第24話 帰るべき場所
「
そのころ、
すでに
「我が将の首を返し、己らの地に帰る約定をするのなら、白狄子を返す」
と戦場に響き渡るような大声で言った。先且居が守るようにはしているが、それでも彼は最前線で白狄の軍を睨んでいる。元々持久力も無く、そして精神的支柱が奪われていた白狄はへたりこむように降伏し、
「我らは約を守ろう。我が長を返せ」
使者が布のかたまりを渡してくる。それは麻布で包まれた
「しばらくは来ん。約に従うなら貴様等も我らの背を斬る真似はするな」
追い打ちをかけるな、ということである。白狄子は、己を物のように捕まえた大夫を探したが、見当たらぬ。意外と小者であったか、と舌打ちした。
「小者にやられるとは、吾も鈍ったか。いや、あれを小者にしている晋が鈍っておるのか」
戦車にゆられながら、箕を後にし、白狄子は呟いた。――さて、これ以上の餌が調達できなかったのだ、今年の冬はどう過ごすか。狩りでどの程度しのげるか。右手が無く片足が不具になっても、彼は考えねばならぬ。死なぬかぎり、彼には集団を食わす義務があった。
白狄が黄土の果てに小さくなっていくころ、驩が己の馬車から降り、布から取り出された先軫の首を手に取った。そこには敵陣をはるか遠くまで挑むように見ている先軫の顔があった。まさにこれから戦おうという時に見る、頼もしい顔である。そうして驩にふり返り、
「我が勝利を奉る」
と言う、直前の顔である。
「生きているようだ」
驩は嗚咽をこらえながら言った。中軍の半分は先氏で構成されている。周囲からおうおうと泣く声が響いた。先且居もそれに流されたかったであろう。が、この父よりも幾分か真面目な彼は、ぐっと我慢し、
「凱旋です、我が君」
と押し殺した声で進言した。驩ははっとして、凱旋だ! と叫んだ。先且居と驩の年はさほど変わらない。目の前の男は、父の死を哀しんでいるが、こちらを責めない。責めない代わりに、君主としての責をとれと言っているのだ。
「中軍は引き続き
兵の中には農民を兼ねているものもいた。彼らには酷であったが、大夫としては兵を完全に掌握しておきたいということである。この当時、民の逃亡は国の弱体化に繋がりかねない重要事であった。
郤缺は乾いた血が全身にこびりついたまま同じように戦車にゆられ、絳への道をひたりと見ていた。手勢の数は少なくなっていた。郤缺の賭けのような奇襲の犠牲者でもある。実のところ、郤缺は手勢全ての顔と名を覚えていたし、彼らと勝利を分かつことを考え育ててもきた。が、それと戦場での理は違ってくる。
ふと、他の下軍の大夫たちが微妙に距離を空けていることに気づく。軍律違反ほどではないが、あからさまに郤缺から少し離れていた。
「私たちは行軍の速さか位置を間違えているか?」
思わず呟くと、
「わが主よ。あなたは多くの返り血と汗とで、まるで
「そんなに臭いか。己ではわからぬな」
郤缺はためしに腕などを嗅いでみたが、特に何も思わなかった。否、懐かしいにおいだ、ということくらいは、思った。
絳に戻るまで、驩は
「新たな中軍の将を且居とする」
と発した。先軫の息子がそのまま受け継ぐことになる。ある程度実績はあるが、上席を飛び越え宰相になるに等しく、大抜擢と言えた。先且居は先軫に似て武に強い。父ほどの戦争屋ではないが、堅実な作戦を立てる。何より従順な性質であった。欒枝のわるくないで終わる、という評価は少し厳しいが言い得て妙である。
「古い
欒枝が驩にぬかづき、宣誓のように言った。驩の独断ではなく、卿ふくめた総意という姿を見せたものであろう。郤缺は欒枝に、ご苦労なことだと、心の中で同情した。――己は目立ちすぎる。欒枝がかつて言った言葉である。このような時の飾りに彼はもってこいというわけだ。
次に――
驩が口を開いた。
「この度、下軍の大夫、
郤缺は一瞬ポカン、とした。卿に任じられたことより、冀を与えられたことに驚愕し、茫然としたのである。冀は郤氏の中核といえる邑であった。史書では
まず、応じなければならぬ。郤缺は頭をあげず中腰で前に出て、驩にぬかづいた。
「貴き身でなけれど、君公からのお言葉ありがたく私の喜びといたします。我が旧領を
