第70話 終章

 さて、翌年である。次に迎えたしんきょは成公の息子であり、三十路に入った程度であったと思われる。父親と同じく周で育ったが、こちらは闊達であり、郤缺げきけつから見ると少々腰が軽く見えた。昔、欒枝らんしじょう公をそう評していたことを郤缺は知らぬ。が、似たような印象であったと断言しよう。

「我が君はこのたび晋を背負って立つこととなりました。今こそ戒めを強く願います。上に立つものこそ戒めねばなりませぬ。賢人は寵を得たときにさらに戒めます。不徳のものは寵を得たときに傲るものです。政と徳、既に成ったとしても、史官にえきをさせ道しるべを忘れず、側近には諫める言葉を許して惑いを封じ、市にて民の善き声悪き声を聞き、全てを考察し、己の悪い部分を省み治す。これが戒めです。君主こそがこの戒めを大切にし、その徳と威光を示すよう、伏して願います。また、国の道には九条の大法がございます。周書にいう、五行、五事、八政はっせい五紀ごき皇極こうぎょく、三徳、稽疑けいぎ庶徴しょちょう五福ごふくのことでございます。さて、その五行でございますが――」

 五行はご存じ水火木金土のことであり、言わば世界の成り立ちそのものである。五事は人としての在り方、八政は国の司る政務、五紀は暦、皇極は中道いわば国法、三徳は君主としての姿勢、稽疑は卜占ぼくせんの重要性、庶徴は国君と天候の関係を表し、五福は人として幸いとされるものとなっている。当時、卜占は判断材料として極めて重要な情報であることは以前記した。天候に関してであるが、国君の行いが天候に関わる、という考えはアジアに限らず古代に通ずる価値観である。郤缺はこの全てを丁寧に説明し、それぞれ訓戒を付け加えながら述べていく。つまり、郤缺の訓示は長かった。荀林父じゅんりんぽ士会しかい、息子の郤克げきこくはもう慣れており、趙朔ちょうさくのようなお育ちの良い人間はおとなしく聞いていたが、先縠せんこくあたりになると途中から笑みが引きつっていた。最後まで姿勢変えずに訓示を受け止め続けた拠は、それだけでも褒められて良いであろう。ところで、拠と郤缺の相性がどうであったか。そこはわからない。が、情の薄さは感じられず、この老人と青年はそれなりに上手くやっていたのではないだろうか。

 さて、この時期も、ていをとりあう晋楚しんその報復は続いている。夏にの強さに砕けた鄭が、晋から離れた。むろん、晋としては放置せず、即座に諸侯を率いて鄭を屈服させ、戻している。が、楚王そおうりょも静観する気はなかった。冬に鄭を攻撃したのである。

「私は去年、楚に攻められた鄭を追い払った。が、楚を打ち負かしたとは言えぬ」

 郤缺は議にあげた。前年冬に、楚が鄭を攻めてきたのを、追い払っている。年はもう六十をとうに越えているわけであるから、頑健といえよう。が、郤缺としては衰えを感じていた。楚としっかり構える前にのがしたのだ。結局、楚はたいした痛手なく、今年も北上している。

士季しきに出てもらう。楚子そしは足元を固め、毎年のように鄭、ちんを脅かす。ここでひとつ、思いきり伐ってお引き取り願いたい」

 郤缺の言葉に、士会しかいは、上軍の佐であれど承った、と即答した。楚王は年々力をつけており、なおかつ堅実である。南方の傘下国家が反旗を翻しても即座に抑え、しかも国力に揺らぎもない。楚の興隆は晋の不利である。士会が司令官であるため、上席の先縠は置いていった。代わりに下軍の将である郤克を望んだ。士会としては、氏と共に動けるのはもはやげき氏しかおらぬ、というわけであった。

 この時、士会は鮮やかに勝っている。楚軍を攻めたて、鄭都より引き離し、鄭の国境付近である潁水えいすいまで追い散らし叩き込んだ。楚を率いるりょは凡才ではなく、春秋時代有数の名将であり名君である。その軍も精鋭と言って良い。それを赤子の手をひねるように追い払い、まともな退却もさせなかった士会はやはり天才である。りょの生涯を見ても、ここまでの敗退はこの一戦のみである。この士会の活躍に関しては、郤缺を食ってしまうため、ここで筆を止めたい。ただ、鄭もそして陳も翌年に楚に降った。いかに、晋と楚の圧迫が強かったかわかる話でもある。鄭にいたっては、

 ――晋楚双方徳なく信義なし、ならば我らも義理立てせぬ、攻めてきたほうに従えばよい

 と吐き捨てて楚に従っている。恫喝する晋と暴力を振るう楚に毎年攻められた鄭としては、こうとしか言いようが無かったのであろう。郤缺は素早く鄭と裏で繋がる工作をはじめている。

 郤缺は前述の通り、一度鄭を救いに行ったが、おおむね内政に力を入れており、さらに言えば白狄はくてきとの同盟を主に動いていたらしい。このころようやく、赤狄せきてきに使役されていた白狄の衆どもが、郤缺の呼びかけに応じはじめたのである。

白狄子はくてきしから話も聞いている、和睦したい。従っても良い」

 てきとしての矜持も捨て、服従しても良い、とまで言わせる赤狄の苦役とはどこまでのものだったのであろうか。反面、郤缺の誠意もあった。郤缺は白狄子と何度か話すうちに、屈辱を受けている白狄の衆をなんとかせねばならぬ、という憐れみを持った。白狄子も郤缺の敬に触れ、信用を深めた。郤缺と白狄子が和議を結び、四年ほどの歳月が流れている。互いに友愛が起こるのも不思議ではない。敵同士とはいえ、一つの戦場で相まみえた男同士の感傷もあったのだろう。

 秋に、白狄の衆たちと会うことなった。和睦と服従を兼ねており、会盟にちかいものであったと思われる。この時、晋内で揉めた。どこで会うか、である。白狄子の時は対等の和議であったため、国境で会っている。が、今回は白狄が晋に臣従することとなる。

 郤缺は、白狄の地にて会い誓うことを議にあげた。が、まず荀林父が異を唱えた。

「次席から申し上げます。我が傘下に入る、ということを知っていただくためにも、そして覇者としても、お越しいただき誓いを立てるがよろしいかと言上つかまつります。狄は約束ごとに慣れておりません。それをきっちりと分かっていただく必要がございます。そして晋のゆうに入っていただくためにも、晋にお越しいただくべきです」

 狄に長く関わっていたために厳しい――というわけではない。荀林父は晋人として極めて常識的なことを言っているのである。先縠も追随し、士会も難しい顔をした。

正卿せいけいがやりたいことはわかる。しかし狄は力に寄るものだ。晋は今、絶対的な強者ではない。現状は連れてきたほうが良いとわたしも思う」

 士会にしては歯切れが悪かった。彼は郤缺の考えも思いも分かっている。そして好みもそちらである。が、現実としてうまくいくか、という部分で引っかかっているらしい。郤克はもちろん何も言わぬ。郤克が口を開かぬ以上、趙朔も口を出さなかった。場は、郤缺と荀林父の対立のようになっていった。当時の常識として、荀林父は正しい。本来、強者が弱者を呼びつけるのである。実際、晋は同盟国家が挨拶に来ぬと言って制裁している。その上で、荀林父は狄の特性をあげ、反対した。

「狄は我らの徳を知りません。私どもは人の徳を見て心安まり身を委ねるものですが、狄にそれは通じないのです。彼らはまず力を信じます。郤主げきしゅは確かに敬篤く徳深い方ですが、狄にそれをわかりましょうか。伺うとしてそれが通じましょうか」

