第32話 夏日の太陽

 当然ながら、趙盾ちょうとんは泣きはらした顔を朝政ちょうせいに持ち込むようなことはしなかった。常の平坦な表情で議を打ち出す。むろん、

 次の晋公は誰にするか

 である。

「昨日、陽子ようしが秦におられる公子ようを推挙された。私は国を出られる前、遠目からしか拝見しておらぬが、人柄が良いとのこと。年も先君に次ぐため、充分でしょう。……文公ふくめ先君に目をかけられたと伺ったが」

「さようでございます。私は文公に任じられ先君のでございました。弟御の中で特に誰が目に適うかとお伺いしたところ、次弟の公子雍とおっしゃられておりました。また、文公も次男は見所がある、と」

 すかさず陽処父ようしょほが力強く言った。この時、五十に近かったであろうこの男は、見目が良いと言う評判どおり、男らしく闊達で知恵者の印象を与えてくる。

「下席から失礼致します。私が御者をしておりましたおり、文公はけい大夫たいふ御子おこに関してあまりお言葉を出されませんでした。しかし、陽子にそのようなお言葉を出されていたと、陽子は信に値すると思われていたのでしょう。そうであれば、私は公子雍に賛成いたします」

 荀林父じゅんりんぽが無邪気に褒めながら、焼夷弾を落としてきた。一気に、政堂が焼け野原であるが、荀林父は己の失言に気づいていない。真実に最も近い言葉を吐きながら、政治的勘が悪すぎるというのも考え物である。

 この発言は、文公に近い御者の荀林父が知らぬ言葉を、太子の傅という少し遠い男が何故知っているのか、という反論に近い。荀林父は正直に受け止め、己より陽処父が信頼されていたのだと解釈したが、余人はそうは思わぬであろう。

「……そうか。文公は陽子にだけ、公子の評をなされたというとこだな? そして、公子雍が良いと」

 趙盾の淡々とした言葉に、陽処父が必死にそうですそうですと頷いた。先都せんと箕鄭きていは陽処父はとうとう干されるのか、とにやついて見ている。また、狐射姑こやこも何故かニヤニヤとしていた。ここはこどもの遊び場ではないと、郤缺は頭を抱えたくなった。

「先君は御子を立てよと命じられた。私はそれを違えないが、今すぐとは申し上げていない。幼少の御子を立てないと決めたのだ、年が一番上というのであれば、公子雍が相応しいと思う。それで方々、よろしいか」

 郤缺も荀林父も頷く。先克せんこく派の先蔑せんべつは趙盾に恩を売りたいらしく、やはり頷いた。それを見た箕鄭、先都もしぶしぶ承諾せざるを得ない。彼らは趙盾が気にくわないが、しかし代案はなかった。

「いや、公子がくがよい」

 今まで黙っていた狐射姑が口を開いた。陽処父は睨み付け、趙盾も片眉をあげる。

「公子楽は公子雍より年がかなり下だが?」

 趙盾の選別基準は年齢である。が、狐射姑はせせら笑った。

「いや、民の安心も必要であろう。公子楽の母君は辰嬴しんえい。壊公と文公お二人の寵愛をお受けになられた。その子の公子楽も人に愛される良き君公になろうし、民も安心して従う」

 あまりの発言に、郤缺ふくめ、全員があっけにとられた。趙盾も一瞬目を丸くしたが、すぐに表情をおさめ、言葉を返す。

「辰嬴は后妃序列九位、一番の低さです。まず威儀無く格も低い。二君に寵愛を受けるは淫婦であり、公子も文公の御子でありながら小国のちんに収まっている気骨器量の無さです。安心して任せられぬ。文公の寵愛と言うのであれば、公子雍のご生母、杜祁ときは先君のご生母に位を譲り、季隗きかいに位を譲り、本来の格であれば第二位のかたであるが、后妃第四位になられた。ゆえにその謙譲と格をもって公子雍は大国秦へ出されている。まず、后妃の格、寵愛を並べても明らかであり、また、陳を頼みとする公子より、秦を頼みとする公子のほうが、先々良いと思われるが、次卿はいかがか」

 堂々とした正論であった。話に出てきた辰嬴は、元々恵公の子である壊公に嫁いでいたが、壊公が晋へ帰ってしまっため、今度は文公にめあわされた。文公も使を渡されて生理的な嫌悪があっただろうが、辰嬴はもっとみじめであった。己の夫の仇に、嫁ぐはめになっている。秦の穆公ぼくこうは人が好いが、このようなところは大雑把であり、また、秦が西方の異民族に近い感性を持っていたのが窺える。彼女は子を生みはしても、愛されなかったのが席次で出ている。惨いといえば惨い話であった。

 そして、とうとう子が政争の道具にされている。公子楽は不幸な生い立ちを反映するかのように、どうも本当に出来が悪かったらしい。

「いやいや、公子楽がよい」

 趙盾の正論を、狐射姑はもやは論も無く笑い飛ばした。幾度かのやりとりの後、さすがに趙盾も気づいた。これは、嫌がらせである、と。狐射姑は公子楽を推挙したいのではなく、議を邪魔したいのであると。ただ、何故そのようなことをするか分からず、意味の無いことをダラダラ垂れ流す狐射姑をじっと見た。この役に立たぬものは、何故無駄な会話をしているのか。趙盾にはどうしてもわからない。

 ――不毛だ。

 郤缺はため息をつきたいのを耐えた。狐射姑はこれでも趙盾に対抗しているつもりなのであろう。公子雍は陽処父が言い出している。その陽処父に迎合するように趙盾が議に出した。陽処父がおらぬと何もできぬ子供が、したり顔で国政に口を挟んでいる。狐射姑はそう断じているにちがいない。

 正卿せいけい次卿じけいの会話が途切れたのを見計らい、郤缺はさすがに口を挟んだ。

「末席から申し上げる。正卿、次卿どちらも重責なれど、ここはお二人のみの話し合いの場ではござりません。古来から議が割れたときは多い意見をとると決まっております」

 趙盾が、少し顔を緩めた。彼としてもその方策を考えていたのであろうが、己から言えぬ状況になっていた。論を重ねてしまったがために、それでは多数決、という言葉を出しにくくなっていたのである。この、理を優先しすぎる男は、このような理を無視した態度に弱い。といっても、趙盾を責めるのは酷である。国の重要事に嫌がらせをするなど想像もつかない。

 郤缺は他の危惧も考えていた。狐射姑が本気で公子楽を推し、己の政権を改めて握る夢想に浸っているのではないか、ということである。そうなれば、氏とちょう氏がそれぞれの公子をかかげて争うことになる。それはなんとしても止めねばならなかった。

 多数決は、やはり公子雍である。反対者は狐射姑だけなのであるから、当然であった。

「秦への使者は、正に先子せんし。副に士季しきとする。先子は勇を好むという。公子雍も勇を好むと聞いている。また、士季は車右しゃゆうでもある、戦でもっとも君公くんこうに近いのでお顔を最初に見せるのが良い。円滑に進めるよう」

 先蔑が、はしゃいだ声で拝礼した。郤缺は、この擾乱じょうらんに士会も巻き込まれるのか、と我が身もさながら同情した。荀林父だけが無邪気に喜んでいる。趙盾が先蔑を指名したのは卿でもっとも格が低く、政事にもたいして役に立たないため、使いっ走りをさせたのであろう。士会には対しては額面どおりに受け取ってよい。さて、この先蔑と士会、そして公子雍の件であるが、いったんわきに置く。今目の前の問題はなんといっても、正卿と次卿の亀裂であった。

 趙盾の差配で、先蔑と士会が旅立ったころ、狐射姑は舌を出していた。この次卿は郤缺の危惧どおり、権勢を改めて握る野心に取り憑かれている。狐射姑は、襄公の死と同時に、公子楽を呼んでいたのである。まともなさえ無かった公子楽は思慮が足りない。晋に帰れること、そして晋公になれるのだと有頂天になった。周囲も質の悪い臣しかおらず、それでは戻りましょうと確かめもせず出立した。

「どうも行き違いがあったようで、公子楽がお戻りになられる」

 狐射姑がせせら笑いながら、いやあ、困りましたなあ、と議に出した。政堂は騒然となる。公子楽が先に到着してしまえば、迎えねばならぬ。そうなると、晋公の席を渡す渡さぬの問答は起き、各国から嘲られるであろう。その上、そこに公子雍が帰ってきたら、下手すれば血の海である。

「次卿っ! それは差し戻すよう、使者を送るべきです! 我らは公子雍をお迎えするべく、準備をしている。公子楽には、国越えの前に戻られるよう、次卿から早く伝えなされ、あなたの責であろう!」

 陽処父が吼えた。趙盾の後ろから大声で怒鳴ったため、唾が趙盾の首にひっきりなしに飛んだ。それに不快さを表すことなく端然と座り続けるこの宰相は、やはりどこか異常ではある。

「陽子の言葉のとおり、賈季かきが公子楽のおもてなしをし、お帰りいただくのが正道かと思うが、なされないので?」

 陽処父が散々わめいたあと、趙盾は尋ねた。狐射姑が、

「私は次卿です。正卿がおもてなしされるのが筋でしょう。文公の公子です、それ相応のご対応をお願いしたい」

 とニヤニヤと嘲笑しながら返す。趙盾が頷き、ではそうしよう、と言った。

 卿一同は、目を見開いた。正卿が迎えるとなると、正式な手続きに近い。それは、公子雍から公子楽へ変更するということに等しかった。

「末席から、失礼する。趙孟、それはみなで公子楽を出迎えるということで?」

 郤缺が素早く聞いた。意図だけでも確認せねばならなかった。

「いいえ、正卿として趙氏と、公子雍を最初に推挙された陽子で出迎えする所存です」

 郤缺は、さようで、と言い引き下がった。狐射姑が首をひねり、そして陽処父を睨む。陽処父が趙盾を操って、何かをさせようとしていると考えた。陽処父は姿勢だけは正しく座っていたが、内心、何が起きるのかは分からず冷や汗をかいている。他の卿も、趙盾と陽処父が出迎えるのであれば、それは正卿と近臣の責であると何やら安堵していた。が、郤缺はざっと血の気が下がる思いであった。まさか、いやしかし、と必死に打ち消す。趙盾の態度は相変わらず薄い表情で淡々としていた。

 朝政が終わり、まず陽処父が趙盾に小声で話しかけてきた。

「私とあなたで公子楽をお迎えするというのは、いかがか」

 陽処父は公子雍にある程度わたりをつけている。ゆえに、公子雍、趙盾を手の内におさめ己が牛耳ってしまいたい。しかし、公子楽を推しているのは狐射姑である。陽処父が実権を握れぬどころか、狐氏によって政治は壟断され、追い出される可能性さえあった。ゆえに。

