第18話 巨木、倒れる【破】
「我らが
特に
――君公は年を越せぬ
託宣は絶対であるが、先軫や
しかし、秋を過ぎて冬に入り、重耳は
「我が
なんとか意識を取り戻した重耳に、
「そうしてくれ。我が太子は私に似ず才がある。
と応じ、立ち去った。
「朝政はまだおわっておりません、太子をお呼びしましょう。しかしこの部屋は掃き清めなければなりませぬ。本来、朝に行うまつりごとですが、この度は危急のこと。昼から再開してはいかがかと思います。まつりごと深き卿の方々、いかがでしょう」
汚れを拭わぬまま、趙衰が静かに見回す。あの重耳を見てさえも、その湖にさざ波ひとつ訪れていなかった。その場にいる卿は欒枝含めて、頷いた。趙衰もその様を見て頷き、
「私は着替えねばなりませぬゆえ、一度邸へとさがり、改めて参内いたします。この場を清める間、皆々様に太子をお迎えする事、お任せいたします。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
と言って、退出した。それを皆、気圧されたように見ているしかなかった。欒枝が思わず息を吐けば、ようやく汚臭が漂っていることに気がついた。尿の臭いが部屋に充満していた。
「……太子へは寺人をやって控えの間に来ていただこう。我らが立ち去らねば、洗い清めることができぬ」
欒枝の言葉に、他の者もようやく我に返ったようであった。残った卿は政堂を後にした。重耳の体の衰えを見せつけられたことがまず衝撃であったろう。しかし、その後の趙衰の動きに、全員が飲まれた。忠臣とも違う何かであった。彼は卿として当然のことをやったのだと顔をしていたが、この場にいるもの、近臣として誇りを持つ先軫や胥臣、節度を謳う欒枝も、真似できぬ。たとえその位置で拝首が礼として正しかろうが、尿流れる場所に座り、ぬかずき、なおかつ冷静に差配することなど、できようがなかった。
その日から、太子である
が、壮年にさしかかった陽処父の顔を見ると、自覚は無さそうである。国政に間接的でありながらも関われる機会に少々気が上がっているようであった。教え子は似るのか、驩も気負いが見える。余命いくばくもない父の代わりという思いもあるだろうが、己がとうとう国を動かすのだという自負心も強い。欒枝は太子はもちろん、この傅も
しんしんとした冷たさが這い、痛く凍えた空気が舞う冬の日ことである。朝政の終わりを驩が告げたと同時に、
「
と、寺人がしずしずと言った。きっと、終われば伝えろと言い含められていたのであろう。
「私をですか」
趙衰が平坦な声で言った。寺人が、あなただけを、です、と言う。欒枝は眉をしかめた。重耳は幾度も趙衰を卿にと切望したほどには、彼を信頼している。それは他の近臣に対する態度と違っている。趙衰は妻に関しても重耳と深い。第一夫人は重耳の第三后妃の姉であり、第二夫人は重耳の娘である。その近さを悟らせないのが、趙衰の絶妙さと重耳の平衡感覚なのであろうが、ことここにきて、偏重が起きるのか。他の卿を見ると、先軫は少々拗ねた顔になり――情が強い性格である――、胥臣は戸惑っているようであった。
「同席は」
静かな声そのままに、趙衰が問うた。
「おりません。私たちも同席を禁じられました」
寺人の答えに、欒枝は息を飲んだ。重耳と趙衰、死ぬ間際の君公と寵臣の謀議が行われないとも限らぬ。その密室で、君公がこのようなことを言いましたと趙衰は捏造もでき、趙衰が重耳に言い含めて君公の遺言を操作することも可能であろう。
はたして趙衰は、皆に拝礼し、
「本来、他の皆様がたと同じくし、君公のお言葉を賜りたいと思っておりますが、閉じられた部屋にて私ひとりと君命がおりました。非才の身なれど君公が私を選んだよし、分かりかねますが、私の妻たちは君公と縁が深い。ご家族のお話をされたいのやもしれませぬ。もし、表向きのお話とわかりましたら、君命に背くことになりますが、太子および卿の方々をお呼びし、その場で君公のお言葉をいただくことにいたしましょう」
