第19話 巨木、倒れる【急】
僖公は
さて、偉大な君主の死に、国中が
空模様は悪く、告知された日の夕暮れに雨が降り出した。
――天まで惜しみ泣いておられるのか
昨年の、重耳との対話を思い出しながら、郤缺は邸から一歩踏み出し空を見上げた。あの時、すでに重耳は己の死を知っていたのではないか。ゆえに、郤缺を呼び、
「それは、虫が良すぎるというもの」
郤缺は枯れた声で呟く。嘲りの響きがあった。雨がぽつぽつと、頭や顔や、そして服にあたる。刺すように冷たい雨であった。なおも一歩、二歩歩き出すと、御者が駆け寄ってくる。
「お出かけでしょうか、主」
地に座り声をかけた忠実な御者に対し、郤缺はぞんざいに手を振った。彼らしくない所作で、さがれ、としたのである。が、御者は意固地になったのか、立ち去らぬ。己を呼ばぬなら邸に戻れ、と言いたいのであろう。
「出かけるが、車はいらぬ。歩く」
郤缺はそう言い放つと、せめて雨よけの、などと叫ぶ御者を無視して門を出た。
晋の都とは思えぬほど、静かで誰も見かけぬ道を、郤缺は夢見心地で歩き続けた。雨はどんどん酷くなり、夕暮れだというのに真夜中のような暗さとなっていく。徒歩など、
そうしてたどり着いた場所で、門衛が驚きの声をあげた。
「げ、
常は沈着な彼らが慌てふためいている様子がおかしく、郤缺はくつくつと笑った。麻の衣はぬれぼそり、体にびったりとまとわりついて不快なほどであった。
「……いえ、約束などしておりませぬが、とりついでいただければ助かるというものです」
ふんわりとした笑みを浮かべる郤缺に、門衛たちは困惑しながら、お待ち下され聞いて参りますゆえ、と応じ、誰かが邸の中へ走っていった。敵が攻め入ったわけでなし、あのように慌てるとは、存外脆いのか。
「
極めて小さく呟いた声は、雨の音にかきけされ誰にも届かなかった。
さて、
「郤主が徒歩でご来訪された」
と聞かされ、最初は追い返せと怒鳴ろうとした。重耳の殯のため絳を留守にする。しかし、世の中は重耳を中心に動いているわけではない。この
そのようなときに、なぜか郤缺がいきなり来た。しかも、徒歩で、なおかつ先触れもない。ふざけているのか、酔ってでもいるのかと頭を抱えたくなった。
「郤主はなんだ、このような時に。泥酔でもしているのか、まともな状態ではないのか!」
欒枝は
「はい。どうも、常の郤主とは思えぬ様子です。しかし酒精で乱れているわけでないようです。こちらが挨拶しましたら、見事な儀で返されました。が、まともではありませぬ。お会いください」
家宰の言葉に、責めるような声音を感じ、欒枝は逆に心を鎮めた。少し考え口を開く。
「会おう。郤主を私の棟の、一番奥の室へお通ししろ。全身濡れていると聞いた、失礼にならぬよう衣服の改めをおすすめし、体を拭いてやれ」
欒枝の指図に家宰がその通りに、と拝命し、下がっていった。
獣脂で火を灯させ、室でじっと待つ。雨の音も聞こえぬほど、奥の室であった。しずしずとした足音が聞こえ、家宰が郤缺を通した。郤缺がふわふわした歩みを止めると、座して拝礼する。
「この度は、先触れもなくお伺いした非礼をお詫びすると共に、お会いするのをお許しいただいたこと、感謝に堪えませぬ」
形は完全でありながら、言葉はつるっつるに滑っている郤缺に呆れ、欒枝は返礼もせず
「とりあえず入りなさい」
とだけ言った。見事な儀とは言い得て妙、形ばかりの丁寧な儀であり、言葉は上っ面である。ふらふらと郤缺が部屋に入ると、家宰が黙って扉を閉めた。言わずともわかる男である。
郤缺が欒枝の前に座り、またも形ばかりの拝礼をしようとしたため、腕を掴んで止めた。