「申し訳ないが、私は公子楽をお迎えできる立場ではない。正卿が、趙氏がされるというのであればお止めせぬが」

「陽子は、私と共に来ないということか?」

 苦し紛れの逃げ言葉に、趙盾が少し不思議そうな顔を向けた。さようですね、と陽処父は思いきり頷いた。趙盾が少し考えるそぶりを見せたあと、

「わかりました。それでは公子楽の件は私にお任せいただくということでよろしいか。最後に聞くが陽子はこの件について、何か意見は?」

 常の通り淡々としている趙盾に、陽処父はようやく落ち着き、いまさら重々しく口を開いた。

「私はどこまでも公子雍を推挙いたします。ゆめゆめお忘れにならぬよう」

「……信念をつらぬくのはご立派です。それでは、ごきげんよう」

 丁寧に儀礼したあと、趙盾は去っていった。陽処父は、公子楽の件は全て趙盾の責になる、もし彼が下手を打てば切り捨てる口実ができたと胸を撫で下ろした。

 次に趙盾は郤缺に掴まった。珍しく渋い顔を隠さず、郤缺は口を開いた。

「お困りのときはご相談つかまつると、申し上げたでしょう」

 郤缺の視界で、趙盾が平坦な目を向けてくる。みな、この乏しい表情と平坦さに騙されているのだ。その奥にあるのは、焦熱といっていい火炎である。

「ご安心ください、郤主げきしゅ

 趙盾はゆっくりと、丁寧に礼をしたあと、薄く笑んだ。気を使われて嬉しい、という素直な笑みであった。

「今のところ、困ったことはございません。しかし、ご心配をおかけしたようす、陳謝を」

 と謝辞し、立ち去った。郤缺は、足早に歩き出す。しばしば面倒は見ていたが、ほどほどに距離をとっていた氏族たちに連絡をとらねばならぬ。これから何があっても、動くな、と。無事でいたいのであれば、郤缺ふくめ、動いてはならない。

 かくして、趙盾は公子楽を迎えることとなった。きちんと、晋の地に足を踏み入れぬよう、伝令も送っている。

「これでお帰りいただけるのが一番なのだが」

 馬車に座し、小さく息をついた。ため息をつく趙盾など、めったに無い。趙氏の傘下に身を置く臾駢ゆべんは驚きの顔を見せた。趙氏が勢揃いし、豪華な出迎えとなっている。臾駢は趙盾にとって、足らぬ武を担当している作戦家と言ってよい。趙盾でさえこの任は気が重いのか、と暗くなる。臾駢としても、公子雍を迎えるはずの己らが公子楽にかかずらっているのは馬鹿馬鹿しい。

「ご面倒なのですか、趙孟ちょうもう

 趙盾の隣にいる、十代半ばの少年が声をかける。臾駢は心臓が飛び出そうな思いであった。常に精励し勤勉な趙盾に向かって、面倒とは、とんでもなかった。しかし趙盾は、気を悪くした様子も無く淡々と口を開く。

「ああ。無駄なことは面倒だ。しかしね、覚えておいでけつ。無駄なことでもせねばならぬ時がある。お前は役に立つ良い子だ、じっくりと見学をし」

 厥とはかん氏の嗣子しし韓厥かんけつである。趙盾はその養育を任されもう数年は経っている。臾駢としては、小僧を大事な場に連れてくるなといいたいが、趙氏の絶対者が決めたことである。小者ていどが口出しできなかった。

「おそれいります、お帰りにならぬときのことですが、このようなものでよろしいかと」

 臾駢は布に書いた地図を出して見せた。どうせ趙盾にはわからぬのだが、自信作ではある。

「厥、どう思う?」

 趙盾はよりによって、小僧に聞く。趙盾以上に表情の薄い韓厥は、即座に

「おもてなしですが、来られたかた全員にですか?」

 と、問うた。趙盾が、そうだよ、と笑み応じる。韓厥に対する慈しみが見える笑みであった。

「それでは、若年ながら先達の構想に口をはさむこと、お許しください。私としては、この布陣ですと全員におもてなしするは足りませぬので、こちらの丘、そしてこちらの森に埋伏まいぶせを増やし、止まらず来られた方を前と後ろで挟んだ後、横に逃げるところを伏せた兵でもてなすのが良いと思います。そうすれば、来られた方々全てにご供応できますでしょう」

 臾駢は己の地図を見る。言われれば、成人前の小僧の策のほうが緻密であった。悔しさより驚きのほうが強い。趙盾が、いかがか、と問い返してくる。臾駢は、韓氏の嗣子が正しいと言わざるをえなかった。

