第52話 遊びに興じ、愉しみ楽しむ
六卿で狩り。正確に言えば五卿であるのだが、このあたりから晋の政治体制と認識されているため、
「そのような遊興は余事です」
それぞれが勝手にするならともかく、公事にする必要はない、という言い分である。ここまでは
と提示した。趙盾がはじかれたような顔をする。
「
疑問を呈した言葉であったが、やんわりとした却下である。外交として悪くないが、気に入らぬ、というわけであった。衛と鄭双方というあたりが引っかかっているのは郤缺も察した。衛は今、
「末席からよろしいか、
問われるまで口を開かぬ士会がめずらしく声をかけた。士会は祖父の訓戒を守り続け、己から口を出さず、人に分け入らず、の男である。本来なら郤缺の返答に任せ、口出しはせぬ。郤缺は、好奇がわき、思わず見た。趙盾はもちろん、促した。
「お許しいただき、ありがとうございます。さて、狩りはこの季節に良いものです。正卿は少々腰が重いようですが是非音頭をとっていただきたい。この
郤缺は、この男は、と思うしかない。趙盾が即座に頷く。
「
すらすらと水のように話し、拝礼をした。
さて、士会の言い分は簡単に言えばこうである。――鄭を牽制しろ。首山は晋の南にあり、河南より少々北に位置する。現在は
ただ、驚くべきは、士会の発言であった。郤缺は外交政策の一環で狩りをするという議をあげただけであるが、裏の建前である狩りの儀も、その本音である人間関係の動線も入れ込んで上申している。儀はともかく、人間関係に関して鈍い趙盾にはわかりやすかったであろう。鄭への圧力という餌をちらつかせたのであるから、他を余事だとはねつけまい。
首陽山。当時は首山と呼ばれた山であり、かつて周の武王を諫めた兄弟が餓死するまで隠棲したという伝説がある。標高二千メートルの低くなだらかな山地であり、黄河の支流である
ところで、前述したが、当時の貴族が行う狩りは一個人がひょいっと出ていくものではなく、手勢を連れた大規模なものであり、日本の巻き狩りなどに近い。軍事演習を兼ねていたかはわからぬ。楚が宋や他の国を巻き込み接待させたものは、配置や役割などを割り振り行っていたようである。むろん、首山についた彼らも、同様に割り振りをしたであろう。
山すそから見る頂きへの色は、陳腐ながらも美しいとしか言いようがない。柔らかな山ぎわを朱と金と紅が色づき、目を喜ばせた。初夏や夏のような青々した木々の瑞々しい香りは無いが、そのかわり枯れる直前の成熟したにおいがしっとりと気持ちを潤わせ、歩けば落葉樹の絨毯が心地よい。雨期が過ぎ、寒い乾期の前、秋の穏やかな気候は、狩りでなくとも散策に良い季節である。空を見上げれば蒼穹に雲が薄くたなびいていた。
「秋の狩りは良いですね。景色も良く、獲物も多い。何より、手勢も喜ぶ」
下見にて風景を愛でていた郤缺に、欒盾が話しかけてきた。政堂で座っているときより、緊張がほぐれ生き生きとしている。仕方なし、と郤缺は思い、さようですな、と返した。手勢のうち、奴隷に近い小者は狩りに合わせて財をとる。といっても、小動物のご相伴であったり、木の実である。時には耕作された作物を取る場合もあるが、たいてい己の所領であるため、貴族どもは止めない。今回、誰の所領でもないため、強奪は禁止されては、いる。
「あなたは、家を、小者ふくめて大切にしておられる。良きこと」
柔和な笑みと共になされる郤缺の言葉に、欒盾が少し苦く笑む。この男にもそのような
「私はまつりごとがわからぬ身。家の保存のみができるものです。このような場の儀は心得ておりますが、いざ東国に行けばそれしかできぬ。歯がゆいものです」
欒盾は卑屈になっているわけではあるまい。ただ、己の立場をわきまえた上の愚痴であろう。郤缺は一息ついたあとに、
「礼も儀もわからぬものもおります。儀が正しくなければその時点でお話が打ち切られることも多い。あなたの心得は大切なものです。まつりごとは一朝一夕にわかるものでもなく、そしてみなさまのお言葉が大事。