 郤缺はすっかり板についた、柔らかな笑みを浮かべ、口を開いた。

「徳でなびかぬときは、勤めることが一番と聞きます。勤めないでどうやって人を求めることができましょうか。どうやって彼らを従えることができようか。よく勤めればそれだけの効果があるものです。我らが勤め出て、行くのがよろしい。古詩にもございます。文王既に勤めたり。文王は勤めて業をはじむということです。聖人と謳われた文王でさえも労を惜しまず勤められた。まして徳の少ないものはなおさらというもの。荀伯じゅんはくは私を徳人と謳って下さった。そのお心嬉しい限りですが、私はまだ徳の足りぬものです。正卿として勤め、彼らに手を差し伸べたい」

 荀林父は黙り込んだ。徳が通じぬことなどわかっている、とされ、それでも行くのだと言われれば、もはや反論しようがない。郤缺の言葉に手を打ったのは晋公拠であった。若い彼は、強者として弱者に手を差し伸べる、という言葉に少々酔った。また、覇者として夷狄を討伐するのではなく恭順させる、それを相手の地で行うということに興奮した。

けつの言や良し。私自ら会おう」

 威勢の良い若者の言葉に郤缺は苦笑した。成公は覇者として、そして文明人として狄に会わぬと線を引いた。が、息子は違う価値観らしい。確かに対等ではなく服従であるため、晋公としての体面も守れるであろう。

 こうして、秋に郤缺は拠を伴って白狄の地へ赴いた。和を請い服す、という誓いがなされ、晋は白狄のほとんどと同盟もしくは傘下に置くことになった。しかし、これは終着点ではない。ここから赤狄を削り亡ぼす戦いが始まるのである。この白狄との和睦はしんに対してさらに強く出ることも意味した。実際、郤缺と白狄子は同盟ついでに秦を伐っている。そのころ、互いに六十を過ぎていることを考えれば、元気な老人たちであった。

 秋も終わりに近づき、風に冷たさが交じりはじめていた。白狄との和議も落ち着き、郤缺は庭を見ながら一人頬杖をついていた。日もそろそろ落ちようか。月が薄く出ており、薄暮の中で大輪の菊が淡い。菊の香りを喜んだ男がいたような気がする、と思いつつ、郤缺は考えをめぐらせる。赤狄を削ること、楚から鄭を取り戻すことの二つがこれからの指針である。鄭に関しては裏工作をしており、今年中には楚から離れるであろう。その楚であるが、士会が警戒を強めている。

 曰く、制度改革を内政、軍事双方に行っている。

 情報を集め精査することに関して士会の右に出るものはいない、と幾度も記述した。そして郤缺は初対面からそれを知っている。己で集め精査した情報から、郤缺を信あるものと言い切ったのが士会である。

「文公の時代から幾星霜、楚も変わったものです。いまや欒伯らんぱくが先鋒を務めようがなかなかに勝てやしないでしょう。秦も変わった。今のような骨の無い秦であれば、我が国も父上も恥をかかずにすんだというもの。口惜しいですが、私も年を取りすぎました、秦への怨みも薄い」

 脇息にもたれかかりながら、郤缺は歌うように壁打ちをする。そこから、税はどうの、こくはがんばっているだの、斉をどうすべきかだの、考えを整頓するように欒枝らんしとも郤芮げきぜいとも分からぬものと語る。これは結局、内なる己との対話なのだが、何かしら別人を想定するほうが確かにやりやすいであろう。

 そのうち、郤缺は何やらうとうととし、気づけば父である郤芮と会話をしていた。郤芮にぬかずき、郤氏を背負うものとして誇りを持って生きていること、晋の正卿として心がけていることなどを語り、そのたびに頷かれ、時にはそうではない、と叱られる。郤缺は恐縮したり笑ったりとしながら父との対話を楽しんだ。

 ――汝は良き嗣子しし

 そう何度か言われ、郤缺はぬかずき微笑む。

「ちちうえ」

 郤缺が呼びかけたと同時に

「父上」

 と声をかけられた。郤克が蒼白な顔をして、肩をつかみ、揺さぶっていた。何やら壊れそうなかおであった。震える唇がおずおずと開く。

「どなたと、お話されていたのですか。――」

 郤缺は己が虚空に向かって延々語りかけていたことを知った。何度もぬかずき、笑い、時には身振り手振りで話していたらしかった。ひくりと頬を引きつらせた後、思わず口を手で覆った。既に日は完全に落ち、部屋は暗い。郤克の持つ灯りが二人を照らしていた。いったい、どのくらい己は幻の中にいたのであろうか。そして、今まで、何度くり返していたのであろうか。

