第8話 静謐な湖と、大魚

 士縠しこくが不得手と悩み、郤缺げきけつがそれに乗っかる形となった演習は、問題も無く無事に終わった。郤缺の指示を士縠が受けねばならぬが、確かに士縠はそのようなことに鈍くさいようでまごついていた。が、車右しゃゆう士会しかいが代わりに動き、事なきを得た。下軍かぐんの動きは良き、特に下軍の大夫たいふの動きは際立っていたと士縠は重耳ちょうじからねぎらいの言葉をもらっていたが、本人は複雑そうな顔をしていた。己から周囲を頼ったはいいが、結果が良いと身の置き所が無くなったに違いない。まさか君公くんこう直々に褒められるなど、思わなかったのだろう。

 ――無難にこなせれば良いと思っていたのであろうな

 郤缺は少々同情した。郤缺と士縠だけであれば、そこそこ無難という程度で終わったであろうが、間に士会がいたために動きが格段に良くなってしまった。どちらにせよ、誉れを貰い受けるのは士氏であり、郤缺には関係無かった。

郤主げきしゅ

 己の手勢を集めて揃いの最後に取りかかっていたとき、後ろからそろりと話しかけられ、郤缺は思わず振り向いた。何の気配にも気づかなかったことも含め、驚くしかない。

「この揃いの後、戎服じゅうふくを改めて宮へお越し下さい。君公がお会いしたいとおっしゃっている」

 まるで、水面に波ひとつない湖のような声だと郤缺は思った。趙衰ちょうしであった。何度か遠目から見た、痩せた男は、軍職でないため礼服を着ている。今まで、話しかけられたこともなく、それどころか近づかれたこともない。よくよく考えれば、重耳の近臣で近づいてきたのは胥臣しょしんであったし、重鎮は欒枝らんしだけであった。

「この後、戎服を改めてとなりますと日も落ちようとするころでしょう。君公は私に何を」

 戎服を改めろということは、一度家に戻り、礼服に着替えて参内しろということである。揃いは朝に一度、演習後一度行う。むろん、揃いはただ軍勢を集めるだけではなく、それぞれの氏、名、役職の確認でもある。つまり、それなりに時間がかかる。郤缺が宮城に向かう頃には日没に近いであろう。

 いや、しかし、それよりも、である。

ちょう子余しよ。君公は私に何を」

 郤缺は同じ質問を思わずくり返した。その声は趙衰の湖面に波紋ひとつ起こすことも無く、

「それを私が申すは僭越です」

 と深い水底から響くような声音で返される。不思議であるのが、趙衰がここまである種の冷たさと素っ気なさを見せるのに、そう感じない己であった。それは、そうだ。森の奥にある湖が己を遇しないと怒るバカはおらぬであろう。

 趙衰が見事なほど風雅な礼をとり、郤缺には戎服であるのだからと制する。するすると立ち去っていく最後、振り向きざまに

「郤主。あなたは士氏に見事に花をもたせた。それを他の者に気づかせぬは見事。今後、その生き方を選ぶのであれば、もう少し虚洞を持つがいい。まだ、詰まりすぎておられる」

 と、微かに笑って言った。ようやく湖にさざ波が訪れたが、郤缺はそれを典雅に楽しむ余裕は無かった。あくまで士氏が命じていると見せた働きが、少なくともあのうらなりのような男には丸わかりだっということだった。

 こうなると、重耳に会うのは気が重かった。重耳が郤缺の動きを知れば、不快に思うであろう。逆臣の子ということもあるが、越権行為でもあるからだ。胥臣も含め幾人かの近臣に囲まれ、重耳の糾弾を受けるかと思えば嫌気もさしてくる。そこに欒枝もいる事を祈るだけである。せめてあの男が助け船でも出せば良い、話を持ってきたのは彼なのだ。