「ではそのようにしよう。うまくいけば、なつめをあげよう、厥」

「趙孟。私はまだ子供ですが、幼児ではないです。もし頂けるのであれば、弓か書が適切かと思われます」

 拗ねたわけではなく、間違いを正すように、韓厥が言葉を返した。

 公子楽は、再三の『帰れ』を無視した。狐射姑に、帰れと言ってくる反対派もいるだろうが、晋の大多数は迎えている、と告げられていたからである。ゆえに、国境で入ってくるなと言われても、堂々とゆるやかに故郷の地を踏んだ。彼が己の間違いに気づいたのは、趙氏の軍が目前に迫ったときであった。逃げ出せば、後ろも囲まれ挟まれ、右翼左翼も閉じられ、そのまま死んだ。公子楽に付き従ったものどもも、塵芥のように皆殺しにされた。

 血臭漂う屠殺とさつ場で、趙盾は

「初めて見たが、意外に平気なものだな」

 と感心するように呟き、隣の子供も

「そうですね」

 と、無表情にむごい虐殺を眺めていた。

 公子楽と一行が、一人残らず惨殺されたと知り、狐射姑は顎が外れるほど口を開いた。趙氏の兵全てを使い、丁寧に殺し尽くしたという。狐射姑の知る趙盾は武に明るくなく、ただ正道だけを見て、やたら礼儀にしつこい青二才である。それが、このような勇猛をとおりこした蛮行をするわけがなかった。

「陽処父だ! あれがあのガキを操っておったのだ、我らの牙を抜き、罠にかけようとしておる。陽処父を殺せ」

 狐射姑が叫び、狐氏の家宰かさいがお任せを、と拝礼した。この瞬間、狐氏全体が恐ろしい暴力機関となった。現代で言えば、反社会的暴力集団に近い。

 むろん、陽処父も叫びたくなった。彼は、趙盾が公子楽を押しとどめ返すのだと思い込んでいた。がゆえに、失敗し足を引っ張られたくないとひそかに切り捨てたのだ。それがどうだ。彼は最初から、公子楽を殺すつもりだった、ということである。思い返せば、出迎える、迎える、もてなす、とは言っていたが、迎え入れるとは言っていなかった。わかるか! とわめきたかったが後の祭りである。

賈季かき……が」

 狐射姑は、陽処父を敵だと思い、趙盾を軽視している。陽処父も同じように趙盾を軽視していたため、自然己が目立っていた。今、狐射姑の脳裏には、陽処父が糸を引き趙盾にこの蛮行をさせたという小咄こばなしができているであろう。冗談ではなかった。

 陽処父は、全てを終え、政堂にやってきた趙盾を捕まえ、小声でまくしたてた。

「趙孟! なんということを、いや、もう過ぎたことはどうでもよろしい、賈季は怒り狂っておりますぞ、どうするのです」

 必死の形相の陽処父に、趙盾が少し不思議そうな表情を浮かべ、すーっと平坦に戻っていく。

「私は正道あるのみです。公子雍がよろしいと陽子もおっしゃっておられた。堂々となさってください」

「あ、いや、しかし、賈季は私を、誤解、し、私の身は危ういと」

 堂々もくそも、明日にでも殺されるかもしれぬのだ。しかし、陽処父の見栄が邪魔をして、殺されるので助けて欲しいとは言えぬ。しかし、陽処父と趙盾は二人三脚のように近い。第一、趙盾を正卿に推したのは陽処父である。趙盾もそこはわかっているにちがいなかった。

「先日、陽子は私と共に来ぬとおっしゃられた。まつりごとは群なさずお一人お一人が立つこと、もっともだと思いました。私は正卿であれど趙氏の長、氏族のことはよくわかっています。他家には口を挟んではなりませんからね。良き教えをありがとうございます。朝政が始まりますから、行きましょう」

 ――それでは、ごきげんよう

 いつかの挨拶が陽処父の頭によぎる。典雅な仕草で席を指す趙盾に、陽処父は引きつった笑いのまま、着いていくしかなかった。一度突き放したのは己である。趙盾は手の中にあるかぎり、全力で愛し守る男であったが、拒絶するものをわざわざ追いかけるお人好しではなかった。

 陽処父は、狐氏の男に殺された。その死体は宮城への大通りに捨てられた。正式にさらすなら市に放置するが、暗殺であったので道に放置されたのであろう。後年、陽処父は『剛毅だが、知恵の無さを殺されることにより、その身で証明した』と評されている。評したのが趙盾の孫というのは皮肉というべきであろうか。

 狐射姑は我が身の春を謳歌していた。少なくとも趙盾は、陽処父殺害に関して、強い追求はしていない。やはり操り人形め、と嘲った。しかし、狐射姑はわかっていなかった。趙盾は単に、傘下の君主が襄公の葬式に来ていたため、余事を放置していただけである。

 陽処父の死から約一ヵ月後、狐氏の男は殺された。今度は正式であると言わんばかりに、市に三日死体をさらしたあと、わざわざ狐射姑に送ってくる。

「先公の傅を殺害した罪重く、また、いまは君公がおられませんので正卿の責としてりくし晒したものです。しかし、氏の許しなく処罰したは無礼かと思い、後になりましたが、お許しいただきたい所存です。また、同様の企みのものがおられましたら、狐氏の長として、責をとらせるようよろしくお願い申し上げます」

 使者からの手紙に、狐射姑は悲鳴をあげた。ようやく、己の敵は陽処父ではないと知ったのである。殺してまだ一ヵ月である、どこでどうつきとめたのか、狐氏に打診もなく殺してしまうとは、激しすぎると、武でならした狐射姑さえ、蒼白になった。しかも、脅しつきである。同様の企みの責をとれ。次はお前だ、という意味でしかとらえられぬ。

 狐射姑は、その場にいた手勢のみを引き連れ、晋から逃げ出した。家族含めた一族を置いていったのであるから、無様この上ない。もはや敗残に近く、狐邑こゆうに帰ることもできぬ。狐氏は柔弱さを嫌う。飛び込んでも追い出されるか、最悪殺されるであろう。狐射姑は別のてきへと逃げ込んだ。元々狐氏は狄である、狄に戻ったとも言えた。

 趙盾は狐射姑の亡命を知ったあと、

「それでは、賈季の一族を送り届けねばならぬ。すみやかにお願い致します。財物もお持ち頂くよう差配しなさい」

 と、臾駢に命じた。臾駢は狐射姑に恥をかかされたことがある。復讐の機会を貰えたのだと内心喜んだ。送るふりをして、殺して良いのだと思い、弾む声で承りましてございます、とぬかずいた。

べん

 ふと、霜を踏むような声が聞こえる。常に平坦なはずの趙盾の息が吹雪のようにも感じた。

「私は正卿であり、趙氏の長でもある。晋の威信、趙氏の矜持にかけ、お一人も漏らさず、無事に送り届けるよう」

 臾駢は、頭を上げることが怖く、しばらく下を向いたまま、仰せのままに、と必死に呟く。ふっと、空気が軽くなったが、それでも頭を上げることができなかった。下がれ、と言われ、ようやくそそくさと辞した。趙盾は臾駢よりはるかに若い。そのような若者に顎でこき使われるのか、と笑うなら笑えと言うしかない。若いからどうした、狄の邑で育ったなど、どうでもよい。あれはもう化け物なのだ。逆らえば潰されるだけである。――臾駢は粛々と狐氏を狐射姑の元に送った、一人残らず。

「役に立たぬものが、二つは無くなった」

 趙盾は脇息にもたれながら、小さく呟く。己に才は無い、ゆえに務めるのみ。これからも、晋のために務めつづけるのみである。


 後日、狄の長が狐射姑に、

趙衰ちょうしと趙盾はどういった者か?」

 と問うた。

「趙衰は冬日とうじつの太陽、趙盾は夏日かじつの太陽」

 と狐射姑は答えている。趙衰は冬の日の太陽のように寒さを和らげ優しく照らしてくるが、趙盾は夏の日の太陽のように、全てを焼き尽くす、と言いたかったのであろう。

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