第57話 驕りの代償

 さいの参入と共に同盟を改め、せいを攻める。そのための会盟かいめいであったが、もはやそれどころではない。しんは国際信用を一気に無くし、なおかつ正卿せいけい以下、大臣たちはそれに気づかずのこのこ鳴り物入りでに入ったのである。冷えた空気に首をひねっていた趙盾ちょうとんに声をかけたのは、そう華元かげんであった。この如才ない男は、まぬけな晋に気づいて真相をいち早く教えてやった。宋は内紛の種を抱えている。もしもの際、晋からの圧力を極力躱したい。その布石もあったろう。また、華元は人好きのする性質であり、そのような男は親切さがある。

 晋の仮宿に訪れた華元に、趙盾は感謝の意を示し、そして話が終われば帰した。一つの国に偏れば、他の国との関係が崩れる。すでに、斉の賄賂を受け取り、との関係が崩れきったと言ってよい。これ以上、ややこしくしてはならぬ。華元もそれが分かっているのか、自国への便宜など何もなくさっと帰った。

「……斉の件はともかく……ちかいは必要かと思う。蔡が新たに入り、新城の盟を強くすることは第一義です。如何いかん

 趙盾は荀林父じゅんりんぽ士会しかいを見渡し、言った。相変わらず薄い表情である。声音は静かで渇いた響きであったが、その下に炎熱が見える。うずのようであった。荀林父がおそれながら、と口を開く。

「今、諸侯は我が……我が君の行いに動揺し、そして困惑されておられます。盟そのものをご遠慮される可能性ございます。もし、盟を行ったとしても、形だけで儀礼伴わぬものになりかねません。たとえ天にちかったとしても、です」

 暗い顔を隠さない荀林父を横目に、よろしいか、と士会が言った。趙盾はうろんげな視線を送ったが、頷いた。

荀伯じゅんはくの言葉もっとも、この状況下での盟に信はない。しかしまあ、ここまでご足労願ったのに何もせずに戻すのはおかわいそうであるから、斉のことはさておき、会盟だけでもして帰すが良いとわたしは思う。はっきり言えば、斉の件は魯に泣いてもらうだけの話だ。これに関して晋の権益が損をするが、今すぐに取り戻しようもない。我が君に関しても言い訳しようがない。受け取った賄賂を返すと叫んでも今さらだ。ゆえ、どうしようもないものへ手を伸ばすより確実なものをとる。魯を除いた諸侯の手を離さぬ意志を示すべきだ。そのためにも、会盟を終わらすまで帰さぬが肝要。賄賂については行き違いありか、斉が騙したか。どう言いつくろうと納得ゆく説明はできまいが、頭を下げずに引き留めるしかない」

 この件はご迷惑おかけした申し訳なかった、などと言えば足元を見られる。しかし、開き直り傲慢すぎても、各国は嫌気がさして帰ってしまうであろう。趙盾は少し考え、頷いた。

士季しきのおっしゃることごもっとも。斉の件はさておき、集まった諸侯との盟は必要です。確かに不信疑念のお気持ちで会盟に臨めば儀礼なく空虚なものになりかねぬ。しかし、それを少しでも和らげれば、良き盟になることもあるでしょう。各諸侯、そして各宰相へのお骨折りを荀伯にお任せいたしますゆえ、みなさまのお心をほぐしてください」

 荀林父が、え! と叫んだ。士会が柔らかく笑む。

「正卿は我が君に拝謁があろう。わたしは末席の軽輩だ。荀伯は人を安んじるところもある、適任だ」

 士会の笑みは柔らかく優しかったが、手伝う気配がみじんも感じられぬ。いや、苦労の末泣きついてきたら頭を撫でるくらいはしてくれそうであるが、共に来てくれる意志は無いらしい。このような時、怨まずに、途方にくれながらも動き出すのが荀林父である。彼はどうすべきかと考えながら、去っていった。その様子を見ながら、趙盾も士会も席を立ち歩きだす。

「野ウサギどのがかわいそうだろう、趙孟ちょうもう

「あなたが言うな。ダメ押しをされておられた」

 趙盾は士会を全く見ずに返し、夷皋いこうの元へと歩いて行く。士会は連れてきている中軍と下軍の元へ向かった。もう軍に意味は無いが、この空気の中で不安がっているであろう。不安は律を乱す。統制の取れない軍ほどやっかいなものはないのだ。

 趙盾にしても士会にしても、この賄賂騒ぎをきれいに収めるなど、不可能であるとわかっている。必要なのは、足止めであり、できうるなら好印象もほしい。趙盾は威儀で押しつぶすため不向きである。そこはこの宰相も自覚があるらしい。士会は末席という難点がある。他の状況ならともかく、会盟という儀礼色が強い場では強く出られぬ。あるていど丸く収めても、晋は末席でまかなったという不満が残るにちがいない。

 荀林父は格として充分な地位である。人当たりが良く、言うことは常識的であり、そして壊滅的に政治勘が低い。つまり、姑息な立ち回りは考えぬ。かれは徳人ではない。しかし荀林父は個人として好人物である。この賄賂問題で、趙盾のような高圧も、士会のような有徳もそらぞらしくなるが、ただの好人物が必死に頼み込めば、諸侯はともかく宰相どもは情を寄せるであろう。くり返すが、必要なのは解決ではなく時間稼ぎなのだ。

 ところで、荀林父は常識的な凡人で、飛躍した思考は持っていない。が、今までも記したように、独特のめざとさがある。真っ先に宋へ向かい、この度の騒動はあれど、新城以来の盟を改めたいことは確かである、と訴えた。この状況下で最良であろう。相手は晋へ寄った動きを見せた宋――というより華元である。

「我が君は徳深さあれど、卑しい行いや奸計に疎いところがございますゆえ、行き違いあったかもしれませぬ。斉の件は晋のみで対処をいたしますが、周王さまをお守りし南蛮・楚に備える会盟がまず大切です。我が晋を貶める流言が飛び交っていると伺っております。そのような卑劣な行いを正すためにもみなさま方との盟が大切なのです」

 ここで卑屈に謝ることもなく、居丈高に宋への協力も要請しない。華元は晋が本気で諸侯と会盟を続けたいのだと感じ取った。荀林父は儀にのっとって拝礼し、他の国へと向かっていこうとした。華元が上席の華耦かぐうに視線を向けると、好きにしろ、という目が返ってくる。華耦としても晋の統制が緩まると、東国全体が緩みやりにくいと思ったのだ。東国列強は宋も含んで、大国のくびきから離れると互いにたたき合いを始めかねない。

「新城の会盟は我が宋で行いました。その時のよしみです、ご挨拶に同行してもよろしいか?」

 人好きする華元の笑顔に、荀林父は無邪気に笑みを返した。少々、ちょろい人だ、と値踏みされたことに気づくことはなかった。

 荀林父の人の好さと少々のちょろさ、というものを感じつつ、各国会盟に同意し、なんとか行われた。会盟で諸侯どもにねっとりと見られたのが夷皋である。それが、嘲弄であることを、この子供は感じ取っていた。むろん、賄賂の件である。

 夷皋は、趙盾ににじりよられ説教をされるまで、あれが賄賂なのだと気づいていなかった。

「斉を攻めよと、君公くんこうも命じられた。しかし、斉人にたばかられを受け取られたは、私が行き届かぬがため。我が君に不徳の行いをさせたは私の愚かさです。伏してお詫び致します」

 賄賂がいかに身を滅ぼすか、という長々とした説教の最後がこれである。夷皋は、喉奥が焼けそうなほどであり、か、と呻いた。そうして、喚き立てようとするが、声が出ぬ。お前は何様だ。この一言さえ出ぬ。

「……許す」

 結局、いつもの言葉をねじり出すしかなかった。こう言えば、趙盾は常に引き下がる。しかし、この時はそうではなかった。趙盾がさらににじりより、底光りする目でじっとりと睨んでくる。夷皋は、今度は恐怖で叫びそうになった。あ、という口の形で体が止まる。至近距離まで近づき、趙盾が口を開いた。