 汗や泥を流し、礼服へ着替えると郤缺は夕餉も食わずに参内した。御者も食しておらず申し訳無かったが、彼は文句一つも無く

「主は君公に認められたのでしょうか」

 と無邪気に笑う。郤缺は微笑で応じるしかなかった。

 宮城で案内すると待っていたのは、なぜか、趙衰であった。本来案内するのは世話役の寺人じにんではないか。郤缺は首をひねった。それどころか、通されるのは謁見の間ではなく、重耳の私室ということである。郤缺はさらに混乱した。正式な呼び出しではないということとなる。扉の前で

「私はここにいますが、中のことは聞きません」

 と言って指さした。むろん、扉を開けるための寺人もおらず、郤缺は仕方無く己でそっと扉を開け、すべりこむように入った。視界に重耳が見え、郤缺は膝を落とすと床に手をつき拝首した。

郤文げきぶんが末、けつをお召しとのこと、喜び参上つかまつりました」

 重耳はどう返してくるのだろうか。郤缺のこめかみから自然に汗が一筋流れた。床に置いた手を、誰かが取り、持ってくる。誰かなどわざわざ言わぬでも良いだろう。晋公重耳である。郤缺は思わず顔を上げた。そこには、人の良い農夫のような素朴な笑みを浮かべる男が目の前にいた。

 ――誰だ、この男は

 顔の造形は確かに重耳である。しかし、君公として会った重耳は君主としての威厳があり、為政者としての冷たさも感じた。もしかすると暖かみもあったであろう。しかし、郤缺はその暖かみを感じたことはない。が、目の前にある笑顔は君主の笑顔ではなく、泥臭い農民の無邪気な笑みであった。

から聞いた。今日の揃いで士氏を助けたと。さすが郤氏の子だ」

 郤缺は阿呆のようにぽかんとした。この、気の良い田舎の親父のような男が、今まで見ていた君公とどうしても繋がらなかった。が、やはり一応君公である。郤缺は注意深く口を開いた。

「越権をし、士氏の兵を差配したが罪、甘んじて受けまする。士氏は私の身勝手な申し入れを聞いただけたのみ、彼らにおとがめは――」

 重耳が首を振る。

「士氏はああ見えて矜持が高い。他者の横車を許すまい。お前が頼まれたのであろう、缺。私は気づかなんだが、衰がそっと動きを教えてくれたのだ。言われればまさにそうであった。お主の差配にかいが合わせ動いておった。会は相変わらず賢い」

 士縠ではなく、士会と言う言葉に、郤缺はまさに蒼白となった。公的な、君公のいる場で郤缺と士会は年功序列を完全に無視していたのである。

「……士伯は真面目な人です」

 どう言いつくろうにも嘘にしかならぬため、郤缺は途方にくれた気分で、それだけを言った。おお、おお、と重耳が頷き、離れていく気配がする。見やると、己の席に座っていた。一段上のそこはまさに貴人の場所である。その前に、席が用意されていた。一段下であるから家臣の位置である、それはいい。しかし、真正面である。郤缺は不審さえ覚えるほど、ひるんだ。しかし、部屋には己と重耳以外の気配はない。無礼にならぬようすりすりと近づき、ふかふかとした席に座る。

「狐毛の席だ。私は羊でもいいのだが、舅どのが許さぬ。それどころか腋毛を用意しようとしたため、あわてて狐で良いとお願いした。狐の腋毛など贅沢すぎる」

 郤缺は頷くわけにもいかず、かといって否定するわけにもいかず、曖昧な笑みを浮かべた。重耳もそれがわかったらしく、返答は良い、と柔らかく言った。

「今日、おぬしの働きを聞き、今までの評判を聞き、私は良い臣を拾い上げたと思ったよ。その徳に相応しい旧領も渡せず、その力に相応しい軍も任せられぬ」

「我らの厄難がこの国にもたらしたものを考えますれば、仕方がないことでしょう」

 平伏し、かしこまって述べると、私の不徳だろう、と重耳がぽつりと呟いた。何がどう不徳なのか、重耳に何の責があるのか、郤缺にはわからぬ。わからぬし、それではと、重耳が郤缺の処遇を良くするとも思えなかった。