流れる水のようにするすると言葉を紡いだ。そこまで言われれば、欒枝も他の卿も何も言えぬ。実際、今まで趙衰が己を寵臣と誇ったことも、近臣と傲ったこともない。気づけばそこにいる、という男であった。中庸が衣を着て歩いているような人間でもある。
「何かあれば、すぐにお知らせを。我らはここにおります。それでよろしいか、方々」
胥臣がわずかに微笑みながら言う。このあたり、彼は穏やかな人間であった。内心、声がかからぬ悲しさがあったろう。胥臣としては己の方が忠臣である自負はあったにちがいない。しかし、それを彼は表に出さなかった。
ともあれ、胥臣の提案に欒枝以下、卿は頷き、自然、太子驩も傅も頷くこととなった。するりとした仕草で立ち上がった趙衰は寺人にすぐ向かう旨を伝えた上で、
「暖かい湯と、清めた布を多く。そして君公の新しいお召し物を一緒に持ってきて下さい」
と言った。その場にいる全員が不思議そうな顔をしたが、趙衰は特に説明もせず、重耳の元へと歩いていった。
重耳の私室の前で寺人が一人控えていた。趙衰と湯や布を持った寺人たちを見て、彼は扉を開けた。趙衰たちが部屋に入ると、わかりやすい汚臭が鼻についた。寺人たちは無意識であろう、一瞬眉をしかめたが、趙衰は表情ひとつ変えず、寝所で座る重耳にぬかづいた。
「お久しぶりでございます。この
「許す」
重耳の声で、趙衰は起き上がり声無く手を振る。寺人たちは、
「寝所に失礼してもよろしいでしょうか、我が君」
と、少し暖かみのある声で言った。重耳は頷き、少し体をずらすと寝転んだ。趙衰は寝所に入るとそれ以上の許可をとらず、重耳の帯を手早くほどいた。すっかり細くなった足をからげて、尻についた便をへらでかきとる。細かいところは乾 いた布でこすりとった。便は下痢状で、黒かった。血便であった。己の汚物の臭いに重耳が眉をしかめたが、趙衰はやはり、顔色ひとつ変えなかった。最後、湯で濡らした布できれいに拭き取り、新しい衣に替えてやる。重耳はすっきりした顔をしながら、身を起こした。趙衰は少し後ずさり平伏して口を開く。
「
「
寺人ではなく、愛妻にシモの世話をさせているらしい。きっと季隗も喜んで世話をしているのであろう。趙衰の知る彼女は、重耳への愛に満ちており、もっといえばいつも浮かれていた。姉の
「それでは内密お願いいたします」
趙衰はそれで黙った。何が話したくて呼んだのでしょうか? そう問いかけるような男ではない。たとえ重耳がそれを望んでいたとしても、である。何かを話したくて呼んだは自明の理、臣は黙って待つのみ、催促などしない。そのような男である。重耳は、趙衰のそのようなところが心地よいのだが、今は意地悪だ、と思った。
しばらくの沈黙後、
「
と、重耳は言った。それは
「
趙衰の即答に重耳は頷いた。
「河は下へ流れます。上流へは戻りませんよ、
波ひとつない湖面のような趙衰の言葉に、重耳は少し俯いた。痛みではなく、愛惜で眉をしかめる。
しかし、たまたま、重耳は会ってしまった。それは、狐邑を追い出され、
このころ、重耳の家臣団は忠義の域を越え、宗教じみた空気が
窒息しかけた者の、たった一呼吸のつもりであった。
誰もおらぬと思った林の入り口に、一人の青年が棒を持って立っており、重耳を凝視していた。
ああ、ばれた。
思い浮かんだのはその言葉であった。きっとこの青年は、重耳にぬかづき、わめきたて、人が呼ばれ、
「あんた、公子様だろ。こんなとこ歩いてんじゃねえよ、みんな心配するぞ。ほら帰った帰った」
顎をしゃくり、犬を追い払うように棒を振る青年は、心底めんどくさそうであった。公子とわかってこの態度である。当時、重耳は四十路であった。青年は一回りは年下である。格の上ではもちろん、長幼の点でも無礼はなはだしい態度であった。
「きみの名前は? わたしは
この流浪の一行なら知っていて当然であることを重耳は言った。青年はあからさまに嫌そうな顔をしたが、名乗られれば名乗り返さなければならないのが道理である。
「……介推だ。
