第31話 長い夕暮れ
結論から言う。
初夏に倒れた驩は元々罹患して長かったのであろう、みるみる衰弱していった。それでも
「続けよ。秦に対してだ。前の戦で
殽は晋秦間の要害と前述した。河は黄河のことであり、秦とは黄河沿いの競り合いが多い。防御に強い砦を造ると言うより、相互連絡する有機的なものを造れとも言う。このあたり、驩はやはり武に強いと言えた。吐いた血を布で拭うと、瀕死の君主は息をつく。目だけはぎらぎらと光っていた。それが天命に逆らうものではなく、消える寸前に燃え上がる最後の炎であることを、部屋にいるものは誰もが知っていた。
朝政であるが、驩の私室でもある。枕元に正妻の
趙盾は主君が続けろと命じたことに忠実であった。咳き込み吐血をくり返す驩に奏上し、取り決めし、最後に
「お世継ぎをお決め下さい。我が君はもう長くありません」
と無慈悲な通告をした。穆嬴が、ヒッと小さく悲鳴をあげ、生きて下さい、生きて下さい、と意味なくくり返し始める。驩は不快にも思わず、そうか、と返す。一年半ていど、この男と過ごしてきたのである。彼は無慈悲なことは言うが無情ではない。必要であることをまっすぐ言上するだけである。それが驩を冷静にさせていった。ゆえに、冷静に驩は口を開く。
「我が子、
小さな声を聞き漏らすまいと傍に寄っていた趙盾は、眉をかすかに
「
趙盾の真横で、近臣の
「……どうも、
「我が君の
心底軽蔑した声で先都が返す。その声は、陽処父や驩には届いていないが、近い場所の
郤缺はくちばしからピーチクパーチク出てくる雑音などどうでも良かった。問題は驩の言葉である。
「
趙盾に向かって口を開くと、すぐさま
「許そう、
と静かな声で返ってきた。この男は、動揺を見せるということは無いらしい。郤缺はそれではと言葉を続ける。
「おそれながら正卿に申し上げまする。君公の御子は御年やっつ、ようやく傅の教えを受け始めたころでしょう。今、我らは外難と内難の双方を相手取り、我が君がいてさえも苦労しております。新たな君公が幼年であれば、他国は侮り、民は不安を覚えるでしょう。文公の御子、君公の弟御は、
取り次ぐも何も、目の前に驩はいる。が、郤缺は趙盾への発言を許されていても、君主への直言は許されてはいない。めんどうな茶番でもあった。
「我が君。郤主の言うこと、最もです。
趙盾は手短に聞いた。もう、驩はこときれると感じていたのであろう。驩は、頑固にも首を振り、趙盾の服に腕を伸ばし、しがみついた。
「いや、私の子は汝に託す、
溢れる血そのままに、歯を赤く染めながら驩は脅迫めいた遺言をした。彼はわがままであったろう。しかし、もうひとつの真実を知っている。驩の父は、前公の息子を殺して戴冠している。他国に逃げたならともかく、本国で捨て置かれた公子に生きるすべが無いことを、驩は肌で知っていた。
彼なりの、晋を安んじる方策であったのであろう。誰が君主であっても、国を回せ。そういうことである。
が、卿らは戸惑った。幼少の君主をかかげた国は、たいがい終わりが良くない。郤缺は、驩の言うこともわからぬでもなかった。父は文公より恵公の息子である若年の壊公を選んだ。
「――私は、それは得策とは思えませぬ。しかし、君命であれば務めましょう」
遺児を託すというものは、相手へ多大の責を背負わせると共に、最大の信頼の証でもある。それをぶつけられれば、趙盾もそう返すしかなかった。驩は少し不満げな顔をした。趙盾は頷いていない。それを一考する、と応じただけである。が、傍らの穆嬴は、己の子が君主になると内心ときめいた。彼女には政治の機微などわからぬ。後、これが不幸につながるが、今は据え置く。
「……あとは、卿らに託す。私は少し疲れた」
