第16話 奥底の、底

 政争に負けた大夫はいくつかの道を取る。己の罪を詫びるとして屈服するもの、自害するもの、反乱するもの。そして、他国へ亡命するもの。この時代において貴族の亡命は珍しいことではない。目の前にいる趙盾の先祖も、周の大乱を忌避きひし、評判があがってきた晋へ亡命してきたのである。そのような臣たちによって各諸国は新たな力や血を入れ勢いを増し、小さき国を併呑し続けている。ていなど小国とは言うが、独立している時点で『小さき国』とは言えず、逆に弱国を取り込んでいる。しんせいほどになると大貴族や公族が頼って亡命してくる。大国と言われるゆえんでもある。

 そして、一度国を出て亡命しきってしまえば、もはや故国はその罪を問わぬ。追いかけることもない。この時代の亡命は、そのようにできていた。

 前述したことがあるが、当時はまず当人の仁や儀礼、教養に対して評価が重い。例え手勢がほぼいなくても善き人と認められれば改めて貴族として迎えられるであろう。また、郤缺げきけつには家族がおり、氏族として最低限の面目はたつ。つまり、晋で農奴として隠れなくても、堂々と他国へ亡命する道はあった。実際、驪姫りきに狂った献公けんこうからの暗殺を怖れ、公子たちは外へ一度逃げている。重耳は狐邑こゆうであったが、郤芮げきぜい夷吾いごを連れていったのはりょうという小国であった。そのつてを頼り、梁に亡命する、そんな人生の可能性も郤缺にはあったのだ。

「――わかりませぬ」

 茫然としながら、郤缺は呟いた。己で、目が見開いていることがわかる。趙盾ちょうとんに言われるまで、己が亡命ということを考えなかったという事実に驚きを禁じ得なかった。――父には幾度か進言した己が、己自身になると全く思い浮かぶこともなかった。だが、しかし。

「わかりませぬが、私はこの晋から離れることが狂おしいほど苦痛なのやもしれませぬ。若いあなたには往生際が悪いと思われるでしょうが、冀邑きゆうは我が領地であり郤氏の心の要の場所でもあった。私は、亡命を考えることさえなく、冀邑という場所にいたかったのでしょう。……これでよろしいかな?」

 徐々に言葉を柔らかくしながら、郤缺は趙盾に笑顔を向けた。趙盾はやはり変わらぬ表情で礼をし、

郤主げきしゅの心のうちを踏んでしまったようです、申し訳ございません」

 と、全く申し訳なさが見えぬ真っ直ぐな声で言った。が、どうも本気で申し訳ないとは思っているらしい。損な男だな、と郤缺は柔和な笑みを崩さずに思った。

「私は郤主に無神経なことを申し上げた。しかし、あなたは誠実に返してくださった。郤主の晋への恵愛はいずれ郤氏の栄えになりましょう。ところで、この未熟者の言葉もお聞きいただくこと、お許し願えますでしょうか」

 趙盾が冷たい面持ちのまま、言い放つ。郤缺は、私でよければと促した。

「郤主はご存じであろうが、私は父が狐邑に君公くんこうと共に潜んでいた時に生まれた子となります。私の母は叔隗しゅくかい、文字通りかい氏の三人目の娘でした。妹に末娘で季隗きかいというものがおります」

「君公の妃ですな」

 愛妻と言ってよい。公子もおらずてきの娘でありながら后妃第三位という序列である。重耳の個人的な愛情によるものであった。

 頷いた趙盾は再び口を開いた。

「季隗は男子を一人産みました。叔隗も男子を一人。その、叔隗の子が私というわけですが」

 言い方が少々回りくどいのは父に似ているのかもしれん、となんとなく考えながら、郤缺は頷いた。

が、時々私に言っていたのです。もちろん祖国は愛しいが、別に他の国でみんなで仲良く、平和に、幸せになってもいいのだと」

 一息でなされた言葉に、郤缺は喉奥が鳴りそうになった。狐邑にて、趙盾の従弟の父と言えば、現晋公である重耳しかいない。きっと誰もおらぬ、趙衰さえ見えぬ場所で子供たちにそっと言っていたということか。

