第15話 蒼炎との邂逅

 夜、寝る直前まで欒枝らんしを見ては笑いを堪えていた郤缺げきけつに、汝は思ったより若いな、と苦い顔をしていたが、最後には耐えられなくなったらしい。

「いやもう、いいかげん、笑わないでくれ」

 と欒枝が頭を抱えて呟いた。申し訳ござらぬ、と郤缺は笑いを腹奥へ閉じ込め、目をつむった。共寝はしなかったが、同室で寝た。何やらもう、それが当たり前になっていた。

 書を読みたいがため、息子を利用した趙衰ちょうしに腹を立てた欒枝であったが、翌日には門の前でこれぞ名門貴族という丁重で完璧な儀礼で親子を迎え入れた。

「今日の善き日にちょうけいがお越しいただいたことは望外の喜びです。趙の嗣子ししがこのらん家の教えを請われたよし、お力になれるよう努めます。また、ちょう子余しよが我が知恵の財をご所望のよし、ご満足いただければ幸いとなります。我が別宅への招きとなったこと許されよ。いずれ本宅で相まみえましょう」

「我が愚息のご教示への願い、そして私の思いを汲み取っていただき、感謝の念に堪えません。欒伯らんぱくの沈毅と貞節は我が家の宝になりましょう、寛容と誠実は喜びとなるでしょう。本日のお招きまことに光栄です。もし幸いなことにそちらのご本邸にお招きとなれば我らの繋がりも善きものになるでしょう」

 趙衰の声は少し華やいでおり、さらさらと流れる小川の清流のようであった。後ろで、嗣子である趙盾ちょうとんが黙ったまま、美しい所作で拝礼する。許されてもおらぬのに父の言葉に次いで子が挨拶するのは非礼であるのだから、満点の仕草であろう。二十歳の時よりは才気を少しは抑える術を身につけたらしいと、欒枝は笑顔のまま思った。趙衰が宮中では見せぬ少しうっとりとした柔和な笑みを向けてくる。欒枝はその顔を殴りたい衝動を極めて強い自制心で抑え、掃き清めた邸への道を先導した。

 その間、郤缺は指示された室で最も格下の席で座っていた。当然である。

 主人であり晋公の次に格の高い卿、欒枝。

 重耳の寵臣であり卿でもある趙衰。

 その趙衰の嗣子、趙盾。

 その中で郤缺は少ない領地で身分も低くなっている。欒枝が少々辛そうな顔をしていたが、その憐憫悔悟の念は欒枝の自己満足であると郤缺はうちの中で断じていた。彼は郤缺が己と対等とでも錯覚してしまっているのであろうか。肩をすくめたくなったが、人がおらぬところで儀を外すのは恥知らずのすることである。郤缺は折り目正しい姿勢のまま待った。

 静かに人が歩いてくる音が聞こえ、あるじの欒枝が青年を従えてくる。端正な顔をした彼に柔和な印象を受けなかった。郤缺は、これが趙家の嗣子の趙盾かと薄目で見る。確かに趙衰には似ていない。少々の面影はあるものの、目が涼やかで見目は良い。母に似たのであろう。背は父に似て長身であったが、それなりに厚みのある体であった。武に強そうではないが、趙衰のようにうらなりではないようである。

 欒枝が部屋に入らず座し、趙盾も続いて作法正しく座す。若者の目は郤缺を見ても驚いた様子はなかった。しかし、わかっていた態度にも見えぬ。冷たく薄い表情であった。そのあたり、この青年は少々老成しているのやもしれぬ。なんとなく士会と初めて会った時のことを思い出す。

 欒枝が趙盾へ向き直り、口を開く。

趙孟ちょうもうには後ほど応じたいが、趙子余へのもてなしを先にするゆえ、この室でお待ち頂きたい。そこにおられるは郤氏の長、郤主げきしゅである。敬にあつく徳のある御仁ゆえ、私よりも多くを学ぶことができよう」

