第50話 天籟を恋う
年明けすぐに晋は
「私の不徳ゆえに君命をはたせず、申し開きもございませぬ。我が君におかれましては、お怒りのことでしょう。しかし、三軍の将、佐、大夫、兵にいたるまで、こたびの戦にて遺漏ない働きをいたしました。秦に力及ばず一敗地にまみれたことは重々承知なれど、ご寛容のお心をお示しいただければ、我らは
趙盾は本気で詫び、夷皋を讃えているのであるが、夷皋は文句を言うな、という趙盾の脅しだと思い、怯えた。夷皋はこの年ようやく数え十四才、実年齢でも十三才であったと思われる。深い思考はできぬであろうが、そろそろ己で判断できる――と、思い込む年である。実際の所、十三、四才程度の子供が複雑な政治判断ができるわけがないのだが、己は大人に近いと最初に思う時期である。それを趙盾は意に介さず、夷皋に首振りだけをさせていた。夷皋はいいかげんにしてくれ、と癇癪を起こしても良いのであるが、趙盾が恐ろしくて黙り込む。
朝政でさえ、微妙にかみ合わぬ君主と宰相の空気であった。しかし、
夷皋は完敗の謝罪もそれに対する対策も
「許す」
と言うしかなかった。趙盾は薄い表情で拝礼すると、もうお疲れでしょう、お休み下さいと夷皋を政堂から追い出した。九才の時から扱いを変えていない。趙盾の中では、夷皋はいまも冬の日に怯えていた幼児のままなのかもしれなかった。
さて、瑕に対する当面の対処は決まったが、秦に対する根本的な対策は決まっていない。春の間、瑕を睨み秦に備えていたが、動きはない。大規模な侵攻のあとであり、追い討ちをする体力が無いのか、違うのか。晋は見極めることもできず、東国へ目も向けられぬ日々が続いた。史書に河曲及び
どちらにせよ、
この、晋にとっての膠着状態は夏に入っても変わらなかった。動けぬ理由に、河曲の戦いにおける、
「おそれいりたてまつります。春の間、我らは何もできず動けずですが、これ以上は秦だけでなく、狄、東国の問題に支障が出ます。しかし、秦には我が晋の情報がかなり漏れていると思われます。慎重にことをすすめるべきかと、言上いたします」
荀林父が趙盾へ言った。郤缺も頷く。
「策を考えるに、こちらの人事全てを掌握されていたでしょう。今後の対策も漏れぬよう注意すべきが肝要。しかし、何もなさずは立ち枯れる」
士会がどこまでを把握していたかなど、わかりようもない。が、少なくとも河曲での戦いで、
「……本来、まつりごとは政堂で行うが正道ですが、そのようなことであれば場所を変えましょう。もし、この
格式にこだわる趙盾には珍しいことを提示し、数日後、六卿は君主を都に残して
郤缺は、夏特有の雨の音を聞きながら、仮の政堂へと足を踏み入れた。常のように趙盾が既に座っている。この男は、いつも最初に席にいる。かつて、父親の
「……
趙盾が座した郤缺の軽口に薄い表情を向ける。何の意図か、という顔であったが、
「些事です」
とだけ返した。余事である、と返さなかったあたり、彼も花を見たのだ。本来は情深い男であるため、何かしら感じ入ったものはあっただろう。郤缺は微笑して姿勢を正し、なおも口を開く。
「
郤缺の言葉に、趙盾は
「天籟。――天の声をただ欲するのみです」
と薄い表情のまま返した。この室にまで、雨の流れるような音がさあさあと響き、雨だれの音がぽとぽとと聞こえてくる。郤缺はあばら屋以下の住処でこの雨に耐えた時期がある。趙盾も掘っ立て小屋のような生家で雨期を過ごしていたであろう。それが、いまや晋の正卿と三席であった。
そのうち、全員が揃い、趙盾が口を開いた。
「みなさま、仮の政堂にてご不都合あれど、お集まり感謝する。こたびの議です。