郤缺は一瞬、辞退を考えた。手勢も無い下軍の大夫が、たとえ戦功があったとしても重鎮の推挙でいっきに卿というのは
「缺は新下軍を管理するよう」
郤缺はぬかづいたまま、かしこまりてございます、と静かに言った。このころ、晋の軍制は五軍体制である。が、戦争では中軍・上軍・下軍という三軍のみが活躍している。この三軍は周が決めた軍制であり、これを踏襲できるのは、今や大国くらいしか無い。それに合わせた二軍であるが、新上軍、新下軍だったと思われる。これらは元々、卿を増やすための名目と思われ、この時期も名ばかりであったと考えてよいだろう。
つまり、私は軍を率いぬ、ということか。
やはり郤氏への警戒は強いらしい。趙衰か胥臣かはわからぬが、若い青年にそれも含めて進言したやもしれぬ。
「……まあいい。飼い殺しは今さらだ」
郤缺はふ、と笑って小さく呟いた。そのようなことより、旧領が戻る。今の少領は公室へ返すであろうが、それはたいしたことではない。郤缺は作法通りに下がり、おのが戦車に戻る。御者が感無量という顔で見てきていた。郤缺にだけ口が軽いこの御者は、郤氏につらなる臣の生き残りである。泣くな、耐えよ、と郤缺は苦笑した。車右は郤缺が復職したと聞いてやってきた奇特な勇士である。この男も嬉しそうであった。
郤缺の喜びは家の喜びであり、
「卿の重責、大変かと思いますが、お喜び申し上げます」
などと言うのであるから、相当浮かれている。郤缺は大夫の家として恥ずべきと最初は言っていたが、途中から共に笑いだした。やはり、珍しく浮かれていた。
その頃、驩は先軫を思い、己の至らなさを省み、これからの晋を背負う決意をしていたが、それは郤缺と直接関係のない話であるため、詳細は省くとする。
この年の戦争は、秋では終わらなかった。冬には
この間、郤缺は卿として末席にいる。むろん、出陣はしていない。正直なところ、旧領の切り回しに忙しかったため、遠征の身でなかったのはある意味ありがたかった。欒枝も卿として上席にいるが、こちらも留守を預かっていた。よもや、互いが政堂で顔を合わせるようになるとは思わなかったため、妙な気分であった。そうして、年を越した。
「
寒さも溶け始めた早春である。朝政のあと、欒枝が話しかけてきた。特に他意のない顔をしているため、本当に共に梅を楽しみたいのであろう。腹のうちを探らずとも分かるようになっている己に郤缺は苦笑した。それにしてもこう、なれなれしく話しかけてきても良いものか、と周囲を目だけで見回すと、じっと見てきていた胥臣と目が合った。ぎこちなく笑み、手を軽く振ったあと、彼は立ち去った。胥臣は郤缺と欒枝の関係を情人だとふきこまれている。そういえば、と郤缺は今更ながら思い出した。今となっては少々かわいそうでもある。
「春めいたこの日、
郤缺は完璧な返礼をした。少々くだけた誘いになった欒枝が気まずい顔をしたのは、言うまでもない。
――で
「……どうして、このような状況になっているのです」
郤缺は乱れた衣そのままに、ぼんやりと宙に視線を泳がせながら座りこむ。となりで欒枝が同じように衣を乱れさせて、知らん、と頭を抱えていた。
確かに、梅を見ながら詩作をし、飽きると香りをぼんやりと楽しんだ。それも飽きたのか、欒枝が
「そうだ、碁をしよう」
と言った。このころ、碁は神性を帯びた
郤缺は、欒枝のお手並拝見と乗った。欒枝は今でこそ防衛軍として留守を任されているが、楚との戦いでは先鋒であり、楚軍を挑発しておびき出した男である。どのような手を見せるのか楽しみであった。勝負は長く続き、時折欒枝が
「待て郤主。少し考える」
と駄々をこねはじめる。
「
そう苦笑しながらも、郤缺は待ってやった。ふと、父と碁をしていたことを思い出す。父は果敢な打ちであった。常に戦場を思え、とまだ幼い郤缺にも容赦なかった。しかも手が意地悪い。その手を郤缺は確実に受け継いでいる。ゆえに、欒枝がときおり口をとがらせた。もう六十に手が届くであろうこの男は、そうなると妙にかわいげがあった。目立つ、という言葉どおりであり、郤缺には無い魅力なのであろう。
