第14話 出会いの風

 さて、話は初夏に戻す。郤缺げきけつは久しぶりに欒枝らんしの別宅へ赴くことになった。今回、情人の部分があるのか無いのかはわからぬ。特に期待していたわけでもなかったが、欒枝がどのようなかおを見せてくるのか微妙に楽しみにしていたことに気づき、郤缺は苦笑した。誰かを紹介するという話である。名を入れていないということは、複数の氏族などと会食でもするのであろうか。初夏の風は相変わらず強く、黄砂避けの覆いがバタバタと揺れた。どうしても砂が馬車の中に入ってくるが仕方があるまい、それがしんという国なのだ。郤缺は暇つぶしに持ってきた周書しゅうしょを開いて読むことにした。時間はたっぷりあった。

 予定通りに欒枝の別邸に着き、相変わらずの洗練された丁重さで主の室に通される。互いに儀に則った拝礼を行った後、欒枝が、

「久しぶりだ、郤主。息災で何より」

 と爽やかに笑った。郤缺は、最近身に付いてきた他者への勘と欒枝への慣れで

 ――これはかなり機嫌が悪い

 と察した。別段、欒枝は機嫌が悪いと笑顔になる、というひねくれた人間では無い。どちらかといえば他者が不快になるような己の負の感情を、見せぬよう努力する傾向がある。彼はそれを一人で処理――例えば日記などか――しているのではないか、と郤缺は思っている。怒りか不快かは知らぬが、彼なりに散らそうとしたにも関わらず、収まってないようであった。

「これを見てくれ、郤主」

 欒枝は笑顔のまま、傍らに置いていた竹簡ちくかんを二人の間に乱暴に放った。かちゃりと音がして、竹簡が軽く跳ね上がる。郤缺は何が起きたかわからず茫然とした。欒枝がため息をつき、一瞬だけんだ目を竹簡に向ける。と、あわてた様子でそれを両手でかき集めるように掴み、元あった己の傍らに置いた。

「……すまぬ。どうも、気がそぞろであったようだ」

「……見なかったことにいたします」

 郤缺も我に返って呟いた。今度の欒枝は、竹簡の傍にあった布を互いの間に敷いた後、袖越しに竹簡を持ち、布の上に置いた。

「私に当てられた書だ。読んでおくれ、郤主」

「よろしいので?」

 他人への書簡を読ませるのは、欒枝ではなく送り主への非礼であろう。しかし、欒枝はうむをいわせぬ強さで、読んでくれ、と言う。郤缺はしぶしぶ欒枝と同じ作法で竹簡を取ると、まとめていた紐を解いて開いた。

「……これは……。『二人分』を繋げてらっしゃる。分けられておられぬのか」

 ざっと入ってきたのは、違う筆蹟という印象であった。前半と後半が違う。

「それは後半が息子だ。父が存命であるため、私へ個人的に当てるは非礼とでも思ったのだろう。が、もう成人して数年の男なのだから、父の許可の元、嗣子ししとして書を送らせてやればよかったのだ」

 欒枝が苦笑し呆れた顔をする。が、これは呆れているわけではなく苛ついている。郤缺は気づかなかったことにした。

「こちらのお父上はご許可をとられなかった。欒伯らんぱくの格を考えればいたしかたないでしょう」

 そう返しながら竹簡の文字へと目を滑らせていく。前半は挨拶と頼み事、後半は挨拶とご教示の願い。どちらも見事な蹟である。前半は端麗、後半は壮麗といったところで、双方の人間性がわかりやすい。

ちょう子余しよと、その嗣子ですか」

 郤缺は少し首をかしげながら呟く。親子共に繋げていることはこのさいどうでも良い。特に礼には反しておらぬし、逆に主でもない嗣子が許されたとて格上の家長に書を送る方が礼から外れることもあろう。まあ、欒枝は己より上の格が晋公しかおらぬ身、過保護の親のように見えるのやもしれぬ。

 それよりは、内容である。

 なんと、驚くほど、たいした内容ではなかった。趙衰ちょうしは非の打ち所の無い礼を込めた挨拶に、欒枝の物持ちの良さを讃え、書物をいくらか貸して欲しいと慎み深く請うている。息子は、やはり非の打ち所の無い挨拶に、欒枝の貞節さを敬い、ご教示頂きたいと謙虚に願ってきている。貴族が嗣子を有力者に挨拶させることはよくあることである。珍しくはない。

