第56話 歓喜の歌
城下の
くり返すが、
秋、斉は魯へ侵攻した。晋が蔡からの凱旋にわいていたころである。むろん、魯は晋に泣きついた。宰相である
「斉の件、魯の方々のためにも伐たなければなりません。同時に、蔡が我が晋の元へ来られました。同盟を強くもせねばならぬ。私としては、会盟にて改めて
「恐れ入ります。それでは、軍を率いての会盟をお考えでしょうか」
会盟の後、そのまま戦争へ行くのか、という確認であった。趙盾が頷く。そうなれば、趙盾と荀林父の中軍のみでは心許ない。これは数の問題ではない。趙盾は武に疎く、荀林父も各国をまとめての戦争となれば手が行き届くとは言えぬ。
「東国のことです。本来は
「東国の方々をお呼びし、しかるべき場にて会盟を行うこととなりました。我が君におかれてもご尊顔をみなさまにお見せいただきたく、お願い申し上げます。覇者としてご苦労ございますれば、我ら卿にてお支えいたしますゆえ、ご安心のほどを」
趙盾が
「許す」
とだけ、ぽつりと言った。
複数の国を集めた会盟は大がかりなものである。いわんや軍を出すのである。場所の選定含め時間がかかり、最終的に冬の十一月となった。その間、魯は斉の圧迫を受け続け、悲鳴をあげている。晋の援軍を待ち、なんとか耐えている様相であった。もとより、秋に助けを求め、そのまま秋に軍を出すとは魯も思っていないため、想定の範囲内であろう。会盟は
晋軍は当然のごとく周都にて
普段は最も上席の夷皋であるが、周王よりは下席となる。介添えとして趙盾が同席した。趙盾はこの時食事を用意されていない。周から見れば小者に近い彼は、共に食事をとるような身分ではない。夷皋は座席から一尺離れ、許しを待った。その一尺の位置も趙盾がそっとさし示した。己で場を計れぬと言われたようなものであったが、夷皋の勘はそのあたり鈍い。仕方無く従った。
「
周王がゆったりと言った。晋の支えで成り立っているくせにと思えば滑稽であるが、余光頼みの王朝とは、どこの世界もこのようなものであろう。夷皋は儀式を思い出しながら、鳥獣から順番に祭り、箸をつけた。緊張で口上が出てこなくなると、介添えの趙盾がそっと囁いてくる。それを周王も近臣も見る。夷皋にとっては情けなくもあるが、失敗するよりマシであった。最後、周王が
王宮から宿舎へ帰る最中、夷皋は馬車から周都を見た。晋には無い華やぎがあり、貴族たちの家を守る土壁も塗り固められている。黄砂舞い景色が薄暗い晋とは違い、瑞々しくくっきりとしていた。空気が、まろやかで軽い。
夷皋は
「この犬は狩りの力になるもの。ご存分にどうぞ」
薄い表情のまま、趙盾が指さし渡してきた。すっかり犬好きになっていた夷皋は近づき頭を撫で、犬と共に駈け出した。趙盾なりに考えたことらしい。犬に合わせての狩りはてんで成功しなかったが、狩りに対しての萎縮は無くなった。
儀式であろうが、狩りであろうが、夷皋は常に趙盾と共にいる。今も息がつまりそうな思いで、過ぎゆく周都の景色を眺めた。趙盾は何も言わず、前を向いていた。国君の馬車であったし、夷皋はもちろん君主の装いをしていたが、趙盾のほうがよほど威儀があった。
へとへとになって私室に戻った夷皋は
「我が君。
寺人の言う先氏とは
「ご拝謁お許し頂き、恐悦至極に存じます。我が君におかれましては周王さまのご饗応を受け、いささかお疲れでしょう。ある貴き方々が君公をぜひ癒やし歓待したいと申し出ございました。
