第22話 凱旋の喜び
初陣で凱旋した
しかし、大国
「私は父を越えることもできる」
そんな言葉さえも脳裏によぎった。
「父は喜んでおられるであろう。死したあとを我らに託したのだから」
「ええ、堂々となさってください。
と豪快に笑った。驩の少々無邪気な軽々しさは、先軫によって止められ、全軍には行き渡っていない。あくまでも撤退は余裕をもちゆっくりと、警戒を怠ることなく、である。それが勝利の凱旋であっても帰り着くまでは気を抜いてはならぬ。それを徹底しつつ、楽しそうな驩の相手をこの男はしている。亡き
「甘い」
と眉をしかめたであろう。君主はここでこそ気を引き締めろと。が、先軫はそこは甘い。そして勝利に酔う君主というものを見るのは気持ち良いのだ。その勝利を奉ったのは己なのである。
強い風と砂塵吹き荒れる中、絳に帰った晋軍は、ようやく緊張から解放され、勝利の雄叫びをあげた。捕縛した将たちはとりあえず宮の室に押し込め、君主と重臣は宮中で、氏族たちはそれぞれで祝杯をあげた。
この時、驩は人生の絶頂を感じていたし、いやこれからもっとだ、と意気込んでいた。多く見積もっても三十路後半、低く見積もれば三十路に前半の彼はまだ若い。父と違って残された時間は充分にあった。
「まずは我が君にお祝い申し上げる。我が
謁見の間で、留守をしていた
「卿らを信じ、
驩は一息で明るく言った。謙譲は君主こそに求められるがため、この言葉は合格点であろう。陽処父が目の端で満足げに頷いていた。どこかゆったりとしていた文公に比べ、驩は諸事きびきびとして闊達である。
――少し軽い
と、欒枝あたりは思っているが、そこは卿たちでいかようにも育て補うことはできるであろう。新しい晋の行く末は明るい、と思った者は多かった。
が、驩はたしかに諸事行動が早かったが、早すぎた。
ほんの数日後、
朝政で知らされた卿たちは、特に中軍の将であり
「おそれながら国を代表して申し上げる。我が君が秦の将たちに温情を示し解き放ったと伺いました。しかし、その重大事に関しまして我ら卿一同知らされておりません。議にもかけられなかったよし、願わくばご説明いただきたく存じます」
先軫が怒気を抑え、ぬかずいた。
「
こもごもと、驩が言い訳するように言った。先軫は目を見開いて息を吸い、怒りを抑えようと耐えた。胥臣が小さく、なんということだ、と呟く。欒枝も愚かだと呟きたかったが、自制する。
義母、というのは文公の第一夫人である
私室に帰る前に呼び出され、ついたての後ろからそっと覗かれ睨まれたとき、驩の背中に冷たい汗がおりていった。おとなしい生母の福姞にくらべ、この文嬴はうるさい。己がお前とお前の父を晋公にしてやったのだ、という態度をあらわにする。彼女も文公が生きていたときはここまでの強い押し出しは無かった。が、驩の妻も実は秦からの娘である。年齢を考えれば、姉妹である可能性は高い。その上、文公は文嬴以外にもう一人、秦の娘を押しつけられている。文嬴はその二人も含め、秦人として世話をせねばと思っているのであろう。つまり内室には秦の女が三人おり、驩の私生活に絡んでいた。
「あの三人の将こそが晋と秦の二君の間に不和を生じさせ争わせたのです。私の父が三人を手に入れたならば、食ってもあきたらぬものども。晋公であるあなたの手を煩わせ罰するに及ばぬ。秦に返し、私の父に存分に殺させればよろしい。敗軍の将など、見せしめに誅されるものです」
とてもではないが驩を
「そういうものなのですか?」
と、逆に問い返してしまった。彼は政治に関しては知識だけは詰め込まれているものの、経験が圧倒的に足りない。目の前にいるのは、あの父の、そう覇者文公の第一夫人であり、秦の
「そういうものです。古くから敗軍の将は罰を受けるものです。いわんや、あのものらは父をたばかり軍をあげた不忠者ども。父も早く処刑しようと待っているでしょう。そうして、我が晋に感謝するにきまっています」
詐欺としか言いようのない命乞いに驩は頷き、三人の将軍を解放してしまったのである。
――義母上が請われたのだ。許し放してやった
この言葉には先代内室の圧による苦悩があったわけだが、先軫はそう思わなかった。文公には見られなかった柔弱を驩に見た。闊達も決断の早さも、考えなしの裏返しであったと己の見る目の無さにも腹立たしくなった。
「われら軍、
政堂に
「我ら晋の軍が、力をつくし辛苦して戦場にて捕らえたものを、婦人の一言で許し秦へ返すとはなにごとです。軍のえものを放って敵の勢力を強めるというもの。これでは、この晋が亡びるのに手間はかかりませぬな!」
奏上というよりもはや怒鳴りつけ、先軫は拝礼もせず立ち上がった。驩をねめつけると、そのまま床に唾を吐いた。驩の目の前で、驩に向かって唾を吐いたのである。若き君主は怒りよりも驚愕し茫然とする。陽処父や他の卿だけでなく、趙衰さえ目をむいた。大夫としてはもちろん、主君にたいしてありえない振る舞いである。
先軫はそのままきびすを返して立ち去ってしまった。茫然とする一同の中、最初に我に返ったのはやはり趙衰であった。
「おそれながら申し上げます。このたび、正卿におかれましては極めて無礼かつ非常識な振る舞いをなされました。あの方の心に何やら良くないものが入り込んだのでしょう。戦功あれど君公に対した無礼は罰せねばなりませぬ。しかし、今は心をしずめ、あらためて正卿を呼び、ことの次第を問いただしてみてはいかがでしょうか」
趙衰の波ひとつない静かな声に驩も気が落ち着いたらしく、そうしよう、と息をついて言う。今度は欒枝が口を開いた。
「先ほどの正卿の行いは見るにたえぬものでしたが、そのお話は次回でよろしいでしょう。秦の将三名はまだ河を渡っておりますまい。これはいかがなさる」
先軫の無礼は驩の矜持を著しく傷つけたが、国としてはこちらが重要である。驩は、なぜ己は、せめて朝議にかけなかったのか、と悔いた。もっといえば、なぜ解き放てば良いとあの時考えたのかと自罰し腹の奥が冷たかった。
「河をわたり秦に入ればもう追いかけられません。このまま放つならそのままに、取り戻すなら今すぐ追いかけるべきです」
胥臣が口早に言う。どちらにせよ、決定するのは驩なのだ。卿たちは今すぐにでも追いかけたいが、驩が『放つ』という君命をくだしてしまった以上、翻すのも驩になる。
「……っ、まだ間に合うかもしれん。
驩が呻くように命じる。陽処父が、承りましてございます、と言ってさっと立ち去った。手勢をまとめて追うのであろう。――さて間に合うか。この場にいる全員が苦々しく思った。
場が荒れ、通常の朝政はできぬと卿らが奏上し、驩を解放した。欒枝から見ても痛々しいくらい、驩は
「あの君公をきたえなおすのは骨が折れるのではないか?
政堂を出た欒枝は、そっと小声で話しかける。そのわきを、胥臣が足早にかけていっていた。趙衰は欒枝をちらりと見ると
「己で学んでいかねばならぬことです。我らは支えるのみ」
と静謐そのものの声で柔らかく返した。どこまでが本音か、もしかすると全てが本音なのかわからぬ顔であった。
「……我らがいつまで支えることができるか、わからんぞ」
欒枝は呟き、ふり返る。その目の先には驩のいる宮の奥である。驩は公子として安穏な暮らしをしていたわけではない。己が晋の公子として認められるかもわからぬ心地であったろうし、下手をすれば暗殺されていたやもしれぬ。そのような心細い少年期を送っていたであろう。ゆえに、傅をつけるも遅かった。あの青年は国を背負う権利に飛びついたかもしれぬが、さらに重い覚悟が必要であることを教わらなかったのだろうか。
「当たり前です。ゆえに、我らはきちんと次代を見据えなければならぬし、だからこそあなたは郤主によけいな荷物をお渡ししているのでしょう?
趙衰が振り向かずに答え、歩いていく。欒枝は小さく息をついたあと、同じように歩き出した。宮中の庭は初夏の瑞々しい葉が青々と生い茂っている。ふと、寒さが残る梅林を思い出した。あの時、この男の気持ち悪さ――得体が知れないというより、だ――を知ったわけだが、気づけば一言二言の雑談をする仲となっている。
さて。胥臣が駈けたのは先軫を見つけるためであった。宮の門から出ていないことをまず確認すると、勘に頼って探した。胥臣はどうも独特の勘があるらしく、農奴に身をやつしていた郤缺を見つけるなど、妙に鼻がきく。今回も、たいして時間もかからず先軫を見つけた。宮の、
「
まるで子供に諭すように話しかける胥臣に、先軫が少々拗ねた顔を向け、口を尖らせる。
「
「先主。言葉が戻ってない、匹夫のままだ。あなたは武に厳しい。そして相手にも己にも厳しい。文公の柔らかい手の中でこそ己の牙が身を食うこともなかった。もう文公は
胥臣の言葉に、先軫はしゃがみこんで顔を覆った。自己嫌悪もさながら恥ずかしさで耳まで赤い。先軫は根っからの戦争屋であり、血の気が多く、若くは喧嘩屋の側面があった。時折、文公にも迷惑をかけていた。謝れば許してくれる公子であったが、謝らねば絶対許さぬ主でもあった。胥臣が苦笑して詫びにつき合ってくれたことも、まあ、ある。
――
君公に怒鳴った言葉に後悔は無い。しかし、その後の腹立ち紛れに起こした行動は、宰相としても元帥としても、貴族としても大人としても、そして晋公に仕える晋人の一人としても、まったくもって相応しくなく、さらに言えばいっそ死にたいと思った。本日はもう散会している。明日、朝政の時に謝り、いざとなれば自刃しよう。己は六十に近い、どうせ代わりのきく老臣だ。先軫はそう思うしかなかった。
さて、君主や宰相を自己嫌悪に陥らせ、卿らが頭を抱えた秦の将三人の行方である。
史書には陽処父が秦との国境線である河に
「我が君の思し召し、馬をそなたらに与えられる! 戻られよ!」
捕虜を戻すときに手土産を渡すこと自体はめずらしいことではない。将となれば、馬を
もちろん、秦の三将は応じなかった。
「
将の一人が舟の中でうやうやしくぬかずき、見事な稽首の礼をして答えた。
かくして、舟は秦へたどり着き、陽処父はむなしく帰り、君命なしえなかったことを告げるしかなかった。驩は己の愚かさにふさぎ、しばらく朝政をひかえると言い出した。秦との戦以外にたいした議はないとしても、とんでもない話であった。
胥臣がちらりと気遣わしげに先軫を見る。君公のいない政堂で、先軫が痩せ犬のようにぎらついた目をしていた。驩はこの宰相を許すとも罰するとも言わず引っ込んでしまった。先軫は君公に謝ることも死んで詫びる機会も無く、まつりごとをせねばならぬ身となった。
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