「趙氏は嗣子の成人の儀で、ご挨拶回りはできなかったのですか?」

 書を借りる口実で、趙衰は欒枝と嗣子を会わせたいのかと考えたのだ。しかし、そこまで遠回しにしないといけないような嗣子なのかと郤缺は眉をひそめた。

「その儀はきちんと行っている。けい全員へ挨拶に回り、言葉をいただいておったよ。私も言祝ことほいだ。二十歳にして威儀を備えた嗣子だ。我ら老人に対しての慎み深さは心のうちからきちんとあり、作法も完璧、見目も良い若者であった、母に似たのであろう。そして、才気煥発という言葉が合う」

 穏やかに話す欒枝が、言外に趙衰の息子を嘲笑したことに気づき、郤缺は苦笑した。聞いている郤缺もその場におれば、嘲笑とまではいかないが困惑の笑みを浮かべたに違いない。趙衰の嗣子は、礼や謙譲の作法が完璧でありながらも、才の強さを隠せず見せ続けたのであろう。気負いすぎたのか、圧の強い性格なのか。

「趙子余とはあまり似ておりませんか」

「似ておらぬ」

 欒枝がくつりと笑い、即答した。顔だけではなく中身も、ということである。郤缺はするすると竹簡を丸めると再び紐でとじた。そっと布の上に置き、欒枝に返す。竹簡には趙子余と、趙孟ちょうもうとあった。たしか――

「趙の嗣子は貴方の嗣子と同じ名でしたな、欒伯」

「ああ、同じ『とん』だ。我が子よりあちらのほうが才があるのが少々口惜しくはある。それで、だ。この親子がこの邸に来るのは明日だ」

 欒枝がとんでもない事を言う。それでは私はこの辺で、と下がろうとすれば、強く腕を掴まれ、底光りのする眼で笑顔を向けられる。

なんじは常に己が小者、卑職と権勢に遠いことを嘆いておった」

「嘆いていない、ただの事実です」

 郤缺はわざと曲解した言葉を吐く欒枝を睨み付けた。欒枝も珍しく睨み返してくる。

「嘆いていることにしておけ。私が汝に押しつけている氏族は言わば債務よ。それは分かっておるだろう? 確かに使いようによっては有用な武器であるが、間違えれば汝は亡ぶ。ゆえに汝に手駒をやる。情人に貢ぐは囲う男の甲斐性というもの」

 力を抜いて郤缺は欒枝をまっすぐ見た。欒枝は目をそらすことなく受け止め、ゆっくりと手を離すと、柔らかい笑みを浮かべた。郤缺は息を吐いた。

「あ。趙孟に侍れというわけではないぞ」

 何かに気づいたように半ば本気の顔で、しかも手振りをつけて言う欒枝に、郤缺は、わかってますと呆れた顔をする。

「そんなに、趙孟を買いますか。権勢に近いものと」

「趙子余の余光で卿にはなるだろう、そこは私の息子と同じだ。しかし、磨けばそれ以上を行く。我ら卿の子で、あのものだけが突出している」

せん氏は。すでに嗣子もまつりごとに力添えされていると聞いております」

 郤缺の言葉に、欒枝は笑みを浮かべたまま頷いた。

「先氏は確かに悪くないが、守勢の質が強い。悪くないで終わる嗣子だ。何より先氏の地盤は強くない。ちょう氏は趙子余が末子、武公ぶこう時代から重鎮だった本家は今も健在であり、関係も良い。晋の先を担う中心に趙氏は必ずいる。それを今から抑えておけという話だ」

 滔々とうとうと話すと、欒枝は竹簡を取り己の傍らに再び置いた。

「……これは誰が謀ったのでしょう? あなたが趙氏を呼び寄せたのですか?」

 あまりにも出来過ぎていた。親子二人が来るから偶然を装い会え。その親子が来るほど、欒枝と趙衰の仲が良いとは聞いたことがない。欒枝は趙衰を褒め、郤缺にああなれと言ったが、そこに特別な暖かみは無かった。

「趙孟が私を尊敬しており一度教えを請いたい、と父に願ったらしい。私としては成人の儀以後、あまり会っておらぬゆえ、それならと快諾したら、余計な者がついてきおった」

「は?」

 最後の、余計な者という声音に苦味を感じ、郤缺は欒枝をまじまじと見た。苦々しい顔をした欒枝が、

「趙子余だ。あの男、我が邸の書をぜひ見せてくれ読ませてくれ貸してくれ共に伺いますと息子の願いに乗じて書簡を送ってきた。そうだ、我が家は古い。古いゆえ、物持ちであり、書も多い。この別邸は書庫でもある。郤主よ。この男は息子にかこつけて己の趣味を満喫するために『親が子を連れて行きます、よしなに』という書簡を送ってきたのだ、あの書痴が!」

 欒枝は早口で言い切った後、すまぬ、取り乱した、とばつが悪そうに小さく呟いた。少々疲れた目をしている。

 郤缺はもはや我慢ができず、膝を打ち声を立てて、笑った。

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