第34話 新たな世継ぎ

 文公の治世晩年より、しんしんと緊張状態が続いている。公子ようはそのようなおりに秦へと預けられたと思われる。その後、襄公じょうこう時代に移り、緊張は高まっていたのは前述のとおりである。こうの戦からはじまり、幾度かの報復戦が行われている。

 では、秦に預けている公子はどうなるのか。

 これは晋秦間にかかわらず、どうやらこのような公子は大切に遇されている。戦国期になれば人質扱いになっていくが、この当時は預かりものに近いようで、帰国せねば帰化していく。亡命貴族たちと同じく、他国からの人材として見られていたのではないか。むろん、対外戦争で惨いこともあるが、その場合、加害国は信用を落とす。未だ国家間が食い合うよりは相互依存することが多い時代であり、信用の無さは亡国にも繋がるものであった。従って、仮想敵国となった秦に公子を預けていることは不自然でもなく、そしてそれを堂々と迎えにあがるのも、当時としては珍しいことではない。すでに先触れはすんでおり、新たな秦公しんこうであるおうにも話は通っている。秦の人材は払拭してた時期である、趙盾ちょうとんの有能さが強く出たと言ってよい。

 この、素早いやりとりが、様々な人間の人生を狂わせたのであるから、有能さは必ずしも美点では無いのやもしれぬ。さておき、先蔑せんべつ士会しかいは秦への道を急いだ。従う手勢は全てせん氏である。士会はけいではないため、己と御者のみである。新たな君公の車右しゃゆうになるのであるから、と、己の車右は置いてきた。

 ――わたしのほうがうまくしてしまうからなあ

 馬車に揺られながら、士会は焼梅を口に含んだ。妻が何かあったときのためにと渡してきた薬でもあったが、手持ちぶさたで食べてしまっている。

 車右は、連れて行かぬと言われ、少々、肩を落としていた。士会は、こたびは戦ではない、と励ましてやった。この車右は、独立したときに士氏の士大夫から見繕って連れてきた男である。氏ではなかなかの勇士ではあったが、どうも少し勘が鈍い。それを士会は今、鍛えなおしている。この車右の名誉のために追記するが、彼の勘が鈍いわけではなく士会が鋭すぎるだけである。士会もそれはわかっているが、では仕方がない、と甘やかすわけにはいかない。文公の車右の家、というものがひとつの看板となってしまっている。ゆえに、何処に出しても文句の言われぬ車右にせねばならなかった。

 秦へは幾日か、かかる。ところどころにあるゆうで休むよう、士会は先氏の手勢を通して手配していた。先蔑はそれに乗っかっている。本来、士会の責務ではない。ただ、先氏の差配に不安を覚えたため、顔を見せ、口をさりげに出しているうちにそうなってしまっていた。

士季しきは、勇あるうえに、知恵者なのだな、いやあ、細々と目が利く」

 もうすぐ秦に近い、辺境の邑で歓待されながら先蔑が呵々かかと笑った。彼に他意は無く、本気で褒めているのであろうが、ちまちましているやつだ、という嫌味に聞こえなくもない。士会は苦笑しながら、返礼した。以前休んだ邑も、この邑も先氏にも士氏にも関係無い氏族の領地である。結局、行程を想定し、出発前に行く先々の差配を上申したのは士会である。趙盾は、なぜ先蔑が通してこないのか、とは言わなかった。ただ、

士季しきはひたむきに励んでおられる。私には行き届かぬもの多く、助かりました。感謝を。お役目を務められ無事にお戻りになることを待っています」

 と、静かに感謝の意を表した。

「お言葉ありがとうございます。このかい、使者の副として当然のことをしたまでです。正卿せいけいにおかれましては、多くのことがらに目を通さねばならぬこと。貴きお役目を引き受けたからには、水一滴も漏らさぬ差配が必要、お手を煩わせぬよう務める所存です」

 と、士会は丁寧に返してやった。趙盾が満足げに頷くのを見て、士会はおきれいな顔面をなぐってやろうかと思ったものである。お前は役に立つ、これからも使うから早く帰って来い。人をそれでしか見ぬ宰相かと思うと腹立たしい。人を駒に見る発想は士会にもあり、ゆえに、趙盾の顔色でそれがわかってしまう。少しは隠せと怒鳴りたかった。――顔色ひとつで気づいているのが己だけであると、士会は分かっていない。

 さて、視点を戻して、ひなびた邑でいい気になっている先蔑である。趙盾は、もはやこの男に興味を失っているようであった。出発前の準備ひとつで切り捨てるのは早いだろう、と士会は思わぬでもないが、ではどう擁護ようごしてやるか、と言われれば黙るしかない。

「この場所は秦に近い。しかし、守るに不利な場所であるな。どうにかしてやれと、帰ったら言わねばならぬ」

 先蔑が、邑の人々を眺めながらぽつりと言う。士会は、そうですな、と柔らかく返した。実際、この邑は開墾することを前提としすぎており、秦にもてきにも弱い地勢である。そのような目を持つ男が先蔑である。彼は、先氏の勇士として、戦にそなえるべき男であり、このような政治や外交の場に出るべきではなかった。

「……公子雍と、そのあたりをとっくりお話できれば良いですな」

 士会は、せめてそれだけを言った。言外に、無事に連れ帰ることができると良い、という話である。むろん、先蔑はそのような言外などわからぬ。

「ああ。新たな君公も先君のように、勇猛なかたであると思いたい」

 と、膝を打ち、無邪気に笑った。

 予定通り秦に入り、型どおりの出迎えを受けた後、公子雍と対面した。襄公より少し年下のこの男は、三十路の後半である。母親の席次は元々高かったという話から、母の杜祁ときという小国の公女だったのであろう。そのせいか、公子雍の顔には気品があった。

「この秦にて無聊をかこつだけの私が、晋公とはおそれおおいが、これは大国の大事だ。もちろん、承ろう」

 挨拶のあと、公子雍の第一声がこれであった。士会は顔をしかめた。が、先蔑は喜び、それはぜひとも、いち早く、とせかすように言った。

「まあ、待て。大国の君公になるのだ。先氏の手勢少しと共に国に入るは、いささか心許ない。すでに秦公に兵をお借りするむねお話している。それが終わるまで、おぬしらはゆるりと休め。かなりの強行軍だったと聞いている、帰りも急がねばならぬのだ」

 一見、もっともなことを言う公子雍に、先蔑が良き決断嬉しゅうございます、と拝礼した。士会は一言も話さず、合わせて拝礼する。言葉を向けられなかったのであるから、先蔑を差し置いて口を開くわけにはいかぬ。しかし、せめて

 晋内はどのようになっているか

 ていどは聞いてほしく、さらに言うなら先君を悼む姿勢も欲しかった。あまり縁の無い兄弟であったのやもしれぬが、その一言もなく晋公になれるのだとはしゃぐ姿はどうも軽々しかった。

 しかし、それでも決めたということである。士会は下役として、差配をとりしきらねばならぬ。公子雍が秦に願いでた、護衛の兵士の件、晋にそのむねを伝えねばならぬ。

「……明日から大変だが、これも役目だ」

 士会が見るに、ちょう氏と氏は必ず対立する。その騒乱が大きくなる前に、公子雍をさっさと晋に放り込むしかない。のんびりと秦で客をしていた公子には大変かもしれぬが、臣下をまとめることができぬようでは覇者としても立てぬであろう。その器量を期待するしかなかった。

 が、翌日にとんでもない報が飛び込んできた。情けないことに、先蔑も士会も、公子雍の口からそれを聞いた。

 ――公子がくが晋公になるべく侵入し、一人残らず殺された

 秦公が驚き、公子雍にあわてて伝えてきたのである。先蔑や士会の元にも使者が送られているであろうが、秦の情報網が上回った。もしかすると、ちんから伝わったやもしれぬが、情報元はこのさいどうでもよい。重要なことは公子雍が極めて困惑していることであった。

「本当に、私は正式に呼ばれているのか」

 陽処父や趙盾、先蔑が先走り、士会を連れてやってきたのではないか。公子雍はその不安を隠しもせず言った。呼び出された先蔑は蒼白となっている。出発前、このような事態になるならなると、一言ほしかった、とも思った。だが趙盾はそのようなそぶりもなく、送り出していた。血腥い風聞が前起きもなく届けば、誰しも警戒するではないか。公子雍が、どうなのだ、と再び問うたが、先蔑は何を言って良いかわからず黙り込んだ。