「それにしても、会は相変わらず良い。おぬしの差配を受け止め、さりげなくこくに示唆し、まるで士氏が下軍を支えているかの如き動きを見せた。私の車右をしていたときはすでに戦は終わっていたが、礼もあり才も見えた。で、あるのに今は無位無冠だ。缺、おぬしと同じで不相応な立場となってしまった」

 重耳が遠い目をして言った。郤缺は何も応えなかった。これは君公の独り言なのだと判じたからだ。事実、独り言だったのであろう。重耳は、さて、と気を取り直すように明るい声を出し、

「私は二十年の夷吾いごを知らぬ。帰ってみれば弟は既に死に、甥が晋公となっておった。……私は甥の死骸しか見たことがない。まだ若い、何も分かっておらぬような子供を撫でてやる余裕もなかった。缺よ。おぬしは私の知らぬ二十年の夷吾を知っておろう。私が知る弟は、すばしっこくて頭の回転が早く、ゆえに感じやすく少々危なっかしいところもあった。皆、弟をあしざまに言う。晋の荒廃を見れば仕方がないと私も思わざるを得ない。しかし、私の弟だ」

 郤缺は、ざっと脂汗が額から、腋から滲んでいくのを感じた。奥歯がガチガチと震える。試されているわけではない。この為政者は死に追いやった甥を本気で悼み、敵対した弟を懐かしんでいる。郤缺は小魚か小さな蛙にでもなってしまったかのような錯覚に陥る。

 ――目の前の、得体の知れぬ大魚に、己は吸いこまれ呑み込まれる

 ぞ、とした。これが、晋の全てを従え、列強のひとつ楚を平らげ小国を統べ、周王の代わりに号令をする覇者そのものなのだ。畏敬など吹き飛び、いっそ恐怖であった。本気で、死した弟と甥を悼む、素朴な農夫にも見える、柔らかい平凡な笑み。そこに嘘は無い。

 震える声をそのままに、

「恵公は、才君、ではありました。しかし、その才に少々振り回されており、我ら不甲斐ないながら諫める者も少なく――思うことが実にともわないこともあり、最後は世は悲しいと身罷みまかられた……」

「あれは心がそのまま出るところがあったからね。私は鈍くてなかなか顔に出ず心を気づかれぬゆえ羨ましかったが、そのまま大人になってしもうたか」

 重耳がため息をついた。郤缺はそれで終わるべきか、もっと続けるべきか。国中に広まる風聞を思い出し、ままよと話を続けた。

献公けんこうの妻君の件ですが――」

 恵公は晋君になり早々、なぜか父である献公の妻・賈君かくんを犯した。父はとうに死んでいたため寡婦であり、秦やさらに西方では父の寡婦を子が娶る風習はあったが、この国では異常なことである。犯された賈君は、己のかんざしを以て自害したという。常に身につけているもので死ぬということは、呪いをかけるに等しい。恵公は獣欲にまかせて呪われたと言っても良いだろう。

 必死に言葉を選んで郤缺はなるべく直截的にならぬよう、話した。どうも重耳の中で夷吾は少々の美化があるらしい。それを壊したくなかった。が、重耳は口に手をやり、肩を震わせると、くつくつと笑いだした。そのように笑ってしまう話かと、郤缺は立場を忘れて怒鳴りたくなった。陰惨な暴行の話なのだ。

 重耳は郤缺の重い感情に気づいたようで、手で制しながら、すまん、すまんと苦笑する。

「夷吾は子供の頃から賈君が好きで、花を届けたり、時には書を添えて詩を送っておった。まだ小僧の時だ。賈君も若かった。驪姫りき小姫しょうきより後により嫁がれ、彼女より身分の低い寵姫のために捨て置かれて寂しかったのであろう。年下の小僧の恋文を楽しんで、詩を返しておられた。夷吾は喜んでいたよ、己が賈君を幸せにするのだと。私はそういったところ、鈍感にできていて、心が浮き立つ気持ちが少しわからなかった。ただ、賈君は夷吾が好きなのではなく、恋文ごっこを楽しんでいるのだと返歌で思ったくらいだ。夷吾は無体に犯そうとしたわけじゃなく、長年の恋の成就のつもりだったのだと、私は今でも思っているよ。これは缺にだけ言うがね」