「我が君。二度となされぬとお誓いあれ。これはただけがれた進物を受け取った、という話ではございませぬ。我が晋は斉の策により敗北したのです。戦の前に、戦に負けた。晋はもう他国に遅れをとってはなりません。亡きじょう公は東と西、双方を相手取り戦い抜きました。その遺志を受け継ぐのが君公の貴い使命でございます。もう、負けてはならぬのです。何かわからぬことがあれば私をお呼び下さい。それが我が君を先君から託された私のお役目です」

 低く強い声であった。夷皋は知らぬ存ぜぬとつっぱねたい気持ちであった。もう、父の顔などおぼろげである。この男に己を託したのであればいっそ怨みさえ感じる。夷皋が押し黙っている間、趙盾は睨み付けたままであった。礼を重んじるこの男がここまでのことをするのもなかなか無い。結局、根負けしたのは夷皋であった。

「誓う。父に、誓う……」

 力無く項垂れる夷皋にぬかずき、ご無礼を、とだけ趙盾は言った。

 どこかしらじらしささえ残る会盟は一応無事に終わり、晋も含め各国帰途についた。魯は最後まで来なかった。当然である、本来は斉を攻めるついでに拾う予定であった。もはや魯が晋に縋り付くことはない。今頃、魯にも晋が斉と裏取引をしたことが伝わっているであろう。

 刑場に連れて行かれる罪人のような様相で、夷皋は馬車にゆられた。やはり趙盾は傍らにいる。夷皋を斉に引き合わせた先辛せんしんは一足早く帰国していた。夷皋は世間知らずであり、問い詰められたときに先辛の名を出すことさえできなかった。あれは賄賂であり卑しく悪いことであった、という言葉に混乱し、しどろもどろに、斉人がくれた、よくわからなかった、としか返せなかったのである。結果的に夷皋は先辛をかばったこととなった。

 趙盾はもちろん、夷皋に橋渡ししたものがいるであろう、くらいは考えている。しかし、それを今追求しても仕方がなく、今後の外交方針を考えなおすほうが先決であった。

 帰国した趙盾たちを、暗い顔の郤缺げきけつが迎えた。賄賂の件はすでに伝わっており、さらに悪い知らせがあった。

「会盟の儀、お疲れ様でございました。謹んでご苦労察します。さて……周王さまからご連絡あり、斉から魯へ子叔姫ししゅくきをお返しするお骨折りされたとのこと。我が晋を通さず終わらせたよし」

 朝政にて、郤缺は重い声を発した。趙盾も、荀林父も、士会も暗い顔をする。先縠せんこく欒盾らんとんはとっくに重苦しい顔のままであった。周は晋を通すことをやめ、斉もそれを受けて魯の求めに応じた、ということである。周は晋を無視して良いと判じたのだ。前年暮れから始まった、魯と斉のいざこざに晋はほとんど介入できずに終わった。しかも、晋が信用を失墜させるというおまけつきである。夷皋という少年が世間知らずすぎたというべきか、それとも己らのわきがあますぎたというべきか。そもそも、晋は覇者と称して驕慢となっていたのではないか。郤缺はそこを今は深く考えまいと思いながら、さらに口を開く。

「はっきり言おう。私は我が晋は賄賂を必要とせぬ、と言い続け信頼を得てきた。しかし、今回の事態で私の言そのものが信用を無くしました。私は表だって東国の方々とお話できますまい。しかし我が君はこれからも表に立って頂かねばならぬ。成人しておらぬが子供ではない。二度と、あってはならぬ」

 言い終え、趙盾を見た。趙盾が、いさめました、と返した後に

「我が君は、本来は徳のあるおかた。しかしお若い。若さがあやまちを呼ぶようであれば、私がこれからも諫めよう」

 と、淡い声音で言った。

 斉は魯が頭を下げるまで攻め立て、嫌がらせにそうまで攻めた。結局、魯は翌年の正月に膝を屈した。晋はその間、動いていない。

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