第34話 新たな世継ぎ
文公の治世晩年より、
では、秦に預けている公子はどうなるのか。
これは晋秦間にかかわらず、どうやらこのような公子は大切に遇されている。戦国期になれば人質扱いになっていくが、この当時は預かりものに近いようで、帰国せねば帰化していく。亡命貴族たちと同じく、他国からの人材として見られていたのではないか。むろん、対外戦争で惨いこともあるが、その場合、加害国は信用を落とす。未だ国家間が食い合うよりは相互依存することが多い時代であり、信用の無さは亡国にも繋がるものであった。従って、仮想敵国となった秦に公子を預けていることは不自然でもなく、そしてそれを堂々と迎えにあがるのも、当時としては珍しいことではない。すでに先触れはすんでおり、新たな
この、素早いやりとりが、様々な人間の人生を狂わせたのであるから、有能さは必ずしも美点では無いのやもしれぬ。さておき、
――わたしのほうがうまくしてしまうからなあ
馬車に揺られながら、士会は焼梅を口に含んだ。妻が何かあったときのためにと渡してきた薬でもあったが、手持ちぶさたで食べてしまっている。
車右は、連れて行かぬと言われ、少々、肩を落としていた。士会は、こたびは戦ではない、と励ましてやった。この車右は、独立したときに士氏の士大夫から見繕って連れてきた男である。
秦へは幾日か、かかる。ところどころにある
「
もうすぐ秦に近い、辺境の邑で歓待されながら先蔑が
「
と、静かに感謝の意を表した。
「お言葉ありがとうございます。この
と、士会は丁寧に返してやった。趙盾が満足げに頷くのを見て、士会はおきれいな顔面をなぐってやろうかと思ったものである。お前は役に立つ、これからも使うから早く帰って来い。人をそれでしか見ぬ宰相かと思うと腹立たしい。人を駒に見る発想は士会にもあり、ゆえに、趙盾の顔色でそれがわかってしまう。少しは隠せと怒鳴りたかった。――顔色ひとつで気づいているのが己だけであると、士会は分かっていない。
さて、視点を戻して、
「この場所は秦に近い。しかし、守るに不利な場所であるな。どうにかしてやれと、帰ったら言わねばならぬ」
先蔑が、邑の人々を眺めながらぽつりと言う。士会は、そうですな、と柔らかく返した。実際、この邑は開墾することを前提としすぎており、秦にも
「……公子雍と、そのあたりをとっくりお話できれば良いですな」
士会は、せめてそれだけを言った。言外に、無事に連れ帰ることができると良い、という話である。むろん、先蔑はそのような言外などわからぬ。
「ああ。新たな君公も先君のように、勇猛なかたであると思いたい」
と、膝を打ち、無邪気に笑った。
予定通り秦に入り、型どおりの出迎えを受けた後、公子雍と対面した。襄公より少し年下のこの男は、三十路の後半である。母親の席次は元々高かったという話から、母の
「この秦にて無聊をかこつだけの私が、晋公とはおそれおおいが、これは大国の大事だ。もちろん、承ろう」
挨拶のあと、公子雍の第一声がこれであった。士会は顔をしかめた。が、先蔑は喜び、それはぜひとも、いち早く、とせかすように言った。
「まあ、待て。大国の君公になるのだ。先氏の手勢少しと共に国に入るは、いささか心許ない。すでに秦公に兵をお借りするむねお話している。それが終わるまで、おぬしらはゆるりと休め。かなりの強行軍だったと聞いている、帰りも急がねばならぬのだ」
一見、もっともなことを言う公子雍に、先蔑が良き決断嬉しゅうございます、と拝礼した。士会は一言も話さず、合わせて拝礼する。言葉を向けられなかったのであるから、先蔑を差し置いて口を開くわけにはいかぬ。しかし、せめて
晋内はどのようになっているか
ていどは聞いてほしく、さらに言うなら先君を悼む姿勢も欲しかった。あまり縁の無い兄弟であったのやもしれぬが、その一言もなく晋公になれるのだとはしゃぐ姿はどうも軽々しかった。
しかし、それでも決めたということである。士会は下役として、差配をとりしきらねばならぬ。公子雍が秦に願いでた、護衛の兵士の件、晋にそのむねを伝えねばならぬ。
「……明日から大変だが、これも役目だ」
士会が見るに、
が、翌日にとんでもない報が飛び込んできた。情けないことに、先蔑も士会も、公子雍の口からそれを聞いた。
――公子
秦公が驚き、公子雍にあわてて伝えてきたのである。先蔑や士会の元にも使者が送られているであろうが、秦の情報網が上回った。もしかすると、
「本当に、私は正式に呼ばれているのか」
陽処父や趙盾、先蔑が先走り、士会を連れてやってきたのではないか。公子雍はその不安を隠しもせず言った。呼び出された先蔑は蒼白となっている。出発前、このような事態になるならなると、一言ほしかった、とも思った。だが趙盾はそのようなそぶりもなく、送り出していた。血腥い風聞が前起きもなく届けば、誰しも警戒するではないか。公子雍が、どうなのだ、と再び問うたが、先蔑は何を言って良いかわからず黙り込んだ。
「……
