第64話 趙盾弑其君

 秋の夕暮れは照り返した柿のような色合いで周囲を染めていた。君主からの呼び出しであり、趙盾ちょうとんは御者や車右しゃゆう、最低限の従僕を連れ出発する。家宰かさいが一度だけ、おやめになったほうがよろしい、と忠告してきたが、趙盾は無視をした。

 夷皋いこうの殺意にようやく気づいたのは、邸の中で匹夫の死体を見た時である。ずり落ちるような思いと共に、やはり、と感じる己もいた。趙盾の諫言を聞くこともなくなり、暗い目で見つめてくるその瞳に、何かしら感じていたのであろう。夷皋の殺意にも、納得してしまった己にもやりきれぬ。ただ、忠心奉り信じ続けていた日々はなんであったのか。

 しかし、それはそれとして、本日の夷皋は闊達であり、趙盾をねぎらった言葉を言った。秋の空の下、美しいふじばかま、かぐわしい菊のように求める臣であると言われ、心わきたたぬものがあろうか。本日の酒席が凶事ではないのであればこれほど良いことは無い。本当に趙盾の言葉をまっすぐに受け止め、道を正しく歩むというのであれば、祝杯となろう。

「私は我が君に美しさと正しさを、仁と忠を示し続けたのだ。徳深いお方として、私を迎えようとしているのだ」

 誰に言うでもない、己に言いきかせるとも違う独り言を、趙盾は馬車に揺られながらぽつりと呟いた。

 宮城の中、君主の住む場所も大貴族と普請や間取りはさほど変わらない。宮殿の中心をなす神木は楠であるが、建物は丈夫な松材でできていた。奥行き全体が南に解放された堂であり接見の間である。中央の梁を支える二本の主柱はやはり松である。どのような色を塗っていたか、今となってはわからぬが、当時すでに漆の使用が確認されている。晋の色は赤であるため、赤漆であったかもしれない。

 趙盾は庭から階段を登り、夷皋の席から一尺離れた場所で端正に座し待っていた。女官や寺人じじんがこまごまと酒席の準備をしていたが、格式を考えれば人数が少ない。が、それに口を出すことなく黙って座り続けている。大部屋に続く東に夷皋の室がある。彼は階段を登り向かっていく。接見の間は少し土を盛り上げ作られているのだ。愛犬二匹と共にゆっくりと現れ、己の席に座した夷皋が、

「良い、許す」

 とだけ言った。趙盾は丁寧にぬかずき、招かれた喜びと感謝をつらつらと返した。よく通る声であり、十四年、夷皋を縛り続けていた声でもある。

「我は儀として酒を呑むことはあったが、このように人と呑んだことがなかった。とんとはもう長い。……とても、長い。我が酌み交わす臣は盾しかおらぬし、この先もそうだ。そう、思いついた」

 夷皋が少し荒んだ笑みを浮かべる。声音は妙に穏やかであった。趙盾は、畏れ多くもったいないことです、と再び稽首けいしゅしゆっくりと顔をあげた。やはり薄い表情の男であったが、少々柔らかさが見えた。

 かつて記したが、この時代の宴席は作法が煩雑である。並べられた膳を祭りながら決まった儀によって食していく。酒を酌み交わすと夷皋は言ったが、やはり儀礼ある宴席から始まっていたであろう。もし酒のみということであれば、趙盾はすぐさま席を立つこととなってしまう。その理由は後述する。

 食が進むにつれ、女官などが消え、代わりに荒々しい男どもが控えはじめたことに趙盾は気づいた。それらは剣を帯び、ぎらついた目を隠そうとしない。そちらを凝視すれば儀礼に反すると、趙盾は一瞥いちべつするだけで終わらせた。表情は相変わらず平坦なままであった。夷皋も、趙盾が顔色を変えるなど思っていない。ただ、この男は夷皋を何の脅威ともしていないからだ、と思い込んでいた。それは誤解であり、命の危機より儀礼を優先したまでである。

 そのさまを蒼白な顔で見ていたのが、趙盾の車右である。この男はちょう氏ではないため、趙氏を頼ってきた勇士なのであろう。堂にあがれるような身分ではないため、庭に座していた。そっと帯びた剣の柄をなぞる。趙盾に賜った銅剣であった。この当時は青銅器文化であり、鉄器はない。金色に磨かれたこの剣は、軽輩では手の届かぬほどの名剣であった。車右という職は常に危機を察知して主を守り、戦争では御者や指揮官を守る護衛である。今、この場は入り乱れる戦場のように危険であると彼は判断した。趙盾はそのような車右の無言の訴えがわかりつつ、無視をきめこんでいる。夷皋との宴席を優先したのである。

