第16話 奥底の、底
政争に負けた大夫はいくつかの道を取る。己の罪を詫びるとして屈服するもの、自害するもの、反乱するもの。そして、他国へ亡命するもの。この時代において貴族の亡命は珍しいことではない。目の前にいる趙盾の先祖も、周の大乱を
そして、一度国を出て亡命しきってしまえば、もはや故国はその罪を問わぬ。追いかけることもない。この時代の亡命は、そのようにできていた。
前述したことがあるが、当時はまず当人の仁や儀礼、教養に対して評価が重い。例え手勢がほぼいなくても善き人と認められれば改めて貴族として迎えられるであろう。また、
「――わかりませぬ」
茫然としながら、郤缺は呟いた。己で、目が見開いていることがわかる。
「わかりませぬが、私はこの晋から離れることが狂おしいほど苦痛なのやもしれませぬ。若いあなたには往生際が悪いと思われるでしょうが、
徐々に言葉を柔らかくしながら、郤缺は趙盾に笑顔を向けた。趙盾はやはり変わらぬ表情で礼をし、
「
と、全く申し訳なさが見えぬ真っ直ぐな声で言った。が、どうも本気で申し訳ないとは思っているらしい。損な男だな、と郤缺は柔和な笑みを崩さずに思った。
「私は郤主に無神経なことを申し上げた。しかし、あなたは誠実に返してくださった。郤主の晋への恵愛はいずれ郤氏の栄えになりましょう。ところで、この未熟者の言葉もお聞きいただくこと、お許し願えますでしょうか」
趙盾が冷たい面持ちのまま、言い放つ。郤缺は、私でよければと促した。
「郤主はご存じであろうが、私は父が狐邑に
「君公の妃ですな」
愛妻と言ってよい。公子もおらず
頷いた趙盾は再び口を開いた。
「季隗は男子を一人産みました。叔隗も男子を一人。その、叔隗の子が私というわけですが」
言い方が少々回りくどいのは父に似ているのかもしれん、となんとなく考えながら、郤缺は頷いた。
「
一息でなされた言葉に、郤缺は喉奥が鳴りそうになった。狐邑にて、趙盾の従弟の父と言えば、現晋公である重耳しかいない。きっと誰もおらぬ、趙衰さえ見えぬ場所で子供たちにそっと言っていたということか。
――晋を捨てても良い、と
郤缺は枯れた声で、さようで、と小さく言った。
さて。この、狐邑に亡命した時期の重耳の年齢はいかほどか。国語、左伝にははっきりとした生年の記載は無い。史記には四十路を越えて邑に逃げたとあるが、当時の平均寿命を考えると三十路を越えたあたりに避難したと考えるのが、この作品としては妥当かもしれない。どちらにせよ、趙盾は父に近い年の叔父を、貴人とわかりつつ、『従弟の父』として遊んでもらっていたらしい。
しかし、目の前の趙盾に『従弟の父』への愛惜は感じられない。彼独特の表情の薄さかと思ったが、趙盾は本気で重耳への感情が平坦であるようだった。
「……従弟の父は、我が父や他の臣を連れて、邑から出ました。叔母には二十五年待ってくれなどと言ったらしい。叔母は笑いながらも待つ気だったようです。私は従弟の父がどこか良き国で臣従の身となり、我らを迎えに来るのを待っておりました。従弟の父は、亡命を望んでました。ええ、祖国を見限ったわけではありません。単にあの人は平穏以外に興味のない方でした。しかし、臣を捨てられぬ方。結局、従弟の父は迎えに来ませんでしたし、私の父も迎えに来ませんでした。従弟は狄としてこれからも生きます。弓と足の速さを自慢していた従弟です、きっと良い戦士になるのでしょう」
郤缺は、何故亡命しなかったのか、という問いの奥底を覗き、深くため息をついた。今、
「我が父と君公は、
趙盾が、ほんの少しだけ湿った声音で言葉を紡ぎながら深く頭を下げ謝辞した。郤缺は首を振る。
「若者はそのように悩みをきちんと出した方が良い。心の苦しさを誰にも言わずにおれば、
郤缺はそこまで言うと、違和感に気づいた。重耳は狄の子を迎えに来なかった。しかし、趙盾はこうも言った。父も迎えに来なかった、と。
「
趙盾の言葉はおかしかった。迎えに来られなければ、趙盾は晋人ではなく、やはり狄の子として一生を終えるしかない。それを問われた趙盾はうっすらと笑んだ。それは、花が少しほころぶような瑞々しい微笑であった。
