第23話 混迷の戦場

 しんが青年と中年の滑稽な悲劇を演出しているころ、しんの将三人は故郷への道をひたすらに歩いていた。すでに走る体力も無いながらも、必死に秦公任好じんこうの元へと向かっていく。

 ――己らは罰を受け死ぬであろう、君命くんめいを果たせなかったのだ

 三人に去来している悲しみは同じである。彼らは自分の命を惜しむより、常は心優しい任好の屈辱に胸を痛め、死への道を歩んでいた。いじらしいほどである。

 まだ秦都もほど遠い場所で、風にあおられながら任好は一軍を率い待っていた。捕縛に来たのか、それとも都にも戻して貰えぬのか。しかし、君公くんこうに会えたと、将たちは駆け寄っていく。任好が同じように将へ駆け寄っていった。

「悪かった、私が悪かった」

 任好はぽろぽろと涙を流しながら叫んだ。将ら三人は疲れと主君の涙に力が抜け、へたりこむ。砂塵がざっと舞った。同じように身をかがめ、任好は将たちの疲れた体を撫でた。荒れた手を代わる代わるとって、悪かったと謝るうちにおお、おお、と号泣していく。

「わ、私が忠告を聞き入れなかったからっ、お前たちに恥をかかせる、ことになった、ひとえに私の罪だ」

 嗚咽と涙とでたどたどしく詫びる任好に嘘は無い。

「我らが罪です、君命を果たせませんでした」

 将のうち、一人が同じく泣きながら頭を下げた。任好は首を横に振る。

「お前たちに何の罪があろう。私の過ちをもってお前たちの徳を覆い隠せやしない。罪は私にあるのだ」

 結局、秦の将含め、軍の生き残りは無事復命し、罰せられることは無かった。任好の長所は人の良さであったし、忠言を受け入れず失敗したときに、己を省み、きちんと現実を見て謝るところである。そして、人を許し受け入れる柔らかさであった。特に君主権の強い秦であることを考えると、恐るべき美点である。この人の良さにより他国に遅れをとってしまうのが難であったが、そもそも立地が悪いため、あまり彼を責められないであろう。

 それはそれとして、文嬴ぶんえいの言う『将は任好によって処刑される』という言葉は実現しなかった。父親の気質を知っている娘である。わかってての命乞いであったろう。先軫せんしんはそれが察して激怒したのであり、他のけいも頭を抱えたのは前述した。

 問題は、かんと先軫の亀裂である。先軫は命を以て責をとる覚悟であり、ようやく出てきた驩に自裁の許しを請おうと口を開いた。が、それを驩が手で制し、

「しばらく私の不予ふよのため朝政ちょうせいを卿らに任せてしまった。特に正卿せいけいは私の代わりに議をかたづけてくれたとのこと、感謝する。本日の議は何か」

 と、言った。あからさまな拒絶と問題の先送りである。先軫はその場で床に頭をこすりつけ、詫び、罪を購わせてほしいと懇願したかったが、耐えた。驩が言い出さねば、先軫から願い出すこともできぬ。先軫から請えば、驩が将三人を放った失態が蒸し返される。かといって、驩も言い出せなかった。言えば、己の失態も見ることになり、また、宿将を失うからである。

 君主に唾を吐く宰相という前代未聞の事件は、解決もなく、ただぎこちない朝政が毎日続くことになった。欒枝らんしは、恵公及び郤芮げきぜいの粛正政治よりマシであると割り切っている。胥臣しょしんは気遣わしげであったが、優しく語りかけるように議についての意見を述べ、せめて場を柔らかくしようと努めていた。趙衰ちょうしは常の如く粛々と政務についている。困惑した顔をするのは、近臣となっている陽処父ようしょほであった。彼は己の育てた君主が、このような柔弱さを隠し持っていたとは思っていなかったのであろう。

 初夏に埋められた棘は表層的には薄くなっていったが、そのぶん逆に深く刺さっていった。特に先軫は懊悩した。相手は己が命を賭して仕えた文公の息子であり、同じように命を捧げるべき主君である。それを匹夫ひつぷの行いで侮蔑したのであるから、本来なら死んで詫びるしかない。が、驩がその隙を与えない。表向きは日常に戻っていったが、少なくとも先軫は深い谷底に沈んでいるような心地であった。そのくせ、極めて健康的な生活を送り、調練も怠らない。根本的に陽性の彼は、うじうじと悩み煮詰め続けることは苦手であった。それゆえに問題は先送りとなり、棘は解放されずにいる。

 暑いが恵みの雨がくる夏が過ぎ、収穫の秋となった。薄く雲がかった青空に紅や黄に彩られた山々は美しい。穏やかな陽気の中、凶報が届いた。

白狄はくてきに伐たれ奪われた」

 朝政はとっくに終わっていたが、正卿先軫以下、いち早く宮城に駆けつけ、驩も厳しい顔をして謁見に望む。白狄は赤狄せきてきと並ぶてきの大勢力である。晋とは長く敵対を続けている。

「逃げてきたものたちによると、白狄は長が率いた本格的な軍勢とのこと。これは早急に対処せねば箕を起点に周囲のゆうも食い尽くされ、最悪、我が国はこれらの地を失うこととなります」

 趙衰が静かであるが鋭い声で言った。常の泰然静謐とした雰囲気は無く、厳しい顔つきであった。胥臣が受けたように口を開いた。

「ことは一刻を争います。もはや箕の備えは崩れ、今年の税は失われつつあるでしょう。白狄子はくてきしが率いるのであれば、これだけで終わりますまい。白狄が箕を襲ったのが三日前。であるなら、今ごろ常の如く我らの財を貪っている。今から軍を揃え向かえば間に合うかと」

 驩は胥臣の言葉に強く頷き、先軫を真っ直ぐ見た。数ヶ月ぶりの直視であったが、その瞳に迷いは無い。先軫も強い視線で受け止める。

「今から白狄を伐ち、箕を取り戻す。しんは中軍の将として中軍、下軍を率いてその責を全うせよ。私ももちろん出陣する。は上軍をまとめこの絳を守れ、狄により都が落ちた国もある、油断するな」

 闊達な声は、君主として国を守る意志を持っていた。驩は少々の柔弱さを持っていたが、才気があり決断が早いことは間違いはない。

 君命はいち早く大夫に伝えられ、郤缺げきけつの元にも届いた。

「駅馬車を使い、我が邑に備えをしろと伝えよ。進軍の中途にある、そのまま兵を拾っていく」

 家宰に口早に言うと、郤缺は戎服の準備をさせた。近隣に手勢があるものはすぐにこうに集まるであろうが、そうでないものは先々の領地で兵を集めていくことも多い。

「白狄は厄介だ」

 郤缺は険しい顔で呟く。狄自体が厄介であるが、白狄は特に力を持っている。他国との戦はどこか落としどころがあり、和議が成立することもあるが、狄には無い。赤狄、白狄となると追い払うのが非情に困難である。遊牧民族の彼らからすれば移動先に邪魔な邑があるのかもしれないが、定住民族としては害獣に見えたであろう。

 ――決定的な力の差を見せつけねば、つけあがる。圧勝しかあるまい。

 先の秦戦は晋の有利な条件を整え勝った。それが戦の常道であるが、今回、相手は晋が備えを作った箕にいる。白狄は籠城を選ばないため、そこは楽であるが、地勢上は向こうが有利である。

「先主はどう出るかな」

 郤缺は禽獣の目つきで己が銅剣を眺めひそやかに笑みを浮かべた。

 中軍の将すなわち元帥として先軫が差配し、中軍の佐に趙衰、下軍の将に胥臣と続く。武が不得手の趙衰がいるのは、次卿じけいだからである。当時、軍の席次がそのまま国政と繋がっていた。軍と政は分かれていない時代であった。

 絳から北上した先に箕はある。中途の邑で兵と合流し、軍勢を増やしながらひたすらに行軍した。あまりの強行軍は戦う前にへばってしまう可能性があるが、遅れると白狄に逃げられるか、さらなる飛び火が考えられる。そのさじ加減は極めて難しかったが、先軫は全軍を細かく把握しながら、なんなくとやり遂げた。このあたり先軫の才は冴え渡っていると言って良い。

 絳から出立してどのくらいでたどり着いたのか詳しくはわからない。ただ白狄がいまだ箕にいる間に到着はしている。ここは夜半に到着した、という想像で話を進める。

 先軫は中軍を左翼、下軍を右翼に配置し、箕の状況を探った。むろん、兵たちは休ませている。行軍で疲労困憊の趙衰など、ふらふらとしながら早々に寝入ったほどである。あれは頭と口以外役に立たんと先軫は一人笑った。薄ぼんやりとした風情で書を読み続けていた、うらなりの頃を思いだしたからである。

狐邑こゆうでの無聊が懐かしいと思うとは、俺も年を取ったな」

 一人、箕を眺めながら先軫は呟く。月明かりの中、遠目からでも外壁が無惨に破壊されていることがわかる。一つの邑、一つの砦に造る外壁にどのくらいの労力が必要であったか。天を屋根とし地を枕とする狄にはわかるまい。なんとも腹立たしい話である。が、少々うらやましさもある。先軫はため息をついた。文公との旅は遠い日々だと感傷的な気分であった。

 白狄はけして盗賊ではない。晋にとって盗賊に等しいが、しかし薄汚い盗賊ではない。ゆえに、先軫は夜明けから挑発することとした。攻城戦になるとやっかいであり、とにかく平地に引きずりださねばならぬ。そして逃がしてもならぬ。戦争屋であり喧嘩屋の見せどころでもあった。

「白狄子がわざわざ我が晋へおいでと聞いたが、ご挨拶いただいておらず、おもてなしが遅れたこと申し上げる。しかし勇士と伺う白狄の方々がに飛び込んでそのまま出ておらぬというのは不思議なこと、お話に聞いておりますお姿とは違うご様子。もし盗人が白狄子の名を騙っているのであればこのまま火でいぶりだす所存。白狄子であれば、穴蔵の外で相まみえましょうぞ」

 使者が怒鳴るように口上を述べた。

 先軫はもちろん火攻めなどしたくないが、このまま箕の門を閉じて籠もるのであれば、門を攻めた上で火をつけ白狄を殲滅するしかない。が、白狄は彼らの矜持があるらしい。迂遠な侮辱をしっかり受け止め、白狄子がのっそりと現れる。四十路いくかいかないかの男であり、寄る辺ない狄たちを束ねるに相応しい面構えと戦士の体を持っていた。

「地を這い土を食うミミズどもが、ぐだぐだと! 誇り高い我らを盗人呼ばわりしよって、貴様らこそ、天と地を盗み食うむしというもの! もてなすというなら、喰らいつくしてやろう!」

 そう啖呵をきっても夜明けである、まだ寝ている狄もいるであろう。すぐさま門を開け一気に出てこられるわけではない。

「さすが白狄の長、夜明けに呼べばすぐに応じる。常に気を張り巡らせておるのだろう」

 下軍の大夫として陣にいる郤缺は、怒鳴り声を聞きながらくつりと笑った。それを見ながら士会しかいがにやりと口角をあげる。郤缺は相変わらず士氏と連携をとっている。最後の確認に士会がやってきたのだ。

「楽しそうだな、郤主げきしゅ。悪い顔をしている」

「汝に言われたくないぞ、士季しき。これから戦だというのに、楽しそうな顔をしよって」

 軽口に軽口を返すと、二人は戦場となるであろう、箕の周辺を眺めた。穏やかな風がさらりと黄土を撫でた。遠くに見える稜線は昇りつつある暁光で少しずつあらわとなっている。

「この布陣だ、先主せんしゅは逃さぬことを考えているようだ」

 中軍下軍で挟撃し、すりつぶすつもりなのだろう、と士会は言いたいらしい。郤缺もその通りだ、と頷く。ふと士会の顔を見ると顎を撫でて思案顔をしていた。

「どうかしたか?」

 作戦に不満なのか、という言外の意味も込めて問う。士会が少し首をかしげた。

「わたしは少し力押しすぎると思った。白狄ひとりひとりは手強い。いらん出血や犠牲を招く。もっと誘い込んで、真ん中を叩いた方が良いと思ったまでだ」

 士会が手ぶりで説明しながら言う。もっと頭に血をのぼらせて戦争でなく戦闘にもちこめ、と。

「やつらは勇士であり戦士であるが、策はない。やつらは個で闘い、こちらは群で戦うまでのこと。伐つを一人だけに絞れば良い。餌なら中軍にある」

「白狄子だけを叩くと言うか。餌は君公か?」

 頷く士会に郤缺は呆れ、しかしそれは、と考える。晋公驩を前線に置けば中原各国なら罠だと思い警戒するが、狄は逆に勇士だと認めて突進してくるであろう。

「それは汝が中軍の将であっても通らぬ策よ、士季。まあ、せめて中軍の将が出るしかあるまい」

「そこが落としどころだな。わたしが先主の立場なら、わたし自ら挑発に行く。そして表で派手に暴れよう。それにめがけてくる白狄子を下軍で――」

「殺すか」

 郤缺は笑って声をかぶせた。笑っているが、声音は本気であった。

「郤主は荒い。生け捕りにする。死ねばそこで使い道が無くなるが、生きていればいくらでも使い道があるだろう」

 士会が少し呆れた声音で言った。普段は相手に敬を持ち人に礼を尽くす郤缺であるが、戦場になると血が騒ぐらしい。やはり郤氏の男だな、と士会は苦笑した。

 分かりきった差配の話をしたあと、士会は戻っていった。郤缺は戦場を見る。己の手勢は、戦車ひとつの自分、そして前左右会わせて七十人ほどの歩兵である。他の下軍の大夫はこの構成を複数持つのが一つの単位であった。つまり、郤缺は一兵卒と変わらないとも言える。

「まあ、私は私のできる範囲のことをするまで。すりつぶすというなら、存分に削っていくまでだ」

 山から顔を出し切った朝日を見ながら、郤缺はぽつりと呟いた。

 早朝、箕の門が開き、ど、と白狄が雄叫びを上げながら駆け出してくる。狄は遊牧民族であるが、騎馬民族ではない。歩兵と戦車による混合軍である。ただ、晋より戦車の数ははるかに少ない。兵備の問題というより、指揮者の数の問題であろう。

「一陣、いけ!」

 先軫が太鼓を叩き、合図をすると、伏せていた兵たちが正面から白狄の歩兵に打ちかかる。白狄の進路を防ぎ操作するための兵たちは、壁であるが、放置するとただの捨て兵になる。すかさず戦車の突撃を合図すると共に、己も進撃した。先頭に立ってこそ将である、というのが先軫の流儀である。この場合、戦車の後ろを歩兵が追いかけていくことになる。

 砂巻き上がる戦塵の中を、戦車が行き交い、指揮官は矢を放ちながら差配し、狄の戦車を狙う。が、中々に強く、車右が庇い、逆に矢で射貫かれる。それでも中軍と下軍で白狄たちを挟み、移動範囲を狭めながら削っていく。白狄は強いが長くは戦えない。それが個々に任せすぎた集団の弱点である。先軫はそこをつき、消耗戦を強いているのである。

 ――頃合いだな

 先軫は目を細める。

「お前ら降りろ」

 御者と車右を睨み付け言い放つ。二人は怪訝そうな顔をしたが、早く! と一喝され、慌てて戦車から飛び降りた。それを見て満足げに頷くと、先軫は手綱をとって、馬を御する。そしていきなり駆け出した。この当時の戦車は四頭立てであり、集団で動く馬の習性を利用したものである。ゆえに、御者の技術は極めて高い。が、先軫はそちらも習得していたらしく、見事に操っている。

「何を――」

 中軍の中ほど、大夫らに守られながらも果敢に戦っていた驩が、叫んだ。その声に皆が前方へ目を向ける。そこには、白狄の陣まんなかへ単騎駈けていく先軫がいた。もうもうと砂煙をあげながら、一車の戦車が強靱な戦士たちのまっただ中へ吸いこまれるように走っていく。

「軫! 行くな!」

 驩の叫びに、先軫は少しふり返った。巻き上がる砂塵に驩の顔はおぼろげであるし、もはや表情がわかる距離でもないだろう。しかし、こちらの顔が見えよと、先軫は冑を脱ぎ放り投げ、笑顔を浮かべて叫んだ。

「匹夫の身として俺は君公に思う存分のことを言ったがなんの仕置きにあわなかった! どうして己で己を討たずにいられようか!」

 感情のまま怒鳴り主君に唾を吐いた己は一人の匹夫でしかない。

 先軫は飛んで来た矢で肩を射られ、それを抜きながら今度は白狄に向かい唾を吐き捨てた。どう、と馬が倒れる前に戦車から飛び降り、銅剣で目の前の敵を叩き斬る。脇腹を矢がかすめたが、構わず反転し後ろに迫っていた敵も斬っていく。しかし、多勢に無勢である。横合いからほこで打たれ、背中から腹にかけて剣で刺され、先軫は吐血した。それでも飛びついてきた男を逆につかまえ、指で目を押しつぶすのであるから、この男の闘志は尽きることがない。

 あまりの状況に、驩以下晋は進軍の太鼓を叩くのも忘れて茫然とした。遠目から見ていた士会も

「囮になるには遅すぎるだろう」

 と茫然とする。

 そのうち、

「獲った、将の首だ!」

 という叫び声と共に、先軫の首が戈の上に掲げられた。負けた。驩がそう思い、力を抜いていたとき、勝った、と白狄子も力を抜いた。

 その間、横合いから動いていたものがいた。――郤缺である。

「士季の言う展開になるとはな、いささか遅いが」

 先軫が飛び出していった瞬間に、郤缺も兵と共に白狄へと向かっていた。戦場の誰もが先軫を見ている間に、真後ろへと回り込む。郤缺の耳に強いが悲痛な口上が聞こえた。

「自裁するなら勝ってからすべきだな、あさましい」

 ぞっとするほど暗い声で呟き、息を潜めるように距離をはかる。そして、の首が上げられ、が弛緩する空気が伝わった。郤缺は一度舌なめずりすると、兵たちに手で合図する。もはや郤缺の手足のようになっている兵どもは、頷くことなく一挙に白狄子を囲む兵たちになだれ込んでいった。

 驚愕する白狄子に、郤缺は戦車ごとつっこんでいく。接敵ギリギリのところで止める御者の腕は、やはり良いと思いながら、矢を放った。まず白狄子の腿を射て、二の矢で御者の頬を射る。兵が群がり、相手の御者や車右を車から引きずり降ろし、戈で突き殴り殺していく。郤缺は敵の戦車に飛び乗り、幾人かの兵に押さえられた白狄子を見下ろした。死ね、クソ、など罵詈雑言を吐く男に冷たい視線を向け、右肩と右手を足で押さえつけた。

「少々、失礼つかまつる」

 低い声で言うと、銅剣を抜いて右手をゴツリと切り落とす。

「ぎぃーーーーーーーっ」

 白狄子が叫び喚きあばれたため、ついでに矢がささったままの腿をざくっと切り裂いた。お、お、と痛みで呻く白狄子を兵と共にかつぎあげ、己の馬車に放り込み乗り込むと、御者に

「帰るぞ」

 と静かに命じる。御者は即座に走り出した。既に白狄は我に返っており、郤缺たちを追いかけていく。戦車の速さについてこれぬ兵は相手を留めようとして戦うか、壁になって死んでいった。それを哀れむ余裕は無い。この敵大将を持ち帰らねば、晋の負けであり、白狄はまたやってくるのだ。

 郤缺を守るように下軍の大夫たちが展開し、追いすがる白狄を削り殺しはじめる。呼応にしては遅い、と郤缺はそれらを見ながら晋軍に戻っていく。最初に動いたのはやはり士氏のようであったが、士会の差配が遅れたのであろう。士氏の指揮官はあくまで兄の士縠である。反応の鈍さはどうしようもない。

「郤主! ……怪我は」

 下軍の将である胥臣が戦車でかけよってくる。敵と味方の返り血でべっとりと汚れた郤缺を見て、胥臣は思わず聞いた。郤缺はにこりと笑み、無傷です、と返す。

「白狄子をお招きした。これで先主もお戻りになられるでしょう。ただ、お招きした白狄子は少々お怪我をされたよし、介抱願いたい」

 見ると、白狄子が手が無くなった右腕を押さえながら、脂汗をかいていた。腿からも出血が激しい。ここまでするか、と胥臣は腹の底が冷たくなる。

「急がれよ、臼季きゅうき。こういうのは生きているうちにお使いになられたほうがよろしい」

 郤缺は篤敬と言われる顔そのままの笑顔で、胥臣に話しかけると、戦車に乗り戦場へ戻っていった。いまだ、戦いは続いていたからである。この場にいる白狄を殺し尽くさねば禍根を残すが、さてどうであろうか。郤缺は戦塵の中に再び身を投じていった。

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