 ふと、趙盾の視界に肉を犬に与える夷皋が映った。夷皋も趙盾に儀礼を叩き込まれている人間である。本来ならこのようなことはしなかった。が、せいからの賄賂以降、乱れが生じており、それがたまたまここでも出た。趙盾は、叱ることも説教することも、そして諫めることもせず、一つの食を終えると口を一旦すすいで言葉を投げかけた。

「率爾ながら申し上げます。儀の合間でございますが、お声かけお許しくださいますようお願いします」

 そう言った後、趙盾は稽首したまま動かなかった。その呼吸にすっかり馴染んでいる夷皋が。許すと常のように言う。許されてようやく顔をあげ、趙盾は話を続けた。

「お許しありがとうございます。我が君に侍っておられます犬の片割れは私が献上した猟犬とお見受けいたしました。おかわいがりいただいているようで、何よりでございます。私には懐かぬ犬でしたが、我が君には忠義深いご様子。安心いたしました」

 笑みも何も浮かべず、表情の薄い顔で淡々と言葉を紡ぐ。趙盾はもちろん心の底から言祝ことほいでいる。夷皋がこの犬は良い、と無邪気に笑った。

「こいつは先日、宮殿に迷い込んだ山猫を飛ぶように狩り、獲った。とても良い。我が最も信じるもののだ、もうはこいつだ」

 夷皋が猟犬と共に初期からいる犬を抱き込んで言った。趙盾は夷皋が犬を『ひとり』と数えたことも、それどころか最も信じていると言ったことも指摘せず、畏れ多くありがたいことです、と拝礼した。堂には夷皋が配した勇士どもが控え、君命をいまかいまかと待っている。それを見ている趙盾の車右も緊張を隠さず、背中に汗をひとしずく流しながら剣の柄を触っている。そのような緊迫感あふれる中で、日常のような会話を行い、食を楽しむ正卿と君主の絵は、異常でもあり滑稽でもありながら、どこか荘厳でもあった。

 酒席である。趙盾はようやく酒を三杯、飲んだ。むろん、儀礼どおり美しい所作である。夷皋も飲み、趙盾に四杯めを促した。趙盾は、初めて戸惑った顔をした。そのわずかな動揺を、車右は見逃さなかった。

 車右は堂へ駆け上り、

「臣が君主の宴席に侍るとき、三杯以上をいただくは礼に反しております」

 と言うやいなや、趙盾をかかえるように立たせ、階段を駆け下りた。趙盾がふり返ったとき、夷皋がようやく憤怒の様相を見せ、睨み付けていた。

「いけ」

 夷皋が命じたのは衛士ではなく頼もしい猟犬であった。この忠実な猟犬は、元の飼い主のことなど忘れ、素早く走り、飛びかかった。それをぼんやりと見る趙盾をかばうように車右が体をひねると、その膂力りょりょくでもって犬の頭を殴り叩き潰した。夷皋の悲鳴が趙盾の耳に届く。悲痛な叫びであった。趙盾は車右を制し、ざわつく衛士たちも手で制し、庭から堂を、夷皋を見上げた。

「おそれいり奉ります。犬を愛するのは良いでしょう。しかしそれに頼るは覇者どころか君主の行いではございませぬ。我が君は人を見る目はきちんとございます、しかるべき人を適所にて用いるよう願います。それが徳に繋がるのです」

 淡々とした趙盾のお説教に、夷皋が

「うるさい、犬はもうひとり、いる!」

 と泣きながら叫んだ。趙盾が初めて顔をゆがめた。そして、未だかつてないほど、叫び返した。

「人を用いず棄て、犬を用いられるとは情けない、いかに勇猛であっても何の役に立つというのです!」

 夷皋が悲痛の叫びであれば、趙盾は血でも吐くようなよじれた叫びであった。趙盾は夷皋が殺そうとしたことを嘆いているわけではなく、控えた衛士をそのままに、犬を使ったことに嘆き諫めているのである。この期に及んでこの宰相は、と夷皋は腹が煮え、奇声を発した。死ねと消えろと黙れが混ざったような音であった。それが引き金となり、衛士たちはようやく趙盾へと躍りかかった。車右も我に返り、趙盾を守るように走った。

