第57話 驕りの代償
晋の仮宿に訪れた華元に、趙盾は感謝の意を示し、そして話が終われば帰した。一つの国に偏れば、他の国との関係が崩れる。すでに、斉の賄賂を受け取り、
「……斉の件はともかく……
趙盾は
「今、諸侯は我が……我が君の行いに動揺し、そして困惑されておられます。盟そのものをご遠慮される可能性ございます。もし、盟を行ったとしても、形だけで儀礼伴わぬものになりかねません。たとえ天に
暗い顔を隠さない荀林父を横目に、よろしいか、と士会が言った。趙盾はうろんげな視線を送ったが、頷いた。
「
この件はご迷惑おかけした申し訳なかった、などと言えば足元を見られる。しかし、開き直り傲慢すぎても、各国は嫌気がさして帰ってしまうであろう。趙盾は少し考え、頷いた。
「
荀林父が、え! と叫んだ。士会が柔らかく笑む。
「正卿は我が君に拝謁があろう。わたしは末席の軽輩だ。荀伯は人を安んじるところもある、適任だ」
士会の笑みは柔らかく優しかったが、手伝う気配がみじんも感じられぬ。いや、苦労の末泣きついてきたら頭を撫でるくらいはしてくれそうであるが、共に来てくれる意志は無いらしい。このような時、怨まずに、途方にくれながらも動き出すのが荀林父である。彼はどうすべきかと考えながら、去っていった。その様子を見ながら、趙盾も士会も席を立ち歩きだす。
「野ウサギどのがかわいそうだろう、
「あなたが言うな。ダメ押しをされておられた」
趙盾は士会を全く見ずに返し、
趙盾にしても士会にしても、この賄賂騒ぎをきれいに収めるなど、不可能であるとわかっている。必要なのは、足止めであり、できうるなら好印象もほしい。趙盾は威儀で押しつぶすため不向きである。そこはこの宰相も自覚があるらしい。士会は末席という難点がある。他の状況ならともかく、会盟という儀礼色が強い場では強く出られぬ。あるていど丸く収めても、晋は末席でまかなったという不満が残るにちがいない。
荀林父は格として充分な地位である。人当たりが良く、言うことは常識的であり、そして壊滅的に政治勘が低い。つまり、姑息な立ち回りは考えぬ。かれは徳人ではない。しかし荀林父は個人として好人物である。この賄賂問題で、趙盾のような高圧も、士会のような有徳もそらぞらしくなるが、ただの好人物が必死に頼み込めば、諸侯はともかく宰相どもは情を寄せるであろう。くり返すが、必要なのは解決ではなく時間稼ぎなのだ。
ところで、荀林父は常識的な凡人で、飛躍した思考は持っていない。が、今までも記したように、独特のめざとさがある。真っ先に宋へ向かい、この度の騒動はあれど、新城以来の盟を改めたいことは確かである、と訴えた。この状況下で最良であろう。相手は晋へ寄った動きを見せた宋――というより華元である。
「我が君は徳深さあれど、卑しい行いや奸計に疎いところがございますゆえ、行き違いあったかもしれませぬ。斉の件は晋のみで対処をいたしますが、周王さまをお守りし南蛮・楚に備える会盟がまず大切です。我が晋を貶める流言が飛び交っていると伺っております。そのような卑劣な行いを正すためにもみなさま方との盟が大切なのです」
ここで卑屈に謝ることもなく、居丈高に宋への協力も要請しない。華元は晋が本気で諸侯と会盟を続けたいのだと感じ取った。荀林父は儀にのっとって拝礼し、他の国へと向かっていこうとした。華元が上席の
「新城の会盟は我が宋で行いました。その時のよしみです、ご挨拶に同行してもよろしいか?」
人好きする華元の笑顔に、荀林父は無邪気に笑みを返した。少々、ちょろい人だ、と値踏みされたことに気づくことはなかった。
荀林父の人の好さと少々のちょろさ、というものを感じつつ、各国会盟に同意し、なんとか行われた。会盟で諸侯どもにねっとりと見られたのが夷皋である。それが、嘲弄であることを、この子供は感じ取っていた。むろん、賄賂の件である。
夷皋は、趙盾ににじりよられ説教をされるまで、あれが賄賂なのだと気づいていなかった。
「斉を攻めよと、
賄賂がいかに身を滅ぼすか、という長々とした説教の最後がこれである。夷皋は、喉奥が焼けそうなほどであり、か、と呻いた。そうして、喚き立てようとするが、声が出ぬ。お前は何様だ。この一言さえ出ぬ。
「……許す」
結局、いつもの言葉をねじり出すしかなかった。こう言えば、趙盾は常に引き下がる。しかし、この時はそうではなかった。趙盾がさらににじりより、底光りする目でじっとりと睨んでくる。夷皋は、今度は恐怖で叫びそうになった。あ、という口の形で体が止まる。至近距離まで近づき、趙盾が口を開いた。
「我が君。二度となされぬとお誓いあれ。これはただ
低く強い声であった。夷皋は知らぬ存ぜぬとつっぱねたい気持ちであった。もう、父の顔などおぼろげである。この男に己を託したのであればいっそ怨みさえ感じる。夷皋が押し黙っている間、趙盾は睨み付けたままであった。礼を重んじるこの男がここまでのことをするのもなかなか無い。結局、根負けしたのは夷皋であった。
「誓う。父に、誓う……」
力無く項垂れる夷皋にぬかずき、ご無礼を、とだけ趙盾は言った。
どこかしらじらしささえ残る会盟は一応無事に終わり、晋も含め各国帰途についた。魯は最後まで来なかった。当然である、本来は斉を攻めるついでに拾う予定であった。もはや魯が晋に縋り付くことはない。今頃、魯にも晋が斉と裏取引をしたことが伝わっているであろう。
刑場に連れて行かれる罪人のような様相で、夷皋は馬車にゆられた。やはり趙盾は傍らにいる。夷皋を斉に引き合わせた
趙盾はもちろん、夷皋に橋渡ししたものがいるであろう、くらいは考えている。しかし、それを今追求しても仕方がなく、今後の外交方針を考えなおすほうが先決であった。
帰国した趙盾たちを、暗い顔の
「会盟の儀、お疲れ様でございました。謹んでご苦労察します。さて……周王さまからご連絡あり、斉から魯へ
朝政にて、郤缺は重い声を発した。趙盾も、荀林父も、士会も暗い顔をする。
「はっきり言おう。私は我が晋は賄賂を必要とせぬ、と言い続け信頼を得てきた。しかし、今回の事態で私の言そのものが信用を無くしました。私は表だって東国の方々とお話できますまい。しかし我が君はこれからも表に立って頂かねばならぬ。成人しておらぬが子供ではない。二度と、あってはならぬ」
言い終え、趙盾を見た。趙盾が、
「我が君は、本来は徳のあるおかた。しかしお若い。若さが
と、淡い声音で言った。
斉は魯が頭を下げるまで攻め立て、嫌がらせに
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