身に合わぬ堅苦しい物言いをしたあと、先辛は最後に極めてくだけた言葉を投げた。先辛は夷皋に対して圧迫をくわえない珍しい大人である。年の頃は趙盾より少し上といったあたりか。良く言って気軽、悪く言うと軽薄なこの男は、夷皋の視点に合わせて物言いをする。それは誠実さではなく野放図な無責任さであったが、夷皋は優しいやつ、と勘違いしていた。が、今は人と会う面倒さが先に立つ。
「……儀はこりごりだ」
先辛がだらしない男だとしても、先方がそうとも限らぬ。しかし先辛はなだめるように笑み、警戒する夷皋を、嫌ならすぐ帰ればよろしい、そのくらい好きにできます、と半ば強引に連れだした。日はとうに中天をすぎていたが、夕にはまだ時間があった。こそこそと
ほどなく連れて行かれた邸は、晋が仮宿にしているものと同じくらい立派であった。丁寧に塗り固められた土壁は冬の鈍い陽光さえも照らし返し、ぴかぴかとしている。門に入ると、良い身なりの下人たちがかしこまり、主人が道を掃き清めながら夷皋を案内した。最上級の歓待である。
うやうやしく導かれた夷皋が最上席に座った後、主人とその供のものどもが丁寧にぬかずき口を開いた。
「晋公におかれましては、我らの急なお誘いにお越し頂き、その寛大なお心まことに嬉しく、我ら斉のものみな喜びといたしましょう。どうも晋の正卿は斉を勘違いなされ、伐とうとされております。
斉と言えば、晋が誅伐の対象としている、まさに今問題の国である。夷皋は、あまりの情報過多に飲み込めず、ぽかんとした。何が起きているのか、何を言われているのか、さっぱり理解ができぬ。
扉が開き、出てきたのは十数名の女達で、美しい衣とフワフワした長い飾り布を持ち、足取り軽く並びながら踊りだす。同じように出てきたらしい楽団が、軽快な音楽を奏でた。歌舞音曲の奴隷たちである。群舞は一糸乱れぬものであり、天から花が次々と落ちてくるようであった。音楽は時には郷愁を思い起こし、時には未だ見ぬ世界にいざなう。圧倒的な極彩色の世界に、夷皋は一気に突き落とされた。
「なんだ、これ」
舌っ足らずの口調で、小さく呟く。声音に嫌悪は無く、ただただ戸惑いと驚きがあった。斉人は都会人らしい所作で拝礼する。
「こちら東の
「こんな凄いもの、初めて見たぞ!」
斉人の言葉をぶった切って、夷皋は叫んだ。美しい衣で着飾った女は、母親しか知らぬ。宮殿に女官はいるが、地味でやぼったいものしかおらぬ。まず、
「晋公は覇者として常にお務めであられましたか。しかし、息抜きも大切なことです。我が斉の覇者、
いっそ無礼なほど親しい物言いで、斉人が申し出た。これを持ち帰って良いのか、と夷皋は仰天した。己で判断したことのない夷皋は、どう返して良いかわからず、まごついた。傍らに控えていた先辛が、
「おそれいります、我が君。許すとおっしゃればよろしいのです」
と優しく囁いた。夷皋は言われるがまま、許す、と口に出した。斉人がにっこりと優しく笑み、食事を用意しましょう、儀礼などお忘れを、とさらに人を呼ぶ。あでやかな女たちが美味珍味を持ち、夷皋の前へ置くと、周囲に侍った。女の一人が、柔らかな手を夷皋の手に重ねてくる。その感触があまりに気色悪く、夷皋は手を振り払った。斉人がすぐに女たちを下がらせた。生々しい圧迫が無くなり、少年は安堵のため息をついた。
夷皋は生まれて初めて、作法を無視して食事をとった。背徳感と開放感に浸りながら肉にかぶりつき、順番など考えずに珍味に手を伸ばす。その間も、目の前で寸劇が行われたり、倫理観の無い詩が朗読され、意味がわからなくなっていく。元々低い思考能力がさらに低下していった。斉都の詩を滔々と謳われたとき、夷皋の情報処理能力は限界を超えた。想像を絶する華美な宮殿を褒め讃える詩であった。それこそ覇者の宮城と言い切る、壮大で尊大な文言であった。
