第59話 甘やかな腐臭
晋は覇者であり、当然詰問せねばならぬ。翌年正月早々、この問題について、
「先年も申し上げましたが、私は外交の場から一歩退いた身。このたびのこと、
荀林父が妙に情けない顔をして郤缺を見た。
「宋の内紛は極めて重要です。君を弑すということ、許されません。いずれ我が君を盟主として各諸侯と共にお話をいたします。その前に一度しっかりと宋を詰問をする必要があります。これは外交を担当される荀伯が私は良いと思う。ただお一人で伺うは他国に疑念を持たれる、各国大臣の方々にお声かけされるがよいでしょう」
「そうであれば、私からも荀伯を支え、東国のまつりごとを差配する方々との橋渡しをしてもよろしいか、
「よろしく頼む、
荀林父の頭上で趙盾と郤缺がぽんぽんと話をすすめ、まとめてしまった。荀林父もさすがにバカではなく、二人の意図はわかっている。趙盾が出れば晋の威勢を賭けねばならず、引き下がることができなくなる。先年の
「お支えするゆえ、ご不安あればなんなりとおっしゃって下さい」
郤缺は荀林父に笑んだ。お願いします、と荀林父が半泣きのような笑顔で返した。むろん、郤缺は支えると言った以上、違えるつもりはない。晋は内政干渉をしないと数年にかけて見せている。しかし、宋の問題は内政干渉以外で解決はできないであろうし、たとえ晋の思うがままに差配しても遺恨は必ず残る。つまり、失敗のために各国宰相を引き連れて宋に交渉へ行かねばならぬ。覇者の仕事と言えばそれまでであるが、それにしても全く旨味がない。荀林父も災難である。郤缺はさすがに同情したが、それはそれとして、適任であると思っていた。趙盾もそう思ったから、さっさと話をまとめてしまったのであろう。
趙盾はもちろんのこと、郤缺も
「
「恐れ入ります、我が君。そのように差配すべく、本日議にあげましてございます。宋のこともございます、ぜひ我が君にはそのご尊顔を諸侯にお見せ頂きますようお願い申し上げます。各国を集めますゆえ、夏になりましょう。また、その前に我が国の威を知らしめるため、三軍の閲兵をいたします。我が君におかれましても各軍将佐、大夫をお確かめください」
趙盾が拝礼し言上した。夷皋に一言も相談なく、趙盾は決めてしまっている。夷皋にとって極めて不快であったが、それをつっぱねても話は動き、結局頷かざるを得ない。夷皋はせめて君主らしい言葉を吐きたかった。
「……会盟に
夷皋の言葉に趙盾が目を少ししばたかせた。薄い表情のまま
「来させます」
とだけ返した。趙盾は、夷皋が鄭の帰趨に心を痛めたのだと思い込んだ。夷皋は鄭が来ぬなら不敬、来るなら厚顔だと鼻を鳴らした。
宋の問題は想定通り、失敗に終わった。荀林父は
趙盾は何事も遺漏無く進める実務家である。夏の三軍そろえた閲兵もつつがなく終わらせた。
「これが我が軍か」
夷皋が少々浮かれた声で趙盾に言った。趙盾はぬかずき、
「さようでございます。全て
しずしずと返した。夷皋の錯覚は国の力こそ己の偉大さと思ったことであり、趙盾の愚かさは夷皋を名君の質があると断定していることである。
その夷皋が、意気軒昂とした気持ちで臨んだ会盟である。再び、鄭国内の
先年の賄賂事件を払拭するが如く、夷皋は威容を以て参じたと、本人としては思っている。周りから見れば、若者が気負ってやってきた、という印象であった。儀式にいたるまで介添えの趙盾が差配しており、重要な決めごとも各国の介添えと趙盾が行っていた。夷皋も含め、諸侯は表向きの挨拶ていどしかやることがない。それでも、夷皋にとっては初めての外交である。初回は己でぶっ壊したのであるが、そこはそれとしてやろう。
「私どもの国での騒ぎ、ご面倒おかけしております。このたびの会盟は我が宋に関してのご相談もあると伺っております。内向きのことで覇者である晋公の手をわずらわせたこと、謹んでお詫び申し上げます。もし、何かご入り用のものがございましたら、なんなりとお申し付けください」
宋が挨拶を申し入れ、宋公鮑がぬかずいて言った。夷皋は、宋が君主を殺し新たな宋公を据えたことに不快さを覚えていたが、鮑の慎ましい姿に一瞬で氷解した。柔らかな笑みは気品に溢れ、その言葉は篤実に満ちている。ただ、最後の一言で夷皋は慌て、手で制した。
「入り用のものなど無い。わ、我は進物はいらぬ!」
鮑はそれで察したらしい。賄賂をとったことを後悔しておられる、省みる君主と過大評価もした。実際は趙盾の圧迫を逃れたい一心である。
「晋公の寛大なお心、我が国の喜びといたしましょう。先代はついぞ心からお仕えすることかないませんでしたが、私は宋公として二心なく、晋のお力になる所存です」
鮑はただ誠実なだけでなく政治がわかる。そっと宋昭公が晋に逆らっていたというていでぬかずいた。夷皋はもちろん気づかぬ。清流のような鮑の声音に満面の笑みで頷き、我が晋は宋をこれからも信じよう、と返した。この一言で宋の君主殺しは正当であると認められたこととなった。軽率といえば軽率な言葉であったが、後で知った趙盾は諫めなかった。宋に対してはそれで行くしかない。事前に一言相談して欲しかった、というのが本音であるが、もう夷皋は口から出してしまったのである。方向性は間違っていないゆえに諫めにくかった。
問題の焦点であった宋にさえ挨拶を許した夷皋であったが、鄭には許さなかった。門前払いを食らった鄭は趙盾に泣きついた。鄭が会盟の地を提供した上でこの仕打ちは国辱と言ってよい。
「我が君は正義感のお強いかたです。行き違いも少々あったのでしょう。もう一度、挨拶を申し出てはいかがか」
趙盾の鄭に対する言葉も冷たすぎた。鄭が正しくないため会いたがっていない、と言わんばかりである。実際、趙盾は鄭に厳しさがある。郤缺から晋に対する冷えも聞いていた。ここで強く縋り付いてもらいたいというのが本音であった。鄭にて介添えに来ていた
「我が君。鄭は楚に心を残しているやもしれませぬ。しかし、三度も鄭公がぬかずき、ご尊顔拝したいと頼んでおられるのです。覇者としての度量を見せ、ご挨拶をお受け下さい。会盟にてお顔を見せずに儀を行うは、彼の国への侮辱となりましょう」
夷皋は鼻に皺をよせた。趙盾の言葉は諫言のように見せかけた命令なのだと嫌気がさす。実際、趙盾は命令などしているつもりはさらさらなく、鄭だけ閉め出すというのも得策ではないと諫めているのだが、言葉の強さと今までの言動もあって、夷皋はかたくなとなった。
「鄭は我に、会いたいから何でも欲しいものを言ってくれ、くれてやる、と言ったのだ。この我を、あの国も罠に嵌めようとした。賄賂が良くないと言ったのは盾であろう。そして鄭は信用ならぬと言ったも盾だ。我を罠に嵌めようとするような国など、口も聞きたくない」
どす黒い声音で呻くように言葉を紡ぎ、夷皋は趙盾を睨み付けた。趙盾は内心、不快であった。鄭は趙盾に進物の話など全くしておらぬ。もし、夷皋が受け取れば、再度晋の面目は潰れることになったであろう。夷皋が感情的であるが鄭を拒絶するのも仕方無し、とも思った。が、それでは政治は立ちゆかぬ。趙盾は相変わらずの薄い表情で、夷皋へ向いた。
「鄭の行いは褒められたものではございませぬ。しかし、我が君はそれを撥ねのけられた。それは晋の威風を示したもの、素晴らしいことです。だからこそ、鄭を許し拝謁を許すが徳のある君主、つまりは覇者というものです。我が君は徳深いお方、ご挨拶をお受け下さい。諸侯にその徳をお示しください」
淡々となされる諫言に、夷皋は軽く歯ぎしりをした。常はここで、許す、と返している。が、ここで趙盾に従えば、主君としての己は何なのか。だいたい、鄭が面従腹背、信用ならぬと言っていたのは趙盾である。夷皋はその言を受け、己で考え、鄭を攻めてやっている。これは戦争なのだと夷皋は飛躍した思いさえ抱いていた。
「許さぬ! 我は覇者として、鄭を許さぬ。服従するは肌脱ぎし肩を出し、頭を垂れると聞いた。鄭は何度も我が晋を裏切っているのであろう? そのくらいせねば、我は信じぬ」
怒鳴り散らす夷皋に、趙盾はさらに許してやれと言いつのる。夷皋は嫌だ、と返す。もし、
このような時の趙盾は要塞に等しい。士会でさえ論破はできぬ。表情の薄さや淡々とした言葉、そして短気さから考えられぬほどの根性と粘り強さを見せる。夷皋ていどが押し切れるわけもなく、滔々と諫め続ける趙盾の言葉に黙り込んでしまった。最後、おわかりください、という言葉に、夷皋は頷きかけるも、慌てて首を横に振る。
「嫌だ! 我が決めたのだ、
そう言い放つと、室から飛び出してしまった。趙盾は最後まで頷かなかったが、夷皋も退くことなく、鄭は放置され、公的な挨拶も無いまま儀をするはめになった。
鄭の屈辱はいかばかりであろうか。鄭公
夷皋は鄭に対して確固たる国策があって冷たくしたわけではない。たまたま、朝政でわかりやすい問題であり――それがいかに繊細かはわかっていない――己でまつりごとを為したかっただけである。鄭こそ良い面の皮であった。
会盟の後、趙盾に公子帰生から一通の書簡が届いた。それは正式な外交文書である。
それは鄭がいかに晋に尽くし他国へ帰順を進め、務めているか、という書であった。全文が史書にあるが、煩雑なため引用しない。最後に晋楚大国に挟まれた小国の悲しさと苦衷を訴え、
「
と締めている。大国である晋が鄭の苦衷を考えぬなら、鄭は晋と戦って滅亡あるのみ、致し方なし、という悲壮の決意が述べられている。
この文書を夷皋ではなく趙盾に対して送ったところに、鄭が夷皋を飾りと見ていることがありありとわかるのであるが、それよりも書の内容である。議に上げたとたん、全員が眉をしかめた。政治に疎い
その空気に全く気づいていないのが夷皋であった。
「小さき国が刃向かうなど、なんたる無礼か。さっさと軍を出して屈服させよう、我が出る」
夷皋は閲兵で見た三軍を己が率いるという甘美な夢想を抱きながら、はしゃぐように言った。欒盾があからさまに困惑の顔をした。
「この件に関しまして、正卿に届いた書なれど東国のお話は荀伯が取り仕切っておられる。下席から問うが、君公のお言葉どおりに差配できるか伺いたい」
郤缺は夷皋の君命を六卿の議に引きずり降ろした。夷皋が首をかしげたが、己の
荀林父は相変わらずの常識人である。夷皋の命令がいかに非常識かを存分に理解していた。
「鄭は楚から我が国へ身を寄せた小国です。この書はそのことをせつせつと訴え、誠心が通じていないと哀願しております。彼の国が亡びるしかないという絶望を覚えた理由はわかりませぬが、何かしらの行き違いがあったのやもしれませぬ。一度、使者を立てて話し合いをし、互いの見解を擦り合わせた上で、鄭がなおも亡びたいと言うのであれば今度こそ各国諸侯の方々と共に攻め入るのが良いでしょう。その時は君公にご足労いただくことになりますが、よろしいでしょうか」
夷皋は、一瞬何を言われているのか理解できなかった。趙盾の報告でも斉人の口上でもそうであったが、情報が一気に入ると戸惑うのである。少しずつ噛み砕き、今すぐ鄭を誅伐するわけではない、ということだけは飲み込んだ。
「それは――」
「恐れながら言上奉ります、我が君。荀伯の申すこと、道理あり、また我が君の威厳を示すものでございます。荀伯は東国のお世話をしておりますゆえ、鄭からよこされたこの狼藉に等しい書も厳しく問うことでしょう。これは我が君の徳と威を広くお見せできることでございます。ここはお任せくださいませ」
夷皋が言葉を返す前に、趙盾が素早く進言した。夷皋を持ち上げた修辞に満ちていたが、一言で表せば黙って頷け、である。夷皋はそっぽを向いた。趙盾の顔は相変わらず薄い面持ちで、何を考えているのかわからぬ。反面、荀林父は必死な様子が窺えたが、夷皋にとってそこはどうでも良かった。
「……許す」
夷皋はそれだけを絞り出した後、疲れたと言って朝政の中途で抜けた。乱暴に足を踏み鳴らす姿は、とてもではないが青年のものはなく、幼児のようであった。
歩き去る夷皋の背を見て、士会は少しだけ肩をすくめる。夷皋は己の幼い望みが通らぬことに腹を立てたわけではない。体全身で、裏切り者、と思いきり書いてあるようであった。この、宰相を怖れている青年は、同時に宰相の言葉を信じまつりごとを行ったと思っていたのであろう。その宰相に手を撥ねのけられ、悔しい、と言わんばかりである。そのまま趙盾に目を移す。あの、夷皋に過剰な忠義を奉っている正卿は夷皋を酷く傷つけたことに気づいていないようであった。
私室に戻った夷皋は、慌てる寺人や女官どもに、
「熊の掌を食いたい、はようしろ」
とわめいた。熊の掌は以前も記したが二ヶ月かかる。斉人の饗宴で知った珍味であった。この楽しみができたとしても腹立たしさはおさまらぬ。くさくさしていたところを、無責任であるが如才ない
「勇士を募り、その強さを見物してはいかがか?」
と進言した。夷皋は斉の賄賂で貰った戦士奴隷を思い出す。最初はその強さを楽しんでいたが、これは賄賂であると思ううちに嫌気がさし、うっちゃけていた。勇士を募ろうとも、夷皋に自由となる財は無い。無理だ、と呟けば、先辛が
「斉からの賄賂を売り飛ばせば良いのです」
とさらなる進言をする。斉が持ってきた奴隷たちは技術の高さを誇っており、確かに高値で売れるであろう。鄭は良き商人が多い、そちらに話を持っていきましょう、とまで言った。夷皋は先ほどまで鄭を攻めようと言ったくせに、そうせよ、と喜んだ。果たして、夷皋は先辛を通じて腕自慢の勇士を手に入れ、その強さを見物する遊びに夢中となった。それは犬を飼うのと同じに近い。夷皋は
困ったのは胥甲である。夷皋の行いは君主として全く相応しくない。個人的な勇士を寵するなど国の乱れに繋がる。が、胥甲は強く言えぬ立場となっていた。先辛の悪知恵に巻き込まれ、斉に賄賂を押しつけられたのである。騒ぎになってしまったため、逆に返すもできず、助けを訴えることもできぬ。胥甲が賄賂を受け取ったために斉が動いたと勘ぐられるであろう。この後ろ暗さのために、夷皋を諫めるということができなくなってしまった。この時も
「せめて
としか言えなかった。この言葉に夷皋は頷き、良い言葉だと褒めた。胥甲としてはこのような浅知恵で褒められても虚しいだけであった。
鄭の件は冬には無事収まった。晋から
今日は気分が悪い
と休むようにまでなった。むろん、ずる休みである。また、朝政中に飽きたと席を立ったり、つまらぬ、とちゃちゃを入れる。そのたびに趙盾が素早く諫めるが、夷皋は無視をして去っていく。休めば趙盾が私室へ向かおうとするが、衛士と称するものどもが通さぬ。それでも押し通ろうとする趙盾をさすがに士会が止めた。
「固い砦を力技で破るは悪手というものだ。我が君はまつりごとに興味が無くなったわけではない。ただ、やり方がわからず苛立っておられる。まずは時間を置け」
衛士どもから引き離し、言いきかせる士会に、趙盾が冷たく重い眼差しを向けた。常の薄い表情は消え、不快さを表している。この男は別にわざと表情を薄くしているわけではなく、気持ちが表に出にくいだけなのだが、あまりに強い感情となると別である。
「……あなたに何がわかる」
「あんたがわかっていないことは、わかる。君公が鄭を言い訳にしてまつりごとを弄んだことは良くない。が、君公なりに務めようともされていた。もし、まつりごとをどうでも良いと思われるなら、わざわざ断ってお休みになられぬ。朝政を途中で去ったり茶化したりせぬよ。無関心はただ座って頷くだけをするものだ。今は少し頭を冷やせ、趙孟」
士会は夷皋以上に趙盾が頭に血がのぼり周りが見えていないと指摘した。政事においては的確であり行政手腕に陰りはない。しかし、夷皋に対してはいっそ愚直であった。諫言そのものは正論である。が、この場合、正論が正しいとも限らない。趙盾は夷皋に情を添わすこともなく、そして棚上げにもしない。郤缺がいっそ棚上げにしてしまえ、と思っていることを士会は知っているし、趙盾も察しているであろう。
士会の言葉に趙盾は
「あなたに何がわかる」
と同じ言葉をくり返した。今度は、常の薄い表情であった。
結局、趙盾は棚上げせず、諫言もくり返した。夷皋はさらにかたくなになっていく。朝政で公室の財が足りぬ税を増やせと言いつのったり、東国に軍を出して威光を示せと無茶を言い出す。政事が滞ることさえもあった。
「趙孟。我が君はまつりごとの是非がわかっておられぬ様子。
郤缺はさすがに議としてあげ、趙盾を諭した。趙盾が目の奥に強い光を宿し、薄い表情のまま強い声で返す。
「我が君を朝政に出すべきと私に諭したのは郤主であろう。それに我が君はもうすぐ成人であり、幼君ではない。今は少し惑われておられるが、じきに正道を歩まれる。文公、
その場にいた誰もが、どう徳が深くなるのだ、と思ったが、文公や襄公を出されると何も言えぬ。襄公はともかく、文公こそが晋を覇者とした名君である。夷皋は別だと言えば、文公の血も否定することとなる。郤缺は趙盾の拒絶を感じ、引き下がった。この、全身を砦にしたような男は、こうなると動かぬ。郤缺はそれをよく知っていた。――私を殺してでも、晋をお守り下さい。趙盾の言葉である。郤缺はその時が近いのではないかと、思い始めていた。
そのような日々の果てに事件は起きた。
年の暮れに近い冬であった。床からしんしんと寒さが這い上がってくる。趙盾と士会は、宮中を歩いていた。その日、夷皋は朝政をさぼった。体が優れぬ、という言い訳を律儀によこしてくるあたり、やはり政治に未練があるのであろう。趙盾はもちろん夷皋の元へ向かった。それを士会が追いかけたのである。士会はむろん、趙盾を止めるつもりであった。趙盾の言葉は常に正しい。夷皋の体を丁寧に慮ったあと、その体がいかに大切かと懇切丁寧に諭し、君主の体調を鑑みない世話人たちを罰する話まで行く。夷皋はあわててたいしたことはない、と吐露するはめになる。そうなれば、今度は朝政がいかに大切かとこんこんせつせつ諫め、最後に
「我が不徳により、我が君を惑わせてしまったことを深くお詫びいたします」
と締める。一度、趙盾の暴走を止められず、士会はあまりの惨状に頭を抱えたくなった。趙盾は正しいが、相性が悪すぎる。夷皋に一言、
「あなたは悪いことをしている」
とさえ言えば良い。この青年は肩の荷を降ろし、多少は素直になるであろう。もちろん、その言葉は不敬でもあり、ゆえに趙盾は愚かにも礼を守っている。それは君主に対して間違ってはいないが、こと夷皋に対しては間違っていた。
足早に歩く趙盾に、少しは頭を冷やせと士会は諭し、共に歩いた。宮庭を通り過ぎた時であった。女官が二人で
「趙孟、端を見ろ。手が出ている」
その言葉に趙盾も目を見開いた。もっこから、手がぷらりと覗いていた。その手に血の気は無く、どう見ても死体であった。
「そこの女官。何を運んでいる」
趙盾が咎めるように呼び止めた。刺すような声音であった。女官どもは蒼白になり、怯え、とまどいながらも
「君公の命令です」
と返した。子細はこうである。夷皋は熊の掌を食いたいとせかした。料理人はまだできぬ旨を伝えることができず、半煮えの熊の掌を出した。極めて時間がかかるこの料理は、速めることなどできぬ。しかし、夷皋は料理人の手落ちと怒り、殺してしまった。それを捨てるべく運ばせていたのである。当の夷皋は女官からの復命が来ぬと苛立ちながら宮廷にある堂で待っていた。扉を開ければ桃園が見える場所であり、冬枯れしていても景色が良いと気に入っていた。この場で熊の掌を食おうとして半煮えだったのだ、腹を立ててもしかたがない、と彼は逃げもせず女官たちを待っていた。極めて幼稚と言える。
趙盾が大股で歩き出すのを、士会は肩を掴んで止めた。いきなり体を触るのは非礼――などと言っている場合では無い。夷皋はたかが料理が煮えていなかった、という理由で人を殺したのである。わがままやいたずらの度合いを超えていた。そして、趙盾は完全に頭に血がのぼっている。薄く平坦な表情の奥に
「あんたとわたし、二人して共に諫めて聞きいられなければ、もうあとに諫めるものがいなくなる。わたしがまず君公を諫める。それでだめなら、あんたが続けてしろ」
趙盾が俯いた。二人で共に、というが、士会は暗にお前が先にするな、と止めているのである。もっと言えば、お前は出るな、とも取れる。趙盾が、ふ、と小さく息をついたあと、顔を上げて士会を見た。灼熱は収まり、常の顔つきであった。
「あなたの言うことは道理だ。先に君公を諫めてほしい」
士会はようやく趙盾の肩から手を離した。
女官たちを待っていた夷皋は、代わりに堂に入ってきた士会と趙盾を見て驚き、歩き去ろうとした。素早く士会は動き、夷皋の前でぬかずいた。
「え」
夷皋の口から思わず声が出る。なぜ趙盾ではないのか、という疑問が先に出て、目の前のものが誰かわからなかった。その男は平伏したまま何も言わぬ。夷皋は首をかしげたあとに、そうだ士会だ、と気づいた。士会が何も言わぬが責めていることを感じ、夷皋は無視して歩き出した。どこかに逃げたほうが良い、と考えるが、扉の前は趙盾が立っている。たまらず、窓際へ向かった。
士会はそのまま進み、再び夷皋の前で平伏した。夷皋は身をよじってさらに歩き出した。足音しかしない堂内は、重い緊張に満ちた。三度目になると、夷皋は堂の軒先近くにまで追い詰められた。後ろで士会が平伏した空気が伝わる。視線を降ろせば、雨どいが見えた。寒い中での雨どいは水気も無く、どこからか飛んで来た枯れ葉が落ちていた。夷皋は、ようやく士会に気づいた、という顔をしてふり返った。顔を上げた士会の姿から、押しつけがましさは感じなかった。ただ、事実をつきつけるような乾いた詰問が見えた。
「我はあやまちを知っている。まちがったことをした、認める。これからは改める」
ぽつぽつと呟く夷皋に士会はうやうやしくぬかずき、口を開いた。
「人間だれしもあやまちのない者はございませぬ。あやまちを犯しても改めることができましたなら、これほど良いことはございませぬ。詩にも『初め有らざるなし、
噛んで含めるような声音であった。ゆっくりとなされるその言葉は、夷皋の奥底に届くようでもあった。士会の言葉を聞き終えた夷皋が目を泳がたあとせ、扉の前に立つ趙盾に視線を向けた。趙盾は目が合ってようやくぬかずく。夷皋が逃げぬよう、立ち続けていたらしかった。
「会の言葉を喜びとしよう。我は疲れた、休む」
夷皋が小さく呟くと、堂から逃げるように走っていった。夷皋は一度も趙盾に声をかけず、趙盾も口を開かなかった。士会はようやく立ち上がり、息を吐いた。趙盾も立ち上がる。士会を見ずに扉の先を見た。すでに夷皋は去っていたが、趙盾は探すように見ていた。
「我が君は徳を思い出されたか」
趙盾が士会に言った。そのくせ、視線は扉の向こうである。士会は呆れたし、人の顔を見て話せとも思ったが、とりあえず問いに対する返答が先である。
「あの程度で心を入れ替えるわけなかろう。まちがったことをすれば謝れ、反省しろ、これからは二度とするな。子育ての基本であるが、傅も、そしてあんたもやっていなかったと見える。これからそれを叩き込まねばならぬ。徳を思い出すどころではない、まず徳が無い」
徳というものは教育が重要である。たとえ生来のものがあろうが、育てなければ無いに等しい。士会の指摘に、趙盾が振り返り、冷たい笑みを見せた。彼らしくない、妙に荒んだ笑みであった。
「我が君は文公襄公の血を継がれている。
士会は、趙盾を侮蔑そのものの目で見た。この男は有能であり、理を優先し、晋のために尽くし、君公のために全てを捧げている。血腥くはあっても誠心誠意と言えよう。その上で他者も己も道具として見る度し難さがある。そのような士会の趙盾評に、軽蔑に値する男というものが付け加えられた。
――あんたはそんなにおきれいか。
ため息をこらえ、士会は行こうと趙盾に促した。殺された料理人の件を終わらせねばならぬ。彼はれっきとした
趙盾が静かに着いてくる。この宰相はとっくに夷皋が失敗作とわかっていながら、なおも賢君と思い込もうとしている。夷皋への深すぎる愛情のために理を投げ捨てているのだ。士会は情というものも度し難い、とようやくため息をついた。
さて、士会の言葉は正しかった。夷皋は心を入れ替えることはなく、行いは荒れ続け止まらなかった。
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