その言葉を最後に、驩は息を引き取った。四十を超えたかどうかの年であったろう。幼い頃に父は旅立ち、母と二人で心細い少年期を過ごした。青年となり偉大な父に羞じぬよう努めた。勝利もあったが、掴めぬものもあり、取りこぼしたものもある。肌に合わぬ責務を徒労と言われてもやり続け、最後まで君主としてこき使われた。この男は父の影に隠れ、後世、見向きもされぬことが多い。失態も目立ってはいる。しかし、晋の激動期の最後として、父の残した宿題から逃げなかったことは、評価されるべきだと、筆者は思う。
驩の諡号は
「
散々それを奪ってきたのは趙盾であったが、みな頷いた。しずしずと卿や近臣が帰っていく中、荀林父が庭へと歩き出す。それをなんとなく見ていた郤缺と目が合い、荀林父は顔をくしゃくしゃとした笑みをみせた。
「帰っている間に泣き出しそうですので、庭で、たくさん泣く所存です。おはずかしい」
郤缺は首を振った。
「人が死ねば、悲しいものです。まして君公です、恥ずかしいことなどございませんよ。宮にある秋の庭も良いものです。
荀林父は郤缺の優しい言葉に、ほっとした表情を見せ、歩き去っていった。郤缺は、襄公の死に対して悲しさが無いことに気づいた。恵公、文公、襄公と三代仕えたからか。それとも、人の死になれすぎたのか。いや、これは。
「私はかの公に情が無い。ついぞ、君公に期待することが無かった」
己でも薄情であるとわかっている。誠意を以て仕え、職分のできる範囲で献策もしてきた。しかし、郤缺は襄公に何も期待していなかった。武が少しできるだけで、政治的無能者であると切り捨てており、それをどう支えて見栄えよくするか、が命題で、育つとも思っていなかった。実際、政治的勘を育てようがない。即断をやめろと
「荀伯は君公に期待されておられた、ゆえに惜しまれておられる。私に透徹は遠く、敬も無いようです、見込み違いですな
みな帰り誰もおらぬのだと、郤缺は回廊で冷笑とともに呟いた。が、目の端に何かがよぎった。
趙盾の後ろ姿が、庭に消えていった。荀林父とは違う方向である。無駄なくすぐに帰るのが彼である。数ヶ月前、郤缺を呼び止めたのが珍しかったのだ。郤缺は何やら胸が騒ぎ、そっと追いかけた。何をするかわからぬが、何をしでかすかわからぬのも趙盾である。
姿勢正しく歩いていた趙盾は、ふと庭の隅で樹に向かい、幹に拳を叩きつけた。郤缺はすぐさま振り返り、立ち去ることにした。後ろから嗚咽が聞こえてくる。ガリガリと木の皮を削る音は、泣き崩れているからであろうし、そこからは嗚咽ではなく号泣であった。
――あれは人を好きすぎる
趙衰がかつて言っていた。普段の趙盾を見れば、それは親の欲目ではないかと一笑に付すであろう。しかし、趙衰はそれを欠点として捉えていた。郤缺も、そう思わざるを得ない。あの男は人を好きすぎるが、同時に人を道具と見る。その
「不器用な男だ」
見なかったことにして、郤缺は歩き去って行く。男が一人で隠れ泣こうとしているのだ、きっと己の家でも泣けぬと思ったのであろう。そっとしてやりたかった。
郤缺もそして隠れていた趙盾も想像しなかったことであるが。
なんと、同じようにしくしく泣きながら、こっちはうろうろしていた荀林父が趙盾を見つけてしまった。ちょうど号泣していた趙盾は、話しかけられぽかんとし、すっと表情を無くして
「お見苦しいところを、」
と礼儀正しく挨拶をしようとした。しかし、荀林父が
「私も君公が
と半泣きで無邪気に言うものであるから、趙盾は荀林父の肩を借りて泣いた。荀林父は趙盾の恐ろしく危うい性質に気づいていなかった。それが幸いであったか不幸であったか。この時点では語れない。
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