第6話 ふと、いきなり昔を思い出した。

 さて。重耳ちょうじが晋を継ぎ、国をしっかりと掌握するまで約四年ほどかかっている。そうして人心が落ち着いた頃に中原ちゅうげんを脅かした南方の雄であるに勝利し、いわゆる覇者はしゃとなった。覇者とは内乱で力を無くした宗主国、しゅうを支え、夷狄いてきを伐ち諸侯を取り仕切る、尊皇攘夷の盟主のことである。特に斉恒晋文せいかんしんぶんとも言われ、斉に次いで晋は代表的な覇者と言って良い。

 しかし、重耳初めとした晋そのものは、尊皇攘夷などどうでも良かったのではないか。晋は覇者になることによって、ようやく国人一心となったと言えた。人々は我らの君は名君よ、支えた方々は名臣よと讃え、内乱で罪無くして死した者たちを祀りもした。

「それでも、離散の芽が見える」

 と重く考えていたのは欒枝らんしである。穏やかな風情ふぜい、二君に仕えぬ貞節、沈毅な言動、重厚さを感じさせる所作と、全てにおいて名門貴族にふさわしい彼は、内心焦りがあった。本当に今後、血を見ぬ祖国が続くのか、という焦燥である。重耳は放浪時に冷遇した国に対して少々怨みがあったようであり、それがいくつかの問題を起こしている。欒枝がかつて書簡のやりとりをした重耳には、そのような陰湿さを感じなかった。からりとした人柄と何より安定を望む人間くささがあった。己より小さき者への陰湿は、よどみを呼び、他者を巻き込んで荒廃させる。まして、人臣の上にたつ君公である。

 ――本当に君が望んで、小国に辛くあたっているのか

 欒枝が眉をひそめ、なにか裏が無いかと調べ始めたころ、郤芮げきぜいの遺児が見つかった、賢人である登用すべきという話が舞い込んだ。

 郤缺げきけつは、重耳が最も荒んだ行動をしていたときに、連れてこられたと言って良い。処刑という陰惨な最期は免れたが、飼い殺しのような役職に落とされ、祖を祀る務めを傷つけられることとなった。それでも彼は不満ひとつも見せず、忠と敬を重耳に捧げている。それは驚くべき自制であり、矜持でもある。篤敬とっけいという評判は間違い無いのであろう。

「我が重みを受け継げるのは彼しかあるまい」

 欒枝は勝手に決めつけ、郤缺との対話を望んだ。

 そして今、欒枝の言葉に耳を傾け続けている。己の分では無いと言い、しぶしぶといった様子を隠しはしなかったが、欒枝の『遺産』を受け取ることを拒もうとはしなかった。

 つらつらと、欒枝がそのような思い出に浸っていると、下から手が伸びてきて、欒枝の頬をつねった。繋がったままの郤缺が、うんざりとした顔をしていた。

「出したのだから、離れて下さい」

 精を放ち、興奮が冷めた途端に考え事をしてしまったらしいと、欒枝は気づき、すまぬすまぬと苦笑しながら離れた。離れた瞬間、郤缺は震えたが、快感などではない。体の反射であった。欒枝の手が郤缺の額から頬を撫でた。郤缺はぬるく汗ばんだ手の平を厭い首をふって避けた。欒枝が苦笑して体を起こすと、濡らして絞った布で郤缺の体を丁寧に拭いた。愛人にするよりは、赤子にでもするような手つきだと郤缺はいつも思う。

「やはり衰えておられるか。終わった後、先ほどの貴方はまるで阿呆のようでしたよ」

 棘のある言葉を郤缺は放った。言い放ち、恥ずかしくなって片手で顔を隠す。これでは、その顔をじっと見ていたといわんばかりである。案の定、苦笑の気配が伝わってくる。

「そのとおり、もう年だからね。あと何年私は頑健であるかわからぬよ。いつか、こうしてなんじを愛おしむことも」

「気持ち悪い」

「……抱くことも適わぬやもしれぬ」

 郤缺の本気の拒絶に、欒枝は半笑いで言い換えた。首筋を拭き、そこから顔を拭き始めると郤缺が気持ちよさげな顔をする。

「しかし、我が君より先にびょうに入りたくないものよ。きちんと送り出し、次君を無事に迎え、後継の者たちに全てを託してから、棺の中で眠りたいものだ。特に汝に」

 そっと郤缺の指が欒枝の唇を押さえた。

不祥ふしょうの言葉は言わぬことです、欒伯らんぱく。貴方は晋にまだ必要な方だ、まあ少々『立ち』も『切れ』も悪く、そこは衰えたやもしれませぬが、それは政道に関係無い。健康な体もお持ちだ、機能としては少々加齢――」