士会はそっと先蔑に話しかけ、とにかく何か言えと匂わす。が、先蔑はどうしていいかわからず、下を向いて黙り込んだままであった。せめて、こちらに話を振れ、とも思うが、混乱しきって、それもできぬらしい。士会はため息をつき、
「末席から、言上よろしいでしょうか、先子」
と拝礼しながら言った。はじかれたように顔をあげ、先蔑が許す、公子にお答えしろ、と即座に言う。いや、あんたに言上だったのだが、と士会は思ったが、頷いた。
「畏れ多くも卿よりお許しありました。わたくしめ
士会の言葉に公子雍があっけにとられたあと、
「趙氏と狐氏が争っておるのか?」
と、半ば悲鳴のような問いかけをした。士会の視界に、顔をしかめる先蔑がいる。ばれた、という顔だった。いや、これくらいを隠してどうするか、と、士会は呆れる思いである。
「公子がそのようにお疑いになるのもごもっともなれど、争いというほどのものでない、意見の食い違いです。公子があとを継ぎ、騒ぐ氏族を治めれば良いことです。覇者であれば、そのようなこと些末でしょう」
少しきつい言葉を士会は奏上した。暗殺の応酬の中に飛び込んだ恵公、
「そ、そんなものか……。しかし……」
頷きながらも逡巡する公子を見て、今度は先蔑が口を開いた。力強い声が響き渡る。
「おそれながら、お気遣いご無用でございます。公子はこの
先蔑の言葉に、公子雍が安心した顔を見せ
「そうしよう」
と即断した。その後、勇猛な行動ということについて、先蔑と公子雍がペラペラの会話を始めた。それはもはや、政治の話ではなく、男二人が稚気めいた雑談をしているに近かった。士会は目をつむる。やられた、と思うしかない。いや、しでかしやがった、というべきか。先蔑は、公子雍に先送りの機会を与えてしまったのである。勇という言葉で飾っていても、言っていることは先送りであり、秦公に衛兵を増やしてほしいとねだれば、向こうもまた準備が変わるであろう。つまり、公子雍が理想とした帰国は自然遅くなる。
士会の、気骨を見せて帰る覚悟を示せ、という言葉は無視されたかたちとなった。目を開ければ、意気投合する公子と卿がはしゃいでいる。とてもではないが、己より年上とは見たくなかった。公子がせっかくだからこのまま宴席を設けよう、などと言い出した時、士会は
「それでは、秦公へのお話、わたしのほうで進めてよろしいか」
と口を挟んだ。二名から、そうせよ、という
言葉を投げられ、士会は拝礼して下がった。実務能力の無い卿と、世間知らずな公子である。士会がせねばならぬことは山積みであった。
士会が秦に増兵を願いでて、日程も含め手早くことを進めていた数日後、
問題は公子雍であった。彼は元々、陽処父に打診されていたのである。
「これは、謀議ではないか」
最初の第一声でやる気を見せていたのはどこへ行ったのか。先蔑に勇を見せろ、どうやってこの
結局、公子雍はもう少し様子を見たい、秦公にさらなる増兵をお願いすると尻込みし、動こうとはしなかった。士会はそれでも連れ帰るべく粘ろうとしたが、
「こうなれば仕方がない。いったん帰って、指示を仰ごう」
と先蔑に言われ、諦めるしかなかった。卿である正使の先蔑が決めたことを士会の立場でやめろバカとは言えぬ。一応
「今も次も同じです。否、今を逃したら公子雍の立場は弱くなる」
と抗弁はした。が、
「あんなにおびえられて、かわいそうだろう」
という、
帰国すれば、
公子楽は惨殺され、陽処父は暗殺され、犯人の狐射姑は亡命し、趙盾一人が立っている。なれば、公子雍を迎えるに万全を期することができる。数式のように美しい結論であったが、士会は晋にただよう、きなくささに眉をしかめた。
――帰国した晋は、女の泣き声に支配されている。
「
郤缺の前で、挨拶もそこそこ強く問う士会がいる。士会の顔は少々やつれていた。先蔑のお守りだけではあるまい。結局、公子雍を連れ帰ることができなかった。郤缺は苦労もあったろうと、少々同情の目を向けた。それに気づいた士会が、わたしのことはいい、と唸るように言った。
「……襄公の葬式と前後して、ご内室が幼い公子を連れ、政堂と正卿の邸を往き来している。今頃なぜ、とみな思っているが、なぜ、よりも、どうすべきか、であろう。私はお引き取り願うべきだと思うが、氏族たちが同情をはじめているようだ」
郤缺がため息を吐き出すように言った。
内室とは、もちろん亡き襄公の正室
「あなた方は、正卿は先君とお約束されました、我が子を次君とするとお約束されました、お忘れですか、この子がかわいそうです」
と毎日泣き続けている。
士会は、だからさっさと来いと申し上げたのだ、と公子雍に対して思った。郤缺が苦い顔を隠さぬのは、誰もどうしようもなく放置しているからである。つまり、趙盾が放置しているということであった。
「明日、復命の時にどうするつもりか問うてみるが……。これは想像以上に惨状ではないか、郤主」
士会は、吐き捨てるように言った。郤缺は否定しなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます