第9話 ずっと欲しかったんです

 結局、重耳ちょうじ趙衰ちょうしも、演習を含めこの日のことを全て心のうちに秘め、誰にも漏らさなかったらしく、胥臣しょしんも含め郤缺げきけつへの態度が変わった者はいなかった。郤缺も己や士会しかいの功を吹聴する気はさらさら無い。氏の主はなかなかにやる、という評判が立った程度で、士縠しこくはやはり戸惑っていた。彼は確かに己で任を全うしたかったであろうが、その才が無く、郤缺を頼った。その上で弟にまで助けられた。しかし、実はともかく誉は士縠のものとなってしまった。真面目な人間である。いたたまれないのであろう。

 それに反し、すっきりした顔を見せるのは士会であった。

「たびたび、郤主げきしゅに会いに来てしまう。うちでは鍛錬か書を読むかしかやることが無い」

 幾度目かの訪問で、士会は笑って言った。自嘲は感じられずカラリとした声であった。きっと、本当のことをそのままに言っているのであろう。が、郤缺にわざわざ言うということはどこか鬱屈もあるに違いない。まず、兄には言えぬ言葉である。

「私の邸も似たようなものだ。矢を射るか、書を読むしか無い――ああ。もしくは、子守くらいか」

 しんしんと寒い板張りでも姿勢良く座していた士会が、身を少し乗り出して目を輝かせる。

「もしかして、郤主の嗣子ししか。まだ挨拶をしたことがなかったな。こちらの家宰かさいから聞くに、なかなか利発で、しかも勇気ある嗣子だとか。ぜひ、その子守をさせてくれ」

 思った以上の食いつきに郤缺は少しのけぞった。郤缺と士会はよほど馬が合うらしく、数度の訪問で砕けた口調で話すようになった。むろん、貴族としての儀礼は守ってはいるが。しかし、このようにソワソワと、まるで褒美を前にした猟犬のような仕草は初めてである。

 ――色々な面を持つ男だ

 郤缺は少し苦笑しながら、控えている家宰に息子を連れてくるよう命じた。郤缺の苦笑は、何やら期待に胸を膨らませる士会へ半分、残り半分は息子を使った試金石半分である。今後、げき氏と交わるに相応しい人間たるか、大げさかもしれぬがこれにかかっていた。

 家宰がこちらです、と息子に声をかけ、部屋の外に座る。室への道を、とたん、とたんと踊るような音と共に、年の頃七才か八才の幼子が現れた。ぎこちなく家宰の隣に座ると、拝礼し、

郤孟げきもうです。ごあいさつに参りました。ちちからおはなしは聞いております。士季しきはゆうしゃ、と」

 幼さに違わず舌っ足らずであったが、しっかりとした挨拶であり、郤缺は良い子だと目を細めた。欒枝らんしを過保護の親ばかと言えぬ顔である。

「初めてお目にかかる、士の末子の士季だ。そのようなところにおらず、もっと近くでご挨拶つかまつりたい」

 士会が軽い声をかける。幼子は少し逡巡したが、郤缺がこちらにおいで、とさらに声をかけると、意を決したように立ち上がった。

 どう控えめに見ても可愛らしい顔立ちとは言えぬ。片目を必死に前髪で隠しているが、瞼か目のどちらかに異常があるのか、少々飛び出たように見える。黒目の位置は明後日の方へと向いていた。斜視というものか。それよりも、歩き方である。右足を踏み出せば体のバランスが崩れ、それを補うように左足を踏み出すため、自然足を引きずったり踊るように跳ねたりとせわしない。この幼子はそのような自分が異常であるとあまり思っていないようで、まっすぐに郤缺や士会の居る場所へと、えっちらおっちらと歩いていた。家宰が素早く、郤缺と士会の間に敷布の席を用意すると、再び奥へ下がっていく。その速さに幼子は全くついていっていない。

 郤缺は士会の顔を盗み見た。士会は幼子が必死に歩いているのを他意の無い微笑で眺めていた。そこには憐憫も嘲笑も無い。郤缺は内心、安堵のため息をついた。

 幼子は、よいしょ、と小さく呟きながら、やはりぎこちなく席に座った。よくよく見ると正座も少々いびつであった。上手く足が収まらぬのである。ちょこんと座った幼子に、士会が礼儀正しく拝礼した。

「改めて申し上げる。初めてお目にかかる、士の末子、士季と申す。先ほどのご挨拶、若年ながら儀と礼にあふれ、幼年時の我が身をふり返ると恥ずかしい限り。わたしを勇者と郤主がおっしゃっていると身に余る光栄だが、わたしはあなたも勇気ある嗣子と聞いている。わたしは末子で無位無冠、将来郤氏を背負い立つ郤孟には少し物足りぬやもしれぬが、交誼を願いたい」

 幼子ははくはくと口を動かし、驚きの顔を郤缺に向けた。士会は二十半ばをとっくに越えている。郤缺の息子とは二十は年が離れているだろう。そのような青年から大人に対するように挨拶されたのだ。幼子は思考の容量を超えてしまって混乱しきっていた。