簡潔な議であったし、これ以上の問題はない。士会が秦に身を寄せ散々な目にあわせてきたことはもちろんであるが、その直前に狄が悩ませたのも記憶に新しい。むろん、
「おそれながら申し上げます」
荀林父が口を開いた。
「賈季をお戻ししてはいかがでしょうか。このたび、私のほうからお土産はお渡ししませんでしたが、賈季は晋への未練を残している様子。あの方は内政は不得手ですが、武の他、外交の手腕はございますし、狄への牽制にもなりましょう。また、文公功臣の一族でもあります。
狄への嗅覚が強く、そして常識人らしい発言である。狐射姑は晋へ戻りたいという色を出している。そうであれば、恩を売ることになり、また、上手くすれば狄を使うこともできる。秦が工作したように、晋も狄を使い秦へ圧力をかけることも可能であろう。――とまあ、郤缺は頷きながら、やはり荀林父は政治勘が悪い、と久々に思い、苦笑した。
「よろしいか、正卿」
趙盾が、促す。郤缺は柔らかい笑みと声音で、言葉を紡ぎはじめる。
「
荀林父が、あ、という顔をしたあと、身を縮こませた。彼は見当違いのことを言ってしまったのだと内心情けないのであろうが、実のところそこまで的は外していない。罪を許して戻し、絶対的屈服をさせるのも一つの手ではある。が、その常識的な考えでは根本的な解決にはならぬ。そして、だからこそ、荀林父は叩き台にぴったりなのだ。
「賈季は戻さず、そのまま飼い慣らせば良い。呼び戻すなら士季だ。あの男は慎み深く恥を知っている。本質は素直で曲がったことのできぬ性質だ。あの男の知謀は役に立つ。何より罪が無い。そして彼のものを呼び戻せば、秦の国力も落ちます」
柔和な笑顔でみなを見回しながら郤缺は言い、最後に趙盾へ顔を向けた。趙盾はむろん、賈季などより士会のほうを好んでいる――役に立つという点で。しかし、郤缺の言葉には、一つ、穴がある。
「おそれいります。末席から発言をよろしいでしょうか」
欒盾がおずおずと発言した。趙盾はもちろん許可した。欒盾は、政治に極めて疎く、どうあがいても素人である。ゆえに、つまらない発言をするが、時には役に立つと趙盾は判断している。先だって、上席の固定概念を壊したのは、素人の欒盾である。問題を省みる壁うちともいえた。
「みなさまがお考えであれば申し訳ございません。賈季は罪あり仕方無く亡命したよし、お声かけすればお戻りになるでしょう。しかし、士季はご自分でお決めになり、財の処分も含め誰にも迷惑をかけぬよう差配して亡命された方です。そのような方がお呼びしてお戻りになるのでしょうか」
「
欒盾の問いに、趙盾が思いきり同意した。欒盾が目を丸くして、荀林父や
「私も同じ疑問がございます。士季は大変才ある方ですが、意志の強い方でもあります。我が晋のまつりごとを良しとせず、しかし口出しする立場でないと潔く国を出られた方。呼んだとてお戻りになるのか、わかりません」
胥甲は反応しない。彼は河曲の戦い以降、針のむしろであり、議に頷くだけで手一杯なのである。臾駢はこの場にいない。軍官僚に近い立ち位置の彼は瑕への牽制を考える立場となっており、政治に口出しできぬ軽輩でもあるため、来ていないのだ。
「我らが、士季を戻したいと思っても、あの男が頷くと思えぬ。あの男はあなたもおっしゃるように曲がったことは好かぬ、恥を知っている。賈季のように賄賂をちらつかせるわけにもいかぬでしょう。
趙盾が郤缺に向かって、常のような淡々と薄い顔で問うた。言外にもったいぶるな、さっさと言え、が込められており、郤缺は少々楽しくなってしまった。趙盾が実は極めて短気であることを、この場ではきっと、郤缺しか知るまい。
「その通りです。士季は戻ってきてくれと訴えても帰りませぬ。ゆえ、
以下、郤缺の計略に荀林父は、ひどい、と小さく呟き、趙盾は静かに頷いた。欒盾はそんなことができるのか、という顔をする。全てを聞き終えた趙盾は感慨もなさそうに口を開いた。
「それではその差配、郤主の言うとおりにしよう。さて、
胥甲は項垂れた。卿の任にあたわずと辞めさせられるのである。しかも、代わりがおらずしぶしぶ置いてやっていた、という恥辱つきであった。が、申し開きもしようがない。胥家の恥として無聊をかこつしかなかった。ただ、胥甲が考える以上に、趙盾は政治的な男であった。
「しかし、卿をただ辞めされば先の戦いに関係があると他国で噂になる。それは私としても避けたいですから、胥子には君公のお相手をしていただきたい。あなたは儀を尊ぶ方です。
今、夷皋は決定権も何もかも剥奪されているため、君主の傍らに配されるのは栄転とは言いがたい。が、胥甲の体面だけは守られ、趙盾としても秦との戦いで罰せられたものがいない、という建前はできる。胥甲は、全て受け入れると、拝礼した。
さて、士会である。いくら彼が天才であろうとも、晋の新しい対秦方針が、士会を晋に戻す、だとは思わぬ。秦としては、さらに晋を削りたく、士会にほぼ丸投げしていた。年明けから春まで、晋にまともな動きは無い。瑕に対する警戒を強めているくらいである。こうなると、瑕から足を伸ばすのは少々おっくうであった。
「まあ、それなら晋の軍を割ることはできる」
河曲と河南のどちらから秦が削るのか、晋はわからぬであろう。瑕から目を離せぬ以上、そちらに兵はさかねばならぬ。自然、どこから侵攻しようが、晋は全軍で挑んでこれない。そのようなおり、晋内部で、粛正が起きかけている情報が出た。
「
前年、河曲の戦いにおいて、魏寿余が軍律を犯し、先走って戦列を乱した上に、秦の退却を知ってて見送った、という罪に問われているのである。魏寿余は文公遺臣の一人、
河曲の会戦において、軍律違反をしたのは趙氏である。趙穿は謹慎となったようであるが、それ以上の処罰はない。趙穿を止められなかった臾駢も責を問われておらぬ。士会はいくつかの情報を前に渋い顔をした。
「……代わりのいけにえにでもするのか? そうなれば、趙孟も見下げ果てたものだ」
士会は晋を完膚無きに叩きのめした。言い訳しようのない敗北を与えている。本来であれば、趙穿は責を問われているはずであったが、それをかばい、代わりに魏氏を出してきた、としか考えようのない話であった。しかし、士会は呻いた。趙盾は強権主義の度し難い男であるが、正道を好みはする。罪のない魏氏を罰するであろうか。
そのようなおり、
「西の堂々たる大国にご挨拶申し上げます。前年は素晴らしいお土産と共にご挨拶いただいたのに、私どもの主がどうしてもお受けできず、お戻ししてしまったこと、ご友誼結べなかったこと、失礼をお詫びすると共に残念に思っております。こうして書をお送りいたしましたのは、我が国が仕えております晋のことでございます。今、晋は正卿と他の卿の間で深い諍いが起きており、そのため氏族も不安がっているとのことでございます。せんだって、正卿はみなさまを黙らせるためと、文公に寵愛を受けた魏氏を滅ぼす所存、これを憂えた晋人が私どもに仲裁を求められました。しかし、我が魯は力無く、大きな国に対してあれこれとお指図できる立場ではございません。つきましては、西の大国、秦におかれましては、晋に対し強く出られたご様子。もし、晋人からのご相談、訴えございましたら、お話をお聞き頂けますでしょうか」
読み上げられた書の内容に、秦公
士会も、己の集めた情報との符号に納得する。魏氏は、河曲の戦いをごまかすための冤罪ではなく、趙盾と他の卿の権力争いに巻き込まれ、不幸にも犠牲になりかけている可能性が高い、ということである。今、六卿の中で趙盾に反旗を翻し、なおかつ他の卿も巻き込めるものを考えれば、能力としては郤缺である。が、状況に少々野蛮なにおいもある。そうなれば、趙氏と
「いかがであろう、
罃が問うた。これは、今、晋をつつけぬか、という意味である。士会はもちろん察した。
「おそれながら申し上げます。魯のお話をお聞きするに、我が国に晋人が頼る可能性がございます。そうなれば、晋から人材は減り、我が秦に人が増える。ここは力でおさず、お迎えの準備をするが良いでしょう」
罃は鮮やかな勝利を望んでいたが、士会が戦争を否定するなら、仕方無し、と受け入れた。
座して亡命するかどうかを願うなど、士会の性に合わぬ。晋内部が揺れているということであれば、やることは攪乱である。流言飛語は強力な武器である。と言っても、嘘は流さず、士会が秦で重用されている、秦は怨み無く晋人を登用する、という噂を静かに浸透させた。さっさと魏氏がその気にならねば、粛正されつくして趙盾の新たな牙城ができるだけである。
魏寿余は、文公遺臣の一族らしく、一途であった。晋は、彼一人を罰するために、家族を捕らえるという蛮行に出た。こうなると、魏寿余が一人逃げ出すか、家族と共に処刑されるか、ということになる。が、その蛮行こそが魏寿余の目を覚まさせた。彼は間一髪で家族を救い出し、そのまま秦に亡命してきたのである。
ほぼ、身一つで逃げてきたのであろう。風雨にさらされ薄汚れた魏寿余と家族が、秦の国境を越え、必死に歩いていた。網を張っていた士会は急行し、保護をした。
「秦人か。私は畢万が末、
晋において、叔は次男以降の
「わたしが士季だ。我が秦は優しき君公のもと、みな清廉に尽くしている。あなたのような武に強い一族がお越しになるのは、ありがたい」
「いまだ晋では卿同士、氏族同士が互いを疑い、喉笛を食い切ろうとしておる。あのような国に愛想はつきた。私のようなものはこの後も来るやもしれぬ」
魏寿余が暗い顔をして言った。士会は、失礼、と一言ことわり、その肩を優しく撫でた。魏寿余は非礼を怒らず、感謝を述べた。
罃は、魏寿余の亡命を喜んで受けた。腹の据わった武人然としながら、所作に洗練されたものがある。そこは周都から流れてきた武の一族である、勇猛さはあっても野蛮さは無い。また、人なつっこさがあり、
「もはや晋は過去のものでございます。士季より秦公はとてもお優しきかたと伺いました。かなうのであれば、この
士会の例もあり、あっさりと許された。前年、勝利したことも大きかったであろう。また、魏寿余が秦に登用されたと噂が飛べば、さらに亡命者が押し寄せる。秦は手を広げるだけで、人材が増えるというものであった。
さて、当初は明るい顔をしていた魏寿余であったが、日が経つにつれだんだんと暗い顔になっていった。さすがに、周囲が気にして声をかけると、
「魏の地に一族がいる。我が祖、畢万は全ての一族を連れ亡命したのだ。が、私は己の家族だけというていたらく。なんとか書を交わし、こちらへ来ぬかと伝えたが、魏の地を捨てられぬと返される。が、そのままであれば、族滅し、我が魏の地は蹂躙されるであろう。そう思えば、苦しい」
秦人は驚き、そして同じようなことを言われた繞朝も同情の念を寄せた。他の秦人は、それはおつらいでしょう、で終わったが、繞朝はなんとかしてやりたくなった。
「どうにかして一族を呼び寄せられぬか、考えてみるが」
魏寿余が首を振る。
「それならば、いっそ魏の地を秦に捧げたい。あの地は河曲のすぐ東側にある。秦にとっても良き地になり、晋からすれば要地を取られることとなる。ゆえ、我が一族を滅ぼし己のものにしたいのであろう」
その言葉に、繞朝は、それだと手を打ち、魏寿余を連れて即座に参内した。つまり、魏寿余が呼びかければ、念願の河曲東にある要地が手に入るのである。それを聞いた罃も身を乗り出した。兵を使わず敵の要地をとれるのは、兵法でも最優である。むろん、士会も呼び出されたが、この男ははしゃがなかった。
「魏叔。あなたが何度も呼びかけても来ぬ方々であろう。それを、秦の地に入る、とすんなり頷くであろうか。逆に弓を持ち命がけで抵抗しかねぬ」
魏寿余も重く頷く。全く以てその通りである。
「残された一族のものは、まず秦に怯えているのだ。むろん、魏の地を離れたくないというのは本当であろう。が、私がむりやり書を書かされ、詐術の片棒をかついでいるのだろう、と疑っている。秦公はお優しいと何度も書にしたためてはいるのだが」
この言葉に、罃が噴飯し、そして悲しんだ。己の徳は全く広まっていないのか、と悔しさもある。士会はその様子をやはり察し、罃をなだめた。
「我が君。晋は裏切りと詐術で成り立っている国なのです。ゆえ、どうしても疑心でものごとを見る。我が君直々の書を魏叔の書と共に送ってはいかがかと言上つかまつります」
士会としては、魏の地にこだわる必要はない、とは思っている。手に入れば運が良い、という程度である。重要なのは、晋の内部を腐らせることであり、なるべくなら有能なものが亡命してくることであった。
この、罃の書は半分は成功した。魏の地にいる長老たちは心を動かし始めたのである。が、やはり疑いはなかなかに消えない。
――魏寿余と、信用できる晋人と、直接話したい
河曲の西側に秦が陣を張り、東側に魏の人々が用意し、来て欲しいということである。そうして、納得すれば秦軍を魏の地へ案内する、納得しなくても希望者と共に魏寿余は秦に戻れば良い、ということであった。
「士季に頼みたい」
罃の前で、魏寿余が深々と拝礼した。正直、士会は困惑した。士会は別に魏氏と面識は無い。魏氏に信用できるかどうかを保証するのは目の前の魏寿余でしかない。魏寿余が説得できぬものを士会が説得できようか。が、秦人は士会へ過剰な期待を寄せていた。罃もそうである。
「会であれば、説得できるであろう。昨年、会は私に晋の要地を捧げると誓い、成した。今回もきっと成してくれると信じている」
ここまで言われれば、士会も辞退できぬ。何やら、趙盾に策を丸投げされたことを思い出した。似て非なる状況であるのだが、どうも、何かが掛け違っている気がしてきたのだ。
かといって、晋の情報は緊迫しているため、矛盾は無い。内部の魏氏の亡命により、静かな緊張が走り、いつ乱が起きてもおかしくない、と士会は判断している。ちりちりとした違和感のなか、士会は出立の前日に、魏寿余に礼を言われた。
「士季のお力添えで、我が願いが叶う。汝に会えなければ、私は未だ『
古詩をさらりと言うあたり、武に強くとも元は周都の一族である。士会は久しぶりのやりとりだ、と笑む。
「
国の乱れを厳しい冬に例え、そこから逃げだそうという古詩である。まさに、互いにぴったりであると、二人は笑った。そうして。
そうして魏寿余は、無礼にも士会の足を踏みつけて去っていった。
士会は、しばし茫然とした。どう考えても、意図的に足を踏みつけていったのである。このようなとき、常人であれば、怒るか、相手を軽蔑して終わる。が、士会は常人ではなく、即座に意図を察した。無礼や非礼、失礼という問題でもなく、魏寿余が蔑んだわけでもない。魏寿余は、今までのものは全て詐術であると、示したのだ。
今から己一人で罃やそのほかを説得できるか考え、即座に無理だと結論を出した。すでに魏寿余を信用しきって要地が手に入ると浮かれている彼らである。魏寿余が謀っていると言っても、話は通じないであろう。それどころか、士会がこの任務を厭うている、と考える。実際、士会の反応は鈍く、魏寿余は何度か、皆の前で、士会に懇願している。
士会は慌てて繞朝の邸に向かい、開口一番、
「謀られた。魏叔そのものが、罠だ」
と言った。繞朝は、先触れなしに来た無礼にかなり腹を立てていたが、士会の異様に怒りが冷めた。
「どういうことだ。魏叔は勤勉に働いている。刺客であればとうに動いていたであろう。魏の地に罠があるというのか」
晋がおびき寄せるということか、の意味である。しかしそれにしては小規模すぎる。士会は半分当たっているが、と前置きし、
「わたしを殺すつもりであろう。魏叔がわたしを河の向こうにつれてゆく。そこには、怨みをもった晋人が囲んでくる、というわけだ。陰険な手だ」
あまりの陰険で非道な策であり、士会も想像が及ばなかった、というのはある。また、己一人を殺すためにここまでやるか、という呆れもあった。
「魏の地に関し、わたしが少々腰が重かったのをみなは見ている。それを魏叔が、今考えると大仰すぎるほど請うてきた。ゆえ、わたしが今辞退すれば、場が歪む。君公は魏の地が手に入らぬとご不快になり、他の臣の方々はわたしが増長していると見て、それを魏叔の泣き落としが拍車をかける。秦が乱れるか、わたしが死ぬか、だ。どちらもごめんこうむるので
余人であれば考えすぎだと笑い飛ばしたであろう。が、繞朝は士会という男が言うのであればそうなのだ、ともはや知っている。
「承知した。明日、出立前にその議を君公へ奏上してみよう」
繞朝は、士会の願いどおり、罃に思いとどまるよう訴えた。士会を単身、晋に向かわせる危険であり、謀略の可能性とも忠告したが、罃は意味がわからぬ、と切り捨ててしまった。
繞朝の言葉は通じず、士会は黄河西の対岸まで連れられてしまった。ここで、己が一言なしに連れ去られ死ねば、秦に様々な遺恨を残す。何より、士会は死にたくない。この男は、潔く鮮やかであるが、死に陶酔するような趣味はない。
「率爾ながらおそれいりたてまつる。今、ここでこのようなことを申し上げること、お許し下さい。この会といたしましては、やはり辞退したい所存。魏叔の前で申すは非礼なれど、晋人は虎狼のようなもの、詐術と恫喝を好み、そして人を喰らうに躊躇も無い。河を渡り、晋人の言うとおりにしなければわたしは殺されるでしょう。が、言いなりになって秦を困らせることがあれば、わたしの妻子はご処分とあいなる。そうなれば、君公に対してもお役に立てず、わたしも後悔しても及びませぬ。いま一度、お考えを改めていただくこと、かないませぬか」
士会の、決死の嘆願を、罃は軽く笑い飛ばした。
「会が慎重であることは良き。しかし杞憂だろう。が、まあこの河に誓おう。かりに汝が晋の言いなりになり、魏が入らぬとも、妻子は送りとどけよう」
全く通じていないことに、士会は絶望しながらも、妻子が無事というところで妥協せざるを得なかった。きっと繞朝が面倒を見てくれるであろう。士会の子である
「すまぬ。我が君は忠告を聞き入れて下さらなかった。秦人を愚か者ばかりだと思わないでほしい」
繞朝も暗い顔をしていた。士会は静かに顔を振り、あなたが秦を支えて欲しい、と返した。他の臣はやはりどこか鈍くささがある中、繞朝だけが知恵を働かせている。
「士季。案内つかまつる」