「それ以上するな。見ている方が腐る」
言われた郤缺は、そうですね、ただしい、そうですね、と小さく言いながら座りなおす。欒枝はその姿をなめるように見て、ああこれはだいぶダメだ、と嘆息した。もし、欒枝が郤缺によけいなちょっかいを出さなければ、この男はこんなところでこんな姿をさらすことなく、全てを腹の奥におさめて耐え続け終わらせていただろう。互いに情を通わせているわけではないが、通わせる遊びをしてしまったがために、この矜持ある男はみっともなくここにいる。
「郤主。私は汝を囲っている。汝は私の情人だ。言いたいことがあればなんでも聞いてやろう。礼など閨には必要なかったろう、何も考えるな、ただ思いついたことを言えば良い」
欒枝は今までにないほど優しく囁いた。郤缺はのろまな顔をしながら頷くと、
「ご存じですか、欒伯。君公が
と言った。欒枝は知っているも、だからなんだ、も言わず、ただじっと聞く。
「偉大なる覇者、晋公が身罷られましたので、もちろん私は喪に服します。儀礼はそうあれと史官に教えられました、忠臣はそうあれと父も申しておりました、父は忠臣でしたので、先の公が身罷られたときに見事な
少しずつ早口に言葉を紡いでいた郤缺が、いきなり止まった。欒枝はせめて憐れみの目で見まいとしながら、ガクガクと震える男を眺める。どうしてよいかわからない、という仕草で首を振った後、郤缺が欒枝をひたと見据えた。その顔は蒼白であった。
「何故、父の喪に服せぬのに、父を謀った仇のために喪に服さねばならぬのですか、ご教示いただけませんか、欒伯、父を謀って処刑させた男を、何故私は
欒枝は不敬な言葉を指摘もせず、郤缺の肩を優しく撫でた。郤缺は次第に前のめりになりながら、なおも言葉を続ける。それはもう、叫びのようであり、呪詛のようにも聞こえる、絞り出すような声であった。
「前君の忘れ形見、ま、だ、若、い、少年の、我らの公を、
郤缺が欒枝の両腕にしがみつき、げぼ、と嘔吐した。理と情が混乱し体が耐えられなくなったらしい。欒枝は衣の汚れなど気にせぬ顔で、郤缺の肩を片手で優しく撫で続けている。
「私は父を弔わず、祀れ、ません、そ、そのような男が子に何を教えることができようか、あ、子に父を、私を祀れなど、どの面下げて言えますか、私のような父の喪に服せず哭礼もできぬ、不孝なものが、我が子に父を敬えと言い、喪を哭を教えられるものか、なぜ、なぜ、あの男は、我らに屈辱を、屈辱をあたえ、る、だけ、て、死ん――、」
引きつった悲鳴のような声で郤缺はまくしたて、合間で吐いた。そのたびに欒枝の衣は汚れたが、郤缺は気づいていないようで、重耳への罵声と父への不孝をわめきたてては咳き込みながら吐いた。
「欒伯、ご教示を――」
胃液をなおも吐きながら言う郤缺に欒枝は
「泣け。何も考えず、泣け、郤主」
と深い声で言った。それはやはり情夫というより、親のような言い方であった。郤缺はぼんやりと欒枝を見た後、しがみついたまま崩れ、泣いた。否、泣きわめいた。奇声としか言えぬ、何を言っているのか判別つかぬ声で泣きつづけた。ただ、涙を流すだけのものだ、哭礼ではあるまいよ、許しておやり。そう死した重耳に届けばよいが、まあ伝わらぬであろうと欒枝は目をつむった。部屋には号泣の声が鳴り響いていた。
泣きつかれて寝た、となれば良かったが、郤缺はそこまで
「郤主。そう己を責めるな。我らは礼によって情の手綱をとっている。が、時には手綱が外れることもあろうよ。そのようなとき、無理に御するより、情に任せた方がいい。任せぬと奥に
「あなたの責ではありません。これは私の未熟がゆえのこと。後日、改めて謝辞をさせてください。今はただ、頭を下げるしかありません」
欒枝の穏やかな声を跳ね返すように、郤缺は強く詫び続ける。もし、欒枝が郤缺をこのようにした、ということを認めるのであれば、己らに肉体以上の何かが介在することとなる。己の未熟が起こしたことであって、けして郤缺が欒枝へ依存し心を求めているわけではないのだ。ゆえに、欒枝の
「私のせいにしておけ、気にするな」
に甘えるわけにはいかなかった。
「汝のそのようなところは、私は好ましいと思っている。礼節を重んじることは良いことだ。先ほどは、そのための儀式だ。汝がこれからも生きていくために、出さねばならぬ毒だ。そこまで私に対し詫びるなら、次は己で処理をするよう、努めなさい」
郤缺の態度に折れたのか欒枝が苦笑した。そして、車を用意してやるから帰れ、と優しく諭す。ばつの悪そうな顔をしながらも、郤缺は丁寧に拝礼して、素直に帰った。欒枝は見送らなかった。衣が吐瀉物で汚れていたからである。代理として家宰が見送った。
「我が主。郤主を送り届けたよし、ご報告にあがりました」
己の棟の、最も奥の室に欒枝はずっといた。すでに衣は改めている。家宰が部屋の外から声をかける。うむ、と返すと、家宰が少し笑む。
「郤主にご同調されなかった。さすが我が主と私は誇りに思います」
「あのような、
幼い頃から仕えてきた、少々年上の家宰を睨む。若い頃は兄のようにたしなめてきた側近である。年をとってからはそのような言動もなく、名門欒家の内を治めるものとして、貫禄のある男となっていた。が、まだ兄のように見てきているらしい。欒枝は愉快になってくつくつと笑う。
「汝と私とで、
遠い目をする欒枝に、家宰が、さようでございますね、とだけ言った。彼の脳裏に父を失った少年は未だあり、それを支えねばならぬ己もずっとある。
「――我が祖父は曲沃に配され、分家を肥えさせ、結果、分家は本家を亡ぼした。父を殺した男は祖父の養育も受けた御方であった。さて、我が父を殺したのは本当は誰か、ということになるのだろうな」
重く
もう一つの信念は、晋の君主は全て欒家の敵であるということだ。晋公に二心なく仕えよ、しかし心を許すな。それが、欒枝の中にある強い思いである。
郤缺をこれにつきあわせる気など、さらさらない。これは欒家にとって重みかもしれぬが、宝でもある。古き名門である我らが、郤氏程度の新参者にこの思いを分け与えるわけがないのだ。
「ところで主。郤主をかわいい子と褒めるはいかがなものかと」
家宰が平坦な声で言う。彼は欒枝の手足そのものであり、この家で唯一欒枝と郤缺の関係を知っている。それが謀議の口実であり体が目当てではないことも含めてである。
「かわいい子じゃないか。身食いしすぎて私に吐瀉物をぶちまけ、我に返ったときのあの顔は見ものであった。かわいいと思わないと、あれがかわいそうすぎる」
欒枝はようやく憐憫をあらわにして、ため息をついた。我が家は祀りは途絶えていない。しかし、郤缺は永遠に父を弔う機会を失った。不孝者である烙印を彼は一生背負っていく。
最も偉大な君公が奪ったものを、誰が返してやるであろうか。重耳が許さぬかぎり、郤缺は父を弔えず祀れない。そして、重耳は許すことはなかった。時間がもっとあれば許されたのであろうか。これも答えの無い問いである。欒枝は目を閉じた。
郤缺を救えるものは、もうこの世に存在していないのだ。
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