「まずは我が父への手厚いおもてなし、息子として嬉しく思います。また、私は多くの賢者から学ばねばならぬ未熟者、素晴らしい御方をご紹介いただきまして、欒伯のお心くばりに御礼申し上げます」

 趙盾が床に一度額をつけて顔をあげた。見事な頓首とんしゅだな、と郤缺は心の中で舌を巻いた。よほど史官が優秀なのか。欒枝も満足げであった。儀というものは形だけではない。まず礼という心が必要である。趙盾の言葉にも儀の作法にも全て相手への尊敬の念が籠もっていた。それを決まった形式で表すことは実は難しい。ゆえに、儀は難しく礼は奥深い。

 今度は郤缺に向き直り、欒枝が口を開く。

「郤主。こちらは趙子余が嗣子、趙孟である。嬉しきことに私への教示を願い出てくれたが、嗣子より父へのおもてなしが先となる。郤主は敬を知り徳を持つ方だ。趙孟に言祝ことほぎ願いたい」

 郤缺は拝礼し、

「我が非才なれど、欒伯の代理といたしまして立派に努めたいと存じます。また、趙の嗣子、趙孟におかれましては私を賢者の一人と言祝ぎいただき、その言葉を私の喜びにしたいと思います」

 と、二名に対して一気に言った。欒枝が嫌々ながらも急いでいるのがわかったからであり、趙盾がこちらに対して興味の目を向けているのも感じたからである。

 それでは、と欒枝は立ち去った。この邸には書庫があるという。趙衰はその前で待っているに違いない。どうも、あの深い湖のように底知れぬ御仁にも人間くささがあるらしい。郤缺はなんとなく、ほっとした。

 さて。趙盾が入ってこない。席など分かっているだろうと郤缺は黙って見ていた。あれほどの儀礼をしたものが、聞かなければ己の格と席が分からぬはずがない。

「恐れ入りますが。郤主」

 趙盾が一度拝礼したあと口を開いた。

「このようなことを若年の身で申し上げるのは心苦しいのですが、郤主がそこにおられると私の座る場所がございません」

 その声に困惑はなく、いっそ強い言葉であった。彼は当然として己を最も格下と見ているらしい。郤缺はその気負いに免じて、はいそれじゃあどうぞ、と動くわけにはいかぬ。

「そうはおっしゃられるが趙孟。あなたは君公くんこうの重臣であられる趙子余の嗣子です。私は下軍かぐん大夫たいふです。大国の次卿じけい、その下の卿と小国の宰相の席順は大国の卿が全て上と決まっております。それと同じく、役職として趙孟のお家は上、その嗣子であるあなたはあちらの席に座すべきです」

 そう言って、袖に手を隠しながら郤缺は格上の席を指した。しかし、趙盾は思ったより頑固であるらしく、首肯しない。

「欒伯は私に郤主へ教えを請うようおっしゃられた。それは師として敬えということとなります。師を最も低い席に置き教えを請うは無礼。また、私は確かに趙家の嗣子ですが、いまだ父の後ろをついてまわるだけのお役目も無い若輩です。しかし郤主は下軍の大夫として君公に任じられお役目を立派に果たされている。そのような尊き方を最も低い席に置くは秩序に反している。そして、最も重要なことですが、私は年少であり、郤主は年長の方。己より長く生きた方を格下の席に置く非礼なものに私はなりたくありません」

 趙盾は役目が無いと言うが、きっと趙衰の秘書のようなことをやってはいるであろう。それは君公からも許可を得ているはずである。が、それよりも、この青年のかたくなさである。薄い表情のまま述べる声音は静かであるが炎のようであった。融通が利かないというよりは、己の言うことに間違いがあるわけがない、という圧が強い。郤缺は仕方無く、一度拝礼して頓首したあと、あとずさり、そして本来趙盾が座るべき席へと着いた。趙盾も深々と拝礼したあと、郤缺の座していた席へと座る。そうして郤缺に向き直り、再び丁寧に拝礼した。