と、優しく返した。欒盾は安堵の笑みを見せた。すっかり懐かれてしまったことに少々の戸惑いを感じ、郤缺はもう一度空を見上げた。渡り鳥であろうか、群を成して飛んでいた。人の魂は鳥になって戻ってくると言う。当時、そのように信じられている。父が飛んでいるのであれば許しを乞いたいところであり、
貴族の狩りの描写は史書にも散見されるが、
火を点ける
という記述が目立っている。派手というべきか、大雑把というべきか。はるか後年、狩りに夢中になり火に巻き込まれ死んだものも見受けられる。ちなみに、それは当時の晋の正卿である。楚の狩りでも宋が火付け役として命じられていた。この六卿の狩り――
狩り自体は夜明けと共に行う。このあたり、朝政も戦争も夜明けが多い当時の生活様式に則っているのであろう。山火事にならぬよう森に火をつけ、獣たちを追い出していく。それを、皆で追撃した。むろん、馬車である。郤缺は狐をしとめた他、鹿を射ったが、そのまま取り逃がした。もったいない、としていると、士会がそれをさっくりしとめた。めざとい、と思うしかない。欒盾も狐や猪をしとめていた。手勢との息も合い、矢を放てば手勢はもうその場に進み獲物のとどめを刺す。性格も良く風格も良い。ここまで来ると、政治的無能であるのが惜しいものであるが、そうなれば郤缺の現在と矛盾が出る。あまり深く考えまい、と苦笑し、郤缺は狩りに興じた。外交的な恫喝はさておき、久々の狩りは血湧き胸躍る。先年の
その家出息子、士会の差配はさすがであった。火付けのタイミング含めて、儀に正しく文句のつけようもない。指示は趙盾にさせていたが、全体的な視点は士会である。その趙盾も、戦争が鈍いくせに狩りの指示は鋭かった。欒盾もそうであるが、これと戦争は似て非なるものなのであろう。拝礼その他、美しい儀礼の男である趙盾は、矢を射る姿も見本のように美しかった。
獣が逃げ尽くした後、走り続けていた一行は一息つき、休憩とした。その場は野生の
「
桑の影に覆われながら、士会は呟いた。桑の影に覆われた地、と言いたいらしい。ふと、欒盾が山のほうへ顔を向けていた。つられて見ると、趙盾が徒歩で手勢数人と共に山に向かっている。
「趙孟、何をしに行く」
士会は声を張り上げた。勝手をするな、という意味でもある。山へ向かおうとしていることは問わずともわかる。理由を聞いたほうが早い。趙盾がふり返り、相変わらずの薄い顔で呟くと、手勢が頷き、走ってきた。きちんと声を出せば聞こえるだろう、と士会は呆れた。
「我が主は、山へ……狩りに行くと。あの、よろしければお止めいただけると……」
手勢がよけいなことまで言う。士会は、少々おもしろくなり、追いかけることにした。むろん、士会はこの狩りの本音をわかっている。
「
なんとなく見てきていた欒盾に笑顔を向けた。士会は、欒盾が士会に怯えていることを知っている。その反応は物心ついたときから知るもので、つまりは兄と同じである。
欒盾は趙盾と士会という、気後れする面子に戸惑ったが、この誘いを断る理由がない。理由もなく断るは非礼である、とこの真面目な貴族は思い、頷いた。
手勢が余計なもの二人を連れて戻ってきたことに、趙盾は特に表情を動かさぬ。どうとでも良いのか迷惑なのか、傍目ではわからなかった。士会は趙盾の弓が少々短いものに変わっていると気づいた。
「弓を別に用意していたのか」
そっと
「備えは必要であろう」
とそっけなく返される。備えは確かに必要である、しかし欒盾は、違う種類の弓を用意する意味がわからなかった。士会はどうもわかっているらしい。不審な顔を向ける欒盾へ笑みを浮かべて、正卿は物足りなかったらしい、とだけ言った。
山に入れば、趙盾はざくざくと歩いた。時折、木々を見て、しゃがんで獣道をなぞり、周囲を見渡しては歩いて行く。同行者はそれを追いかけるしかできぬ。もはや趙盾を見失えば、手勢も欒盾も帰れぬ。士会は念のため場所を覚えながら追いかけた。趙盾の確かめたものを時折見る。動物の糞があった。
趙盾が立ち止まり、またしゃがむ。動物の糞を手で掴み、揉み、頷いた。そこから神経をとがらせ、集中し始めたのがわかる。欒盾が声をかけようとしたのを、士会は止めた。これ以上動くな、という合図でもある。欒盾は鈍い男ではないため、理解し頷いた。
長い時間であったか短かったかわからぬが、息をつめて見守るには忍耐が必要であった。趙盾は薄い顔のまま矢をつがえている。集中と緊張が伝わってきた。葉が揺れ、鹿が現れた。雌鹿と子鹿であった。こちらに気づかぬようで、尻を向け落ちた木の実を食っている。趙盾は迷わず子鹿を射る。動けぬよう腿を、そこで飛びはね逃げぬよう再び腿を射た瞬間に素早く駆け出した。手勢があっけに取られているところで、逃げようとした母鹿に石を投げ完全に追い払うと、子鹿を押さえつけて首に剣を刺した。血がふき出ぬ方法を知っているらしく、それ以上下手に動かさぬ。子鹿はどう、と倒れた。欒盾は足早に、士会は悠々と近づいた。趙盾は少々の返り血はあったが、ほとんどが地に流れている。
「ちょ、趙孟、あの何故ご自分で、あの」
貴族自らとどめをさすことはないであろう、という欒盾のあわてっぷりに、趙盾が薄く平坦な表情を向けた。
「さっさと血抜きせねば、不味いものです」
欒盾があっけにとられている横で、士会が吹きだした。が、それ以上の笑いをなんとかおさめる。
「なかなかに手際が良い。
「せねば生きていけぬからな。あの時はしぶしぶであったが、今でも山を見ると狩りたくなる。不思議なものだ」
二人の会話に、欒盾は趙盾が狄で生まれ育ったことを思い出した。常の彼は完璧な政治家であり
「あんたは武に疎いが狩りの差配は充分できるであろう。次にするときはわたしに投げるな。あと、わたしにもその狩りを教えろ」
士会が軽口を叩きながらも、半ば本気で言う。貴族の狩りは大がかりで心が沸き立つ。犬を使った狩りも楽しい。しかし、他の作法も取り入れるなら存分に、が士会である。この男は無欲であるが己の
「私よりあなたのほうが上手くやる。物事は効率の良いほうがよろしい。そして私の作法をわざわざ教えるのは時間の無駄というもの。同じようなものであれば、
簡単平易に言えば、めんどくさい、であった。姜戎はかつて出てきた晋内の友好的な狄である。士会は、あんたのほうが早いだろう、と引き下がらぬ。が、これは本気ではなく、遊んでいる。趙盾は手勢に鹿を持つように差配し、ほとんど無視をしている。
「あ。あの。その狩りの作法を私にも……」
欒盾は、このようなときに一人で悠々とできる性質ではなく、流れで思わず趙盾へ話しかけた。趙盾が少し首をかしげて、欒盾を見る。この男は極めて鈍感であるが、欒盾が何を言いたいのかさすがに察した。その上で、彼らしからぬ正解を返す。
「欒伯。これは大夫の手慰みにするのも愚かしい野蛮な作法です。士季はこの作法を知っても平気な、面の皮の厚さがありますが、あなたには合いません。私が武に疎いように、あなたもできぬものはできぬでよろしい。私はできぬものをやみくもに研鑽することは無駄だと思っています。あなたは頭が良いお方で、家格も高く誠実。ゆえ、私の狩りを口先だけでも教えを乞うはよろしくない。あなたの良くない癖は、己がわからぬとなり、迎合するところです。あなただけではなく、多くのものがそうする……それは、役に立た――」
「黙れ、長い」
長々とした説教になりかけたところを、士会が止めた。欒盾は、この二人は実は仲が良いのか、それとも互いが無礼をしあって詰り合っているのかわからず、半笑いになった。
「しかしまあ、欒伯。趙孟の言うことは一理だけ、ある。あなたはわからぬことをそのままにせぬでいい。その場で言えずなら、あとで郤主に相談すればよろしい。あの御仁は相談ごとにもってこいの人だ。そして向かぬものは向かぬで良いと、わたしは思う。わたくしごとであるが、我が兄は向かぬことをしようとして死んだ。人は己の立つ以上の場を求めれば死ぬ」
士会の声は深く、優しく思いやりに溢れていた。欒盾が政治に向いていないなど全員がわかっている。それを下手に庇わず、それでも良いと言い切る。何より、言外にあなたはそれだからこそ必要である、というものが響く。欒盾は、一瞬だけ違和感を覚えたが、それも流れさり、士会に感謝を伝えた。むろん、違和感は士縠のことである。士会は兄の死をこともなげに話しているのである。しかも、兄を殺した張本人、つまりは趙盾にじゃれかかっている。士会はもちろん、趙盾が士縠を処刑したことを知っており、また、兄を尊敬している心はそのままである。が、愛情はあっても愛惜がわかぬ男であり、当然のごとく怨みもない。その部分にひっかかったのであるから、欒盾も細かいところに気づく人間であろう。が、些事として流してしまうあたり、常人としての保身本能の高さである。気づけば、恐怖でしかない。人は知らぬほうが平和に過ごせることが多い。
帰る、と言わんばかりに趙盾が黙って元来た道を歩き出した。何か言え、など無粋は言わず、士会は追いかける。欒盾ももちろん追いかけた。ある程度ふもとに近くなったころ、いきなり趙盾が止まった。何かに気づいたようにいきなり道を変える。
「どうした、趙孟」
士会が固い声で言った。士会にとっても予想外なことが起きているのだ、と欒盾は気づき、緊張する。趙盾は手勢を手で呼びながらさらに歩く。
「士季と欒伯は戻るならどうぞ」
「あんたがいないと、下手すれば迷う」
「……あなたなら帰れるだろう。まあ、お好きに」
趙盾は誰にも視線を寄越さぬまま話し、進んでいく。士会が苦々しい顔でついてゆき、一人では場所がさっぱりわからない欒盾もついてゆくしかない。どうも、民が使うであろう道に出た。ふもとから少し中腹へ向かったあたりであった。一人の男が倒れていた。趙盾はまっすぐそれに向かっていく。手勢が危険であると言っても、止まらない。趙盾を止められるものなど、確かにこの世には存在していない。
男は死んでおらず、げっそりとやつれていた。栄養失調独特の肌の乾きがあり、顔色も暗い。
「病か」
趙盾は男の身を起こし、支えて、耳元で言った。そうせねば聞こえぬと思ったのである。男に意識はあり、ひび割れた唇が動いた。
「……もう、三日も食べておりませぬ」
その声は、かすかすの息とともに出てきた。欒盾は男の様相を見て少々怯えた。大夫のものではなく、下級の
「水と食べ物を」
趙盾が手勢に差配すると、竹の水筒と、非常用の弁当が出てくる。男に水を与えた後、少しずつ噛んで食え、しかし遠慮するなと渡した。男は頷き、ゆっくり食べたが、半分で止めた。
「まだ残っている。あなたは病でなく飢えだ。何故食べぬ」
このように聞くということは、男は食べられなかった、ではなくわざと食べなかったのがあからさまであったのであろう。その男は正直に吐露した。
「家を出て奉公にあがり、私は三年です。たまたま家の近くまで来て倒れておりました。母が達者であるかどうかわかりませぬが、こうして近くまで来たのです、この弁当を土産にさせていただきたいのです」
彼のような下級の士大夫は土地さえ無い。他者に使われ己を養うしかなく、取り立てられねば流れ者のように他を探す。欒盾のような大貴族に抱えられれば身も立てられるが、なかなかそのように上手くはいかない。趙盾は全てを聞いた後、
「全部食べることだ。あなたの母御への土産は用意しよう。まずあなたが元気でなければ、母御は悲しむ。息子の良き姿こそ母の宝なのだから」
と言いきかせ、とにかく食わせ、食い切るまで見張り、許さなかった。善意の強さも趙盾らしい、と士会は苦笑した。食っている男は恐縮しながらも、大夫の上等な弁当を喜んでいた。この男が詐欺師かどうか、士会にもわからぬが、盗賊や詐欺師としても、まさかここまで押し出しの強い貴族がひっかかるなど、思うまい。
趙盾はその男を担ぎ、歩こうとした。さすがに士会が見かねて、弓を欒盾にあずけ、片方を持った。
「あんたは人を頼るということを知らぬのか」
呆れて言うと、趙盾が
「あなたは言わぬでもわかる」
という、腹立たしいことを返す。士会は、飢えた男に免じて怒鳴るのをやめた。男はなんとか共に歩く。衣服からこちらが貴族ということはわかっているであろう。が、まさか己を助けた男が、この国の重鎮であり正卿であるとは思わなかったろう。
そこに趙盾たちが、おまけをつけて戻ってきた。
「何を拾ってきたのかな?」
郤缺は覗くように近づき、言う。士会が、行き倒れ、とだけ返した。そこには、趙盾が手勢どもに差配する姿があった。
「それはお持ちできないのでは」
と制し、やめた。きちんと皮を剥ぎ処理をする、とまで言う趙盾に、それでも持てませぬ、と欒盾はきっぱり言った。このようなとき、常識人は正しい。
全てを袋に入れ、男に与えると、
「水を飲みながら、ゆっくり行くがいい。あなたの母御は、あなたの無事が何より嬉しいでしょう」
と言って、趙盾は見送った。後日、趙盾は良い奉公先を見つけた男と再会し、そっと恩を返されることとなる。
「あの男は、良くも悪くも善意が強い」
いきさつを話しながら、士会が郤缺に言った。郤缺は柔らかく笑み、
「趙孟はずっと母一人子一人であった。母に対する孝行に思うものがあったのであろう」
と返した。それは気づかなかった、と士会が薄く頷いた。
「親への孝は、趙孟さえ心を動かす、至上のものということだ」
郤缺は柔らかい声音のまま、笑顔で言った。その声に妙な湿気が混じらぬよう、努めて言った。その意味では言わずでも良いものであったが、郤缺は言わずにいられなかったのだ。
「……まあ、面白い見ものではあったが、とりあえず明日の差配の件だ。鄭への恫喝なのだから、派手にしたい。趙孟は面倒だと言う。欒伯、あなたは狩りの儀が良い、差配を願いたい」
士会に呼びかけられた欒盾が一瞬、困惑の顔を見せたが、務めましょう、と丁寧に返した。
「明日の陣ですが、郤主はとても練れておられる。あなたを陣の中心に、狩りをしたい」
典雅かつ威風のある欒盾の声であった。郤缺は、お任せを、と欒盾に笑んだ。ごく自然にでてきた笑みであった。
この、馬鹿馬鹿しくも楽しい恫喝は東国に効果があったかどうか。
冬に
その帰りである。今度は鄭に縋られた。帰り道を見計らい、歓迎し、宴の席にて和睦の仲立ちを頼むと、訴えてきたのである。困惑したのは魯であった。行きなら良いが帰りである。鄭の望みを叶えるなら、引き替えさねばならぬ。この時、興を支え傍にいたのは
「雁飛んで 羽音粛々、征く者は 野にくるしむ
と訴えた。よるべない民は鄭であり、雁のように飛んで晋へ引き返してほしいという意味である。季孫行父は、このまま頷くわけにはいかぬ、と首を振った。
「我が国も同じくよるべなき小国。わたくしどもの主人もその苦しみは同じ。『
この、お前のために引き返せぬ、という回答に鄭は絶望しなかった。鄭という国は、中原きっての蹂躙されやすい地勢であり、自然したたかである。
「あなたがたのご主人も同じ気持ちなのはわかります。古詩にも『我
己の国の窮状を訴え助けを乞う詩であった。振り切った袖をさらにとられ、季孫行父は観念した。ただ、興には伺いを立てた。鄭を晋へ仲立ちするということは、もう一度魯公が晋に拝謁するということとなる。興は嫌だとは言わなかった。魯という親戚血筋に覆われたこの国君は、自我を出さぬという生き方をしている。季孫行父は返歌をした。
「かのさかんなるは何、
詩の内容は、防人を送るものであり、そこには悲哀でなく期待と励ましが見えるものである。それになぞらえ、鄭を鼓舞し力になると返したのである。この、極めてめんどくさいやりとりこそ、当時の貴族主義を象徴している。この儀、教養を見せぬと、人として軽蔑される。政治の場において、儀礼と教養の裏付けあってこそ人は心を動かすのである。
鄭が晋に身を寄せてきたのは楚の圧力が極めて軽くなったことも原因であろう。さて、晋の六卿が狩りを興じた影響はどうであったか。そこはわからぬが、どちらにせよ、衛も鄭も晋の傘下になった、ということは確かである。郤缺は労を尽くしてくれた魯の人々に感謝を込め、拝礼した。魯が晋にすり寄っているのは、郤缺の人柄が大きい。魯の季孫行父も代表し、こちらこそこれからも、と丁寧に返礼した。そこから、教養のある雑談をはじめたが、季孫行父はもちろん油断しなかった。郤缺の柔和な笑みの奥に虎狼がいることくらい、誰だって知っているのだ。
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