第46話 才能の在り処
「北に来ぬ、か」
昨年、
「私どもは力およばず、あなたがたを南蛮に屈するを止めることあたわず、ふがいないばかりです。陳公も眠れぬ夜をお過ごしでしょう。貴き方を支えるあなたがたも口惜しいと思われます。私どもといたしましても、いずれあなた方のご不幸を取り除きたい所存。せめて、
晋はまだ陳を諦めてはおらぬという言葉と共に、楚の動向を知らせろという書であった。晋の正使ではなく三席郤缺の、個人的なものとして伝えている。が、向こうも郤缺が外交官として問うていることくらいわかるであろう。陳と繋がっていた氏族はもはや
陳からの返信は端的であった。
――楚王は覇気が薄くなっている
あれだけ気力にみなぎっていた
「どちらがよりマシかなど、知らぬが……。まあ、もう少し辛抱してもらうしかない」
郤缺は陳への書をしたため、使者を送った。形だけ慰めたものである。文辞は敬に満ち寄り添ったもので、陳の不幸を我が身のように嘆いていたが、内容はスッカスカである。晋はしばらく何もできぬ、と言い切ったようなものであった。受け取った陳も、晋が来てくれるとは思っていない。が、ここで色を見せておかねば、楚が退き再び晋の支配を受けたときにどうなるかわからぬ。小国の哀れさである。
「昨年、我らが適当な地を取り、
初夏ともいえる日、
ゆえに、晋にとってたいして痛くもない地を取り、道を作ろうとし、その報復で晋に地を取られる。互いに益のない場所の報復合戦は、人材も減り持久力の無い秦には不利であった。
「お声かけいただき申し上げます。各
趙盾は頷き、東は、と郤缺に促す。
「お任せいただいております東の方々の件、言上つかまつります。鄭、陳は楚の元でお過ごしですが、やはり負担大きく、陳はこちらへもお伺いをお考えのようです。また、楚子はお近くの国、お足元を見ておられるようで東の方々への関心が少々冷えているご様子。これら
趙盾は頷き、次の議に移った。税の話となっていく。結局、趙盾は大夫と公室の税を統一することはやめたらしい。開墾による基本的な税収増加に舵をきっている。これが可能となったのは、
「我が国に接した小さき国は、他国からの脅威に不安でしょう。我が晋にてお守りになるため、土地を保護するのが、まずは良いと思います。各々大夫にお勧めしてはいかがでしょうか」
欒盾が静かに言葉を締めた。守ってやるかわりに邑を譲れという意味で、晋が肥え太った方策のひとつである。彼はそれを無慈悲だと思っていない。
とりあえず、欒盾の意見は目新しくもなかったが、有用であった。趙盾は付近の、集落のような国々をさらに保護すべくまとめていこう、と頷いた。
朝政が終わり、宮城を出るべく歩いていた郤缺は、欒盾に声をかけられた。
「お伺いしたことが、……ございまして」
歯切れ悪い欒盾を見下ろしながら、
「私事でしょうか」
と、郤缺は優しく問うた。欒盾は少し唇を引き結んだ後、おずおずと口を開く。
「いえ、公事なのですが、その、政堂ではお伺いしづらく……」
苦しそうな声音であった。郤缺は立ったままも行儀がわるいものです、場所を移しましょう、と安心させるように柔らかく返す。
「ああ、それでは我が邸にお越しいただけますでしょうか。私がお声かけたのです。ご案内つかまつります」
極めてお育ちの良い男が、少し安堵しながら言う。郤缺は、一拍置いたあと、
「いえ。欒家のお邸は私のような小さき大夫には畏れ多く、緊張してしまいます。手狭になりますが我が邸にてお話伺ってもよろしいか」
と、微笑みながら申し出た。欒盾は、不慣れでお任せします、お願い申し上げます、と丁寧な礼をしたあと、無邪気に笑った。
「恥ずかしながら、この年まであまり他家の邸に赴くことなく育っております。ご無礼ございましたら、おしかりください」
郤缺は苦笑を堪えていざなった。改めていうが、郤缺と欒盾の年はさほど変わらない、四十路半ばである。本当に、あの度しがたい名門貴族の男は息子に過保護であった。家格として他者を呼びつけるお家柄とはいえ、甘やかしすぎである、と一度くらい説教してやればよかった。
郤缺の邸を少々物珍しそうに見ていたが、室に通され促せば、欒盾は逡巡なく口を開いた。が、やはり恥じ入った様子である。
「実は、あなたが軍を率いぬ理由がわからず、しかし皆様わかってらっしゃるご様子。私はこのようなことに疎く、ただ父の余光で
「……我が晋と魯は友好な関係を結んでおります。先年、軍を率い盟いをたてました。これ以上、武による圧は彼の国にいらぬことです。今回は、魯のお話をするのではなく、魯と共に東の問題を相談に参ります。ゆえ、我が手勢ていどでよろしいのです」
欒盾の問いに郤缺は丁寧に返す。結局、
「父は偉大な人で、国のことも立派に動かしておりました。が、私はそういったことがどうしてもわかりませぬ。父はそのような私を励まし、気にするなと責めませんでした。しかし内心、失望していたでしょう。本日の朝政も皆様の言っていることについていけず、不甲斐ない限りです」
欒盾が妙に卑屈なことを言う。郤缺は努めて笑みを浮かべて慰める。
「
郤缺の言葉に、欒盾はありがとうございます、と感謝を隠さず喜び、丁寧に拝礼した。郤缺は終始笑顔で返礼をした。
欒盾が帰り、郤缺は脇息にもたれかかりながら、ため息をついた。知らず、爪で己の手をひっかいており、気づいてさらにため息をつく。欒盾は全く悪くはない。欒枝もどうしようもなかったであろう。己の子が政治的無能者という事実は、彼の心を苦くしたにちがいない。貴族としての統治能力とこれは別の話である。しかし、欒枝は欒盾の長所を認め、短所を無理に矯正せず、それを埋めるものを外から用立てした。つまりは、郤缺である。郤缺は欒盾が無害な無能であったからこそ、欒枝に見いだされたともいえる。
「私にそこまでができるか」
郤缺は己の子である
「あなたの息子の代わりに、ご期待に添えるよう努めますよ、
目をつむって一人呟く。郤缺は、己の中でいまだ欒枝が生きていると、思わざるを得ない。欒枝は晋を守れと言い、郤缺に責務を課した。息子を愛していたが期待はしなかったと考えるのは、己の傲岸さであることを、郤缺もわかっている。
「さて、魯から何を引き出すか」
気を取り直して、公人の顔をする。考えるべきは感傷より現実である。いくつかの材料を胸に、夏、郤缺は魯へ出立した。
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