 庭を抜けても追っ手は諦めず、宮城を出る前に車右は絶命した。主に降りかかる剣戟全て受け止め、血まみれで崩れ落ちていく。趙盾は車右が持っていた銅剣を取り、襲い来る匹夫を一閃、斬って払った。てきゆうで研鑽を務めながらも生きるために狩りをし、山を駆け回っていた時は遠く、動く腕は往事を思えば鈍い。趙盾は君命であるからと死にたくはなかった。彼のような権力欲の塊は、諦めるということを考えることはない。己がいなければならぬ、という強い信念がある。それ以上に夷皋の手をこれ以上汚すわけにはいかなかった。夷皋が我に返ったとき、きっと深く後悔すると趙盾は未だに思っている。

 夷皋が選んだ勇士たちである。趙盾は打ち払うのが精一杯であり、囲まれつつあった。一人の衛士が飛びかかるように思いきり走り込んできた。体を抱きかかえるように掴まれ、趙盾は思わず剣を落とした。

 その衛士は持っている銅剣で趙盾を刺すことは無かった。そのまま襲い来る他の衛士を剣で叩き斬ると、己が盾になるように趙盾を走らせ、共に出口へと駆け出した。趙盾は意味がわからず守られながら男を見た。三十路ほどの衛士は、よほど鍛えているらしく他の勇士を一刀で両断しながら趙盾を守り、力強く走っていた。衛士の行動に驚いたせいもあったのであろう、追っ手は、届かぬようであった。

 趙盾の馬車がようやく見えるころ、男は走るのをやめた。趙盾もつられて立ち止まる。

「あなたは我が君の衛士です。これは君命くんめいに反することだ。何者か」

 感謝よりも叱責になったのは、趙盾らしいというべきか。男は座してかしずくと

翳桑えいそうで飢えていたものです」

 とだけ言って、立ち去った。かつて、そのようなことがあったと趙盾は淡く思い出したが、立ち去る男を引き留めなかった。彼は君命に反した。このこうどころか晋からも去るしかない。趙盾はせかす御者に頷いて馬車に乗った。夷皋にきちんと別れの挨拶ができなかったことが、心残りであった。

 邸に戻れば、家人従僕が庭や堂に勢揃いし、君姫くんき自らが趙盾を迎え座していた。家宰も傍らにおり、嗣子ししや弟たちも座している。みな素衣素冠そいそかんであった。趙盾は、君姫のまえで同じように座し、拝礼した。そのかんばせを最後に見たのは、もう二十年以上も前である。常についたて越しに話していた義母は、今、素顔をさらしている。

「お役目ご苦労様です。君公くんこうもうをお召しになったこと、善きことであれば重畳、凶事となれば我が家は晋におられませぬゆえ、備えておりました。あなたはお帰りになられました、私の心配は杞憂でしたか?」

 もう五十に近いであろうこの賢女は、凛とした声で問うた。そこに焦燥のかけらもない。気品ありながら、語尾に少々の甘さがある、趙盾の好きな声であった。この男は今に至っても己の恋に気づいていない。さて、趙盾の答えはもちろん、否、である。

「残念でございますが、凶事となり、私は命からがら逃げ戻って参りました。我が君のお手を汚すわけにはいかぬ、我が家の祀りを失うわけにもいきません。晋を出ます。差配、ありがとうございます」

 丁寧に礼をしたあと、趙盾は己の素衣素冠、つまりは染めておらず断裁したままの麻衣と、同じく染めていない練絹で作った冠を受け取った。喪服である。祖国を捨て亡命するということは、過去への葬式のようなものかもしれない。

 従僕たちの多数は、本家へ向かうように差配し、趙盾は家族や家宰、史官しかんや必要な手勢を連れて邸を出た。二度と帰らぬ旅路であり、やはり夷皋へ別れの挨拶をしたかった、と夜空を見上げて思う。星が薄い秋の空に、少し欠けた月が出ていた。

 月出でてこうたり

 佼人こうじんりょうたり

 趙盾は小さく呟いた。しろく清く輝く月は、美しいあなたに似ている。古詩である。趙盾が何を思って吟じたかなど、言うまでもない。彼は手の内にあるものを初めて自ら捨てた。

 場所は変わって夷皋である。彼は、趙盾が逃げおおせたことで、茫然自失となり、その場でへたり込んだ。復命してきた衛士どもは、その様子にどうしてよいかわからず、ただ庭でぬかずいている。

「と、盾は兵をあげたか!?」

 ようやくそれだけを絞り出し、夷皋は髪を掻きむしった。好漢であるが能の足りぬ衛士どもは、慌てて宮城の外へと駆け出した。堂には、夷皋と愛犬のみが残った。初めての友だけが彼に寄り添っていた。

「盾が、盾が我を殺しにくる、どうしよう、どうしよう」

 夷皋は犬を抱きしめ、ひくひくと泣いた。趙盾の殺しかたは容赦無い。みなの前で処刑し、死体を晒して罪を思い知らせる。辱めでもあり、他者への恫喝でもある。夷皋から奪われた小者など、ただ殺されるだけではなく手足を叩き斬られたものもいた。強い罰であると同時に、死後への呪いである。死しても生前と同じように生活するという価値観が当時である。ゆえに欠損刑は極めて重い刑罰である。夷皋は、きっと己は生きながらにして体を裂かれるのだ、とまで考えが飛躍した。趙盾のための君主でなければ、生きていけぬ。それどころか、罰を受けるに違いない。――夷皋は、今まで趙盾に罰を受けたことなど一度も無い。であるのに、常に罰を受けるのだと怯え生き続けていた。愛犬が、夷皋を慰めるためか、鼻面を近づけ、顔や手を舐めた。いたわるような暖かさであった。

 ところが、である。夷皋は趙盾が氏族ひっくるめて亡命したことを知った。衛士たちが、憎き佞臣ねいしんを殺せず君命果たせず、と悔しそうに言っていたが、夷皋は喜びの声をあげた。

「まこと、まこと、まこと兵はなく、ないか、ない?」

 興奮のあまり手をわたわたと動かしながら、夷皋は身を乗り出して聞いた。衛士たちはまちがいございません、兵などなく、邸に誰もおらず、亡命の儀あり、と返した。あ、と枯れた声をあげたあと、夷皋は飛び上がり、踊り跳ねた。忠義奉る主君の奇行に勇士どもは唖然とした。彼らは、目の前の青年の喜びについていけず、狂ってしまったのかと思うものさえいた。そのような勇士たちに目もくれず、夷皋は犬と共に堂を出て行った。もはや、集めた匹夫などどうでもよかった。

 夷皋は灯りを持つと、犬と共にふわふわと庭を歩き、夜目の中で桃園を見た。枝から葉が項垂れた様相であまり見栄えはよくない。しかし、日の光の中で見やれば、葉の色が愛犬に似ていて好きであった。それを横目に、お気に入りの堂の中へ入っていった。犬は愛くるしく着いてくる。ただ、もう一匹がいないことに戸惑いの動きを見せていた。

「盾がいなくなった、いなくなったから、これから」

 ぼんやりと呟くと、夷皋は無表情で首をかしげる。

「我はどうしたらいいんだ?」

 不思議そうに周囲を見回した後、あほうのような顔をして青年は立ち尽くし続けた。

 さて、史書によると夷皋の疑問は九月乙酉いつゆうの日に解消された。現代で言えば十月半ばといったところか。彼は、死んだ。

 その死を趙盾は国境を越える前に知った。趙氏本家から使者が追いかけてきたのである。趙盾は何故、とは問わなかった。すぐさま、亡命をとりやめ、

「我が君の死は国の大事です。境を越えぬ私はまだ正卿せいけい、いち早く出仕せねばならぬ。先を急ぐので、みなは落ち着いて追いかけるがよろしい。大勢で慌てふためき戻るは趙氏の軽重が問われます」

 と言い捨て、己の馬車だけで走り出した。趙盾は、夷皋が死ぬわけないとも、死ぬなど信じられぬとも、考えなかった。死んでしまって悲しい、もなく、自然死か事故か、殺人かさえも考えなかった。ただ、君公が身罷られ、正卿がおらぬとなれば晋は荒れる。己はまだ正卿として責を負う義務がある。ゆえに、急ぎ帰り、国難に備えねばならぬ。六卿りくけいみな、それぞれ才あり能あるが、趙盾以上にこの国を把握しているものはいない。趙盾という男は、どこまでも理を優先する。情としては亡命すべきであった。しかし、執政を担うものとして、理をとり、絳都へと駆けていった。戦場を走るかの如く、御者は馬に鞭打ち急がせた。

