第5話 閨でのひめごと、ささめごと
――で。
「
乱れた衣服を整えながら、
「あなたが私を情人とのたまったのでしょう」
しれっと言えば、欒枝が肩をすくめた。場所はもはや欒枝の本邸ではなく、別邸であった。本邸で妻や子、
「
とわざとはにかんだ顔で言い、一蹴した。胥臣は戸惑っていたが、人それぞれであるから、とごにょごにょと言って終わった。郤缺に対する警戒は解かれていないが、少しずつ慣れが生じていた。胥臣は郤缺の所作に感動した男である。郤缺の一挙一動一足に込められた誠実さが、保護浴の重さもあり彼の職務としての警戒心を溶かしていった。そこに、この、馬鹿馬鹿しい情人の話である。
――郤主は存外、おもしろみのある男だ
と思ったらしい。欒枝と郤缺が共に歩いていれば、何か含みのある笑みを見せて、会釈などもする。滑稽であるなと、郤缺は奥底にある冷たさで思った。郤缺は確かに誠実であり人を篤く敬い、そして勇猛な戦士であったが、奥底にどこか冷たいものも持っている。それは理というものであろう。欒枝はそのような郤缺の様子を見る度に
「それは隠しなさい」
と、まるで親のような顔をして言うのだった。
欒枝と郤缺は毎度だらしなく睦んでいるわけではなく、いっそ睦み合うほうが少ない。それどころか欒枝は当初止めたのだ。
「あれ一度で良いではないか、事実はできたのだ」
などという欒枝に郤缺は首を振った。
「人は肌に馴染まぬものを見抜く。貴方が口で私を情人としたと吹聴し」
「吹聴ではない、
「人数などどうでもよい。貴方が私を情人と口にしたことで、聞いた者は私の肌を見る、貴方の肌も見る。よほどの賢人でもこのような時、人は下世話になるものです。私の肌があなたに馴染んでいるかどうか、値踏みする。その下世話な安心が、人を油断させる。睦んでいるということが嘘だと気づけば、何をしても、もう疑いしかないでしょう」
辱められている郤缺が、淡々と言い、己の帯を解くのである。欒枝は降参して、この
お互い肌を合わせていると、妙に心も繋がるような錯覚に陥るのは不思議であった。欒枝は盛りのすぎた男でありその愛撫も男としての本能もゆったりとしている。そのゆったりとした丁寧さに郤缺は大事にされている気持ちとなってしまう。郤缺も今は妻と妾の二人しかおらぬが、動乱前はもう少し周囲に花はあった。終わった後につまらない女だと思ったとしても、抱いている間は愛しく深い繋がりを感じるものであった。そのような錯覚程度なのだが、これに二人の秘密が重なると、錯覚の上にさらなる錯覚が覆っていく。二人だけの世界というものは、理屈ではなく情感によって折り重なっていくものなのだ。
ゆるやかな房事のあとに、だらだらと欒氏を頼る氏族の話をする。まるで事後の睦言のような声音であるが、内容は冷たい。が、このような時、郤缺は欒枝が身だけでなく心も隣にいるようで少々惑った。それはまやかしなのだと裡側の理が諭し、惑いを消していく。
「面白いほど、国内の氏族と今の近臣との関わりが薄い」
幾夜を超えて話す間に、郤缺は正確に把握し、重耳の人事の不思議さも見抜いた。
「魏氏の子は、戦争で逸り
「
郤缺は問いかけというより断言といった声音を出した。欒枝は頷きはしなかったが、表情で
狐氏は
「
郤缺は頷いた。郤縠や欒枝と同様の力、才を持つ者は尽く巻き込まれ、
「趙子余は、不思議な方です」
郤缺は愛玩動物に対するよう撫でてくる欒枝の手を振り払いながら言う。その仕草に傷ついた顔を欒枝が見せた。それをかわいらしいと思うまでなっている郤缺は、逆に手を掴み引き寄せて、鼻面に軽く唇を這わせた。父のような年の、壮年の男は頬を染めていた。余裕が無くなると仮面が剥がれるらしかった。
「……ええ、趙子余は不思議な方です。彼が君公に付き従い苦難の道を歩まれたことなど、皆が知っている。その上、君公の娘を娶り、いっそ狐氏と同じように思われてもおかしくない。しかし、誰も彼を憎まず、侮らず、そして、味方なのだとなぜか、思っている。愛想もふりまかぬお人なのに。遠目から見ただけ、会話もかわしたこともございませぬゆえ、不思議としか言えませんが」
郤缺が欒枝の鼻や唇、耳を柔らかくつつきながら呟く。そのしぐさに調子にのった欒枝がそのまま覆い被さり、瞼や額を口づけてきたが、郤缺はさらりと避けて逃げた。
「酷くないかな」
「年下の情人のしぐさなど、こうでしょう」
途方にくれた男に、情人を演じてやれば、苦笑が聞こえてくる。この関係を言い出したのは欒枝である。それはともかく、趙衰であった。
「あの男は地歩をしっかりとかため、その教養をもって人々に敬を表する。知恵といえば臼季だと思っているものが多いが、趙子余は深い湖の底のような教養と知略を持ち、己を空漠にして物事を見ている。ゆえに、情として君公に心を捧げながら、理として晋を思い、晋人を思う。誰とも争わぬが、反対していた誰もが彼の言葉に頷く。あれには利が無い、君公へ利を求めることも、晋へ利を求めることもない」
それは話ができすぎでは、と郤缺は思ったが、想像以上に深く沈んだ瞳の欒枝を見ていると笑い飛ばすこともできぬ。仕方無く、拝聴を続けた。
「郤卿が中軍の将となり、私が上軍の佐となり、君公は寵臣だけを用いぬのだと見せたのが彼の者だ。君公は強く趙子余を卿にと求めておられるからいずれはなるであろうが、これからも中庸を歩むだろう。この時期に、彼だけが中庸を、だ」
欒枝の声は独特のドスが効いていた。この国で中庸中立といえば欒枝をあげるに違いない。しかし、欒枝の言葉には二つの意味が含まれている。一つは、
「つまりあなたは中庸ではない」
郤缺はゆったりと起き上がり、ぺたんと座りながら呟いた。己は何を見ていたのか、と
「全ての勢力から中立と思われ、全ての人から中庸と思われる、という術は意外に簡単なのだ、郤主、いや若き
座ったまま見下ろしていた郤缺に視線を合わせるよう、欒枝も軽く身を起こし、手を伸ばしてくる。晋独特の黄砂にさらされ続け、すっかりざらついている郤缺の頬を軽くつねった。たあいのない、事後のじゃれあいであった。――会話を除けば。
「私は汝に、私の持つ情報を譲ろうとここに呼んでいる。君公が浮き上がらぬよう、晋人が惑わぬよう、手綱を譲りたいと呼んでいる。しかし、汝は私を真似てはならぬよ。私は、やはり目立ちすぎる人間なのだ。ゆえに、人々がおしかけ、あげく上軍の佐に押し上げられた。趙子余を見よ。あれだけの寵臣であるのに、
超えなさい、と欒枝は小さく囁いた。郤缺はまず欒枝を目指しても見てもおらぬと思いたかったが、この老練でありながら清冽という相反する魅力に惹かれなかったかと言われれば黙るしかない。少しずつ、欒枝に慣れ親しみ、学んだところがあったやもしれぬ。
それにしても、あれだけ絶賛した趙衰を超えろとは、無茶を言う。
「欒伯よ。あなたは私を買いかぶりすぎておられる。私は凡夫です」
父の喪にも服せぬ、つまらない男なのだと言外に込めて言えば、欒枝が苦笑した。ばかにしたようなものではなく、あえていうなら父親のような顔であった。父は激烈な人間でこのような苦笑などしたことはなかったが。
「私の目を少しは信じてくれないか。私は我が
郤缺は静かに拝礼した。そこまで言われて、否定しては非礼である。なにより、この男は絶大な権力者であり、郤缺は小者である。権力者がそう言うのであれば、小者としては受け入れるしかなかった。
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