 もはや、夢うつつだったのだ、と言い切れぬものがあった。

 郤缺はこの年、引退したと考えられる。執政八年。以降、史書に名は無く、郤缺がいつ死んだのかも記録には残っていない。例えば士会などは引退後にも史書に顔を出している。となれば、すぐに死んだか、もしくは人と会えぬほど老いたのか。恵公から始まり、文公、襄公、霊公、成公、そして拠、諡号しごう景公。晋公六代にわたり郤缺は仕えた。その間の晋はまさに激動であった。後継者争いによる内乱、栄光の覇者、東西の敵をにらみながらの内紛、宰相が君主を弑し、その果ての、ようやくの安寧である。この全てに関わりながら還暦をこえてなお国政の第一線に立ち続けたのであるから、残された人々の喪失はどれほどであったろうか。その死をみな悼んだであろうし、少なくない晋人がいたかもしれなかった。

 郤缺の諡号は成である。前述したが、国を平らかにし、民を安んじたものに贈られる。動乱の晋に安定をもたらした、この男に相応しいおくりなと言えよう。余談であるが、趙衰ちょうしの諡号も成である。かつて、欒枝は郤缺に趙衰を越えろと言ったが、それがかなったかは読者の評にお任せしたい。

 この後の晋に関しては述べないが、郤氏の話だけはしておきたい。郤氏は郤克が継ぎ、隆盛を極めたと言ってよい。郤克は、荀林父、士会の後に正卿となり、赤狄を亡ぼした。また、長らく晋と冷戦状態であったせいをくだし、屈服させている。ここまでくれば郤氏の春といえたが、郤克死後、亡んだ。

 郤氏は権勢を誇りすぎたのである。陽性であるが武を頼みにする彼らは傲ったとも言えよう。この点、郤缺が郤氏において異端であった。郤缺のような極めて強い自制や自律が無ければ、この血筋は他を圧迫せずにはいられないらしい。力を持ちすぎた彼らを疎んだ正卿が、晋公をそそのかして族滅させた。この正卿が欒書らんしょであるのは、この小説において皮肉というべきであろうか。

 郤氏の復興と祀りのために粉骨砕身してきた郤缺であるが、死後二十数年でその願いは消えた。しかし、郤缺が生きていた証は今もある。それは史書という不確実なものではなく、確かな物として存在している。

 郤子壷げきしこと名付けられた、紀元前六世紀ごろの青銅器が現在に残っている。長い頸部けいぶになだらかな肩、大きな腹部を持つつぼで、器の左右には獣を表した飾りがつき、表面には龍の文様がされている。龍はこの時代から強い神性を持っており、獣の飾りも守護として様々な青銅器で見受けられている。このような青銅器は祭事、特に父祖を祀るものとして作られることが多い。そして、文字が刻まれる。この壺も頸部に以下、二行六文字が記されている。

 郤子氏

 之□壷

 □の部分は欠損しており、読めない。ただ、文脈を見るに郤子という人物を祀り郤氏の繁栄を祝っているものであろう。この場合の『子』は尊称である。作らせたのが誰であるのか、この青銅器からはわからない。が、郤子壷は公室直下の工房で作らせたものと特徴が一致しており、郤氏がこの工房に依頼して作らせた可能性が極めて高い。公室の工房に依頼するほどの権勢を持った郤氏と言えば郤克である。これは、正卿である郤克が郤缺を祀るために晋公に願い出て作らせたのではないだろうか。

 もちろん、以上は想像にすぎない。

 この、郤缺の息づかいを偲べる壺は東京都にある書道博物館で静かに眠っている。

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父の仇に許された はに丸 @obanaga

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