重耳は頷き、帰る、また会おう、と言って素直に去った。青年介推はほっとしただろう。ちょっと食えればいい、そして下役にでもありつければ良い程度の、現代の言葉で言えば一般人である。公子そのものなど、手に余ると困惑したにちがいない。下手に騒げば介推が責められる可能性もあった。
しかし、介推は重耳を完全に見誤っていた。素直で受け身の男ではあるが、その奥にとんでもない粘着を持っていたのである。
そして、さらに介推はわからなかったろう。重耳は介推が無礼に接したことで、重耳自身を見てくれたのだと錯覚し、初めて『ともだち』という概念を意識したなど、想像もしなかったに違いない。かくして、この四十路の公子は介推という『ともだち』に夢中になり、めざとく見つけては二人きりで会った。介推も最初は辟易していたが、遠くから見る重耳と目の前の重耳の違いに、
「あんたも大変だなあ」
と相手をするようになった。彼は棒術の達人であり、重耳の目の前で披露してやることもあった。重耳は目を輝かせ手を叩いてはしゃいだ。辛い旅路の中、介推の存在は重耳の心を少し軽くした。
「推といると、目の前が広がっていく気がする。とても心地良い。わたしは臣や妻はいたけれど、ともだちはいなかった。友というものがあるのは書で知っていたけれども、いなかった。ともだちはいいな」
己の食うものは己で、と釣りをする介推の隣で、重耳は朗らかに語った。介推は少し苦笑しながら肩をすくめ
「魚が逃げるから黙れ」
と柔らかい声で返した。
今も重耳の中で鮮やかな思い出の日々である。
いよいよ晋に戻るという時、重耳はやはりそっと抜け出して、一人護衛のため立っていた介推の元へ向かった。介推は、初めて会ったときのように凝視してきた。
「あんた、これから忙しいんだろう、何やってんだ」
介推の怒鳴り声も何処吹く風、重耳はそれだそれ、と頷きながら近づく。
「わたしはこれからちょっと忙しくなる。介推を見つけるのも大変になるかもしれないから、待ち合わせ場所を作ろうよ。そこに行くから」
彼は。介推は呆れた顔はしなかった。仕方無いなあ、という目をしながら深い笑みを浮かべる。
「あんたが簡単に来られるところがいいだろうな。心当たりないか?」
言われた重耳は、必死に考え、宮中で己が隠れ場所にしていた庭の隅にある小屋を思い出し、伝えた。一人になりたいときに、使っていた。室では近臣や寺人がいるため、一人になどなれぬのが貴人というものだった。
「わかった」
介推は言いながら、持っている長棒をくるくると回し、見事な棒術を軽く披露してくれた。
晋へ二月に乗り込み、三月を越えても収まらなかった。特に郤氏の抵抗が強く、彼らを捕らえられなかった重耳は、秦に後始末を頼むはめになった。様々なことがらを終わらせて、重耳はようやく約束の小屋へ忍んでいった。それは月の光が強く美しい夜であった。小屋であるから介推はいっそ住んで待っているやもしれぬ。寝ていたらそっと起こすか、驚かせてみようか。稚気じみた想像をしながら、この君主は隠れ場所の扉を開けた。
窓から差す月明かりの中、真っ二つに折られた棒が壁に立てかけられていた。元々長い棒であった、折ってもそれなりに長い。ずっとそこにあったのか、砂埃に汚れていた。
お別れだ、という声が聞こえた気がした。介推の声なき言葉を見て、重耳は崩れ落ちた。
介推は国に戻れば己はただの匹夫であることも知っていた。つまり重耳と対等に会えぬのである。当然であった。
そして、重耳が狐偃にせがまれて、共に苦難を乗り越えた臣を見捨てないという誓いを立てさせられたのも、見てしまった。晋に入る直前であった。むろん国境線であるから川べりである。狐偃は身につけていた
「公子よ。この
実際、斉で落ち着き、臣下として生きようとした重耳を許さず、寝ている間に出国させたこともある。細々とこの舅は重耳の尻をけとばす勢いで晋君への道をとらせていた。この時、重耳は怒ってよかった。しかし、怒らなかった。捧げられた璧を受け取り口を開く。
「わたしが舅御と心を同じくしないというなら、私は河の神の咎を受けるだろう。わたしの心はこの水のごとく清らか、ご安心を舅どの」