 ――晋を捨てても良い、と

 郤缺は枯れた声で、さようで、と小さく言った。

 さて。この、狐邑に亡命した時期の重耳の年齢はいかほどか。国語、左伝にははっきりとした生年の記載は無い。史記には四十路を越えて邑に逃げたとあるが、当時の平均寿命を考えると三十路を越えたあたりに避難したと考えるのが、この作品としては妥当かもしれない。どちらにせよ、趙盾は父に近い年の叔父を、貴人とわかりつつ、『従弟の父』として遊んでもらっていたらしい。

 しかし、目の前の趙盾に『従弟の父』への愛惜は感じられない。彼独特の表情の薄さかと思ったが、趙盾は本気で重耳への感情が平坦であるようだった。

「……従弟の父は、我が父や他の臣を連れて、邑から出ました。叔母には二十五年待ってくれなどと言ったらしい。叔母は笑いながらも待つ気だったようです。私は従弟の父がどこか良き国で臣従の身となり、我らを迎えに来るのを待っておりました。従弟の父は、亡命を望んでました。ええ、祖国を見限ったわけではありません。単にあの人は平穏以外に興味のない方でした。しかし、臣を捨てられぬ方。結局、従弟の父は迎えに来ませんでしたし、私の父も迎えに来ませんでした。従弟は狄としてこれからも生きます。弓と足の速さを自慢していた従弟です、きっと良い戦士になるのでしょう」

 郤缺は、何故亡命しなかったのか、という問いの奥底を覗き、深くため息をついた。今、覇者はしゃとして晋を統べる重耳は、実は祖国を捨てても良いと密かに思っていたのだ。己の主を思い出す。夷吾は必死にくらいついていた。その、執着の差がこの結果なのだろうか。

「我が父と君公は、ひなびて礼も儀もない狄の邑で十二年、そこから各国をめぐり九年を耐え、今、晋を治めておられる。私の問いは子供の感傷です。郤主の大切なものを傷つけてしまったのなら、お詫びしても足りません」

 趙盾が、ほんの少しだけ湿った声音で言葉を紡ぎながら深く頭を下げ謝辞した。郤缺は首を振る。

「若者はそのように悩みをきちんと出した方が良い。心の苦しさを誰にも言わずにおれば、ねじれるものです。君公は季隗は呼んでも、子を公子にはなされなかったのですな。それは……きっとその青年にとっての幸せでしょう」

 郤缺はそこまで言うと、違和感に気づいた。重耳は狄の子を迎えに来なかった。しかし、趙盾はこうも言った。父も迎えに来なかった、と。

趙孟ちょうもう。つかぬことを聞く。あなたはここにおられる。お父上はお迎えになられたのではないか?」

 趙盾の言葉はおかしかった。迎えに来られなければ、趙盾は晋人ではなく、やはり狄の子として一生を終えるしかない。それを問われた趙盾はうっすらと笑んだ。それは、花が少しほころぶような瑞々しい微笑であった。

「君公から我が家に嫁がれた君姫くんきの差配です。君姫は我ら親子をお呼びいただき、私を嗣子ししとお認めくださった。仁愛の方です」

 そこまで言うと、すっと笑みが消えた。本人は笑んだ自覚もないのであろう。そして郤缺が困惑していることにも気づかぬようであった。我が家の些事さじです、と小さく述べ、姿勢正しく座っている。

 趙衰ちょうしはわかっているのか、いやわかっているにちがいない。郤缺は目の前の若者をさとすべきかと思ったが、自覚の無いものにはどうしようもない。

「……趙孟は君姫を敬い尊んでることは素晴らしきこと、父君のしょうへ礼をもって接するは善きことです。これからも、その心を忘れぬよう」

 郤缺はせいいっぱいの言葉をかけた。善き言葉、ありがとうございます、と趙盾が丁寧に礼をする。ああ、そうではないだろう、と思い、趙盾の異常なほどの研鑽とは違う意味で頭を抱えたくなった。

 この男は、父の妻に恋をしているのである。しかも、この年齢であるというのに己で気づいていない。重耳の年を考えると、君姫は趙衰より趙盾に近いであろう。

 この青年は真っ直ぐでありながら、どこか歪んでいる。教養もあり、まつりごとに関しても高い識見を持っている。人に対する敬も礼も素晴らしいが、表に出る感情は薄い。何より、まず己のことに鈍感である。己の感情に鈍感な人間は、他者の感情にも鈍感になる場合がある。