魏寿余がいけしゃあしゃあと笑む。以前なら男ぶりを感心したが、いまや不快でしかない。迎えに来ていた晋人の舟に乗り、士会は東の対岸に着いた。すぐ殺されるかと思っていたが、うやうやしく迎え入れられる。まさか本当に魏の地が入るのか、と一瞬考えたが、空気は恭順ではない。これは、達成感である。
東側の、陣営の真ん中に入りきったとき、晋人の歓声がわいた。秦公罃は、話がついたのだと思い、待っていたが、あろうことか晋人たちは、そのまま帰っていくではないか。
「どういうことだ!」
罃は愚かにも叫んだ。繞朝が重い顔をした。目の前で士会が殺されなかっただけでもマシと思うしかなかった。
馬車にむりやり乗らされ、たどり着いた先の邑で放り出され、歓迎された士会は、仏頂面であった。
「しばらくぶりです。才あるあなたに何度もご足労いただくのはご面倒かと思い、いっそ故国でゆっくりとお住まいいただいたほうが良いと、お招きしたしだいです。古詩にも『
常の。そう、記憶にしっかりと残る常のような薄い表情で、趙盾がすらすらと言って立礼した。立礼も嫌になるほど美しく見事な儀である。見回すと、郤缺がにこにこと見てきている。
「あんたか」
この、魏氏への粛正、魯からの書、晋が割れているという偽情報含め、全てが郤缺の仕業か、と聞いたのである。むろん、郤缺は士会の言いたいことがわかった。
「我が晋は党もなく乱もなく、正卿の元みな君公のために尽くしている。ついでに私と
この年の、晋の対秦戦略を一言でいえば、士会を誘拐すればよい、であった。郤缺は士会が情報を極めて重要視していることを知っており、そして秦がそれについていけるわけがないと思っていた。士会いをはめるには、士会の周囲をはめるしかないのである。
「士季の
「一回黙れ」
べらべらと新しい人事を垂れ流す趙盾に士会は手で制した。趙盾が少し不思議そうな顔をする。何故、止める、という顔であり、お前はわかっているだろう、という傲慢である。士会は苦い顔を隠さず口を開いた。
「察しろはやめろ。きちんと言え。わたしに何をしてほしい」
「言わずとも――」
「趙孟。士季はこのようなところ、めんどくさい男ですから、きちんと口にしてやりなさい」
趙盾の言葉にかぶせて郤缺は笑いを堪えながら言った。笑劇の一幕にしか思えず、本当は腹をかかえて笑いたかったが、そこは耐えた。
「まずは秦をなんとかしていただきたい」
お願いではなく、命令である。士会はうなじを一瞬だけ掻いた。どうも虫に刺されていたらしく、かゆい。
「わたしが亡命したときから世話をしてくれた大夫がいる。
こともなげに言う士会に、よろしく願う、とだけ趙盾は言い、郤缺も特に驚かなかった。ここに荀林父がいれば顔を引きつらせたであろうし、他のものも恐怖にかられたであろう。――かつての繞朝のように。
士会という男は天に愛された万能の天才であり、人格者でもある。恥を知り、人を辱めず、謙譲を知り、礼儀を知っている。適材適所が上手く、人ができぬことは己で率先して行い、功は他者に譲る。ここまでは完璧な人間であるが、この男は過去への感傷というものが完全に欠落している。切りかえが理解に苦しむほど早く、過去を全くふり返らぬ。秦で忠を誓えば、過去の晋に対する郷愁も興味もなくなり、晋に呼び戻された瞬間に、それまでの秦への忠心も期待も消える。極めて理の男であり、情がきちんとあることが奇跡のような異常者である。
少し知恵があるだけで凡人の繞朝が怯えるのも仕方がなかった。その繞朝であるが、士会の宣言どおり、晋の間諜という冤罪で処刑されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます