者をほったらかし見捨てて追撃するのか! これだから小者は慈愛がない!」
よもや戦場で、子供のたわごとを聞かされるとは思わず、臾駢はぽかんとした。何を言われているのかわからないほどであった。ここで、胥甲ではなく欒盾がいれば、趙穿をたしなめたであろう。欒盾は臾駢が正しいか趙穿が正しいかはともかく、上席を重んじろ、という価値観である。しかし、胥甲という儀にうるさい男がいたことは、臾駢のさらなる不幸であった。
「使者に約定をしたのではないか。互いに朝に戦おうと決めたからには、それを守るのが君子というものだ。約した朝を待たずに敵を窮地に追い込むは卑怯である。臾子は大夫として格が低いから、卑怯も辞さぬのか。晋の卿として恥ずべき考えであろう」
それは建前であり、戦場はそうではない、と臾駢は抗弁しようとした。が、己より格の高い家の主二人に睨まれ、口を閉じた。ただ、使者のことは報告せねばならぬ。そう言えば、胥甲が首を振る。
「どうせ明日の朝に戦うのだ。わざわざ正卿をわずらわせぬとも良いだろう。軍は休ませねばならぬ、無駄に貴き方々を右往左往させるのも卑しい行為だ」
そう言って、胥甲が臾駢の進言を全て握りつぶしてしまった。胥甲という男は
臾駢が睨んだどおり、秦は夜に退却してしまった。
士会は、むろん、晋が追撃してきたときの策も考えていたが、十中八九来ぬと見ていた。臾駢の隣には生き残った趙穿がいる。あのものは、己が悪いのではなく臾駢の策が悪いがために、危機にあったと思っているであろう、甘えるしか知らぬ、責のとりかたもしらぬ子供はそういうものである。臾駢は趙盾に忠実であるが剛直ではない。趙穿に怒鳴られれば引っ込めざるを得ない。士会はさすがに胥甲も一緒に臾駢を叩きまくったとは思わなかったが、読みどおりなのは確かである。
撤退、という言葉に罃が暗い顔をした。せっかく取った覊馬の維持が難しいではないか、と口を尖らせた。士会は、安心させるような笑みを浮かべ、うやうやしく頭を垂れた。
「この会は、君公に晋の要地を必ず捧げますゆえ、しばしお待ちを」
そう言い切ると、士会は次の差配をした。
翌朝、晋に二つの凶報が襲った。ひとつは、秦軍が消えていたことである。夜陰にまぎれて静かに撤退していたのだ。軍議で、なぜ誰も気づかなかったのかと臍を噛んだ。その際、胥甲が蒼白になっていることに、趙盾は気づき、
「何かご存じであったのだな?」
と、問うた。胥甲はあえぐように臾駢を見たが、臾駢は何も応えなかった。臾駢を己の理屈で屈服した胥甲である。今度は己の理屈で趙盾を説き伏せれば良い。臾駢の態度に、胥甲は腹が冷えたまま趙盾を伺った。この宰相は詐術を嫌う。ごまかし、詐術、嘘をしてきたものどもは、全て殺され晒されている。胥甲は、素直に情報を握りつぶしたことを言った。郤缺は渋い顔を隠さず、荀林父さえも冷たい顔をした。晋は全軍、覚悟して消耗戦を行ったのである。それを軽く考える卿であったのだと、その場にいる全員が冷えた目を胥甲に向けた。
「しかし、これで覊馬を取り戻す算段ができよう」
趙盾が気を取り直したように言った時、急使が来た。その使いは、戦場を今抜け出してきたといわんばかりの、血と土で汚れまみれていた。しかし、この戦場の者ではない。
「突如、秦軍が現れ、我が守る地が落とされました、
二つ目の凶報である。その場にいるもの全てが、頭を殴られた顔をした。趙盾が、ひゅっと喉を鳴らし、体を崩した。彼はきっと生まれて初めて、姿勢を崩したに違いない。荀林父も力無く項垂れている。郤缺はなんとか耐えたが、手を握りすぎて爪が傷つけ血がうっすらと溢れた。蒼白だった胥甲はもはや黄土色のような顔色となる。政治に疎い欒盾でさえ、事態の深刻さがわかり、臾駢は、声も無く泣いた。
瑕は、恵公の時代に秦に譲ると謀ったほどの、要地である。その約定を何度も出されては、反故にしてきたのが晋である。この覊馬よりも、よほど重要であり、急所のひとつであった。
秦は、覊馬を攻め晋を河曲に縫い付けた上で、本命の瑕をあっさりと奪っていったのである。ではこの河曲に来るべきではなかったか。否、この覊馬からさらに侵攻されれば、晋の首は刎ねられると同義である。
「……士季! してやられた」
郤缺は呻いた。あの男の視野は己のはるか上を行く、この世に二つとない才である。しかし、秦では誰も使えぬであろうと甘く見ていた。あのような天才は誰も恐ろしくて近づけぬ、と。
「そうか、あの男か。面倒な、あの、男!」
趙盾が、床に拳を叩きつけた。荀林父が、遠い目をしながら、ぽつりと、
「負けました……」
と呟いた。
完敗である。晋は、文公即位以来、これ以上なく、何も言い返せないほどの負け方をした。
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