 損な男どころではない。極めて危うい。

 欒枝が言う、権勢に近いものという評価は間違っていない。まず、有能さが滲み出るほどである。趙氏という強い後ろ盾もある。この男は諦めるということを考えず、冷静に国を動かしていくであろう。しかし、国は儀礼と理だけでは動かない。もっといえば、政治は感情でできているのだ。彼は、それが、きっと、わかっていない。書ではそれはわからぬ。

「趙孟。この後、欒伯らんぱくよりご教示いただくことは深く刻み込みなさい。欒伯はこの血風吹き荒れる晋を支えた方のお一人。そして、その血はよくより続き、常に君公の近くにおられた一族の末です。あなたに二心無き貞節と共に、まつりごとについてお教えになるでしょう。あなたは欒伯をご尊敬されているとのこと、良き心がけだと思います」

 郤缺が話を変えたく、欒枝をダシにした。趙盾が、頷いた後、

「あの方は私をまだ子供と見てはおりましたが、その訓戒はまぎれもない真心でした。あの時の私はまだ未熟で欒伯の言葉を飲み込むのに精一杯でした。その強き力をひけらかすこともなく、人を圧することもなく、慎ましい方だと思いました。何より、陰口をおっしゃられなかった」

「陰口?」

 郤缺の思わず出た問いに、はい、と応じ

「成人の儀にて挨拶回りをいたしました帰り、宮中で迷いました。皆様がそれぞれお話ししているのが聞こえました、大きな声でしたので。氏、せん氏は私を頭でっかちでかわいくもない小僧と陰で言い、しょ氏は狄の子が父の余光でと苦笑しておりまして、まあ臼季きゅうきは止めておりましたが否定もしておりません。欒伯だけがそのような卑しい言葉をおっしゃっていなかった。ゆえに、皆が言う貞節は間違いない、もう一度ご教示いただきたいと思っておりました」

 と、酷薄な笑みを一瞬浮かべて言い切った。切れ味の鋭い刃物のような笑みであった。

「父はあのような卑しい行為はいたしませんが、まず私に興味がない。私も父のようなものに興味はありません。私は欒伯の沈毅さ、落ち着き、そして誠実さを学びたいと思うのです。しかし、欒伯があなたを師として教えを乞うようおっしゃったこと、私だけではなく趙氏の栄えとなりましょう。良い言葉をたくさんいただいた」

 最後、やはり薄い顔へと戻っていた。趙盾は、各氏が揶揄した理由がわからぬであろう。つまり狐邑で生を受けたときから、重耳の臣どもは趙盾を嗣子と見ていなかったということである。欒枝らんしは、そもそも趙盾に興味がないため、その蔑視は無い。それだけの話だが、その真実も彼には酷な話ではある。

「……趙孟。もしまた惑い迷い、そして研鑽したいときにお困りであれば、この郤主もお力になりましょう。年長は若者を正しき道へ導くが本義。私は非才卑職の身なれど、お支えできれば嬉しい限りです」

 するりと、知らず郤缺の口から言葉がこぼれ出た。己でも驚く思いであった。この青年を手駒にしろと欒枝が言っていた。そんなことはしたくないと突っぱねていた郤缺である。ゆえに、この男を操りたいわけではない。ただ、この危ない生き物を放ってはおけぬと思ったのだ。

 狄の邑に九年間たった一人の晋人として生きようと決めた少年がいたのである。父が迎えに来ねば無駄になる研鑽を独りやり続けた彼は、孤独を無自覚に抱えている。そこに花を添えたのが父の第二夫人であるのだから、惨い話ではあった。そして己の孤独も恋もわかっていない。ゆえに、危うさがある。

 言ってしまえば、郤缺にこれは見てられぬ、せめて見守ろうという思いやりが生じた。

 趙盾が薄い表情のまま、それはありがたいこと、と口を開き

「父にあなたと書簡のやりとりや、お伺いすることをお許しいただくことにします。私の儀礼を褒めてくださったのは、あなたが初めてです。ずっと心に留めおきたいと思います」

 と、やはり見事な頓首とんしゅをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る