第46話 才能の在り処

 の征服欲は止まらぬらしい。春早々、宰相に命じ南方の小国を伐ち攻め入っている。己の足元を固める方策に出たように見えた。

 郤缺げきけつはすでに楚にくだったちんの大夫とひそかに書を交わし、考える。

「北に来ぬ、か」

 昨年、ていと陳をくだし、そうをあと一歩まで追い詰めている。宋は戦争に負けると見て服従の姿を見せ、しかし供応の場で命に従わない姿勢により侵攻を止め形だけの恭順となっている。ゆえに心はしんにあると見てよい。楚としては追い打ちをかけたいはずであった。それが今さら近所を気にして足踏みをしているのは不自然である。

「私どもは力およばず、あなたがたを南蛮に屈するを止めることあたわず、ふがいないばかりです。陳公も眠れぬ夜をお過ごしでしょう。貴き方を支えるあなたがたも口惜しいと思われます。私どもといたしましても、いずれあなた方のご不幸を取り除きたい所存。せめて、楚子そしがあなた方に心をくだき慈愛を見せてらっしゃるのであればと思うばかりです。楚子はご無理を通されておられませぬか。お困りのことがございましたら、おっしゃってください。ご相談つかまつります」

 晋はまだ陳を諦めてはおらぬという言葉と共に、楚の動向を知らせろという書であった。晋の正使ではなく三席郤缺の、個人的なものとして伝えている。が、向こうも郤缺が外交官として問うていることくらいわかるであろう。陳と繋がっていた氏族はもはやげき氏の傘下に入っていた。欒枝らんしの後ろでうやうやしくしていた男がいまや上軍の将である。小勢力は喜んで身を寄せてきている。

 陳からの返信は端的であった。

 ――楚王は覇気が薄くなっている

 あれだけ気力にみなぎっていた商臣しょうしんは急に精細を欠きはじめたらしい。理由はわからぬが、そこは探っていくしかない。どちらにせよ、しばらく北に来ぬ可能性が高かった。晋にとっては朗報である。陳の書面は、楚の臣から要求される賄賂に国庫が悲鳴をあげていることも訴えてきている。鄭も似たようなものであろう。楚は国としてはおおらかであり、王は気前がよく、晋のような恫喝はせず領土も食い散らかさない。しかし、その臣は強欲で小国をむさぼり食っている。

「どちらがよりマシかなど、知らぬが……。まあ、もう少し辛抱してもらうしかない」

 郤缺は陳への書をしたため、使者を送った。形だけ慰めたものである。文辞は敬に満ち寄り添ったもので、陳の不幸を我が身のように嘆いていたが、内容はスッカスカである。晋はしばらく何もできぬ、と言い切ったようなものであった。受け取った陳も、晋が来てくれるとは思っていない。が、ここで色を見せておかねば、楚が退き再び晋の支配を受けたときにどうなるかわからぬ。小国の哀れさである。

「昨年、我らが適当な地を取り、しんはやはりつられて夏に適当な地を取りました。もうすぐ夏ですが秦の動きはいかがか、荀伯じゅんはく

 初夏ともいえる日、朝政ちょうせい趙盾ちょうとんが議に出した。秦は数年前の武城もそうだが、晋にとっては要地ではない、いわば地勢の利が少ない地を狙っている。秦は晋をくだしたいわけではなく、東国への道を作りたいのである。そのためには晋のどこかをこじ開けるしかない。晋を避けようとすれば、かなり迂回し南方の楚を通るという蛮行となる。それを考えたように黄河南の小国を食いながら領地を伸ばしていたが、無謀と思ったのか止まっている。

 ゆえに、晋にとってたいして痛くもない地を取り、道を作ろうとし、その報復で晋に地を取られる。互いに益のない場所の報復合戦は、人材も減り持久力の無い秦には不利であった。

「お声かけいただき申し上げます。各ゆう、小さき国からのお話、てきの動きを見るに秦はお休みになられているご様子。夏が過ぎて来るとは思えませんから、今年はお越しにこられないかと。秦は以前のように毎年出陣されておりません。それよりも狄の動きが活発です。我が国は押さえますが、東国もお気をつけるようお言葉をかけたほうが良いでしょう」

