第33話 旅立ちのとき

 この項では、話を幾度か巻き戻すことになるため、ご容赦願いたい。筆者としても混乱せぬよう努める所存である。

 まずは、郤缺げきけつである。彼は趙盾ちょうとんが公子がくを『正卿せいけいとしてちょう氏でおもてなしする』と言った瞬間に、

 ――滅する気か

 と悟った。それを一度考え直せ、という意味で

「お困りのときはご相談つかまつると、申し上げたでしょう」

 と半ば詰問したのである。趙盾は額面どおりに受け取ったのか、裏もわかっていたのか。郤缺の手をさらりと払いのけた。どちらにせよ、介入不要との宣言であり、なおかつこれ以上詮索するなという牽制でもある。郤缺はすぐさま邸に戻ると、欒枝らんしより受け継いだ氏族らに使者を送った。口頭でなければ、証拠として残る可能性がある。使者に託した言葉は短い。

「この先、何が起きても動かぬよう、乱は無くとも騒ぎは起きる」

 と同時に

「これ以上知らぬほうがよいが、どうしても知りたいのであれば我がげき氏の元へ来られよ」

 という文言である。知らぬ存ぜぬで己を守るならそれで良し、首を突っ込みたいならどうぞ、という意味である。このあたり、郤缺は欒枝より積極的であると言ってよい。欒枝は頼ってきた氏族にそのまま黙って守られてろ、という態度であった。勢力の大きさもあったのであろうが、彼としては小者が下手に動く害のほうを警戒したのであろう。文公への援助という冒険はしたが、欒枝の本質は保守的政治家である。

 しかし、郤缺の力は低い。けいであるが軍も率いぬ末席であり、郤氏の生き残りが帰ってきたと言っても領地はゆうひとつで兵数も少ない。ゆえに、欒枝のように、大きな手の平で守ることなどできぬのだ。各氏族が己で身を守るよう、郤缺は指図せねばならなかった。

「いったいどういうことであろうか、何が起こるのです」

 それぞれ儀礼はしているが描写は省く。郤缺の元に一目散でやってきたのは、娘を郤氏に嫁がせた氏族たちだった。彼らは、少々郤缺に近い立ち位置となっている。むろん、このていどの繋がりで互いに罪を分け合うことは無いが、やはり心配だったらしい。郤缺は、集まった氏族をいなすように、笑みを浮かべてゆったりと話した。

「これはまつりごとの秘に関わることですので、細かいことは言えませぬ。ひとつ言えることは、ちんから侵入者有り、軍は出さず趙氏が武を行使します。この件で氏と亀裂が少々入っている。正卿はそれを力づくで終わらせる可能性が高い。あなたがたの中に陳と繋がりあるものはおりますか?」

 内容は一刻を争うものであったが、郤缺の柔らかい態度に氏族の長たちは、ほっとため息をつく。状況が緩いと思ったわけではない。ただ、せわしい気持ちが落ち着いたのである。

「この中にはおらぬが、私が昵懇じっこんとしている氏族であれば、陳の貴族に姉が嫁いでるものがおる」

「そのかたに陳への使者を出すようお願い申し上げたい。ふみは私が書きますゆえ、それをお持ちいただければよろしい。末席の卿、郤氏の主としての書ですので、陳公にお手元に届けることは不敬ではないでしょう。お伝え願えぬか」

 郤缺が丁寧に拝礼し願うものであるから、言い出した氏族はまんざらでもない顔をして、お任せを、と言った。郤缺は、もちろん政治的な計算で頭を下げたが、人に頼む時は本気で頭を下げるべきだという己の理念にも基づいている。このあたり、自然と人に敬を見せる男であり、結果、人望が高くなる。郤缺自身は己に人間的魅力が乏しいと思っている。士会や欒枝のようなかわいげは確かになかったが、言葉と態度だけで信用される逆臣の息子、というのは彼以外いない。

 陳は晋の傘下にあるが、地勢はに極めて近い。何かあれば楚の圧迫に負け背く国である。ゆえに、こまやかに対応してやらねばならぬ。ことは急ぐ必要があった。

 趙盾が公子楽を虐殺しつくしているころ、陳公の元に公式ではない書が届いた。が、大国晋からのものである。

「晋と陳の間に信頼あり誓いあること嬉しく思います。しかしながら、そちらにお預けしていた公子楽が何者かにそそのかされ我が晋を陳の兵と共に侵しているむね、ご存じでしょうか。我が文公の大切な公子であられますので、陳公としても心くだいておられたでしょう。覇者である晋にことわりもなく兵をお与えになり、反旗をひるがえすはかりごとをたくらむなど、そのような蛮行を明察な陳公がお指図するとは思えませぬが、もしご承知の上で公子楽のお見送りをなされたのであれば、我らも一考せねばなりませぬ。むろん、そのようなこともなく、公子楽が勝手に陳の兵を奪い我が晋へ侵攻したのだとわかっておりますが、念のためご連絡した次第でございます。ご面倒見ていただいていた我が文公の公子がこのような結果になって残念でなりませぬが、我らの誓いに変わりないことお示しお願い申し上げます」

 丁寧な恫喝である。お前の監督不十分で晋の公子が死んだ、陳は晋に思うところでもあるのか。釈明せねば次はお前だ、である。陳公もその近臣たちも震え上がり、即座に

「公子楽はお止めしたが、勝手に我が兵を奪って晋に向かった、内通者は知らぬ」

 と返し、晋への帰属は変わらぬと必死に訴えてきた。文面だけなら半泣きに近かった。それを受け取った郤缺は、ひとまず良しと頷いた。氏族はそれぞれ他国とどこか繋がっている。郤缺の妻も他国から来た。そのようにして、各国は情報網を引いているため、このようなやりとりは珍しくはない。ただ、

 ――これが氏族を手に持つということか

 と郤缺は改めて思った。欒枝が持っていた情報のは己の一族と、そしてこの氏族であったろう。そのつるの一部を欒枝は郤缺に遺した。大切にせねばならず、そして無駄にはできなかった。

 趙盾が内国を見て虐殺と暗殺の応酬をする後ろで、郤缺は他国への慰撫と恫喝を同時に行った。趙盾としては、公子楽の件は晋の話であり、他国に関係無いとしたのであろう。それは理として正しいが、情としてはわからぬ。陳国が不快に思い、楚に身を寄せ始めれば、君主不在の晋は後手にまわざるをえない。一滴の水もこぼれぬほどの注意が必要なのが外交である。

「あとは、しんか」

 郤缺は、陽処父ようしょほが死んだという知らせを聞きながら、小声で呟いた。

 さて、秦には公子ようがいる。こちらを晋公へ立てるべく、趙盾は先蔑せんべつ士会しかいに迎えに行くよう命じている。話が二転三転するが、一旦二人の出発前、つまりは公子雍を迎え入れるという閣議決定まで遡ることとする。ゆえに、まだ、趙盾による虐殺は起きていない。

 士会は車右しゃゆうとして公室の軍を調練し、新たな領地である随邑ずいゆうを切り盛りするなど、ほどほど忙しい。そのような時に、呼び出され

「次の君主は公子雍とするので、正使先蔑と共に副使として秦へ行き連れて来い」

 と、命じられた。言葉はもっと仰々しいが、簡単平易に言えばこれである。呼び出された政堂の空気はあまりよくはない。狐射姑こやこが趙盾をバカにした顔でニヤニヤとしている。襄公のであった陽処父も趙盾を軽視する態度であり、己が宰相であるという顔をしていた。先都せんと箕鄭きていは気もそぞろ、先蔑は正使が己だと気合いが入りすぎて軽々しい。

士季しき。副使として新たな君公くんこうに最初にお目通りされること、謹んでお喜び申し上げます。そして、大変なおつとめとなります、大変でしょうがよろしくお願いいたします」

 無邪気な言祝ことほぎをする卿がひとりいた。文公の車右時代、御者として共にいた荀林父じゅんりんぽである。相変わらずの御仁である、と士会は笑いそうになった。

荀伯じゅんはくの言祝ぎの言葉、心より御礼申し上げます。私のような貴きものでない立場で公子をお迎えする務め、非才なれど務めようと思います。もし、公子が君公となられるのであれば、車右としていっそう励む所存です」

 士会の言葉に郤缺が少し冷たい顔をしたあと、柔らかな笑みを戻す。よほど緊迫していない限り、政堂の郤缺は柔らかく笑んでいる。実のところ、彼が感情そのままの顔をさらしていた相手は欒枝くらいであった。それはともかく、郤缺の態度に、士会はコノヤロウ、と内心思いながらしずしずと卿らに拝礼し、政堂を辞した。細かい沙汰は後である。命を受けた時点で士会の用件は終わっている。

 朝政ちょうせいが終わる時間を見計らって、士会は郤缺の邸に強襲した。すでに書で知らさぬでも往き来する仲である。が、この時は訪問というより、攻め込んだと言ってよい。郤氏の人々をふりきり、門で待っていたのである。ようやく帰ってきた郤缺は

匹夫ひっぷか」

 と呆れながら言った。

「囲まれると分かって敵の砦の中に入るバカはいない」

 士会が、少々軽蔑したような声で言う。郤缺は素直に降参と、両手を少し上げた。郤缺の邸の中で待っているうちに郤氏の空気に囚われはぐらかされたくない、ということである。郤克を使われたら士会も『あっちに行け』とは言えない。主が嗣子ししを呼ぶのだ、客が追い払うこともできぬ。

「今さら場所を変えるつもりはない。しかし、もてなしはいらん。今日は郤孟にも会わん。いっそ馬小屋でも良い、あんたと二人で話す」

 鋭い声に、せめて室にしてくれ、人払いをする、と郤缺は答えるしかなかった。士会には、このまま本当に馬小屋へ連れ込む勢いがあった。

 士会の用件は極めてわかりやすかった。

「なんだ今日のあれは、きなくさい」

 現状の政争など噂でも聞いてもおらぬであろうに、一刀両断である。が、郤缺は一応礼儀として聞いた。

士伯しはくから何か聞いておられるか」

 郤缺がわざと尋ねてきたことに、士会は苛立ちを見せる。

「聞いているわけなかろう。兄は今、法と実情をつき合わせるのでせいいっぱいだ。氏の矜持にかけて、ちまちまと調べ上げている。趙孟ちょうもうはうまくやる、兄は卿になるなれないなど考えてられなくなった。わかってて聞くのは悪趣味だ」

 趙盾にそのつもりはなかったのだが、結果的には政敵を一人追いやったこととなる。まあ、趙盾のことであるから、役に立つところに置いた、ていどなのであろう。

「口に出さねば互いの尺度がわからぬ、許されよ。特に汝は私に説明はいらぬと勘違いしている。私は非才だ」

「尺度はわかった。あとあんたは非才じゃないだろう。そしてわたしを特別扱いしないでほしい。いや、そんな問答はいらぬ。今日のあれだ。公子雍のお迎えを嘉事としている空気は無かったぞ、荀伯はあれは特殊だから数えぬ。人のなかに野ウサギがいるようなものだ。あんたも嘉事とは見ていない」

 郤缺は、野ウサギという言葉にうっかり笑う。士会は何を笑われたのかすぐに察し、同じく笑った。

「あの御仁は昔から、警戒心のない野ウサギのようなところがある。見てて楽しいが時々射って皮を剥ぎたくなるな。話がそれた。また公子を担いで殴りあいでもあるのか」

 今日の政堂の空気だけで、察しそこまで掘り下げるところが、特殊なのだと言ってやりたかったが、そうなるとまた本題からそれる。郤缺は口を開いた。

「公子を担いだ騒乱があるとして、汝はどことどこだと見た」

「まず狐氏。賈季かきは議そのものを舐め腐った態度であった。公子雍の擁立を喜んでいるのであれば、皆を睥睨へいげいし嘲弄し、わたしを全く見ない、ということはなかろう。己が推し進めていたことが成功するかどうか、人はじっと見る。あのものが公子雍を頼みとするなら、わたしを見たはずだ。一度目をよこしたあとは、他者をせせら笑う仕草をするか、陽子ようしを睨み付けていた」

 季節は秋であったが、部屋に籠もっていると少し汗が浮いた。士会は思わず袖で額をぬぐう。匹夫の仕草そのものであったが、郤缺は注意しなかった。

「賈季が陽子を睨み付けていた、ということは陽子が公子雍を立てたがっている。実際、あの男がわたしを見る目は期待にあふれていた。わたしの働きを期待しているわけでなく、わたしが運んでくることを期待しているのだろう。問題は趙孟だ」