「……先子せんし。公子が問うておられる」

 士会はそっと先蔑に話しかけ、とにかく何か言えと匂わす。が、先蔑はどうしていいかわからず、下を向いて黙り込んだままであった。せめて、こちらに話を振れ、とも思うが、混乱しきって、それもできぬらしい。士会はため息をつき、

「末席から、言上よろしいでしょうか、先子」

 と拝礼しながら言った。はじかれたように顔をあげ、先蔑が許す、公子にお答えしろ、と即座に言う。いや、あんたに言上だったのだが、と士会は思ったが、頷いた。

「畏れ多くも卿よりお許しありました。わたくしめかいは車右の身、まつりごとに関わるものではございませぬが、僭越ながら我が晋のお話をさせていただきたく存じます。六人の卿のうち、この先子合わせ五人の卿が公子を君公にしたいと願っており、正卿がとりまとめわたくしどもを使わせました。ただ、狐氏の長が、理由はわかりませぬが反対しておりましたよし、聞いております。我らは明察なる公子をお呼びするため、おもてなし、迎え入れの準備をしております。正卿から公子楽にはそのようなお話を通しておりませんでしたので、行き違いで勝手に来られたのでしょう。公子が戻らねば、このような行き違いが増えるかもしれませぬ。伏してお願い申し上げます。いち早く帰国し、晋の上に立ち、国を安んじてくださいませ」

 士会の言葉に公子雍があっけにとられたあと、

「趙氏と狐氏が争っておるのか?」

 と、半ば悲鳴のような問いかけをした。士会の視界に、顔をしかめる先蔑がいる。ばれた、という顔だった。いや、これくらいを隠してどうするか、と、士会は呆れる思いである。

「公子がそのようにお疑いになるのもごもっともなれど、争いというほどのものでない、意見の食い違いです。公子があとを継ぎ、騒ぐ氏族を治めれば良いことです。覇者であれば、そのようなこと些末でしょう」

 少しきつい言葉を士会は奏上した。暗殺の応酬の中に飛び込んだ恵公、郤芮げきぜいという反対者に立ち向かった文公に比べれば、極めて軽い問題である。この程度をさばく気概がほしかった。

「そ、そんなものか……。しかし……」

 頷きながらも逡巡する公子を見て、今度は先蔑が口を開いた。力強い声が響き渡る。

「おそれながら、お気遣いご無用でございます。公子はこのべつが命をとしてお守りする所存。先氏は勇士にあふれております、何があってもお守りいたしましょう。公子も勇あるかたと伺っております。その勇をもってすれば、全ておさまる。しかし、その貴きお体を損なうご不安はわかります。秦公に兵を増やすようお願いし、整ってから出発してはいかがでしょう」

 先蔑の言葉に、公子雍が安心した顔を見せ

「そうしよう」

 と即断した。その後、勇猛な行動ということについて、先蔑と公子雍がペラペラの会話を始めた。それはもはや、政治の話ではなく、男二人が稚気めいた雑談をしているに近かった。士会は目をつむる。やられた、と思うしかない。いや、しでかしやがった、というべきか。先蔑は、公子雍に先送りの機会を与えてしまったのである。勇という言葉で飾っていても、言っていることは先送りであり、秦公に衛兵を増やしてほしいとねだれば、向こうもまた準備が変わるであろう。つまり、公子雍が理想とした帰国は自然遅くなる。

 士会の、気骨を見せて帰る覚悟を示せ、という言葉は無視されたかたちとなった。目を開ければ、意気投合する公子と卿がはしゃいでいる。とてもではないが、己より年上とは見たくなかった。公子がせっかくだからこのまま宴席を設けよう、などと言い出した時、士会は