「君公から我が家に嫁がれた
そこまで言うと、すっと笑みが消えた。本人は笑んだ自覚もないのであろう。そして郤缺が困惑していることにも気づかぬようであった。我が家の
「……趙孟は君姫を敬い尊んでることは素晴らしきこと、父君の
郤缺はせいいっぱいの言葉をかけた。善き言葉、ありがとうございます、と趙盾が丁寧に礼をする。ああ、そうではないだろう、と思い、趙盾の異常なほどの研鑽とは違う意味で頭を抱えたくなった。
この男は、父の妻に恋をしているのである。しかも、この年齢であるというのに己で気づいていない。重耳の年を考えると、君姫は趙衰より趙盾に近いであろう。
この青年は真っ直ぐでありながら、どこか歪んでいる。教養もあり、まつりごとに関しても高い識見を持っている。人に対する敬も礼も素晴らしいが、表に出る感情は薄い。何より、まず己のことに鈍感である。己の感情に鈍感な人間は、他者の感情にも鈍感になる場合がある。
損な男どころではない。極めて危うい。
欒枝が言う、権勢に近いものという評価は間違っていない。まず、有能さが滲み出るほどである。趙氏という強い後ろ盾もある。この男は諦めるということを考えず、冷静に国を動かしていくであろう。しかし、国は儀礼と理だけでは動かない。もっといえば、政治は感情でできているのだ。彼は、それが、きっと、わかっていない。書ではそれはわからぬ。
「趙孟。この後、
郤缺が話を変えたく、欒枝をダシにした。趙盾が、頷いた後、
「あの方は私をまだ子供と見てはおりましたが、その訓戒はまぎれもない真心でした。あの時の私はまだ未熟で欒伯の言葉を飲み込むのに精一杯でした。その強き力をひけらかすこともなく、人を圧することもなく、慎ましい方だと思いました。何より、陰口をおっしゃられなかった」
「陰口?」
郤缺の思わず出た問いに、はい、と応じ
「成人の儀にて挨拶回りをいたしました帰り、宮中で迷いました。皆様がそれぞれお話ししているのが聞こえました、大きな声でしたので。
と、酷薄な笑みを一瞬浮かべて言い切った。切れ味の鋭い刃物のような笑みであった。
「父はあのような卑しい行為はいたしませんが、まず私に興味がない。私も父のようなものに興味はありません。私は欒伯の沈毅さ、落ち着き、そして誠実さを学びたいと思うのです。しかし、欒伯があなたを師として教えを乞うようおっしゃったこと、私だけではなく趙氏の栄えとなりましょう。良い言葉をたくさんいただいた」
最後、やはり薄い顔へと戻っていた。趙盾は、各氏が揶揄した理由がわからぬであろう。つまり狐邑で生を受けたときから、重耳の臣どもは趙盾を嗣子と見ていなかったということである。
「……趙孟。もしまた惑い迷い、そして研鑽したいときにお困りであれば、この郤主もお力になりましょう。年長は若者を正しき道へ導くが本義。私は非才卑職の身なれど、お支えできれば嬉しい限りです」
するりと、知らず郤缺の口から言葉がこぼれ出た。己でも驚く思いであった。この青年を手駒にしろと欒枝が言っていた。そんなことはしたくないと突っぱねていた郤缺である。ゆえに、この男を操りたいわけではない。ただ、この危ない生き物を放ってはおけぬと思ったのだ。
狄の邑に九年間たった一人の晋人として生きようと決めた少年がいたのである。父が迎えに来ねば無駄になる研鑽を独りやり続けた彼は、孤独を無自覚に抱えている。そこに花を添えたのが父の第二夫人であるのだから、惨い話ではあった。そして己の孤独も恋もわかっていない。ゆえに、危うさがある。
言ってしまえば、郤缺にこれは見てられぬ、せめて見守ろうという思いやりが生じた。
趙盾が薄い表情のまま、それはありがたいこと、と口を開き
「父にあなたと書簡のやりとりや、お伺いすることをお許しいただくことにします。私の儀礼を褒めてくださったのは、あなたが初めてです。ずっと心に留めおきたいと思います」
と、やはり見事な
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます