第70話 終章
さて、翌年である。次に迎えた
「我が君はこのたび晋を背負って立つこととなりました。今こそ戒めを強く願います。上に立つものこそ戒めねばなりませぬ。賢人は寵を得たときにさらに戒めます。不徳のものは寵を得たときに傲るものです。政と徳、既に成ったとしても、史官に
五行はご存じ水火木金土のことであり、言わば世界の成り立ちそのものである。五事は人としての在り方、八政は国の司る政務、五紀は暦、皇極は中道いわば国法、三徳は君主としての姿勢、稽疑は
さて、この時期も、
「私は去年、楚に攻められた鄭を追い払った。が、楚を打ち負かしたとは言えぬ」
郤缺は議にあげた。前年冬に、楚が鄭を攻めてきたのを、追い払っている。年はもう六十をとうに越えているわけであるから、頑健といえよう。が、郤缺としては衰えを感じていた。楚としっかり構える前に
「
郤缺の言葉に、
この時、士会は鮮やかに勝っている。楚軍を攻めたて、鄭都より引き離し、鄭の国境付近である
――晋楚双方徳なく信義なし、ならば我らも義理立てせぬ、攻めてきたほうに従えばよい
と吐き捨てて楚に従っている。恫喝する晋と暴力を振るう楚に毎年攻められた鄭としては、こうとしか言いようが無かったのであろう。郤缺は素早く鄭と裏で繋がる工作をはじめている。
郤缺は前述の通り、一度鄭を救いに行ったが、おおむね内政に力を入れており、さらに言えば
「
秋に、白狄の衆たちと会うことなった。和睦と服従を兼ねており、会盟にちかいものであったと思われる。この時、晋内で揉めた。どこで会うか、である。白狄子の時は対等の和議であったため、国境で会っている。が、今回は白狄が晋に臣従することとなる。
郤缺は、白狄の地にて会い誓うことを議にあげた。が、まず荀林父が異を唱えた。
「次席から申し上げます。我が傘下に入る、ということを知っていただくためにも、そして覇者としても、お越しいただき誓いを立てるがよろしいかと言上つかまつります。狄は約束ごとに慣れておりません。それをきっちりと分かっていただく必要がございます。そして晋の
狄に長く関わっていたために厳しい――というわけではない。荀林父は晋人として極めて常識的なことを言っているのである。先縠も追随し、士会も難しい顔をした。
「
士会にしては歯切れが悪かった。彼は郤缺の考えも思いも分かっている。そして好みもそちらである。が、現実としてうまくいくか、という部分で引っかかっているらしい。郤克はもちろん何も言わぬ。郤克が口を開かぬ以上、趙朔も口を出さなかった。場は、郤缺と荀林父の対立のようになっていった。当時の常識として、荀林父は正しい。本来、強者が弱者を呼びつけるのである。実際、晋は同盟国家が挨拶に来ぬと言って制裁している。その上で、荀林父は狄の特性をあげ、反対した。
「狄は我らの徳を知りません。私どもは人の徳を見て心安まり身を委ねるものですが、狄にそれは通じないのです。彼らはまず力を信じます。
郤缺はすっかり板についた、柔らかな笑みを浮かべ、口を開いた。
「徳でなびかぬときは、勤めることが一番と聞きます。勤めないでどうやって人を求めることができましょうか。どうやって彼らを従えることができようか。よく勤めればそれだけの効果があるものです。我らが勤め出て、行くのがよろしい。古詩にもございます。文王既に勤めたり。文王は勤めて業を
荀林父は黙り込んだ。徳が通じぬことなどわかっている、とされ、それでも行くのだと言われれば、もはや反論しようがない。郤缺の言葉に手を打ったのは晋公拠であった。若い彼は、強者として弱者に手を差し伸べる、という言葉に少々酔った。また、覇者として夷狄を討伐するのではなく恭順させる、それを相手の地で行うということに興奮した。
「
威勢の良い若者の言葉に郤缺は苦笑した。成公は覇者として、そして文明人として狄に会わぬと線を引いた。が、息子は違う価値観らしい。確かに対等ではなく服従であるため、晋公としての体面も守れるであろう。
こうして、秋に郤缺は拠を伴って白狄の地へ赴いた。和を請い服す、という誓いがなされ、晋は白狄のほとんどと同盟もしくは傘下に置くことになった。しかし、これは終着点ではない。ここから赤狄を削り亡ぼす戦いが始まるのである。この白狄との和睦は
秋も終わりに近づき、風に冷たさが交じりはじめていた。白狄との和議も落ち着き、郤缺は庭を見ながら一人頬杖をついていた。日もそろそろ落ちようか。月が薄く出ており、薄暮の中で大輪の菊が淡い。菊の香りを喜んだ男がいたような気がする、と思いつつ、郤缺は考えをめぐらせる。赤狄を削ること、楚から鄭を取り戻すことの二つがこれからの指針である。鄭に関しては裏工作をしており、今年中には楚から離れるであろう。その楚であるが、士会が警戒を強めている。
曰く、制度改革を内政、軍事双方に行っている。
情報を集め精査することに関して士会の右に出るものはいない、と幾度も記述した。そして郤缺は初対面からそれを知っている。己で集め精査した情報から、郤缺を信あるものと言い切ったのが士会である。
「文公の時代から幾星霜、楚も変わったものです。いまや
脇息にもたれかかりながら、郤缺は歌うように壁打ちをする。そこから、税はどうの、
そのうち、郤缺は何やらうとうととし、気づけば父である郤芮と会話をしていた。郤芮にぬかずき、郤氏を背負うものとして誇りを持って生きていること、晋の正卿として心がけていることなどを語り、そのたびに頷かれ、時にはそうではない、と叱られる。郤缺は恐縮したり笑ったりとしながら父との対話を楽しんだ。
――汝は良き
そう何度か言われ、郤缺はぬかずき微笑む。
「ちちうえ」
郤缺が呼びかけたと同時に
「父上」
と声をかけられた。郤克が蒼白な顔をして、肩をつかみ、揺さぶっていた。何やら壊れそうな
「どなたと、お話されていたのですか。
郤缺は己が虚空に向かって延々語りかけていたことを知った。何度もぬかずき、笑い、時には身振り手振りで話していたらしかった。ひくりと頬を引きつらせた後、思わず口を手で覆った。既に日は完全に落ち、部屋は暗い。郤克の持つ灯りが二人を照らしていた。いったい、どのくらい己は幻の中にいたのであろうか。そして、今まで、何度くり返していたのであろうか。
もはや、夢うつつだったのだ、と言い切れぬものがあった。
郤缺はこの年、引退したと考えられる。執政八年。以降、史書に名は無く、郤缺がいつ死んだのかも記録には残っていない。例えば士会などは引退後にも史書に顔を出している。となれば、すぐに死んだか、もしくは人と会えぬほど老いたのか。恵公から始まり、文公、襄公、霊公、成公、そして拠、
郤缺の諡号は成である。前述したが、国を平らかにし、民を安んじたものに贈られる。動乱の晋に安定をもたらした、この男に相応しい
この後の晋に関しては述べないが、郤氏の話だけはしておきたい。郤氏は郤克が継ぎ、隆盛を極めたと言ってよい。郤克は、荀林父、士会の後に正卿となり、赤狄を亡ぼした。また、長らく晋と冷戦状態であった
郤氏は権勢を誇りすぎたのである。陽性であるが武を頼みにする彼らは傲ったとも言えよう。この点、郤缺が郤氏において異端であった。郤缺のような極めて強い自制や自律が無ければ、この血筋は他を圧迫せずにはいられないらしい。力を持ちすぎた彼らを疎んだ正卿が、晋公をそそのかして族滅させた。この正卿が
郤氏の復興と祀りのために粉骨砕身してきた郤缺であるが、死後二十数年でその願いは消えた。しかし、郤缺が生きていた証は今もある。それは史書という不確実なものではなく、確かな物として存在している。
郤子氏
之□壷
□の部分は欠損しており、読めない。ただ、文脈を見るに郤子という人物を祀り郤氏の繁栄を祝っているものであろう。この場合の『子』は尊称である。作らせたのが誰であるのか、この青銅器からはわからない。が、郤子壷は公室直下の工房で作らせたものと特徴が一致しており、郤氏がこの工房に依頼して作らせた可能性が極めて高い。公室の工房に依頼するほどの権勢を持った郤氏と言えば郤克である。これは、正卿である郤克が郤缺を祀るために晋公に願い出て作らせたのではないだろうか。
もちろん、以上は想像にすぎない。
この、郤缺の息づかいを偲べる壺は東京都にある書道博物館で静かに眠っている。
父の仇に許された はに丸 @obanaga
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