 一気に士会の顔が苦くなる。郤缺は、少し身を乗り出した。士会は、外面は礼儀正しい。仲が良くなれば好漢の顔をする。が、ここまで苦々しい顔を見せることはなかなか無い。士会が趙盾と会うのは車右の任命以降久しぶりであるし、それ以前は対面したことさえない。士会が趙盾に何を見たのか、状況の重さはさておき、郤缺は好奇心を持った。

 士会はその好奇心も気づいた。士会にとって郤缺は頼もしい年上の友であるが、少々悪趣味な性質があると思っている。そういうところだ、と大仰にため息をついたあと、強い口調で話しだす。

「あの男が鈍感と言っていたな。わたしもそう思う。しかし、あの鈍感さは不器用というだけではあるまいよ。あの男、わたしを見た時にこちらの軽重を計りやがった。その上で、わたしならできると判断して話をすすめやがった! わたしに公子雍の軽重を計れ、できるなら良し、たいしてできぬとも面倒は見るから連れて来い、という顔だ。連れてきて欲しいなら素直にそういう顔をしろ、なんだあの男は。他に良き駒がいたら公子雍は捨てられるぞ」

 郤缺は、言葉もなく黙り込んだ。士会は郤缺が分かってて呆れて黙ったのだと勝手に思ったが、もちろん違っている。言われて気づいた、趙盾は公子雍を唯一と思っていない可能性、である。趙盾の選別基準は前述したが年齢である。公子雍は襄公のすぐ下の弟であり、文公の年齢も考えれば、低く見積もっても趙盾より少し年上と思われる。それより下になれば、成人するかしないか、となっていく。公子楽にいたっては、辰嬴しんえいとの子であるから、成人さえしていない。――趙盾は十代の何もわからぬ少年を虐殺することになるのだが、それはさておき、である。郤缺はすぐ我に返って口を開いた。

「趙孟は確かに公子雍を推されている。一応大国秦が後ろにいる、お血筋の格が高い、そして文公襄公に見いだされていたなど表看板を出しているが、単に最も年齢が高いという理で決めた。性質や格の見えかたは人によって違うだろうが、年というものは揺るがぬ。ゆえに、その柱が壊れるようなことは、よほどでなければ無い」

 たとえば、ありえぬが公子雍が拒絶すれば、無かったことになる。そのくらい、趙盾の軸は強い。

「……わたしの知る文公は臣にしても御子おこにしても、特別誰かを褒めるなどなかったがな。むろん、目の前にいて功あれば褒める。しかし、陰で褒めるもけなすもない。わたしは表だって特別視せぬ方と思っていたが、まあわたしが車右をしていたのも長い期間ではない」

 首をひねりながら、士会が荀林父とほぼ同じことを言っている。やはり、と郤缺は思った。

「誰が、その話をした、荀伯か」

「陽子だ」

 士会の問いに郤缺は即座に返した。士会は驚く顔もせずしょうもなさそうに、やはり、と呟く。郤缺もきっと同じ顔をしているであろう。陽処父はあけすけなほど野心を押し出し、あらかじめ用意していた公子雍をいけしゃあしゃあと出している。襄公が死ぬ前から工作していたと考えて良かった。

「狐氏と陽子では、話にならん、狐氏が圧迫して終わる。しかし、陽子は趙氏に寄生している。手を出したら趙氏が相手をすることになる。泥沼だな。公子雍がこの泥沼の中に来られる御仁かどうかわからんぞ。そこでごねて、趙孟が周都にいる公子にしよう、などと言い出したら目もあてられん。あちらのほうが公子楽より年上だったはずだ」

 そこまで言い切った後、士会は床を拳で叩いた。

「行きたくない! 命じられたから、行くが! 行きたく、ない! せめて賈季の件が片付いてから行きたい! が、時間が無いのも確かだ。その意味で行かねばならぬが、きなくさい! いや、命じられたからには本気で勤めあげる所存ではあるし、手は抜かぬが」

 駄々をこねるように言い切ると、士会は郤缺をはた、と見据えた。

「乱の兆候あれど、文公にならい速やかに晋に戻られるよう、公子雍に進言はする。逆に言えば、そのくらいの気骨はほしい。文公恵公ともに血臭ただよう晋に戻られた。我が晋は覇者でもあるが虎狼でもある。その上に立つのだ、まだ見ぬ公子であるが気骨を期待してもよかろう」