 趙盾が逃げ、夷皋が死ぬまでどのくらいの時間があったのか。絳から亡命するに、一番近い国境であれば二日ほどでたどり着くであろう。趙盾は途中で引き返している。となれば、夷皋は翌日に死んだのではないだろうか。史書には趙盾との酒宴がいつであったのか、記載はない。

 宮城にたどりついた趙盾が最初に見たものは、庭に控えている趙穿ちょうせんであった。むろん、議を発布し、貴族たちがあつまる公的な庭である。この従弟甥は何故か戎服じゅうふくを着ていた。

穿せん。我が君に何があったのだ。急に身罷られるとは、にわかに信じがたい」

 趙盾は静かに問うた。ようやく、夷皋の死を思う。死ぬわけがない、誤報であろうとも考えはじめていた。趙穿が満面の笑みを趙盾に向け、はきはきと答えた。

「あの暗君はこの穿が殺しておきました。ご安心を、趙孟ちょうもうを苦しめるやつはおりませぬ」

 一瞬、何を言われているのかわからず、趙盾は趙穿の顔を二度見した。からっぽの脳みそを持つこの愛玩物は、悪気なく、そして趙盾を疑うこともなく、まっすぐに見てくる。それは、夷皋を慕う犬どもにそっくりであった。

「我が君はいずこにおられる。今、どこに」

 淡々と尋ねる趙盾に、趙穿が桃園に転がってます、と闊達に返した。趙盾はそれ以上趙穿を見ることなく、

「お前はお帰り。国君が身罷られたならば、国人みな喪に服さねばならぬ。その備えをしなさい」

 と命じ、一人桃園へと歩いていった。趙穿は何も考えず、趙盾が言うのであれば正しいと、手勢を従えて帰っていった。

 相変わらず、端正な姿勢で歩きながら、趙盾は桃園へたどり着いた。春には淡紅に染まった花がにぎわい、歩けばそこは生と死の境にある異界のようであった。趙盾はこの桃園が嫌いではない。故郷でもなく晋国でもないどこかを思い起こし、不確定の心地よさがある。幾度か幼い夷皋と共に歩いた。夷皋は覆い被さるような桃の花が怖いと、堂へと駆け込むことが多かった。その場所から、こっそりと桃園を覗いていた。

 今、夷皋は桃園から空を望むように地に寝転んでいる。このようなところで昼寝とは、民の子ですか、みっともない――と趙盾は言わなかった。夷皋の死体の傍まで歩くと、踊るように地を踏みしめた。人が亡くなったときの作法であり、本当に死んでいるかの確認でもある。じょう公のときも趙盾は行った。そこから細々と儀の動きをする。既に死んでいることが見て取れるのに確認の儀を行うことも含め、極めて滑稽で愚かな行為である。そうして、最後に夷皋の頭を膝に乗せ、三度、哭礼こくれいをした。完璧すぎる哭礼であった。その声音は痛く哀しく、しかし礼に外れることはない。故人への哀惜を見事に表している。ただ、趙盾は儀が終わっても膝枕をやめなかった。

 趙盾の指が夷皋の肌を撫でた。既に死後硬直が始まっているそれは、固い。目は殺されたままのものであり、ぼんやりと見開いている。趙盾は手で何度も閉じさせようとしたが、もはや動かぬ。髪は生前と同じく柔らかであったが、生命の湿気なく乾いていた。

「我が君」

 ぽつりと呟いたあと、趙盾の喉が、ひくっと鳴った。肩を震わせ、歯をガチガチと鳴らす。なんども、ひく、ひく、と喉を鳴らしながら、目を見開き、手は夷皋の頬を何度も何度も撫でた。むろん、全て儀礼に添っていない。君主にあれほど儀礼の大切さを問うた宰相は、それを忘れようとしている。

 ぁ

 喉奥から小さな呻きが出た。堤防に小さな傷がついたような声でもあった。濁流はその傷からあふれ出し、氾濫する。つまり、趙盾は狂ったように叫び、号泣した。抱きかかえ、頬ずりし、言葉にならぬ声で泣きつづける。これは夢ではないか、おかしい、このようなことが起きるはずがないとわめき、起きて下さい我が君、朝政です、起きて下さい、と叫ぶ。狂人であり愚人であった。

 おお、おお、と死体に縋り付いて泣きわめく趙盾の後ろに男が一人、近づいてきた。

「お困りのことあれば力になると、おっしゃっていただければいつでも相談に乗ると、ずっと申し上げていた。あなたに会った最初から、申し上げていた」

 趙盾がふり返ると、郤缺げきけつが冷たいかおで立っていた。

 最初、趙盾は不思議なものを見る目で、郤缺を見た。ぼんやりと眺めたあと、みるみる怒りをあらわにし、睨み付け叫んだ。

「あなたは! 我が君を見捨てたのか! こうなることがおわかりであったか!」

 悲鳴にも似た詰問に、郤缺は声無く頷いた。

 時間を少し戻す。趙盾が酒宴に行った時点で、郤缺は使いを宮城近くに送り込み、様子を伺わせた。大立ち回りのあと、趙盾が亡命のため邸を出たことを知ると、ただちに動いた。

 荀林父じゅんりんぽは動かぬよう仕向けている。氏族もらん氏もせん氏もこの事態に何もできまい。しかし、一人だけ素早く対処できる人間がいる。

 郤缺は、手勢を率いて士会しかいの邸を囲んだのである。士会も、いち早く事態に気づいており、ことを収めるべく差配しているところであった。そこに、郤缺が強襲したのである。

郤主げきしゅ。何を考えている」

 士会が門の前で対峙し、睨んだ。郤缺はその視線を弾くように強く見つめ返す。

なんじが動くとやっかいだ。邸から出ず、何も存ぜぬでいただきたい」

「我が家は法制の筋だ。わたしは司空しくうではないが、祖父から受け継いだそれを行使する権利と責務がある。趙孟がいなくなれば、本家が黙っておらぬ。乱が起きる。それとも郤主はこの機に応じて権勢をとるか」

 低く唸るように問う士会に、郤缺は首を振って応じた。

「私が権勢を握れるわけがなかろう。逆臣の子がそのようなもの取れぬ、国は治まらぬ。そして、汝が思うような乱など起きぬよ。今の公室は軍を持たぬ、死ぬのは一人だけだ。そうすれば我ら六卿、風通しよくまつりごとができよう。しかし、汝が動けば死体ひとつさえ転がらなくなる。それは困る。晋にとって邪魔なあれに私はお引き取り願いたいだけだ」

 士会が額を手で抑えた。頭を抱えるようなしぐさであった。大きく息を吸い、吐く。郤缺にぶつけていた戦意と殺意が霧散した。静かな顔を郤缺に向けてきて、口を開く。

「わたしの好みでは無いが、理はある。仁なく忠なく徳もないことであるが、理だけはある」

 しぼりだすように吐き捨てると、士会は己の家人従僕に、戻れ、常のように寝ろ、と命じた。そうして郤缺に向き直ると、

「もし、趙氏も動かねばどうする」

 と、言った。士会は、ほぼ趙穿が暴発すると思っている。河曲かきょくでの戦いでも、しんへの和睦と言い出した時もそうである。その時の気分のまま理もわからず感情にまかせて動く、趙盾の愛玩物である。趙盾が害されたと知れば、趙穿率いる本家は反社会的な暴力機関と化し夷皋へ牙を剥くであろう。しかし、それでも士会は問うた。動かぬ可能性はわずかでもあるのだ。

「そうなれば、それこそ周都にでもお引き取り願うだけだ。犬と共に穏やかに余生をおすごしあそばれればよい」

 郤缺の言葉に士会は是として退いた。

「今夜はなかなか眠れまい。私と共に過ごすはいかがか」

 ようやく柔らかい笑みを浮かべる郤缺の誘いに、士会が首を横に振った。友と自分を嫌いになりたくはない、とだけ言って、邸の中へ帰っていった。

 まぬけにも趙穿は、趙盾の亡命を朝もとうにあけてから知った。すぐさま宮城へ向かい、桃園でぼんやりとする夷皋を殺し、周囲でうるさく吼える犬も殺した。そこから、趙盾が帰るに合わせて控えていたのは前述の通りである。郤缺はその状況を全て把握していた。本来ならそのまま放置するはずであったが、何故か桃園まで足を運んだ。

 そうして、愚かな男に、声をかけた。郤缺も愚か者と言ってよい。

「あなたは、こうなることがわかっていたのではないか? 何故我が君をお守りしなかったのです、せ、穿の浅はかな行いを止めることができたはずだ!」

 趙盾が、郤缺を睨み付け、泣きながら声を荒げる。その声に驚いたわけでもあるまいが、桃の葉が一葉、はらりと落ちた。郤缺はため息を小さくついた。

「君公を奉ると誓ったはあなたです。己が亡んでも奉るとおっしゃった。私は君公を守るとお約束しておらぬ」

 詭弁だ、と趙盾が呻いた。郤缺はそれを睥睨へいげいするように見ながら、さらに言葉を続ける。

「これはあなたの行いが招いたことだ。先君の遺児は覇者にならず愚人に育った。恩人であるあなたを殺すまでになり、いずれは晋に厄災を招いたであろう。あなたは誓いを違え君公を捨てた。私が誓ったのはあなたを殺してでも晋を守ることです。あなたのいのちはあなた自身ではなく君公であり矜持である。私は晋を守るため、あなたを殺したまで。誓いが果たせたこと、私は誇りに思い、それは互いの祝いです」

 趙盾が壊れたような顔をして郤缺を見上げ続ける。郤缺は、この男と初めて会ったときの気持ちを今さらながら思い出した。――理と情がちぐはぐであり、あまりに危うく放ってはおけぬ――。そこが起点であったのであろう。互いに政治に携わる立場になっても、郤缺は趙盾を結局放り出さなかった。今、このきわになっても放置せず、絶望している趙盾に声をかけた。あの時から二十年は経っている。趙盾は孤独を抱えたまま進み、そしてその孤独で一人のこどもの人生を潰した。

「……私は、なんだったのでしょうか。ご教示いただけますか、郤主。私はどうすれば、私の忠を奉れたのか。ご教示頂けますか、郤主。私の行いはなんだったのでしょうか」

 郤缺はそれに答えず、君公を室に戻してあげましょう、とだけ言った。趙盾が子供のように頷き、重いであろうに夷皋を背にむりやり担ぎ、郤缺の後ろを歩いて行った。

 趙盾は精力的な政治家である。夜明け前には各六卿の邸へ使者を送り、朝政を開くことを伝えた。彼は、政務を放棄するような男ではない。もし、放棄できるのであれば、そのまま亡命していたであろう。

 出仕した趙盾は、政堂前の庭で、掲げられた布を見た。それは朱墨で一行、

 趙盾弑其君

 と書かれていた。史官の手によるものであった。史官が書いたということは、公式記録となる。趙盾は控えていた史官に向かって、

「私は殺していない、これはまちがっている」

 と淡々とした様相で言った。まるで、添削のような声音であった。史官はいいえ、と否定する。

「あなたは正卿でありながら逃げ国境を越えず、引き返したとて君公を殺した賊を討とうとなされなかった。あなたが殺したのでなければ誰が殺したと言うべきですか」

 史官の言葉は全く正しい。彼は趙盾を非難しているわけでも、夷皋を擁護しているわけでもない。ただ、冷厳な国史の記録者として、この場に立っている。趙盾は少し身をよじり、己の片腕をゆるく掴んだ。

「古詩に、我のおもい、自らのうれいをのこす、とあります。それは私のことです」

 ――私が大切とした思いが、私自身に悲しみと汚れをもたらした。趙盾は生まれて初めて、己の正しさを否定した。死ぬまで彼は、己の人生を否定し続けるのであろう。趙盾の感傷など意に介せず、史官は拝礼して去って行った。

 この事件を記述した史書、文献全てに、趙盾が其の君を弑した、と記載されている。彼の人生を覗きこめば、反対者を全て粛正し権力を一手に握り幼君を奉って国政を思うがままにした独裁者が見える。反面、女の泣き落としで幼い子供を君主に据え、愚かなことをすれば常に諫め続け、晋を支え続け、最後まで君主に刃を向けなかった忠義者も見える。通りすがりに飢えた男を助ける情の深い男さえ見えてくる。どのように受け取るかは、後世各人の自由であろう。

 ただ、この男を考えるに。

 狄で生まれ晋人となるという数奇な人生の果て、国に尽くして君主殺しとなった約四十数年はなんであったのだろうか。筆者はそれをいつも思わざるを得ない。

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