第63話 秋の夜の夢

 趙盾ちょうとんが出征している間、夷皋いこうはもちろん政堂に背を向けている。夏の蒸し暑い盛りである、政堂でただ座り続けるというのもバカバカしいと思ったのであろう。

 郤缺げきけつは一度だけ諫めに行った。常は放置している男が諫言奉るとやってきたのである。夷皋も面倒であったろうが、しぶしぶといったていで応じてきた。この青年はひねて荒んでいるが、このようなところは妙に真面目であった。郤缺は通りいっぺんの諫言のあとに、

君公くんこうと二人でお話することなどございませんでしたな。いまだ君公が公子であったとき、てんの毛皮を捧げ奉ったことござります。もう、お忘れでしょうが、喉がお悪いとその時は伺いました。今はもう大丈夫でしょうか、喉が悪いと酒が飲めぬと申します、儀に欠かせぬものですので、大変ではございませぬか」

 と優しく問うた。夷皋が戸惑いながら、貂は覚えておらぬ、と小さく呟き、

「喉は、まあ良い。酒は飲める、儀に差し支えはない」

 と、たどたどしく返した。それはよかった、と郤缺は心底安堵した顔を見せた。

「まこと、それはよろしいことでございます。覇者としてこれからもお務めされるに、儀は多くお体も大切にせねばなりませぬ。弱きところが強くなったこと、けつは安心いたしました。君公は正卿せいけいの支えありますゆえご養生もできたのでしょう。趙孟ちょうもうは君公を第一に考えております。少々口うるさいやもしれませぬが、大切にしてくださいませ。あれの支えは晋の柱でございます」

 他意の無なさげな郤缺の笑顔に、夷皋の頬が引きつった。誠意あるが、まるで夷皋を子供のように扱う言葉に思えた。夷皋は怒鳴って良かったが、この青年は趙盾への言いようのない不快で頭がいっぱいになる。そもそも六卿りくけいを決めたのは趙盾である。ゆえに、このものも趙盾の指図で動いているに違いない、と思い込んだ。

 郤缺は、夷皋の趙盾に対するに気づかぬふりをしながら、さらに笑んで口を開いた。

「趙孟は遊びのない男で窮屈なところがございます。しかし君公がねぎらい、そうですな、狩猟や酒宴にお呼びすればもう少しくだけ、さらに忠深くなり、君公もご信頼深くなりましょう。――ああ、少し差し出がましいことでした、年をとると口が多くなるようです。ご無礼お許し願います」

 夷皋がそれは無理だ、と呟いた。反射的な言葉のようであった。

とんが狩猟も酒も、度が過ぎてはならぬ、国の亡びと言う。我のねぎらいなど、盾は断る」

 怯える夷皋に郤缺は慈しみに満ちた微笑を浮かべ、

「そのようなことはござりませぬ。趙孟は君公を覇者として支え、忠を奉っております。君公のねぎらいを断ることなどございませぬ」

 と優しく言ってやった。夷皋が途方に暮れた顔をしたあたりで、郤缺は下がっていった。

 郤缺は諫言はまっすぐ行い、世間話は年配の立場からであったが、虚偽なく暖かい言葉を投げた。夷皋を君主というより年下扱いであったが、それでも礼から外れはしなかった。狭い世界で生かされ歪んだことに対する憐れみさえある。が、郤缺の最大の長所である、他者への敬愛は抱きようがなかった。それを思うには、とうに突き放しすぎていた。

「これは謀略というほどでは無いが、さて」

 自邸への帰路、馬車に揺られながら郤缺は一人ごちた。夷皋に近づく気はさらさら無い。夷皋は趙盾が囲い込んでしまっており、その砦を破る労に比べ得るものは少ないであろう。近臣となっても、趙盾と対抗できず、君公を惑わしたとして粛正されるに違いない。郤缺は夷皋が趙盾に対して殺意を抱きはじめたことに気づいている。その殺意は指向性を持たずに燻っていると見ていた。趙盾がその殺意ごと夷皋を潰してただの人形にしてしまうなら良し、その殺意が爆発すれば、それはそれで事態は進む。今、趙盾の拘りのために膠着状態が続いており、政治や外交に支障が出始めている。例えばへの消極的な態度、しんへの無駄な工作である。公室の税をしばしば重くするため、趙盾はそれを諫め、さらに穴埋めにやりくりをしている。結果、彼が最も嫌悪する余事に費やすはめになっていた。郤缺としては、さっさとこっちに頼れ、と言いたい。否、幾度も言っている。しかし趙盾は頑固であり、そして無駄に根性がある。枯れ草に燃え広がる炎のように勢いよく進み続け、引きずっている夷皋がボロボロになっていることも気づいていない。なされるがままであった夷皋に、反抗心が生まれいまや殺意も芽生えている。趙盾が夷皋をも燃やし尽くすか、夷皋が趙盾の歩みを一旦止めるか。とりあえず趙盾がいきなり消えても国が動かせるよう、備えねばならぬ。備えなくば、内の把握が遅れ、外に遅れをとるであろう。席次として次の正卿は荀林父じゅんりんぽである。郤缺を信頼しているため、話は通しやすい。

 ――君公はそうの先君が狩りで罠にかけられ弑殺しいさつされたをお覚えであろうか――

 考え込むような顔をしながら、郤缺は空を見た。雨期であり雲が少々多いが、遠い山ぎわは明るく雨は降りそうにない。水害を考えれば喜ばしいことである。

あめふれ其れあめふれと、杲杲こうこうとしてずるの日あり。つねここはくを思うて、こうべやましきに甘心かんしんす」

 雨よ降れ降れ。そう思っているのに日が出てきて燦々さんさんと照りつける。雨が降れば夫は帰り思い煩うことなど無いのだ。しかし、夫を思い頭を痛めることも心地よい。ぼんやりと口から出る古詩は雨にことよせて夫への愛と無事を祈るものであった。郤缺が考えるのは夫ではなくしんのことである。雨よ降れ降れと趙盾を追い詰め、夷皋に多少の入れ知恵をしているが、いっそ雨など要らぬ、晴れた暖かい陽気の中、ふんわりと収まってほしいのだ。これ以上、粛正も乱もいらぬのだった。

 さて、郤缺の感傷など、些事であろう。この男は感傷を覚えたからといって、情に流されぬ。士会しかいのように徹頭徹尾てっとうてつび、理の男というわけではない。父の郤芮げきぜいや息子の郤克げきこくのように、感情量は多い。が、それをきわだった自制心で抑え、理を選んでいる。この男の感傷など、他者から見れば空々しささえ感じるかもしれない。

 それはともかく、夏の終わりに趙盾たちは帰国した。秦を追い払うだけの出陣が、なぜか諸侯を従えていを攻めた。復命した趙盾に夷皋は飛びかかってしまいたかった。飛びかかり、のしかかり、そうして、その後は、と考えたが、体はこわばり指一つ動かせぬ。

「……良い、許す」

 結局、ぎちぎちとした声で言った。趙盾が美しい拝礼のあと、夷皋を薄く平坦な眼差しで見た。感情のわかりにくいその顔に、夷皋は傲慢と僭越せんえつを感じ、さらに腹の奥が黒くなる心地であった。頬を引きつらせながらその視線に合わせてにらみ返せば、ふっと、趙盾が柔らかく笑んだ。なんと表現すべきか、わからぬ感情が夷皋の中に渦巻き、吐きそうであった。そうして、さらに腹の奥が黒々と暗く重くなっていく。趙盾が騙くらかした上いけしゃあしゃあと忠臣面し、謝らないことに、この青年は今さら傷ついている。

 郤缺はそんな夷皋と趙盾を薄目で眺めていた。夷皋が、殺さんばかりに趙盾を睨み付けていた。その視線に気づいた趙盾が笑んだのは殺意に気づいていないからである。単に、夷皋が久しぶりにきちんと見てくるということだけが嬉しかったのであろう。幼稚であっても殺意は殺意である。それがわからぬ趙盾は確かに鈍感すぎると言えた。

 夷皋は趙盾に対する暗い思いが渦巻き、常に耐えきれず、かわいがっている犬や勇士たちにじめじめとこぼした。大国の君主が、畜生や軽輩の匹夫に愚痴を言うことしかできぬのであるから、哀れを通り越してみじめである。

「そのように、無礼な正卿は当然です。我が君のお気持ち、お察しいたします」

 勇士の一人が、慰めるように言った。夷皋は少しきょとんとした。いっそ惑乱したいほどの暗い気持ち、嘔吐したくなるほどの重い心地に、名がついたのである。夷皋は趙盾の死さえ願うようになっていたのに、己の気持ちが全くわかっていなかったのだ。子供の頃から感じていた苦しさ、疎ましさ、怯えの他にできていた重量のある感情が、憎しみであることに、ようやく気づいた。

「そうだ、我は盾が憎い。にく、い。憎ければ……こ、殺してもよいものか?」

 己で決断できぬ夷皋は、殺意さえも許しを請うように勇士たちを見回して言った。政治的思考も無ければ、視野の狭い彼らは、君公のお望みであれば誰をちゅうしても良し、と口々に言上した。夷皋は、ほ、と安堵の笑みを浮かべたあと、腕自慢の勇士に趙盾の暗殺を命じた。戦争前はこのように昂揚するかもしれぬ、というほど、夷皋の心は期待に満ちていた。

 そうして、夏が終わりつつあるころ、趙盾の邸の庭で人が変死した。筋骨隆々とはこのような体を言うのであろう。その男の頭蓋はものの見事に割れている。争った形跡もなく、男はえんじゅの樹に頭を打ち付け死んでいたのだ。何度も打ち付けたのであろう、頭蓋はぐちゃぐちゃであった。が、顔はなんとか見て取れた。趙盾は夷皋に侍る匹夫であるとすぐに気づいた。 

 呪いでもかけたのか、と怯える家人を制し、

「丁重に葬りなさい。我が邸に来られたは客、そしてお客がそのまま亡くなられたのであれば弔うが筋です。もし呪いでも祀れば祝いとなる。ぞんざいにせぬよう」

 と趙盾は言い含め、参内した。暗殺者の死を知った夷皋と言えば、趙盾の返り討ちだ! と叫んだ。夏が終わるまで政堂へ足を向けず、諫めに来る趙盾を追い払い、頭を抱えて私室で振るえ続けた。

 趙盾も夷皋もわからぬ、暗殺者の顛末を一応説明しておこう。この暗殺者は忠義そのものの男であった。哀れさも含め夷皋を本気で敬愛する好漢と言って良い。夷皋は無自覚であるが、勇士への目利きは良く、好漢ばかりではある。ただ、能臣はおらず視野の狭い匹夫しか揃っていない。

 この暗殺者、否、好漢と言おうか。名は残っているがこの話では割愛する。この好漢は夜も空けぬ暗いうちに趙盾の邸に忍び込んだ。夏の夜明け前と言えば、もはや夜中に近い。であるのに、趙盾の室の表戸は明け放れている。本来、寝ている間は閉じられている戸であり、この好漢は趙盾をだらしないと軽蔑した。家人従僕がさぼっているということである、大貴族の長としてあるまじき状況であった。それはそれとして、好漢としては仕事がしやすい。彼は表戸からそっと覗きこんだ。

 そこには、衣冠をつけ出仕の準備を終えた趙盾が座っていた。あまりに早い時刻であるためか、座ったまま仮眠を取っている。仮眠をしていても姿勢は崩れず、謹厳という言葉そのものであった。その好漢は思わず後ずさり、叫びかけたのを手で押さえた。息を飲んだあと、思いきりため息をつく。

「恭敬を忘れぬあの姿はまさに民の主、宰相そのもの。民の主をころすのは国への不忠、君命に背くは不信というもの」

 この好漢は人がとても好かったのであろう。趙盾が政治に関わってから約十五年の間、延々と行っていた朝の習慣に誠実さを見てしまった。それでいながら、夷皋の君命を宝物のように大切にした。結果、

 ――死んだ方がマシだ

 と、衝動的に頭を打ち続け、自殺した。趙盾にせよ、夷皋にせよ、欠陥品のような性格であるにも関わらず、人の好い素朴なものに愛されるところがあった。人望ではなく相性なのであろう。趙盾がこの好漢を暗殺者と見たかどうか、わからない。いや、なんだかんだと理に聡い男であるため、夷皋の殺意にようやく気づいたかもしれなかった。

 もちろん、趙盾の邸に変死体が転がったことを、郤缺はすぐさま把握している。情報を集めて精査することに関し士会の右に出るものはいないが、情報網のみでは郤缺が上であろう。かつて欒枝らんしのものだった氏族は、もはや完全に郤缺の手足に等しく、それどころか芋づる式に増えた。趙氏における臾駢ゆべんのように、保護を願い傘下になったものも多い。郤缺は、趙盾が夷皋を食いつぶす前に、夷皋が暴発するか、とため息をつく。それにしても、暗殺者一人を送ってうまくいくと思うのは児戯すぎた。まかりなりにも正卿の本邸である、返り討ちにあうのがオチであろう。実際、暗殺者は死んでいるのである。さすがに郤缺も暗殺者が自害したとは考えつかない。

 郤缺が最初にしたことは、趙盾への説教ではなく、荀林父への忠告であった。

荀伯じゅんはく。万が一の話です。これから何があっても、どのような変事が起きても動いてはならぬよ」

 邸に訪れ、細々な挨拶のあとに、郤缺は微笑みながら言った。荀林父が、首をかしげて見てくる。やはり、どこか政治勘が低いまま、この男は次卿を無難にこなしている。その均衡は無意識であろう。郤缺は、少々うらやましさを感じた。

「あの、何か、変事が? 今、六卿はまとまっております。六卿、は……」

 そこまで呟き、ようやく察したらしい。荀林父が蒼白となっていく。何か言おうと口を動かすのを、郤缺はそっと手で制した。

「私は万が一と申し上げました、あまり深くお考えなきよう願います。あなたは賢いかただ、ゆえに動けば国が乱れることもあろう。士季しきもです。変事にみなが動けば乱になる、それはあなたもよくご存じであろう」

「……よく知っております。だからこそ、変事を防ぐことが我ら卿のお役目です。起きることを前提とするのは、いかがでしょうか」

 郤缺の言葉に、荀林父が絞り出すように言う。彼は、次卿として趙盾を抑えようとするが、全くできていない。郤缺の説教が強すぎるといなそうとするが、それもできていない。共に政治を行ってきた同僚であり戦友に亀裂が入っていくのをただ眺めており、その原因である夷皋に対しても手が届いていない。その果てに変事が起きるのであれば、不甲斐なささえ感じた。郤缺はそんな荀林父の友愛の念が好ましいと思っている。慰めるように、万が一なのですよ、と柔らかい声で言った。

「万が一、であれば、郤主げきしゅはどうされるので? ……いえ、あなたもお動きにならぬと誓って欲しい。互いに五十の年を越えました。郤主はもうすぐ下寿かじゅでしょう。ええ、ええ、中寿ちゅうじゅまで生きて、晋のために務めてほしいのです。誓っていただけませぬか」

 荀林父の言葉に、郤缺は息を飲んだ。誓え、と言った内容ではない。己が父親の享年を越えていたことに今さらながら気づいたのである。父であれば、いっそ乱を起こしたであろう。そのほうが手っ取り早いと言うに違いない。確かに手っ取り早くことを成し遂げ、ついでに権力も簡単に握ることができる。しかし父上。五年後十年後を見た時に、どこかで歪みが生じます。郤缺は郤芮を思いながら緩く笑む。

「私は乱にならぬよう務めますから、きっと動くでしょう。あなたは忠臣の家系です、動いてはならぬ。士季も動かさぬ、あれは忠と法の家ですから動けばおおごととなる。せん氏とらん氏は家宰かさいたちが優秀です、己の家を守るでしょう。我が家は一度汚れておりますゆえ、そのような時に動いても、他は呼応せぬ。ご安心を」