重耳は少々芝居じみた仕草で璧を受け取り投げ入れた。神や天への誓いは重い。絶対たがえず、たがえれば死の覚悟がいるのが当時である。それを見た介推は、怒りで腹の奥が焼け焦げる思いであった。
――あそこまで家臣団に従順素直な公子に、舅であり家臣筆頭の男が、それをさせるのか。
介推は常々あった重耳周辺への気持ち悪さと、それを疑問なく受け入れる重耳をもう見たくないと思った。嫌悪に嘔吐さえ感じた。その直後、抜け出してきた重耳が無邪気にこれからも会おう、どこで会おう、などと言う。介推は嫌だとは言えず、さりとて別れの言葉も言えぬ。己も卑怯だな、と思うしかなかった。
かくして、介推は静かに別れを告げた。重耳にともだちなど最初からいなかった、と断じるのは酷であるため、ともだちを永遠に失ったと書こう。友人でも親友でもなく、朋友でもない。彼はともだちを失ったのである。
「公子。介子はいなくなってしまった。あなたは誰も知らぬ彼を探させて、探して、でも見つからなかった。介子は匹夫ですが好漢と言える人です、あなたを試すようなことはしない。彼はみずから去りました。つまり、君公には永遠に会わないとの覚悟。もう、我が君は公子ではないのです。水は上に流れません」
昔の、介推との思い出をぽつぽつと言う重耳に趙衰は優しくさとすように言った。その言葉に重耳が口をとがらせ、軽く睨み付ける。
「わたしは知っておるぞ。お前だけは推と何故か仲良くなってたろう、何度か見た。気安く話しておった。わたしのともだちだったのに、
少しずつ語尾を小さくする重耳に、趙衰はまさか、と軽く哄笑した。このぬるま湯の男らしく、哄笑も柔らかく静かであった。
「介子が一番公子と仲が良かったのですから、仕方がないでしょう。恋しい人の話はいつも知りたいものです。まさか直接お聞きするわけにもいきませんから、介子に労をとらせてしまっていました。今考えると、まあ大人気ない話ですし、介子もいい迷惑だったでしょう」
重耳は目をぱちくりさせて、趙衰を見た。
「衰は、わたしが好きだったのか」
「ええ、気づけば恋しいと。まあかれこれ四十年ほどの恋です、我が晋の今までの歩み、これからの行く末を考えれば泡のようなものです」
趙衰の言葉に、重耳が露骨に眉をしかめて、四十年は気持ち悪い、と小さく呟く。趙衰は傷つくこともなく笑んでいた。特に成就など考えてもおらぬ想いであり、さらりと口にしたのは介推への誤解を解くためである。重耳にとって介推は唯一のともだちであり、趙衰はそれを大切にしたいだけであった。
重耳にもそれは伝わったらしく、推のともだちは私だけだった、と穏やかに言った。本来は逆であるが、趙衰は指摘しなかった。
その後、重耳は黙ってしまったため、趙衰も黙ってその場に侍った。あ、と重耳が身じろぎするときだけ素早く動き、こぼれかける便の処置をした。もう、重耳は尿だけでなく排便も己で制御できぬ身であった。しばらくそのようなことが沈黙の中で続いた。
「そろそろ、収まる」
何が、とは言わず重耳が口にする。趙衰がそれでは、と寝所から丁寧な所作で離れ、汚れた布を全て箱につっこみ手を洗う。そうして床の上にそっと座った。
「言わねばならぬことがある、まずわたしが死した――」
「いけません、我が君よ。それは皆様方をお呼びして、共にお聞きせねばはかりごととなるでしょう」
趙衰はすかさず制し、ぬかずいた。そこには中庸に徹した卿が一人いる。
「うん。許せ。ではそのように」
と言った後、重耳は為政者の顔をして崩れた姿勢を正して寝所に座りなおした。
趙衰が重耳の部屋にどのくらいの時間籠もっていたか。それに関しては重要でもないため割愛する。本人たちにはわずかな時間であったろうし、待つものには長い時間に感じられたであろう。
太子以下、朝政に参じるもの全て重耳の寝所にて座しぬかずき、言葉を待つ。汚れた布や湯はとっくに持ち出され、入れ替えられた空気によって為政者の尊厳は守られたといってよい。