「それでは、秦公へのお話、わたしのほうで進めてよろしいか」

 と口を挟んだ。二名から、そうせよ、という

言葉を投げられ、士会は拝礼して下がった。実務能力の無い卿と、世間知らずな公子である。士会がせねばならぬことは山積みであった。

 士会が秦に増兵を願いでて、日程も含め手早くことを進めていた数日後、陽処父ようしょほが暗殺された報が告げられた。誰に殺された、までは知らせに無かったが、狐氏に決まっていると士会はうんざりした。さっそく暗殺の応酬が始まったらしい。趙盾は何をしているのだ、と腹立たしくもある。よもや士会も、趙盾が陽処父をいらぬと断じ、見捨てたとまでは思っていない。

 問題は公子雍であった。彼は元々、陽処父に打診されていたのである。

「これは、謀議ではないか」

 最初の第一声でやる気を見せていたのはどこへ行ったのか。先蔑に勇を見せろ、どうやってこの擾乱じょうらんを乗り切るのだ、と唾を飛ばしながら怒鳴った。先蔑が答えられるわけもなく、しどろもどろに、お守りしますゆえ、をくり返すのみである。士会は問われれば応じようと黙っていた。一度先蔑に助け船を出したことも、僭越だったのである。士会は責を負う立場でなく、無責任なことはもう言えなかった。

 結局、公子雍はもう少し様子を見たい、秦公にさらなる増兵をお願いすると尻込みし、動こうとはしなかった。士会はそれでも連れ帰るべく粘ろうとしたが、

「こうなれば仕方がない。いったん帰って、指示を仰ごう」

 と先蔑に言われ、諦めるしかなかった。卿である正使の先蔑が決めたことを士会の立場でやめろバカとは言えぬ。一応

「今も次も同じです。否、今を逃したら公子雍の立場は弱くなる」

 と抗弁はした。が、

「あんなにおびえられて、かわいそうだろう」

 という、匹夫ひっぷのような言葉を返され、士会は一瞬頭が白くなった。人間、あまりに低次元な言葉を言われると思考が止まるものである。結局、士会は先蔑と共に、手土産なにもなく帰ることとなった。徒労でしかない。

 帰国すれば、狐射姑こやこが亡命をしていた。これで公子雍に反対した卿がいなくなったのである。先蔑は、今度こそ兵を連れお迎えすれば良い、とはしゃいだ様子で言う。士会は、己はそれを言う立場でないと断り、帰って早々郤缺げきけつの邸へと向かった。

 公子楽は惨殺され、陽処父は暗殺され、犯人の狐射姑は亡命し、趙盾一人が立っている。なれば、公子雍を迎えるに万全を期することができる。数式のように美しい結論であったが、士会は晋にただよう、きなくささに眉をしかめた。

 ――帰国した晋は、女の泣き声に支配されている。

郤主げきしゅ。こちらの話は後でするが、まず問いたい。わたしは今、何もわからん。なぜ今頃、ご内室が公子を連れて泣きまわっているんだ、どういうことだ」

 郤缺の前で、挨拶もそこそこ強く問う士会がいる。士会の顔は少々やつれていた。先蔑のお守りだけではあるまい。結局、公子雍を連れ帰ることができなかった。郤缺は苦労もあったろうと、少々同情の目を向けた。それに気づいた士会が、わたしのことはいい、と唸るように言った。

「……襄公の葬式と前後して、ご内室が幼い公子を連れ、政堂と正卿の邸を往き来している。今頃なぜ、とみな思っているが、なぜ、よりも、どうすべきか、であろう。私はお引き取り願うべきだと思うが、氏族たちが同情をはじめているようだ」

 郤缺がため息を吐き出すように言った。

 内室とは、もちろん亡き襄公の正室穆嬴ぼくえいである。この、秋から冬に変わっていくこの時期、穆嬴は幼い公子夷皋いこうを連れ、朝は政堂の庭、そして夕は趙盾の邸の前に陣取り

「あなた方は、正卿は先君とお約束されました、我が子を次君とするとお約束されました、お忘れですか、この子がかわいそうです」

 と毎日泣き続けている。

 士会は、だからさっさと来いと申し上げたのだ、と公子雍に対して思った。郤缺が苦い顔を隠さぬのは、誰もどうしようもなく放置しているからである。つまり、趙盾が放置しているということであった。

「明日、復命の時にどうするつもりか問うてみるが……。これは想像以上に惨状ではないか、郤主」

 士会は、吐き捨てるように言った。郤缺は否定しなかった。

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