 文を最も重んじ、人であることを誇りにするこの文明ににおいて、虎狼は褒め言葉ではなく罵倒である。それを己の国に対して言ってのけるのであるから、士会は自分と外の平衡感覚が極めて高いと言えた。郤缺は虎狼という言葉に片眉をあげたが、何も言わず頷く。未だ言葉の上でしか存在していない公子雍の生身が来なければ、話は始まらないのだ。

「あと、せめて荀伯と行きたかった。野ウサギと一緒が良かった。先子と行くのは正直気が重い。なんというか……いや、これ以上は陰口になる、聞かなかったことにしてくれ」

 郤缺は、微笑を浮かべ、聞かなかったことにしよう、と返した。言わぬでもわかることである。士会の顔に、バカと行きたくない、と書いてあった。士会から見れば大多数がバカなのだと教えてやろうかと思ったが、やめた。

 そのころ、である。荀林父が先蔑を尋ね、

「行かぬほうが良いかもしれません。正卿に上申されてはいかがでしょう」

 と言っていた。荀林父と先蔑は共にてきの備えをしており、いわばかつての同僚であった。特別仲が良いわけではなかったが、昔のなじみというものである。

「なにゆえだ。お前も士季に言祝いでいたろう」

 先蔑が苔桃こけももを差し出してくる。荀林父は手で制した。一つはいただいたが、とにかく酸っぱいため、もういらぬ。先蔑が美味いが、と呟いた。

「苔桃は今はいいです。士季の挨拶を見ているうちに、ふと思ったのです。まだ先君の夫人である穆嬴ぼくえいや、公子がおられます。外に出されたあとならよろしいですが、先君のご家族が晋の中におられるときに、秦から公子雍を、あなたが迎えにいってもうまくいかないのではないでしょうか」

 荀林父が不安に思ったのは、士会の言葉であった。

 ――もし、公子が君公となられるのであれば、車右としていっそう励む所存です

 士会は迂遠な決断など言わぬ。公子が君公になると確信していたのであれば、新たな君公、とはっきり言ったであろう。荀林父の知るあの車右は、とにかく目端が利いて頭が良い。たとえば文公が水を飲みたいと思えば、それを口に出す前に用意している。常に文公だけを気にしているというわけではなく、全てにおいて観察力がおかしいほど鋭かった。そのような男である。あのような消極的な言葉を言う理由が、政堂にあったのであろう。が、非才な荀林父にはそこはわかりかねる。ゆえに、己で一から考えたのである。荀林父の美点は人や物事を見る鋭さと、常識に則った思考であった。そこに政治勘の無さが足されると台無しになるだけである。

「私はあなたが病気などを口実に使者の役を伸ばされるのが良いと思います。その間に私は正卿に、穆嬴と公子を他国へ移すよう進言します。正卿であれば察して差配するでしょう。しかし、それがなされぬとき、または先送りにされるようなら、辞退なさってください、先子。あなたが直接行かねども、他がおります。士季だけに任せれば良い。あなたは卿です、責が重い。うまくいかねば災難が襲いかねない。私とあなたは同僚でした。あなたの身を心配しないではおれません」

 先蔑は最初、己を愚弄でもしているのか、と苛立った顔で聞いていたが、荀林父が誠実に本心で心配していることがわかり、顔を緩めた。昔から、善良な男である。そして不思議とこの男の言う話に乗ると、うまくいくことが多い。しかし、ことがことである。

「俺は名誉ある任の命じられた。それを仮病などで先送りするも、辞退するも、矜持が許さん。まあ大丈夫だ、荀伯。少し隣に行って、帰ってくるだけだ。これで秦との関係も良くなるやもしれん。ついでに俺は安泰になり先氏のうるさいものは消え、お互い席次があがる。よし、良いことしかない」

 荀林父の肩を何度も叩きながら、先蔑が豪快に笑った。この男は勇はある、そして狄との戦いも勝ってきた。やはり先氏の勇士であろう。荀林父は困惑した笑みを返すしかなかった。荀林父の言葉ひとつも、先蔑には届いていないとわかったからである。これ以上は無駄だと、諦めるしかなかった。

 せめて、何事もなく、無事にお迎えできれば良い。

 いまだ公子楽が来ていなかった時分、秋に、先蔑と士会は、秦へと旅立った。

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