 荀林父じゅんりんぽがさらさらと応じた。政治争いに関してはとことん勘が悪いが、本質的には有能な男である。そして、極めて常識的な発言であった。また、狄に関して荀林父は敏感なところがある。長く狄に備えていただけに、情報網を持っているらしい。

 趙盾は頷き、東は、と郤缺に促す。

「お任せいただいております東の方々の件、言上つかまつります。鄭、陳は楚の元でお過ごしですが、やはり負担大きく、陳はこちらへもお伺いをお考えのようです。また、楚子はお近くの国、お足元を見ておられるようで東の方々への関心が少々冷えているご様子。これらの方々とお話すべく、近日出立する予定です。ちかいではなく戦もございませぬゆえ、軍は連れて行きませぬ」

 趙盾は頷き、次の議に移った。税の話となっていく。結局、趙盾は大夫と公室の税を統一することはやめたらしい。開墾による基本的な税収増加に舵をきっている。これが可能となったのは、陽処父ようしょほの暗殺、氏が晋を捨て狄に戻ったことと、箕鄭きていやそれに連なるものの死による直接的な財源の確保があった。趙盾はちゃっかり国庫に納めている。当然、せん氏と氏には手をつけていない。領地の運営となれば、欒盾らんとんは問いに対し的を射た解を出していた。欒枝が、家を守るだけの嗣子しし、と言うだけはあり、領地の保全と増加に関して奇をてらわず手堅い。大夫の教科書のような男、という評価はやはり正しい。

「我が国に接した小さき国は、他国からの脅威に不安でしょう。我が晋にてお守りになるため、土地を保護するのが、まずは良いと思います。各々大夫にお勧めしてはいかがでしょうか」

 欒盾が静かに言葉を締めた。守ってやるかわりに邑を譲れという意味で、晋が肥え太った方策のひとつである。彼はそれを無慈悲だと思っていない。らん家のような物持ちはそのようにして繁栄しているのである。

 とりあえず、欒盾の意見は目新しくもなかったが、有用であった。趙盾は付近の、集落のような国々をさらに保護すべくまとめていこう、と頷いた。

 朝政が終わり、宮城を出るべく歩いていた郤缺は、欒盾に声をかけられた。

「お伺いしたことが、……ございまして」

 歯切れ悪い欒盾を見下ろしながら、

「私事でしょうか」

 と、郤缺は優しく問うた。欒盾は少し唇を引き結んだ後、おずおずと口を開く。

「いえ、公事なのですが、その、政堂ではお伺いしづらく……」

 苦しそうな声音であった。郤缺は立ったままも行儀がわるいものです、場所を移しましょう、と安心させるように柔らかく返す。

「ああ、それでは我が邸にお越しいただけますでしょうか。私がお声かけたのです。ご案内つかまつります」

 極めてお育ちの良い男が、少し安堵しながら言う。郤缺は、一拍置いたあと、

「いえ。欒家のお邸は私のような小さき大夫には畏れ多く、緊張してしまいます。手狭になりますが我が邸にてお話伺ってもよろしいか」

 と、微笑みながら申し出た。欒盾は、不慣れでお任せします、お願い申し上げます、と丁寧な礼をしたあと、無邪気に笑った。

「恥ずかしながら、この年まであまり他家の邸に赴くことなく育っております。ご無礼ございましたら、おしかりください」

 郤缺は苦笑を堪えていざなった。改めていうが、郤缺と欒盾の年はさほど変わらない、四十路半ばである。本当に、あの度しがたい名門貴族の男は息子に過保護であった。家格として他者を呼びつけるお家柄とはいえ、甘やかしすぎである、と一度くらい説教してやればよかった。