 既に手持ちの氏族、傘下には動くなと厳命している。郤缺が動くなと言えば、もう絶対に動かぬものどもである。荀林父が、ちょう氏は、と問うた。郤缺は、私などが止められようか、とだけ返し、安心させるように微笑んだ。

「万が一ですよ、荀伯。ここのところ空気がよろしくない、と思うのは老人の気にしすぎでしょう。しかし、一応忠告したかった」

 結局、荀林父は最後まで、動かぬことを頷かなかった。しかし郤缺はそれで良いと思いながら帰った。荀林父は政治勘の無さと独特の過敏さで、繊細な政情を無自覚にぶちこわしかねない。それは彼の悲運に繋がる可能性もある。が、あらかじめ情報を与えておけば、一旦考えるであろう。常識的な彼は、そのようなときに冒険をしない。つまり、動けなくなる。

 帰宅した郤缺は自室に一人座り、少し湿気た庭を眺める。荀林父の邸で話している間に雨が軽く降ったらしい。

「万が一の変事は勝手に起きる。趙孟が亡ぶか、趙孟を殺すか、だけを考えれば良い。そういうことでしょう」

 誰かに語りかけるように呟いた。深く考えるとき、迷ったとき、愚痴を言いたいときに出るこれは、すっかり癖となってしまっている。父に話しかけているのか、欒枝に話しかけているのか、郤缺もわからない。どちらにせよ、郤芮の声は思い出すこと既にできず、欒枝にいたっては、顔の輪郭もぼやけている。それでも、郤缺は語りかけずにはいられなかった。

 雨期の夏が過ぎ、うららかで心地よい陽光と柔らかい風が優しい秋となった。趙盾からの刺客が来ないとうすうす分かり、夷皋はようやく私室から出て犬と共に庭を散策した。胥甲しょこうから貰った犬はそろそろ落ち着いた性格になっていたが、かわいさはそのままである。趙盾が献上してきた猟犬は賢く従順であった。夷皋は、趙盾が献上したからという理由でこの猟犬を嫌うことはなかった。己に最も忠実で愛をそそいでくれるのはこの二匹である、と彼は断じている。

 庭を歩くうちに、政堂に近いところまで来てしまい、夷皋は慌てて木の陰に隠れた。犬どもは忠実であり、夷皋の傍で侍る。遠目に朝政ちょうせいを終えたらしい趙盾が歩いていた。背が真っ直ぐと伸び、堂々とした立ち振る舞いであった。他のものが丁寧に挨拶をしながら、帰っていく。趙盾も丁寧に返礼していた。

 夷皋は悲しくなり、次に口惜しくなり、最後に憎々しくなった。ずっと思っていたのは、夷皋と趙盾が並べば、どう見ても趙盾が立派であり、いっそ君主のように振る舞っている、ということである。他者が聞けばとんでもない、と応じるであろう。趙盾の所作も態度も臣下の分を越えていない。が、夷皋の言い分も最もである。趙盾は夷皋の人生に君臨し続けているのである。

 老いたけいが趙盾に柔らかく拝礼していた。いつか、貂を献上したと言っていた男である。一瞬誰であったか思い出せなかったが、何故か狩りか酒宴をせねばならぬ、と思いついた。狩りなら猟犬の活躍が見られて楽しいであろう。が、目的を考えれば難しいやもしれぬ。夷皋は狩りが不得手で、趙盾はなかなかに得意であった。遠い日、辛抱強く教えてきたことを思い出す。

「酒宴にしよう。我はもう成人、あれと対して呑んでもおかしくない」

 さあっと、風が庭にある木々をとおりぬけ、赤と黄に染まった葉を揺らした。夷皋はそのさまを晴れ晴れとした顔で見たあと、皆がいなくなったのを見計らい、宮城の中央にある大木まで歩いた。晋を守る樹であり、公室の祀りを表すものである。びょうよりもこちらのほうが、父祖を感じさせ、時には恐ろしかったが、今は励まされる気分であった。

「我は、あの不忠ものを誅します。応援して下さい。あいつがいなけりゃ我が君公なんだ、あんなやつおらぬでも我は覇者なんです」

 父の顔はうっすらとしか思い出せず、祖父の顔など全く覚えておらぬ。父祖が今まで夷皋を助けてくれたかと言えば、逆に苦しめている。先君たちのようにあなたもご立派な君主になられるのです。毎日のように聞かされた呪いの言葉である。そのような疎ましい血筋にさえ縋るほど、夷皋には何も無い。

 犬どもが夷皋にすりより、励ますように指先を舐めてきた。夷皋は屈んで犬を代わる代わる撫でると、二匹を引き寄せ抱きしめた。獣のにおいと草のにおいが鼻腔をくすぐり、こいつらは己のことをとてもわかってくれている、とその毛に頬を擦りつける。夷皋の初めてのともだちは犬であり、唯一の友も犬であった。

 錦秋紅葉きんしゅうこうようが蒼い空に映える、ある日の朝であった。夷皋がいそいそとやってきていた。郤缺が参内したときには、趙盾と夷皋が二人座っていた。趙盾が常に早いのはいつものことであるが、その次に夷皋が来たことなど初めてであった。彼は妙にごきげんであった。士会、荀林父と次々政堂に座っていく。士会は表情ひとつ動かさなかったが、荀林父はわかりやすく驚いた。全員が揃い、しずしずと議を問い片付けていく。夷皋は趙盾の確認のたびに頷き、軽快に許すと返した。それは、趙盾と和解したようにも、妥協してしまったようにも見えた。

 朝政の終わり、夷皋が

「盾」

 と、声を発した。趙盾が向き直り稽首けいしゅする。そうして夷皋の言葉を待った。まるで、正しい君臣の姿のようであった。

「うっとうしい夏も終わり、良い秋である。日も長くなり、夕闇の涼しい風が良い。秋風起こり白雲が流れゆく。草木黄に染まり葉を落とし、かりは南に帰る。ふじばかまは美しく菊はかぐわしい。そのような臣は是が非でも傍に置きたいもの。我が庭は金と紅が空を飾り、菊が満開だ。今宵、酒宴をしてこの季節を楽しむ、来い」

 郤缺は笑みを絶やさぬまま、わからぬよう周囲に目をやった。士会が見きわめるような目で趙盾と夷皋をに視線を送っている。荀林父が気遣わしげな顔を趙盾に向けていた。意外にも欒盾らんとんは興味のなさそうな顔であった。先縠せんこくは困惑している様子である。趙盾は、常の平坦で薄い表情であった。

「我が君からのお誘い、この盾ありがたくお受けいたします。蘭の美しさ、菊の香りのような良き臣ではございませぬが、誠心誠意務め、侍る所存でございます」

 美しく丁寧な所作でぬかずく趙盾に、荀林父が引きつった顔を向けた後、夷皋に拝礼した。

「率爾ながら、林父りんぽより申し上げたい議ございます。我が君におかれましては正卿のみをお呼びし酒宴を行うよし。一人の臣を特別にお引き立てされるは、まつりごとに偏重をきたすことございます。六卿みなと伺うことかないませぬでしょうか」

 人の好い常識人である荀林父の、精一杯であった。彼は夷皋が趙盾に何をしようとしているのか考えないようにしていた。夷皋が趙盾を疎んでいるということはわかっている。それでも趙盾が夷皋を君主としてまともな道に歩ませようと必死であることも知っている。しかし、その果ての和解であるとは彼さえも思わなかった。凶事でなければ良いと思いつつ、しかし万が一のためには全員で押しかけるしかないと考えたのである。夷皋は予想に反して、不愉快な顔をしなかった。

りん……の言葉も一理ある」

 夷皋は荀林父の名を思い出しながら返す。

「しかし、盾は我が父に我を託され、ずっと一途に支えてきた忠臣。我も子供のころから世話になっているのだ、二人でゆっくり酒をくみかわしたい」

 そう言われてしまえば、荀林父は引き下がるしかない。遺言に立ち合った郤缺も荀林父もじょう公に夷皋を託されたわけではない。他人が入るな、と言われれば、そうですね、となる。