「お席を変えて頂いたことに感謝を。郤主のおっしゃったことも最もなれど、私の言葉をお聞き頂いて嬉しく思います。改めて申し上げます。よく文侯ぶんこうにておとりたていただいた趙叔帯ちょうしゅくたいが末、趙孟と申します。此度、偶然にも欒伯よりご紹介いただき郤主にお会いできたこと、まことに光栄に存じます。この上ご教示のほど賜れることができれば私の喜びとなりましょう」

 郤缺は深々と返礼し、

「改めてご挨拶申し上げる。郤文が末、郤主と申す。この度、偶然なれど、欒伯よりのご紹介にあずかり、また、あなたを言祝ぐという大役を承り、身に余るものであるが、立派に努めたいと存じます」

 と言ったあと、身を起こした。

「今、あなたはお父上の元におられ、あまたのご年配にご教導され、また、下役にかしづかれておられましょう。――ゆえに。今こそみずから戒められよ。賢人は寵を得たときにこそさらに戒められる。不徳のものは寵を得たときに傲ります。政と徳、既に成ったとしても、史官にえきをさせ道しるべを忘れず、側近には諫める言葉を許して惑いを封じ、市にて民の善き声悪き声を聞き、全てを考察し、己の悪い部分を省み治す。これが戒めです。あなたはいずれまつりごとに携わるでしょう。この戒めを忘れぬよう」

 趙盾は郤缺の言葉は身じろぎひとつせず、まるで耳だけではなく体全身で聴いているかのような様子であった。最後の言葉を聞いた後、深々と拝礼し、やはり見事な頓首をして身を起こすと、

「深いご教示、ありがとうございます。人生の指針とさせていただきます」

 と、返した。郤缺は、この若者はその言葉を何度くり返すはめになったのだろう、と心の中で同情した。よもや二十歳超えてこれをさせられるとは思わなかったであろう。郤缺も言葉尻を変えながらも成人の儀で連れ回されながら似たような言葉をくり返した。

「……御礼にもなりませんが、詩を」

 若者が静かに言った。礼に詩を送るは珍しく無いので、郤缺は軽く頷いた。


 かしこにかつらんと

 一日いつじつ見ざれば

 三月さんげつの如し


 意外に伸びる声で、趙盾が詩を詠う。ほんの少しだけ、炎熱を感じる声であった。口を閉じたあと、じっと郤缺を見る。これをされれば返すしかなかった。


 かしこにしょうを采らんと

 一日見ざれば

 三秋さんしゅうの如し


 返歌で一節を詠うと、趙盾が静かにそっとため息をついた。ばれぬように気をつけたのであろうが、わかるものは仕方がない。

「かしこにがいを采らんと、ということですね。この茶番はあなたもご存じだったのですか、郤主」

 他のことを口実に愛しい男に会いに行く詩を出して、趙盾が強く問うた。つまりは、偶然など嘘であろう、という意味である。郤缺は首を振る。

「私もここに来て知らされた。あなたと一度会え、ということであろう。私とあなたの人生がこれ以上交わるとは思えませんが」

「いえ。きっと父があなたと私を会わせたかったのでしょう。私は試金石のようなものです」

 趙盾が父への嫌悪を隠しもせず言った。若さゆえの感情の吐露かもしれぬが、それにしても、隠さなすぎた。郤缺は表に苦笑が出るのを抑え、なるべく優しい顔で口を開く。

「私は趙子余のばつには入りませぬ。もし入れられても小者の身、役に立ちようもない」

 年長者として気を使ったつもりであったが、趙盾はすっと表情を無くし、元の冷たいおももちを郤缺にむけてきた。気に入らぬ言葉でもあったかと思えばそうではないらしい。郤缺への視線に棘は無い。

「ご安心下さい。父は閥など作りませぬ。もし、君公の寵臣がそのようなことを父に持ちかけてきましたら、笑顔で柔らかくほぐし、溶かし、全力で潰すでしょう。誰かが作ろうとしていたなら、やはり同じように潰します。閥だけではない。不仁、不徳、不知の輩、おもねるもの、他者を貶めるもの。いいえ、個人的な好悪ではなく、この晋と君公にとって不利益なものは全て要らぬと思っている人です。ゆえに、郤主には私が非礼な父に代わり謝辞奉る。私を試金石にあなたが晋にとって役立つかどうかだけを見ようとしておられるに違いない」

