第60話 壊れゆく絆

 たとえ行い良くなく、もっと言えば幼稚で我が儘で、他人の命に対して頓着しなくなってしまっても、夷皋いこうしん公であった。晋人はかしづかなければならず、けいは尊ばねばならぬ。朝政ちょうせいに時折出ては、宮城を守るために勇士を募れと命じたり、公室の税を増やせとわめいたり、わからぬ外交に口出しをしたり、議を混ぜっ返すような発言をしても、とりあえずはぬかずき、落ち着いたところを趙盾ちょうとんが諫める日々である。趙盾は夷皋と二人きりのみならず、皆の前で諫言するようになった。内容も少々変わった。

「なりませぬ」

 とはっきり言うようになり、また、

「甘言は毒とも言えます。我が君の周囲には貴くないものどもが増えたと聞いております。賢人を用いるは徳の道、寵臣を愛するは国の亡びです。寵臣は甘言で君主を誑かす、それは毒に殺されると同じです。『れいり苓を采る 首陽しゅよういただきと 人のげんす いやしくもまた信ずることなかれ これて旃を舎て 苟くも亦しかりとすることなかれ 人の言を為すもの なんぞ得んや』と申します。首山しゅざん苦菜にがなを摘んできたなどという戯言を信じないように、讒言ざんげん甘言は信じず聞かないことです。甘言を弄ぶものどもなど寵愛せず放逐なさい」

 とも諫めた。夷皋の周囲に勇士と称して格の低い寵臣が増えており、それらが妙なことを吹き込んでいると趙盾は思っており、それはおおむね間違いではない。勇士どもは甘言ではないが、君主が宰相の言いなりになっているのはおかしい、と素朴な言葉で夷皋を励ましている。それは国の全てを見据えた言葉ではなく、匹夫ひっぷの勇ましさであった。夷皋の視野狭窄な言葉を趙盾だけでなく、卿みな苦々しく思っていた。

 夷皋は三度に一度は、改める、とふてくされたように謝るが、口先だけであり改めることなどなかった。士会しかいの諫言は、夷皋に説教を止めさせる方法を教えてしまったようなものである。士会としても苦々しさを通り越して呆れるしかない。そんな夷皋を辛抱強く趙盾は諫めている。夷皋の哀れさは、我が儘を言うだけではなく、彼なりに政事を行おうとしている、というところであろう。わからぬままでも外交に口を出し、議に参加しようと必死なのである。が、わからぬ上に謙譲など持ち合わせていない彼は、癇癪を起こしたり、とんちんかんな意見を通そうとする。

 郤缺げきけつは夷皋を政治的無能者であり迷惑な人間と見なしていた。そのため、夷皋を棚上げせよと再度進言しようとした。しかし、趙盾がその隙を与えない。政堂では他の議を即座に出す。朝政が終わると、郤缺を避ける。邸に押しかけても拒絶するであろう。私邸に来るは私党である、と建前で押し戻されれば、郤缺としても引き下がざるを得ない。趙盾が夷皋を君主と決めた当時、郤缺はその決意を後押しした。そして、趙盾が夷皋のために命をかけるのであれば、郤缺は晋のために趙盾の命を握ると約した。その約定は果たさなければならぬ。少なくとも、郤缺は趙盾を止めなかったのだ、その責はとるべきだと己に課していた。

 澱んだ空気が漂うまま、翌年正月である。夷皋はとうとう成人した。彼の統治は十年を超えたということである。つまり、趙盾も十年以上正卿せいけいをしていることとなる。もちろん、成人の儀を行ったであろうし、祖廟そびょうでも儀式があったであろう。成人になるということは、嗣子ししとしての先を祝うと共に、親の死が近づくということでもある。家を背負う責を父に誓い確かめる儀式でもあった。が、夷皋はとっくに父が死んでいる。彼にとってじょう公は淡く遠い。文公にいたっては記憶にもない。声もない祖先の前で儀を行う虚しさは強かった。

「正月、この良き日に我が君がご成人あそばれたこと、謹んでお喜び申し上げます。桓叔かんしゅくから続く晋の威勢は、今まさに花開いております。また、文公、じょう公と続く覇者として、我が君はお務めになり、民下々にいたるまでその徳を歌わずにはおられません。


 あがれるの水

 白石皓皓こうこうたり

 素衣朱繍そいしゅしゅう

 こうに従わん

 既に君子を見ば

 云何いかんれ憂えんや


 と、古詩にも申しますように、激しい流水に磨かれた白石の如く、苦衷の末に晋はますます潔白となっております。民みな、我が君のご尊顔を拝し奉りましたなら、何も心配なく憂いも無いくこの上のない楽しいことでしょう。また、我が晋の繁栄を、山椒のように香気遠く長く続くとも歌っております。我が君の治世これからも揺るぎなく、長く続くよう、我ら卿一同、支えていく所存でございます。無事本日という日をお迎えになられた我が君の喜びを私の喜びといたしましょう」

 全ての儀を終えた夷皋を、趙盾が政堂でぬかずき、美しい所作で言祝ことほいだ。詩は晋に伝わる古いものであり、夷皋の先祖である桓叔を褒め讃えたものである。相変わらずの薄い表情であり、余人が見れば義務としてか、と眉をひそめたであろうが、趙盾は心の底から夷皋の成人を祝っている。夷皋もそれがわかっており、ゆえに苦い顔をした。政事を全て握っている宰相である。成人したからと言って、夷皋に渡す気などさらさら無いであろう。ただ、成人したことだけをよみしているだけである。

 子が成人するのは、親の死期が早まると言うことだ。それなら趙盾の死もじきに来るということか。そこまで考え、夷皋は総毛だった。趙盾が死ぬ、ということを考えたことがなかったのだ。顔も名も知らぬ料理人ではない。幼少のときから常にいる、親のような男であり、最も身近な人間である。腹が冷え死が生々しくせまり、それが平坦な表情の趙盾と重なる。死ねば良い、と初めて思った。

 趙盾の後、六卿りくけいそれぞれが言祝ぎをした。郤缺は成人となったからこそ、君主として戒めをもつべきだ、という言葉を言った。が、夷皋の耳には入っていないようであった。他のものの言葉も聞こえていない。夷皋の目には趙盾だけしか入っていない。そのまなざしは妙に暗く、正月にも成人の儀にも相応しくなかった。

 夷皋の思ったとおり、趙盾は主権を渡すことはなかった。

 この年、しんおうが死去する。士会を客卿とし秦を勇躍させるはずであったこの君主は、その後何も為すことなく終わっている。秦の弱体はますます進むに違いない。また、せいでは斉公商人しょうにんが暗殺され短い治世を終えた。それでもに対する斉の支配は変わらない。その魯も政変が起こり、公子すいが血腥い策略を経て、斉の威勢を背に権力を握っている。宰相は季孫行父きそんこうほのままであるが、公子遂の存在はますます大きくなったと言って良い。このような情勢下の中、は沈黙している。

 晋としては、秦に気兼ねなく東国への支配を強める機会であった。斉、魯に対しても強く出ることができたであろう。が、全く動いていない。趙盾が外より内を重要視している、というところもあったが、君主の問題が強い。夷皋のわがままが度を超えはじめ、外に目を向けるどころではなかったのである。わがままと言っても、陰惨な行いをしているわけではない。軽率に人を殺すことは士会の諫言以降全く行っていない。しかし、己の領地だからと公室の税を何度も絞り、それを遊楽に使う。高台に登り、弾き弓で人に石を打つ遊びにも耽溺した。幼少のころに行った石投げをまたも楽しみはじめたのである。それぞれ、国を傾けるほどではないが、これからどうなるかわからぬ。そのたびに、趙盾が諫めたが、止まらなかった。

 郤缺は何度か、議にあげた。が、趙盾は取り合わぬ。とうとう、郤缺は罵倒に近い説教をするはめになった。柔らかな笑みと穏やかな口調でなされたそれは、苛烈であった。

趙孟ちょうもうに言上つかまつる。あなたの諫言、正道でありますが、聞き入れぬ君公くんこうは惑いがお強いようです。また、まつりごとを弄び、重税にて民を苦しめておられると、不敬であるが言わざるを得ない。あえて強く申し上げる。趙孟は君公をどうされるおつもりか。襄公は覇者として育てよ、と言葉を遺された。しかし、もはや覇者として務められる器とは思えぬ。これはあなたの責であろう。けん公は大司空だいしくうの忠言をお聞きにならず国を亡ぼす遺言をされた。けい公は忠臣をりくし少数の臣の言葉だけを選び国を亡ぼす行いをされた。襄公は卿に諮らず一部の声だけを聞いて宿将を死なせまつりごとを乱しました。今、君公はあなたの声を聞かず、我らを見ておらぬ。はっきり申せばまつりごとが分かっておられぬ。これはまつりごとの乱れ、国の亡びの道です。文公はみなの声を聞き、忠言を喜び諫言をお受けになられたからこそ、覇者となられたのです。周書しゅうしょが示すに九条の大法あり、その第二に謹んで五事ごじを行うこととある。五事とは、ふるまいは謹厳、言葉は正しく、眼は明らかさを持ち、聴くことはさとくなればならず、思慮は緻密でなければならぬこと。君公はそれらができておらぬ。この第二だけでなく、一から九にわたる九条は国を治める方なら為さねばならぬことです。それを導くはあなたのお役目であるが、果たせておらぬ。しかし、あなたは正卿として正しく国を治めおられる。君公が九条の大法をご理解なさり、五事三徳さんとくを身につけるまで、あなたがまつりごとの舵をとられるがよい」

 はっきりと、夷皋はお前のせいでバカになったのだから、棚上げにして政治をしろ、と言い切ったのである。荀林父じゅんりんぽが、笑みを浮かべる郤缺に目を向け、静かな趙盾を見たあとに、俯いた。彼も襄公の遺言を聞いている。その上で、郤缺が正しいと思った。趙盾がどのように養育を差配したのか知らぬが、君主どころか人間としても落第していると言わざるを得ない。

「おそれながら、末席からよろしいでしょうか」

 欒盾らんとんが口を開いた。趙盾は静かな顔のまま、促した。

郤主げきしゅのおっしゃる言葉は強いものですが、もっともです。君公は成人したにもかかわらず、そのご自覚なく、また、国君としての心構えもお弱い。正卿のお諫めにも耳をかさぬご様子です。ここは正卿がまつりごとの差配をなされ、君公はその姿からお学びいただくがよいのではないでしょうか」

 郤缺の意見とさほど変わらぬが、躾のなっていない子供はいらぬ、という態度がありありと感じ取れる言葉であった。趙盾は表情を変えなかった。欒盾と郤缺を見渡すと、しずしずと口を開く。

「郤主、欒伯らんぱくのお言葉、もっともですが、我が君は成人前より朝政にて六卿の議を聴いております。私のような才ないものを学ばずともあなたがたのお言葉で充分学んでおりますでしょう。また、献公は大司空のお言葉を大切にし晋の威を強くなされました。乱心されたは女人のせい、我が君に卑しい女人はおらぬ。襄公は文公の覇をさらに広めるべく宿老の方々と西方東方とご面倒みられた。襄公を惑わしたような浅知恵の近臣や政治に口出す太后は、我が君にはおりませぬ。恵公は郤主のお父上のお言葉を用いて晋をまとめあげようと務められた。その望み虚しくなったは飢饉や秦との軋轢でございますが、今、晋の財は安定しており秦もおとなしい。何より文公の御世と同じく優れた卿の方々がおられます。虞書ぐしょにもこうございます。『君たるものは君として臨むことの困難を自ら戒め、臣たるものは臣たる責の困難を自ら覚え励めばまつりごとは治まる』と。我が君はまだ若年、まつりごとに慣れておらぬやもしれませんが、我らが支え困難への責と戒めを示し、その徳を信じていきましょう」

 郤缺は腹の奥が一気に重く熱くなった。毒炎が渦巻くというのはきっとこれなのだろう、とまで思った。趙盾は、郤缺の父つまり郤芮げきぜいが、恵公の忠臣であると同時に、道を誤らせたことをもちろん知っている。郤缺が己の親の名を隠して説教してきたことに、あてこすったのである。お前の父が為せなかったからと言って一緒にするな、という罵倒でもあった。また、趙盾は欒盾が無能であることも充分知っている。ゆえに、卿に学んでいるという言葉も、嫌味である。ただ、欒盾はその嫌味に気づかなかったようで、趙盾のかたくなさに困惑しているようだった。

 郤缺が反論する前に、士会が発言を請い、

 頭を冷やせ

 ということを、丁寧に言った。教養に満ちた罵倒のぶつけ合いを事前に封じたのである。朝政はそこで打ち切られた。郤缺は一瞬だけ眉と眉の間をつまんで目を閉じると、腹の熱さを散らした。感情に支配されては、本質を見失う。問題は夷皋の有害な無能さではなく、趙盾の拘りである。みなが政堂をあとにする中、趙盾が足早に歩き去っていく。さぼった夷皋の元へ諫めに行っているのであろう、宮の奥へと進んでいく。郤缺は小走りで追いかけ、趙盾の腕を強く掴んだ。趙盾が少し眉をしかめてふり返った。逃げられなかったこと、そして腕を掴まれたことが不快らしい。その顔を覗きこみ、郤缺は睨んだ。

「お困りのことあれば力になると、おっしゃっていただければいつでも相談に乗ると、ずっと申し上げている。あなたに会った最初から、申し上げている。なぜ頼らぬ」

 郤缺の言葉に、趙盾は顔色を変えなかった。郤缺の手を振り払うと、常の薄い、淡々とした顔を向けた。ゆっくりと丁寧な礼を返してくる。

「私の不徳ゆえ、ご心配おかけした、陳謝を。今のところあなたに相談することなどございません、ご安心を」

 そこに確かな謝辞はあった。が、拒絶もありありと出ていた。

「……はっきり申す。あなたのそれは亡びの道だ。君公を抱いて晋を亡ぼすというなら、私はあなたを殺して晋を守る。その約を果たさねばならぬ。おわかりか」

 郤缺の言葉に、趙盾が薄く笑んだ。

「覚えております。私はこうも申しました。私は亡びますが我が君が徳深い国君になるため務めると。私はまだ亡びぬ、ゆえに我が君は徳のある君公になられます。少し行き違いあるようですが、覇者として立派なお方になられます」

 まるで、郤缺の言葉がわかっていないような返事であった。郤缺がため息をつくと、趙盾は再び歩き、去っていった。郤缺は思わず拳を握りしめた。趙盾は郤缺の言葉の意味がわかって、さらに拒絶したのである。夷皋を棚上げにしろ、という郤缺の言葉は、趙盾にとって捨てろと言われているに等しい。夷皋を捨てろという郤缺を、もはや敵とも思っているのであろう。

「趙孟がその気であれば、仕方あるまいよ」

 思わず呟くと、郤缺も歩き出した。趙盾が捨てざるを得なくなるまで、追い詰めるしかあるまいと、郤缺は思い始めている。それでも趙盾が夷皋に拘るのであれば、それこそ晋のために取り除くしかない。趙盾は己の権力を維持するためであれば血が流れるのも厭わぬ政治家である。が、郤缺も己の手が汚れることなど構わぬ人間であった。

「君主にだけ忠を奉る臣はもういらぬと言ったは……誰であったろうか」

 小さく呟いた声は、風に乗ってすぐに消えた。そうして、年が暮れまた明けた。

 趙盾は本当に誰にも頼らず、夷皋の牙城を削りはじめた。公領への税を重ねて勇士を集め遊楽に耽るといっても、限度がある。元々、趙盾が公領の管理を握っているところに、横から手を出してくるというのも、現実処理能力に乏しい夷皋では難しい。何者かが行っている、と考えるのが自然である。そして、夷皋が侍らしている衛士もどきにそれをする力は無い。彼らは夷皋に浅い進言はしても、実務能力は無いのである。

 ところで、趙盾は人を頼らぬが、人を使うことは躊躇なく行う。また、を見る目が高いことは何度か述べた。ゆえに、最も便利な道具を遠慮なく使った。

「我が君が公領に税を幾度も課し、民がお困りになっているのはみなさまご存じかと思う。ところで、公室のご領地のことです。正卿として私が管理しておりますが、どなたかが勝手に動かしているようです。そのため、我が君が勘違いをされて、多く税が入ってきていると思っておられるご様子。我が君は税の役人に直接命じるようなお立場ではない。そして私は差配しておりませぬ。これは我が君の威光を借りて不正を働く輩がいると断じて良い。こちら本来、私自身が取り調べることなれど、才無く日々の務めにも追われ難しい。そこで士季しきにお願いしたい。至らぬ私を支えて頂きたい」

 趙盾が議にあげたとき、郤缺は常の笑みのまま、少し引きつり、士会は一瞬だけ頬を痙攣させた。夷皋の周辺を内偵しろ、ということである。趙盾が、きちんと言ったぞ、という顔で士会を見てきた。士会が、しぶしぶ、承った、と返す。郤缺は趙盾の矛盾に頭を抱えたくなった。夷皋に主権を渡さず、その力を削ごうとしながら、夷皋を君主として奉り、徳治を望む。成り立たぬ二つを取ろうとしている己の自家撞着に気づいていない。それはそれとして、不正を暴くことは必要であるし、夷皋の自儘が抑えられるのであれば、悪い手ではない。根本的な解決では無いが、と郤缺は呆れながら笑みを浮かべ続けた。

 さて、趙盾の見立てどおり、士会は極めて有能な道具であった。道具扱いされた士会は腹立ち収まらなかったが、己が趙盾の補佐をすると言い出したのである。そこは割り切った。情報収集とその精査に関して、晋どころか春秋時代の誰も及ばぬこの男は、すぐさま先辛せんしんが増税の手配をしているとつきとめた。が、士会はそこで止まらなかった。先辛が行った重税ていどでは、足りぬ。他に財源があるはずである。先辛はせん氏の末端であり、そこから出ている財ではない。集めた情報を脳内で整理しながら士会は

「……この先氏は胥子しょしの配下だ。胥子は了見狭く理屈屋で儀礼にうるさい。このような行いを黙って見過ごすような御仁ではなかろう。さて」

 と、ひとりごちた。

 そうして士会がしつこく洗いだし出てきた事実は、晋にとってとんでもなかった。斉から幾度か賄賂が流れており、晋の内情はつつぬけであった。魯もそれを察し、斉に身を任してしまっている。その賄賂を元手に先辛が夷皋にあれやこれやと進め、夷皋は全く気づかず税収だと思い込んで好き勝手しているのである。先辛という小者はともかく、胥甲しょこうまでも賄賂を受け取っていることに、士会は驚いた。その手の俗気があるとは思っていなかったのである。

 夏の盛り、士会は議にあげた。もちろん、夷皋はいない。

「――と、不正どころではなかった。わたしは胥子およびその部下に関して、罪状を問う立場ではないため、議としてあげる。ただ申し上げることがある。先氏の末端が胥子の下に身を寄せおこなったことゆえ、先季せんきに責は無い。また、君公が衛士えじとされたものどもも、正式に任命されているゆえ解雇するのも筋違いであろう。そのまま維持できぬというなら、君公より辞意を促すよう願い奉るべきだ。この二点、留意いただきたい」

 士会の言葉に、荀林父が唖然とした顔をする。夷皋に斉からの賄賂を受け取らせたバカがいたことと、それに気づかぬ己らに愕然としたのであろう。趙盾が肌に合わぬと賄賂を遠ざけているのと違い、荀林父は賄賂を武器として知っている家系である。

 郤缺も唖然としたかったが、そうも言ってられぬ。まず、趙盾の先手をとらねばならない。

「おそれながら三席であるが、言上つかまつる。胥子の行い、部下の監督怠ったこと、そして君公を惑わした罪は極めて重い。しかし、その罪を開示して罰を与えた場合、君公の恥が知れ渡ります。また、罪を隠して厳罰に処すれば勘ぐられる。胥子には明白な罪で償っていただくが肝要」

 素早い郤缺の言葉に、趙盾が一瞬息を止めた。趙盾のことである、胥甲の罪をつまびらかにし、族滅と処刑をするつもりであったろう。それは夷皋への牽制にもなる。が、郤缺の言葉の方が道理であった。覇者である晋公の足元で賄賂の受け取りと税の不正があったとなれば、威儀はさらに失墜する。

「……郤主のおっしゃることは理があります。明白な胥子の罪、となれば卿をおやめいただいた時のものになるが、あれは戦場での罪になる。私は武に関して疎く、胥子の行いに対してどのような罰であるかわからぬ。卿をおやめいただく以上の罰があれば、伺いたい」

 趙盾が六卿を見渡しながら言い、士会に一度視線を止めた後、最後に郤缺を見た。郤缺は再度口を開いた。

「胥子の罪は秦からの使者のお話を取り次がなかったことです。そのため我が晋は勝機を失うこととなった。かつて趙孟は、卿から君公のお世話へと移る、ということで責をとらせましたが、これは罰ではない。士季を卿にするための方便と、敗戦を軽く見せるための政治的な姿勢でしかございませぬ。胥子は卿として軍令に違反したものです。追放がよろしいかと。追放先は同盟国のどこでもかまわぬでしょう」

 亡命は自ら行うことであるが、追放は己の意志など関係無く、文字通り国から追い出される。東アジアに限らず、古代世界において国払いは、お前など人間ではないと言い切るようなものであった。下手をすれば文明圏からの隔離である。ただ、国を指定しろと言うように、郤缺はそこまでの剥奪を考えてはいない。二度と晋には戻れず、押しつけられた国も用いることはない。そして郤缺の言葉はもう一つの意味がある。罪は胥甲だけであり、胥氏には無い、ということであった。

 郤缺の言葉に頷いていた趙盾に、荀林父が発言を請うた。

「郤主のお言葉、もっともです。胥子は追放し戻さずが良いでしょう。追放先ですが、えいがよろしいかと申し上げます。衛は襄公以降、我が国との同盟を大切にされております。また、衛は楚と接しておらず、我が国の国境に近い場所ですので、同盟をないがしろにされることは無いでしょう。胥子は文公遺臣のお血筋です。かつてお父上である臼季きゅうきは襄公と共に東西の戦場を駈けておられました。衛とも縁がございます、胥子も気安いかと」

 趙盾が軽く目を開いた。郤缺は荀林父を凝視し、士会が興味深そうにしている。荀林父の面持ちは珍しく冷たかった。胥臣が襄公と共に蹂躙した衛へ、胥甲を追い払ってしまえ、とは中々に強気な発言であった。もちろん、衛が長く晋の傘下であること、簡単に楚へなびかぬ地勢であることなど、理に適っている。が、彼らしくなく毒があった。郤缺は荀林父がそうとう怒っているということ、そしてこの男も激怒することがあるのだと今さらながら知った。荀林父は胥甲が賄賂を受け取ったこと、もしくは部下にそれを許していたこと、どちらであろうが許せなかったのであろう。荀林父は賄賂を受け取ることがどれほど国の害になるのか、よく知っている。以前も記したが、荀林父の祖父は賄賂を使い一国を滅亡させた。

 調べあげた士会としても、胥甲に同情の余地なしと見ている。例え斉がむりやり押しつけて来たとしても、報告すべきであった。河曲かきょくの戦いでも胥甲は情報を握りつぶした。今回も知らぬ存ぜぬであった。国家にとって情報は玉璧より重要だと士会は思っている。正しい情報の元に政治も外交も戦争も行われる。間違った情報、欠けた情報では全てが歪む。

 趙盾が、それではそのように奏上する、と言った。つまり決定である。胥甲は河曲で軍律違反をした下軍の佐として罰を受け、衛に追放された。七年も前の罪を理由に追放、という字面は不自然極まりない。しかし、胥甲は言い訳ひとつせずに受け入れ、嗣子の胥克しょこくが当主となった。胥甲の足元に火がついた瞬間に先辛は斉に亡命した。胥甲にしても先辛にしてもその後の消息はわからない。

 夷皋はわけもわからないうちに、口うるさいが存外親切な胥甲と、気持ちの良いことだけを言う先辛が消え、茫然とした。夷皋を謀り、他国へと通じた罪と言われれば納得せずとも理解できたであろう。が、七年前の軍令違反で追放と、どさくさの亡命である。夷皋は趙盾が八つ当たりをしたのだと思い込んだ。この若い君主は、ますます趙盾を疎ましく思い、朝政をさぼることがさらに増え、政堂に姿を現しても政治の邪魔をするだけになってしまった。数え二十一才の彼は、趙盾を困らせることだけが生き甲斐となりつつある。その奥に、趙盾の死を願う思いが膨らみつつあった。

 晋が内部でからまわっているこの時期、反対者を一掃し、足元を固めた楚が勇躍してきた。斉の桓公かんこう小白しょうはく、晋の文公重耳ちょうじに次いで春秋前期に現れた名君、楚の荘王そうおうりょである。そのりょの天才性や透徹な人柄をいち早く知っていた国がある。

 ていである。

 この国は夷皋が賄賂を受け取ったこと、君主殺しをしたそうとはすぐに和睦しながら、鄭には冷たく接してきたことで、晋を頼る気が失せていた。また、太子が楚で一時期過ごしていたため、りょの人となりに信用があった。鄭が縋るような書を晋に送り、誠意を必死に見せていたことは記憶に新しい。が、この国にとって誠意さえ外交の方便である。

 胥甲の追放を晋が決めていたころ、鄭は楚と同盟を結び、その傘下となった。鄭が楚の傘下となれば、鄭と楚に挟まれたちんは極めて危うい。常ならころりと楚に身を寄せる陳であったが、この時は晋から離れぬ姿勢を見せた。晋への誠意ではなく、これ以上楚からの圧迫や屈辱を受け入れたくないのが本音である。

 この年の秋、楚王旅は陳を攻めるべく北上する。

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