「――使者をお送りいただければ、先触れのあと伺います。お時間はいつでも、盾は我が君の応じにすぐおこたえできるよう備えておきますゆえ」

 趙盾が拝礼し、そして朝政は終わった。夷皋が足取り軽く消えたあと、立ち上がった趙盾に士会が近づき、開口一番

「行くな」

 と言った。趙盾がいぶかしげな顔をする。郤缺はそのさまを見ながら小さくため息をついた。士会は正しいが、この場合は邪魔であった。

君命くんめいを受けました。伺わぬことなどできぬ」

 士会の言葉が極めて不快だったらしく、趙盾がわずかに苦い顔を向け棘のある口調で返した。士会が負けずに苦々しい顔をして、さらに口を開く。

「あんたは君公のめいをさんざん踏みつぶしてきたのだ、今さらではないか。来る使者は追い返せ。そうならば君公はもう、引きこもる、二度と出てこん。それがあんたにとって一番良かろう、

 郤缺が直球で言わなかった言葉を、士会が思いきり言った。国を動かすためだけに権力を一手に握った趙盾にとって、晋公がどのような人間であろうが邪魔なのだ。しかし趙盾は君主になりたいわけではない。結局、飾りにするしかないのである。

「――士季。それは私を嘲り卑しめる言葉です。侮蔑として受け取るがよろしいか」

 常の薄い表情さえ消え、赫怒かくどの顔を士会に向けた。猛炎のような視線は見るもの全て焼き焦がすようであった。が、士会はそれを冷たく流し、侮辱と取られたはわたしの不徳だ、無礼を謝る、と言って引いた。趙盾がすうっと表情を消し、常の平坦な貌へ戻っていく。そうして、彼は士会をじっと見た。察した士会は、拝礼して去って行った。言うことは言った、という背中であった。

 郤缺は、士会の理より趙盾の頑固が勝ったと、少し胸を撫でおろした。むろん、凶事が無いことにこしたことはない。そうであれば、夷皋が本当に心を入れ替えたこととなる。が、それはありえぬ、と郤缺は断じていた。人は殺意や憎しみをそう簡単に失わない。それは己が良く知っている。

「郤主」

 趙盾が話しかけてきた。政堂からさっさと出て行くと思ったが、見学していた郤缺に用があったらしい。なんでしょうか、と郤缺は笑顔で応じた。

「これは、私語となりますゆえ、本来政堂でお話しすることではありませぬが、私は我が君のために備え急ぎ姿を改めねばなりませんので時間がありませぬ。この場で失礼を」

 まるで内緒話をするように近づき、こそこそと趙盾が言う。

「私は我が君と酒を酌み交わしたことございません。初めてとなります。何かこう、とても胸が踊るものです。息子と初めて酌み交わした時もここまでではなかった。ところでお聞きになられたか、我が君が良い詩をうたっておられた。秋の風景をよく表しておられる。秋に咲く蘭や菊を私に例えられるなど、身に余ることであるが、心に留めようと思う」

 無意識なのであろう、少しはにかむような笑みを見せた。声音も晴れやかで柔らかい。郤缺はいっそ嘔吐を覚え、思わず苦いものを飲み込んだ。趙盾は、バカではない。情に眩みすぎて理を忘れる、という男でもない。情を常に理で抑えながら生きている。ゆえに、夷皋が趙盾を殺したいということもわかっているであろう。実際、暗殺者まで送られているのである。にも関わらず、彼は育てた子供が成人となり酒を酌み交わしたいと言い出したことに浮かれ、君主に得がたい臣と言われて無邪気に喜んでいる。郤缺は、怖じた顔を隠さなかった。

「君命に従えばどうなるか、おわかりか」

 止めるつもりなどなかったのに、頭に浮かんだ言葉そのままを垂れ流す。趙盾が平坦な表情となり、静かに頷いた。

「もちろん、お手を汚させてはならぬ、とは思っております。私が亡べば誰が我が君を守ろうか」

 恐怖と嫌悪が入り交じった顔をする郤缺に平然と答え、趙盾はうやうやしく立礼し、去っていった。それはいつものように真っ直ぐで迷いのない足取りであった。郤缺はそれを見送りながら、立ち尽くしていた。

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