時々会話を交わしながら静かに碁を打っていただけであったのに、何故か妙な緊張感が漂い、郤缺は戸惑った。それは欒枝もそうであるらしく、意味なく目を伏せたりする。
気を利かせた欒家の家宰が扉を閉めた。それが決定打となり、しだいにどちらとなく指を絡め体を寄せ、結局
「久々の逢瀬だ、せっかくだから
欒枝がなげやりに言った。何が逢瀬だ、せっかくだからとはどういうことだと郤缺は
「以前とは比べ物にならぬほど。遠目で見ていた方々も手の平を返したような態度となりました。が、あなたが顔を通してくださったからこそ、彼らは私も頼ろうとなったのでしょう。いくつかの氏族から
「汝のか」
興味深そうに聞いてくる欒枝に郤缺は肩をすくめた。
「妾は私にです。私の妻はそれなりに良い家の娘ですから、その上には立てない。妻は息子にです。今から縁づきたいと。私は卿であれど、邑ひとつの身代。今や他国の大夫から望めませぬ、ちょうどいいかもしれません」
貴族が幼少のころより婚姻相手を決めるのはよくあることである。また、己の家格があがれば縁づく娘の家格もあがるため、後に来た妻が第一夫人として入れ替わるのは当時の常識である。が、郤缺の妻は郤氏が威勢を持っていたときに嫁に来た。欒枝を頼るしかない氏族程度とは家格が違っている。
「まあ、何かあったとき彼らを守りやすいですから、ありがたくお受けすることにした。……昨年の戦の多さが氏族たちを少々不安にしているようです。外へ向かった後、中が荒れたのがあの内乱です」
欒枝が遠い目をした。恵公、文公の父親である
「我が君はまだ若い。昨年の秦人のこともある。まだ腹は軽いと私は思っている。武に喜びを見いださねば良いが」
「行きすぎれば我ら卿が忠言たてまつるのみ。気がかりは
郤缺の口から近臣の名が出て、欒枝はいぶかしげに眉を
「……陽子は蔡にて楚を武ではなく口で退かせ、それを逃げたと喧伝した。機転は利きますが、その機転に頼りすぎている。ああいう強気と言葉で突き進む男は己の足元が見えませぬ。
声音はやんわりとしているが鋭い言葉に欒枝は己の唇を指で弾いた。
「それとなく、見ておこう。言われてみれば、浮かれている時間が長い。あれは浮かれているのではなく、地か」
少々重い声で呟いたあと、行儀悪く大の字で寝転ぶ。郤缺は呆れた顔を向けた。とてもではないが、名門貴族の長がするものではない。欒枝が寝転がったまま、手招きをする。それを表情で拒絶したが、しつこく手招きをされた。仕方無く、隣でそっと寝転んだ。欒枝が顔を向け、にこりと笑む。
「汝が卿になったすぐ後だ。臼季から、節度は守るようと、余計なことを言われた。あれは、死ぬまで汝が私の情人だと思い込むぞ」
「ぞっとします」
郤缺は本気で鳥肌が立ち、苦虫を噛み潰したような顔をする。よくよく考えれば卿になってからも、そういった視線を胥臣から向けられたのではないか、と思えばさらに寒々しかった。
「互いに卿になった。上席と末席とはいえ、責は等しい。それゆえ全く会わなかったというのに、ばれないものだな。汝は肌を重ねろと言っていたが、いらなかったのではないか?」
今のこの状況は郤缺が過去に誘ってきたからだ、と言わんばかりである。郤缺はさすがにその頬をつねって
「あなたが最初にしかけたのでしょう、むりやりに」
と小さな声で怒気をぶつけた。
箕の戦から今日まで卿として顔を合わせるのみであった。互いにもう密議もいらず、肌など重ねなくても良いと思っていたのである。が、一度泥に浸かれば抜け出すのは難しいらしい。
「また、来ておくれ」
欒枝がうとうととしながら言う。郤缺はそうですね、としか言いようがない。このオヤジ床で寝る気か、と苛つきながら、その頬を叩いた。
さて、この初春にようやく胥臣が正式に
惜しい、と郤缺は思うが、手はさしのべない。欒枝から受け継いだ氏族と同じに扱うわけにはいかぬ。士会は己でなんとかできる、そういった才を持っている。よけいなことはしたくない。
欒枝は、私によけいなことをしたのだ。
不快でもなく、しかし喜びでもない。何やら言葉にできぬ思いが郤缺の中に一瞬通りすぎた。
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