 郤缺の邸を少々物珍しそうに見ていたが、室に通され促せば、欒盾は逡巡なく口を開いた。が、やはり恥じ入った様子である。

「実は、あなたが軍を率いぬ理由がわからず、しかし皆様わかってらっしゃるご様子。私はこのようなことに疎く、ただ父の余光でけいになった身です。せめてまつりごとのお邪魔にならぬていどには、わかりたいと思うのです。そ、それでなぜ軍を率いぬのでしょうか? 他国へ赴くとき、軍を連れて行くが常道と伺っております」

「……我が晋と魯は友好な関係を結んでおります。先年、軍を率い盟いをたてました。これ以上、武による圧は彼の国にいらぬことです。今回は、魯のお話をするのではなく、魯と共に東の問題を相談に参ります。ゆえ、我が手勢ていどでよろしいのです」

 欒盾の問いに郤缺は丁寧に返す。結局、の面倒を見ていると内心苦く笑った。むろん、そのような空気を出しておらず、ものやわらかい郤缺の所作に欒盾は本当に安堵したようであった。その後、欒盾から問いかけられたり、逆に郤缺から政治的な問いをした。欒盾は、教養の話は問題ないが、国家規模の政治となると、本当に理解がおいつかないようであった。

「父は偉大な人で、国のことも立派に動かしておりました。が、私はそういったことがどうしてもわかりませぬ。父はそのような私を励まし、気にするなと責めませんでした。しかし内心、失望していたでしょう。本日の朝政も皆様の言っていることについていけず、不甲斐ない限りです」

 欒盾が妙に卑屈なことを言う。郤缺は努めて笑みを浮かべて慰める。

欒貞子らんていし傍目はためから見ても威儀あり人に誠実でした。そのような方が心にも無い慰めをおっしゃいますか、ご令息のあなたがお言葉を信じませんとお父上も悲しいでしょう。それに我が国の領地や財のお話をあなたは、はきはきとお答えになられました。全てのことができるものなどおりませぬ。己の才の軽重をきちんと理解することは大事です。あなたはそれをわかってらっしゃる。それでよろしいではありませぬか、欒伯らんぱく

 郤缺の言葉に、欒盾はありがとうございます、と感謝を隠さず喜び、丁寧に拝礼した。郤缺は終始笑顔で返礼をした。

 欒盾が帰り、郤缺は脇息にもたれかかりながら、ため息をついた。知らず、爪で己の手をひっかいており、気づいてさらにため息をつく。欒盾は全く悪くはない。欒枝もどうしようもなかったであろう。己の子が政治的無能者という事実は、彼の心を苦くしたにちがいない。貴族としての統治能力とこれは別の話である。しかし、欒枝は欒盾の長所を認め、短所を無理に矯正せず、それを埋めるものを外から用立てした。つまりは、郤缺である。郤缺は欒盾が無害な無能であったからこそ、欒枝に見いだされたともいえる。

「私にそこまでができるか」

 郤缺は己の子である郤克げきこくに思いを馳せた。郤克は体に障害があり、少々情が強いが、教養も政治や軍事の問いもすらすらと応じる。そのように郤缺は育てたが、元々郤克にも才があったのだ。もし、皆無であったとき、不具の役立たずを郤缺はどう扱っていたであろうか。意味の無い問いであり、郤缺は考えるのをやめた。これからも欒盾は慣れぬ政治の場で座り続けねばならぬ。一度郤缺が手を引いてしまった。きっと次も手を伸ばしてくるであろう。それを大人気なく振り払うような真似はさすがにしない。それでもどこか、心が摺りおろされる気がするのは、きっと欒枝とかいうクソオヤジのせいにちがいなかった。

「あなたの息子の代わりに、ご期待に添えるよう努めますよ、

 目をつむって一人呟く。郤缺は、己の中でいまだ欒枝が生きていると、思わざるを得ない。欒枝は晋を守れと言い、郤缺に責務を課した。息子を愛していたが期待はしなかったと考えるのは、己の傲岸さであることを、郤缺もわかっている。

「さて、魯から何を引き出すか」

 気を取り直して、公人の顔をする。考えるべきは感傷より現実である。いくつかの材料を胸に、夏、郤缺は魯へ出立した。

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