 深く謝る青年に郤缺はおもてをあげなさい、とさらに柔らかく声をかけた。はたして、起き上がった趙盾の顔は冷たく薄い表情であった。ふと、嫌悪の顔を見せたのが珍しいだけであり、彼は基本的に表情が薄いのだと郤缺は気づいた。この顔であの圧であるのだから、欒枝が才気煥発と皮肉を言ってしまうのも無理はないだろう。しかし、彼にとってこれが一番楽な顔なのかもしれなかった。

「私がこの国のお役に立てるのであれば、卑しき職であれど誇らしいこと。もしあなたがお父上に問われたら、そのようにお伝えいただければよい」

 郤缺の言葉に、趙盾が取り乱して申し訳ございませんでした、と丁寧に謝辞の儀礼をとった。やはり、美しい仕草であった。

「良き史官に恵まれたようですね。儀の美しさ、内包する礼が見えます」

 思わず、自然と褒め言葉が出る。が、趙盾はいいえ、と否定した。

「私には史官などおりませぬ。父は放浪し、私は狐邑こゆう――てきの者どもと生活しておりました。全て書を読み己で研磨したもの。ゆえに、おりませんでしたが、郤主の言葉はとてもありがたい、あの頃の己の誇りとなりましょう」

 書、のみですか、と思わず郤缺は問うた。趙盾は少し考えて

「十までなら父に。父が君公と邑を捨て逃げたあとは、母からも。ただ母もかい氏という狄の娘ですから、やはり書が一番多かったと思います」

 公室に仕える史官ほどの者が教えたのなら理解もできるが、独学という点で郤缺はのけぞりかけた。その後、当たり障りのない程度で教養や政治の謎かけをすれば、即答される。

 これを、欒枝は才気煥発という言葉で終わらせたのか、と郤缺は頭を抱えたくなった。欒枝もよもや、この男が教養儀礼含め全てを独学で身につけたなど、思うまい。趙衰の書痴が生んだ偶然であっても、である。

 士会は確かに天才である。それに比べるとこの男を天才と言うのは難しいだろう。しかし、郤缺に比べれば天才に近い。どこまでの研鑽でここまでになるのか気が遠くなるほどであった。

「郤主。私にとってこれは良い機会だと思いました。私は臼季きゅうきよりあなたのことをお伺いしました。冀邑きゆうにて農奴に身をやつしながらも、儀礼を忘れずひんと敬を重んじ、即ち徳あるものと。巷間こうかんにある話もまずそれが最初にあり、敬に篤い方だという話を聞く。私もあなたの敬を感じる。あなたは父の子ではなく、私を見て話して下さっている」

「当然のことです」

 いきなり世間話のように郤缺の評判を語ってくる趙盾が分からず、首をかしげた。趙盾の表情は冷たく薄い、表情の無さが続いている。ゆえに、意図がわかりづらいが、何か話したいという強さは見えた。

「私にはわかりませんでした。不躾を承知でお聞きします。ご不快であれば、趙家の嗣子は無礼で不仁、知足らずと触れ回ってください」

 いや、そのようなことは、せぬ、と笑おうとしたとき、薄い表情と底の見えぬ深い目が郤缺をじっと見ていた。趙盾は口を開き、淡々と言葉を紡いだ。

「何故、貴方は亡命なされなかったのですか? 郤主」

 瞬間、郤缺の頭は白くなった。何を言われたのかもわからぬほどであった。

 目の前の青年は、真っ直ぐと、矢を射るような目で郤缺を見てきていた。彼は嫌がらせでもなんでもなく、そして無神経な問いかけではなく、本気で問うてきているのだ。他国へ亡命し違う君公に仕える大夫としての新たな人生を歩まず、農奴に身を落として旧領に隠れ住んだことを、何故選んだのか、と。

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