「そ、そんな宮殿があるわけないだろう。あ、あれは最後の砦だから、か、飾りなんて、無駄だって」
国政以外を全て些事余事そして無駄と言い切る絶対者を思い出しながら、夷皋は引きつった笑いを浮かべた。己はきっと夢を見ているのであろう、周都に来たことさえ夢に違いない。そう思わなければ、正気が保てぬ。この世界に、ただ飾るだけ、きれいなだけ、楽しむためだけのものなど、存在しているわけがない。少なくとも、九才から今に至るまで、夷皋は知らぬ。斉人は、しずしずと近づくと、布を広げて見せた。
それは、斉の宮殿の絵であった。質実で泥臭い晋とは比べものにならぬ、華やかさであった。窓ひとつとっても、全く違う。必要の無い飾りが美しく配置され、巧緻な画風も相まって、眩しいほどであった。
「覇者の威厳は、武ではなく楽しませ喜びとする。それが我ら桓公の徳というものでした。晋は我が国を継いだ覇者の御国でございます。僭越でございますが、先達としてお力になりたい。我が国の職人も献上いたしましょう。このような普請ができるものどもでございます」
歌舞音曲、道化演者、貴重な技術職、武芸に秀でた各奴隷たち、奢侈な衣服や冠、生け贄で最も貴重な白い牛、
「許す」
という言葉しか言えぬ。夷皋は、概念として賄賂を知っていたが、今なされていることがそれであることが全く分からなかった。
「どうも晋の正卿は、我が斉を勘違いなされておられるご様子なのです。いえ、秩序を蔑ろにされておられるのかもしれませぬ。このたび、小国の方々と謀り我が斉を攻めるとおっしゃる。徳深い晋公は私ども斉のお味方をしてくださいますこと、信じております。許すとおっしゃっていただけませぬか。覇者というものは、度量の広さを示されるもの。我が斉はそうでございましたとも」
夷皋は、わけがわからないまま、許す、と答えた。斉人は中原でも指折りの
何がなんやらわからぬが、素晴らしいものをもらったと、夷皋は興奮し、はしゃいだ。君主になって初めて趙盾を忘れ、美しい音楽に耳を傾け、壮麗な宮殿の絵をうっとりと見つめ続けた。
先辛はもちろん、斉に賄賂を貰い夷皋を連れてきている。彼はさらに賄賂を上乗せされ、にんまりと笑った。斉人も微笑み返す。
「あなたには御礼してもしたりぬ。上役の
斉人は、先辛を心底嘲笑しながら、拝礼した。先辛は任せておけと己の胸を叩いたが、儀にうるさい理屈屋の胥甲には良い迷惑であろう。これを以て胥甲は人を見る目が無い、と断じてしまうのは一方的な評であり、愚かな結果論に繋がる。ここは先辛が想像を絶するほど愚かであった、と言おう。
斉人たちは、夷皋を帰したあとに、こそりとささやきあった。
「女の罠が最も有用であるが、あの子供は女が怖い様子。まさかあそこまで幼いとは想定外であった」
「まあ、良いではないか。あれだけ幼稚であれば染まるのも腐るのも早い。こたびは斉が勝ち申した、我が君はお喜びになられるだろう」
賄賂は先辛が差配し、晋へと送られた。荀林父や士会はもちろん、夷皋に最も近い場所にいる趙盾も、気づかなかった。彼らは愚かにも、会盟の地である扈にて、知らされた。斉は、晋以外の各国に触れ回っていたのである。
――晋公は賄賂を受け取り、斉を許した。
郤缺が慎重に積み上げた、晋は賄賂を必要としない、という言葉は木っ端みじんに砕け散り、覇者の威厳も信用も何もかも、失墜した。
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