こく、挨拶を返しなさい。怖がらなくていい」

「怖がらせてしまったか」

 士会がおどけたように言う。幼子――郤克げきこくはふるふると首を振り、こわくないです、と小さく呟くと、たどたどしく士会へと拝礼した。

「お。お初におめにかかります。郤孟です。父をつぐべく、いつもはげんでおります。士季にいろいろお教えいただければ、うれしいです」

 郤克の声は緊張で震えていた。この幼子は、郤缺から士会の勇姿を聞き、何度もせがんで聞かせて貰い、彼の中ではおとぎ話に出てくる勇者のように大きくなっていた。が、士会はそのようなことは知らぬ。郤缺の嗣子は礼儀正しく、大人の言葉に真心で返す信があり、自分の姿を隠さぬ勇気があると思っただけであった。郤克が不自由な体を持っているなど、一目見ればわかる。しかし、それは問題では無い。この幼子がそれをじていない、卑屈で無いことの方がよほど大切なのだ。

 そして、そんなことより、士会にとってもっと大事なことがあった。

「郤主。私は末子だ。生まれた時から兄がいたが、私は末子だ」

「そ……であるな」

 郤缺は、勢いよく当然のことを口早に話してくる士会に、とまどいながら頷いた。何やら興奮しているようで、どちらかというと冷静で重さのある男らしくない。いっそ軽々しい態度である。

「わたしは、弟が欲しかった。子供の頃から、弟というものが欲しかったのだ。郤氏の嗣子に対して無礼なことを申し上げるが、郤孟をわたしの弟のように、その、かわいがっ……いや違う、友となってよいだろうか」

 幼稚極まりない士会の言葉に、郤缺は唖然とした。お前はもう何年かすれば三十路だろう、何を言っているのだ、私の息子はまだ十にも満たぬし、親子とは言わぬが、叔父甥ほどに年が離れているだろう、こいつ何言ってんの、末っ子だったから弟欲しかったなどガキか、おい。いや、郤克に憐憫も嘲笑の情を見せずただその姿だけをまっすぐに見た時は、任せられる、教導をお願いしたいとは思っていたが、まさか、疑似的な弟として友人になりたいなど、誰が思うであろうか。

 が、郤缺が唖然としている間に、郤克が目を輝かして士会の腕をとった。礼儀もくそもない、幼児のはしゃいだ動きである。

「おれが弟ですか! 士季が兄ですか! おれも兄が欲しいと思ってました、士季みたいなかっこいい兄が欲しいと思ってました!」

 親である郤缺をそっちのけにして、士会と郤克の仲は一気に縮まったようであった。郤克が欲しかったものは兄ではなく、士会そのものであろう。士会と友好を結べるのであれば、何だって良かったのだ。

 さて、士会がすっと熱を冷まし、郤缺へ向かい合う。丁寧に拝礼し、口を開いた。

「郤主の大切な嗣子だ。わたしは至らぬ者だが、兄がするように導き、交誼を深めたいと思っている。わたしは士氏を継がぬ身。いずれ分家として独立したいと思うが、きっと少領であり我が晋にたいした働きもできぬであろう。しかしそれでも、研鑽はしてきたつもりだ。この邸に参る時だけでかまわぬ。いかがであろうか」

 最初にその言葉が聞きたかったと、郤缺は思った。静かで芯のある士会に戻っていた。士会の腕をしっかと持った郤克が不安そうな顔で見てくる。郤缺が呆れていたことに気づいているようだった。

 郤缺は士会に向き直り返礼を行う。

「我が嗣子、克には私直々に史と礼と儀を教え、孟として恥ずかしくないよう努めているが、ご覧の通り情に流されやすいところがある。士季は自制の強い方だ、情に溺れぬよう導くと私は信じている。また、士季は謙譲を知っておられる。克に矜持と傲慢の違いを身を以て示してくれると私は確信している。こちらこそ、ご教導お願いしたい」

 父が交誼を許したのであるから、子ははしゃぐに決まっている。身を起こした士会にさらに寄りかかった。が、郤克の体は前述のように不自由である。足が重さを支えきれず、士会の腕の中にすっぽりと転がり落ちた。さすがに顔を赤らめる郤克を、士会はしっかと抱き、

「郤氏の庭は存外に広い。わたしの足の速さをお目にかけよう」

 と言うと、郤缺に軽く一礼して立ち上がり、部屋からさっと出て行ってしまった。遠くで、郤克がはしゃぎ笑う声がする。本当に弟が欲しかったわけか、と郤缺は肩をすくめた。試金石どころではなかった。いっそ試されたのはこちらだったのやもしれぬ。

「煎じた苦菜にがなを持ってきてくれ」

 郤缺は思わず命じると、家宰がすっと下がっていく。数少ない下僕に用意させるだろう。とにかく、苦い飲み物で口や喉を引き締めたい気分となった。欒枝もそうであったのだろうかと、郤缺はぼんやり思った。士会との交誼はずっと長くなるであろう。郤缺を越えて郤克まで続くにちがいない。それはとても僥倖であったが、それにしても、何やら疲れてしまったのだった。

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