第4話 おじさん権力者だから何でも言ってね

 そうして、幾度か、否、幾度も、欒枝らんし郤缺げきけつを呼ぶようになった。中立であった氏族のそれぞれを説明するためであったが、頻度が高い。さすがの胥臣しょしんもいぶかしげな顔をしていたが、あるとき見送りをしながら、

「まあ、大変ですな」

 と言って、憐れむ顔をした。郤缺に意味がわかったのはその夜である。会話もそこそこ、そろりと手を伸ばし、抱き寄せて来た男に、郤缺は犯されたのである。一応、抵抗はした。未だ若さを失っていない郤缺の膂力りょりょくをもってすれば、相手を投げ飛ばすこともできたであろう。が、彼の後ろにある権力に負けた。欒枝は口で権力をひけらかしたわけではなかった。その眼差しは優しかったであろう。しかし、有無は無く、許可もとらぬ。郤缺が抵抗などせぬという自信と驕慢にあふれていた。それは権力による手籠めと同じであった。権威権力を使って氏族を人質のようにして、いい年した男の足を割り開いた欒枝を、郤缺は思いきり軽蔑することにした。妻や娘を差し出せと言ってくる方がわかりやすくてマシだとも思った。

 そしてこの章冒頭のやりとりとなる。

 ――どうしてこんなことを。

 きっと欒枝は趣味の悪い変態なのだ。郤缺はそう決めつながら問うた。

 が。事態は郤缺が思ったより酷かった。

臼季きゅうきが私となんじが何やら策謀をしているのではと疑い始めていたのだ」

 欒枝が頬杖をつきながら言う。さもありなん。郤缺は床に散らばった帯に手を伸ばし、くらい顔で頷いた。内国で重耳ちょうじの支援をしていたとはいえ、上軍の佐どまりとも言える欒枝が逆臣の子を幾度も呼び寄せれば、火の無いところに煙どころか炎は立つだろう。しかも、ある意味策謀である。重耳の重臣から国内の氏族を引き離すという行為なのだ。しかし、それとこの狼藉に何の繋がりがあるのか。郤缺は恨みがましい目を欒枝に向けた。妻子ある身が男に支配される屈辱を、この古き貴族はわかっているのであろうか。

「あんまりその疑心の目がうるさいので、私は汝を囲っている、郤主は年はいっているが私の情人だと応えた。応えたからには、事実にしておいたほうが良い」

「そんな愚かなやりとりで、同意も無く! 既成事実を作ったのですか! いや、本当に、愚か、ありえない、嘘だ」

 郤缺は眩暈さえ感じて、突っ伏した。死にやがれこのオヤジとも思った。

「私も愚人の行いだと思っているさ。しかしまあ、おじさんはこれでも権力者だから、かわいい情人の言うこと何でも聞いちゃう。そうやって私を利用すればいい。忘れてはならない。私は汝にあらゆる氏族のことを伝えるだろう。中にはその氏族の弱みもあるやもしれぬ。そう、私はうっかり年下の情人にそれをもらすんだ、汝はそれをちゃっかり利用する。利用して、晋を強くする。いや、しておくれ」

 欒枝が色味をもったしぐさでにじりより、郤缺にすがるように両腕を掴んでくる。郤缺は気色悪く、思わずあとずさりした。先ほどのまぐわいによる嫌悪感も強い。

「私の息子、とんは内乱の中で育ったとは思えないほど善良で真面目で平凡だ。晋を背負う背骨は無い。見回し、私は汝を見つけた。逆境の中でも誇りを失わぬ、篤い情と強き武を持つ汝なら、晋を背負うことができる。中立といいながら大きな我が一族に身を寄せれば良いとしていた者どもを捌き、この晋に乱の起こらぬ時代を、きっと、作れる」

「……私は、小者です」

 惑乱したように呟く欒枝に郤缺はすげなく返した。しかし、欒枝は腕を掴み離さない。そこには、沈毅貞節と言われた人間とは思えぬ情念があった。

「今の重臣たちはもっと小者であった。あの中で晋を遠望しているのは少数しかおらぬ。他は君公のみを見ている。それが、そのような臣たちがこの国に今まで何をもたらしたか知っておるだろう。私以外は、汝だけが警鐘を聞いているのではないか」

 湿度のある重苦しい言葉の後、欒枝は、すまぬと呟き体を起こした。そうして、郤缺の髪を色の無い丁寧な仕草で撫でて、

「……すまぬ」

 と、もう一度言った。郤缺はよろりと立ち上がると、服を手早く整え、欒枝の部屋を礼も無く出て行った。

「また来ておくれ」

 主の声が、郤缺の背中を打った。

 帰路、馬車で揺られている間、郤缺はくもったかおをみせぬどころか微笑を浮かべ、ただ御者に夜遅くすまなかったね、と声をかけ、こうにある別邸に戻ってきても、妻にはこくはもう寝たかね、と笑顔で言った。妻はええ、ええ、と言う。克は郤缺の嗣子ししであり、逃げ惑っていた時期に病に冒され、いまや体が不自由となった。歩けば踊るように足を引きずり、走ることもできぬ障害を持っているが、利発な子でもある。そしてよく寝るのは良いことでもあった。

「部屋で一人になりたい」

 といえば、妻はすぐに差配し、郤缺はようやく、一人で部屋に座り虚空を眺めた。そうして顔を覆い、ぐうぐうと泣いた。号泣すれば広くない邸だ、誰かが気づく。ゆえに、すすり泣いた。

 父に近い年の男に、妻子もしょうさえいる身が、兵を率いるこの身が、いいように犯されたことも、それで感じ入ったことも屈辱であった。その後、老人の繰り言のような情念を浴びせかけられたことも、嫌悪でしかなかった。最も悔しいことに、あの繰り言は郤缺の心を打った。我が身のように共感したのだ。

 今、晋は跡継ぎ争いを厭い、太子以外の公子を全て外国に出している。しかし、それが何だと言うのか。どこに公子がいようが争いは起きるものなのだ。起こすのは公子ではなく、臣である。利にさとい臣ではなく、忠義に篤い臣が公子たちを掲げ諍いを起こすのだ。郤缺は父を見てそれを知っている。重耳に蛇蝎のように怖れられ貶められた父は、重耳の弟である恵公に忠を捧げ殉じたまでである。

 欒枝にとって、君公にだけ向けられる忠は恐怖なのであろう。そして郤缺にとっても、それは恐怖である。

 恥辱と理解という二つの感情が郤缺を襲い、ひとしきり泣いた後、すっと顔をあげてため息をついた。

「私は権勢を握れぬ。欒伯も握れぬからこそ私にすがった。欒伯が私を操作したいというのならせいぜい、乗ってやろう」

 郤缺は、欒枝が古い人間なのだと、ようやく思い至った。賢人である、まあ愚かしいことをしたが賢人であり、沈毅な思考を持つ。しかし古い。

「私は権勢を握れぬのであるから――権勢を握ったものを使えば良いのだ、それができぬ欒伯はせいぜい私を弄べば良い」

 そう呟き少し笑んだあと、再び顔を落として覆い、泣いた。犯されたのはともかく、気持ち良くなってしまった己が許せぬと唇を噛んだ。このようなふしだらな嗣子であると、父に申し訳無かった。

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