 滑稽な恋だったと、言外に聞こえ、郤缺は黙って床を見た。確かに、夷吾は血風収まらぬ晋へと凱旋のように入国した。秦公へ嫁いだ姉に、賈君を頼むと言われ、もちろんですと応じていた。それは、彼にとっての真の愛だったとしても、賈君にとっての真実は違っていたということか。戯れに遊んでいたものが、得体の知れない化け物となって現れ、人倫にもとる関係を迫る。献公の妃、賈公の娘としての矜持を考えれば、義子に請われ妻になるなど屈辱以外の何物でもなかったに違いない。彼女は、遠い昔、暇つぶしに遊んだ子供との恋文ごっこなど忘れていたのであろう。

「あの子は、長じても変わらなかった。変わろうとしなかった。最初につまづくと全て捨て鉢になるところがあった。いつもは弓は上手であるのに、時折上手く矢が届かぬと、そこから投げやりになったようにね、そんなところがあった。二十年間、夷吾は変わらず、それも気づかぬ、か」

 重耳がぽつぽつと少し悲しげに呟く。十二年間、舅の邑へ隠れ、そこから九年の放浪をしてきたこの為政者は、変わっていったのであろう。郤缺が父より聞かされていた重耳は、鈍くさく、素直であるだけが取り柄と言われてきた地味な公子であった。郤缺も言われるがまま、まっすぐ見ることもなくそう思っていた。

 その後、郤缺は甥の話を聞いたり、弟が大敗した秦との戦を聞かれたり、そして郤缺の日常まで気ままに問われることもあった。郤缺はいちいち応じたが、郤缺から話をもっていくことはしなかった。

 重耳は、かなりきわどいことまで聞くことがあり、郤缺は何度も言葉を選ぶはめになったが、郤芮げきぜいの話は一度もしなかった。郤缺も一度も『父』という言葉を言わなかった。

 そのうち、外から扉が叩かれ、

「もう、遅い。そのあたりで」

 と、趙衰のやはり湖のような声が密やかに聞こえた。重耳はそうよな、長く引き留めた、と笑顔で言った。それはやはり大魚のようであり、郤缺は腹の奥にまで呑み込まれる心地であった。そこから抜け出すように郤缺は退出した。

「君公があなたをお呼びすることは、もう二度と無いでしょう」

 扉の外にいた趙衰が帰り道を先導しながら静かに言った。

「郤氏が特別な扱いをされるなど本来ありえません。このようなこと二度とないのはわかります」

 郤缺は当然だと頷く。が、趙衰はそうではないと首を振った。

「君公は、私人として過去をもう見ることかなわぬ、ということです。君公になってからずっとそうでした。これからもそうです。しかし、それが続けば、黄河でさえ収まらぬあの大魚は窒息されるでしょう。ゆえに、申し訳無いがあなたを使わせて頂きました。君公が家族の話を胸襟開いて尋ね語ることができるのは、もうあなたしか残っておりませぬゆえ」

 つまり、郤缺は重耳の感傷に付き合うために連れてこられたのである。そして、それは重耳の発案ではない。郤缺に目をつけたのは趙衰である。

 趙衰の痩せた背中は、りんとし、どのような問いもねのけそうなたたずまいであった。が、ゆったりと歩く姿は、どのような者さえ懐にいれてしまうような柔らかさがあった。郤缺はどちらをとるかと考えて、前者をとった。なぜ己に目をつけたか、どうしてこのようなことをしたのか。それは郤缺が考えて正解を勝ち取らねばならぬと思った。そうでなければ、欒枝の言う、この男を越えるどころか、学ぶことさえできないであろう。

 そう考えていると、趙衰がふと思い出したような仕草で立ち止まり、後ろへとふり返った。

「郤主。もっと肩の力をぬけば良い。抜かぬと世界が狭くなる、見えるものが見えぬ」

 いったい、何を感じ取ったのか、こちらをどうしたいというのか、この男の深みはなんなのだ、と郤缺は内心茫然としながら、ご忠告痛み入ると拝礼をした。

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