「褒めるかおとしめるのかどちらかにしておくれ」

 欒枝が途方にくれた顔をして、布を床に投げだした。郤缺は言い過ぎたかと気づき、申し訳ございませぬと素直に謝った。

「いや謝ってほしいわけじゃなかったのだ。情人として甘えてこられるのも良し、賢き大夫の顔を見せるも良し。ただ同時にされると何やら身につまされる」

 壮年の男の言いぐさと、肩をすくめる様子に、誰が甘えているのかと、郤缺は不快を隠さずに言った。今度は欒枝が、すまぬと素直に謝った。

「……不祥の言葉は口に出さぬことですよ、欒伯。我が父は、身が朽ち果てようとも恵公の忘れ形見をお護りすることを誓い、それが破れれば君公を死しても骨になろうとも弑いたてまつると申しました。父の最期をあなたはむろん知っておられる。私の父はげき氏のほとんどを道連れに亡んだのです。不祥の言葉は、その身だけではなく、周りも巻き込む。あなたは晋に必要なお方です。晋人にとってあなたは君公との架け橋。今、あなただけがそうです」

 趙衰ちょうしは確かに中庸であり、遠目から見ても透徹さを感じるが、架け橋とは思えぬ。最後にそのような言葉で締めると、郤缺は息を吐いた。この身が許された後、父の話を己から口にしたのは初めてであった。思ったよりも辛いものがあると汗を拭おうとしたら、欒枝が再び布をとって郤缺の額を優しく拭った。

「その架け橋に汝がなるのだよ、郤主げきしゅ。いや、私より汝の方が本当の架け橋になるであろう。それができる徳が汝にはあると私は思っている。汝は人と接するとき、まず尊さを見る。それはまさに礼の具現だ。初めて会った時、私を値踏みしながらも、しかし尊さも見ようとしていたね。値踏みしたことも羞じていた。恥を知るものは謙虚を知っている。情を知りながら任せず、己の陰を制する理を持つ。何より、賢く、そしてこの晋を愛しんでいる。汝は、晋人と、臣と、そして君公の架け橋になる。私のような見せかけのものではない、本物の」

 郤缺は首を振った。

「私はそのようなことが出来る身になれないでしょう。今、卑職ひしょくの地位にいる」

 欒枝が手を回すと言っていたが、とりあえずは未だ名ばかりの下軍かぐんの大夫で、一兵卒と同じである。

「しかし、覚悟は決めておられる。私の庇護する氏族を貰い受ける覚悟をされ、私のまつりごとを聴き、国を憂い導く覚悟をしている。そのくらい、わかるよ、これでもおじさんだ、幾度も春秋をめぐり亡国を見て私はここにいる。つまりだ、おじさんはかわいい情人に期待しているから、おもいきり利用して、一切合財持っていっておくれ。汝が自在に動けるほどのものを」

 最後に茶化した言いぐさで言葉を終えると、欒枝は郤缺の体に覆い被さり、胸に頭をうずめた。左胸に欒枝の耳が当たる。

「汝は生きている。良きこと」

 郤缺は思わず欒枝の首筋に手を回した。とくとくと脈が感じられる。それは命の音である。

「あなたも生きている。――良いことだと私は思います」

 そう言うと、郤缺は交わりや父の話や、そして欒枝の期待で一気に疲れがやってきて、目をつむった。確かに己は権勢を握れぬのだから、欒枝のように外から権勢を見る立場となり、せめて握っているものを使おうとは思っている。ただ、今の己はあまりに卑小であるのも確かであった。やる気があっても実が伴っていなければどうしようもない。

 欒枝が与えるという。

 それをうやうやしく受け取るほど、郤缺は恥知らずではない。施しなどもってのほかである。が、責務は負おう。欒枝が面倒にもかかえてしまった、浮き草のような氏族たちを守る責務は、とっくに貰い受けるつもりであった。晋を害した郤氏の主としても、晋を憂う大夫としても。そう考えながら、郤缺は意識を手放した。

 その気配に気づき、欒枝が少し起き上がる。目が覚めぬようにそろりと郤缺の乱れた髪を軽く整えてやる。少し薄い色の髪であり、癖もなくさらりと冷たかった。

「汝ならできるのだ。しかし、すまぬな、郤主。汝が背負う理は本来無いのだ」

 欒枝は少々湿った声で呟き、郤缺の隣にころりと寝転ぶと、睡魔にすうっと任せていった。郤缺の言う通り、この年になって男盛りのものと交わるのは少々、骨が折れるのだった。

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