重耳は奇抜なことを言わぬ君主である。遺言もたいして奇抜ではない。太子である驩を次の晋公とし、卿はつくせ。何人たりとも殉死は許さぬ。東国への心配りだけでなく、覇者として西や南にもきちんと配慮するよう。その程度は、その場にいる全員が想定していたことである。が、
「死した
と言った時は、場の空気がざわついた。それは、重耳が簒奪者となった、という意味にもなる。君主になろうとした公子と同じ公子として争い勝った、ではなく、すでに君主になっていたものを弑し、座を奪ったということである。
「我が君よ。お言葉遮るのを許されよ」
欒枝は鋭く声を放った。趙衰の入れ知恵か、と目配せする。しかし、男の顔に動揺も無いが確信も無い。何を考えているのか相変わらずわからない、と言ったほうが良い。欒枝は小さく息を吸った。
「先君
恵公つまりは
が、だからどうした、というのが欒枝の強い思いである。思いという言葉で足りなければ信念でも良い。為政者の感傷で、君主殺しを手伝わされたとなる我らはどうなるのだ、責をこちらに投げるな、という強い憤りでも良い。
欒枝の言葉を受けたか、趙衰が口を開いた。
「
その声音は柔らかく、水面で光るさざなみのような優しさであったが、反論を許さぬ厳しさが芯にあった。欒枝は、趙衰が妙な入れ知恵をするわけがない、と気づき、また、己が冷静さを欠いたことにも気づいた。もう一度小さく息を吸い、今度はしずかに息を吐いた。
「……確かに衰、
重耳は譲らなかった。が、諡号はどうとでも、という部分で譲歩はした。つまり、最低の諡号でも文句はない、ということであった。欒枝はこれ以上は無駄だとぬかずいた。趙衰も同じように床に額をこすりつけ、同意を示していた。
あともう一点、
「
と言う。示し合わせたのかと思ったら、違っていたようで、趙衰が初めて表情を動かした。欒枝も初めて見る、怪訝そうな顔であった。
「私ですか」
重耳が頷く。趙衰は少し考えたそぶりをみせたあと、貴き身では無けれど、君命であれば大役お受け致します、と拝命した。それで重耳の遺言は終わったようで、彼は退室を命じると共に、
その冬の日が最後の輝きだったのであろう、重耳はまつりごとに口も出さず、個人的に卿どころか太子さえ呼ばず、寝たきりのまま寺人や季隗に介護され続けた。医者の診療は既に意味が無くなっている。趙衰にさえ見せなかった苦痛の顔をさらし、季隗の手を握って
「ああ、痛い、体が痛い」
とわめき泣く。男が泣いてみっともない、などと季隗は言わぬ。
「かわいそう私の重耳さま、かわいそう。痛いのはどこ、さすってあげるわ、愛しいあなた」
ありがとうありがとうと頷きながら、重耳は季隗の本名を口にした。が、女の名は親か夫しか知らぬもの。史書には
結局、重耳は死病で弱ったところに合併症を起こし、肺炎となって事切れた。最後、痛みと熱と呼吸困難で苦しむ夫を励ましながら季隗は泣き、しかし行かないでとは言わなかった。
「大丈夫、もうすぐ大丈夫だから」
何が大丈夫なものか、とその場にいる医者も寺人も言わぬ。この惨すぎる苦しみから解放するのは死しかないのだ。
やがて、すうっと動かなくなる。医者が脈をとった。
「少しあります」
もはや苦しむ体力も無くなったのであろう。その後、数刻して重耳の脈は止まった。
「きれいにしてあげないと、君主さまですから」
泣きながら季隗が言うと、寺人たちが頷き、死骸となった主を清めるべく動き出した。苦痛、そしてその後の弛緩で重耳の体は汚れていたのだった。
清められた寝所に卿たちも集まり、太子を筆頭にして、偉大な覇者にぬかずく。遺言どおりに趙衰が寝所に進み、重耳の頭をひざに乗せた。そして、作法通りに三度の哭礼をする。二度の声は見事な礼であったが、三度めに引き裂かれるような情がほんの少しだけ乗っていたことを、欒枝は聞き逃さなかった。その後、部屋に太子以下、全員の哭礼の呻きと嘆きがこだました。そのうち礼を越えてみな、
晋国中、否、中原全てに重耳の死は告げられた。諡号は
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